一
無理やりに父の隣に坐らされた千種は、広い食堂の一隅に設けられた婦人連の席へ、僅かに晴れがましい微笑を投げてゐた。
芝公園の深い木立の中の、古風な、しかし落ちついた西洋料理店である。
羊頭塾三十周年記念祝賀会御席といふ貼紙が、まだ眼に残つてゐる。二百に近い顔が並んでゐるが、三分の二以上は、まるつきり見覚えのない顔である。それが何れも自分の生れる前に、或はまだ自分が小さかつた頃、父の教へを受けた人々であらうと思ふと、彼女は、勿体らしく片肱を卓子につきなどしてゐる中年過ぎの紳士たちにも軽い親しみを感じ出した。
アイスクリームが運ばれる時分、満場の拍手に迎へられて、海軍将校の制服を著た男が起ち上つた。
「私は鬼頭令門と申すものであります。僭越ながら、発起人を代表いたしまして、ご挨拶を申上げます。今夕の会合は、趣意書にも認めました通り、わが羊頭塾創始以来、満三十年の輝やかしい歴史を記念し、併せて、われ等の恩師、伴直人先生の高徳を讃へる目的をもつて開かれたのであります。従つて、発起人も糸瓜もありません。場所と時刻とを打ち合せるのが、私共の任務でありました。晩春、空晴れて気爽やかな夜とは申しながら、かくも盛大な集会となり得ました結果については、誰も発起人の手柄であるなどとは申しますまい。伴先生は、ご承知の通り、昭和三年の秋令閨を失はれ、われ等にとつても懐しい「小母さん」のお姿を、今夜、先生の傍に見ることの出来ないのは誠に遺憾に堪へません。が、その代り、目下先生の膝下に於て、その寵愛を一身に集めてをられる令嬢千種さんのご臨席を乞ひました。序ながら先生のご家庭の近況をご報告申上げておきます。ええ、長男千尋君は九州帝大法学部ご卒業後、福岡県県庁に奉職中、長女千登世さんは、神戸青木商会の大番頭……モトイ……営業部長久野信次郎君に嫁して、既に一男一女を挙げられ……次男千里君は、三年前美術研究のため仏国巴里に渡り、今なほ刻苦精励を続けられてゐます。ええ、三男千久馬君は、今日は風邪気味で出て来られませんでしたが、東洋殖民大学本科在学中、次女千種さんは……」
と、そこまで述べ立てた時、
「もう、そのへんでよからう」
主賓席から、唸るやうな声がして、一同の視線がそつちへ向けられた。
千種も、さつきから、妙にくすぐつたく、時々、父の横顔を盗み見ようとしたが、ほてつてゐる顔をあげる勇気はなかつた。しかし、出しぬけに父のしやがれ声が耳へ飛び込んで来たので、驚いてあたりを見まはした。
なるほど、弁士鬼頭海軍少佐の鼻の頭には膏汗が溜り、聴衆の唇はそれぞれ、笑ひたさを怺へてゐた。
鬼頭少佐は、頭に手をあてたまま、父の方へ眼顔で「もう暫く……」と許しを請うてゐる。
誰かが、「続けろ、続けろ」と叫んだ。
千種は、ひとりでに眉がぴりぴりと動くのを感じたが、すべてを成行きにまかせるよりほかなかつた。彼女は、そこで、以前よりも早口に、そして、申訳のやうに、自分以下三人の同胞の名が呼び上げられるのを、ぢつと眼をつぶつて聞いてゐた。