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舞台は黒幕の前、左手と右手にそれぞれ室内を暗示する簡単な装置。中央は街路。照明の転換によつて、この三つの部分が順々に利用される。
最初は、中央の街路上に二つの人影。
老人 ひとりつきりになつたね。少女 おぢいさんは、さつきから、なにしてるの?老人 なんにもしてない。歩いてゐるだけだ。お前が、そこに立つてるのとおなじさ。少女 あたしたちは、たゞ立つてるだけぢやないわ。誰かしらに用事があるんだわ。老人 なるほど、あんなに多勢ゐたお前の仲間は、みんな誰かしらとどこかへ行つてしまつた。お前はどうしていつまでもこゝにゐるんだい?少女 わかつてるぢやないの。誰もあたしと一緒に行かうつていはないからよ。うそだわ。ひとりゐたわ。でも、あたし、いやだつたの。こわいみたいな男だつたから。老人 むろん誰とでもいゝつてわけにはいくまい。みんな自分でこれと思ふのを探してゐるぢやないか。当り外れはそれやあるだらう。お前が撰んだ相手は、あひにく、お前ではといふんだな。少女 さういふもんよ。あたしはそんなに撰り好みはしない方だわ。日によるのよ。老人 お前はおれのやうな年寄りでもかまはないか。少女 いやだわ。おぢいさんはそんなつもりでゐるの。変つたおぢいさんね。いつまでもこのへんを往つたり来たりして、どうもをかしいと思つてたわ。どうしてもつと早く、好きなひとをみつけないの? それこそ話すだけ話してみたらいゝのに。おぢいちやんがいゝつていふひとだつてあるのよ。老人 さうかね、さういふのは四十ぐらゐのお婆さんだらう。少女 よく知つてるのね。四十六のひとがゐてよ。ついさつきまでゐたわ。でも、おぢいちやんが好きだつていふのは、ほかのひと、若いひとよ。まだ二十五よ。老人 それはどうでもいゝが、さつきそのへんで、すれ違つた二人連れにはじめて声をかけられた。振り返ると、そのひとりが、「なんだ、おぢいちやんぢやないか」といつた。それにちがひないが、おれはちよつといやな気がした。少女 気にすることないわ。勘ちがひしたのよ。ムダだと思つたのよ。老人 ムダなこともあるだらう。ムダでないことだつてある。少女 それで、おぢいさんは、今夜、あたしとつき合つてくれるの?老人 どこまでのつき合ひができるか、お前さへ承知なら、行かう。おれはかういふ遊びははじめてなんだ。いくらあればいゝのかな。五千円しかないんだ。少女 そんなにかゝらないわ。老人 かうして一緒に歩いてゐると、家出をした孫娘を連れて帰るみたいだな。お前はいくつだ。少女 十九。おぢいさんは?老人 さあ、いくつといふことにしておかう。お前の家へ行くのか。少女 家へは内証よ。すぐそこのホテルで部屋がかりられるの。こゝよ。ちよつと待つてね。さ、はいつていゝわ。老人 なるほど。少女 なに感心してるの。ビール飲まない?老人 なるほど。飲まう。少女 お金ちやうだい。老人 ビール代、いくら。少女 部屋代も払つとくわ。老人 さ、これでいゝやうにしなさい。少女 はい、おつり。おばさんに、チップあげて。老人 さ、これでいゝやうにしてくれ。少女 おぢいさんの商売はなに。老人 お前にいつたつて、わからない商売さ。少女 ひとにきかれちや困る商売ね。老人 さういふことをづけづけいふもんぢやないね。ねむさうな顔してるね。こゝへおいで、膝の上で寝かせつけてやらう。少女 暑いから裸かになるわ。老人 もういゝ、もういゝ。それくらゐで。風が冷たくなつて来た。お前は家へは内証だといつたが、かうして毎晩、外へ泊つたりなんぞして、お父つつあんやおつ母さんがよく黙つてゐるね。少女 お父つつあんはゐないし、おつ母さんもたいがい、夜は家へ帰らないんだもの。老人 兄弟はゐないの。少女 弟が二人ゐるわ。弟を学校へあげるのにお金がかゝるのよ。老人 弟はもう働ける年ぢやないのか。少女 弟があるなんて、ほんとは嘘。姉さんと妹がゐるの。姉さんは戦争未亡人よ。受産所とかで賃仕事してるの。老人 話をするなら、ほんとのことを話さうよ。つまらないから。少女 ほんとのことはなほつまんないわ。あたし、みんなに、家のことを、訊かれるんだけど、そのたんびに、いゝ加減なこといつてやるの。おんなじこつたわ。老人 ほんとに訊いてないものにや、それやおんなじことかも知れない。お前の名前をいつてごらん。ほんとのでも嘘のでもいゝ。少女 名前は一つしかないわ。ヒサ子よ。老人 ヒサ子、ヒサ坊、チャアちやん……どう呼んでもいゝね。少女 名前なんかおぼえてどうするの?老人 女の子の顔は名前といつしよに眼に浮んで来るものだからさ。おれもあと二三年の寿命だと思ふが、お前と今夜会つたことは、おれにとつても大きな事件なんだ。お前にそんなことをきかせる必要はないが、おれの生涯で、たつたひとり、安心してそばにゐられた女といへば、お前だけだ。ヒサ子か。やさしい、女らしい名前だ。少女 おかみさんはどうしたの、おぢいさん。老人 今度はおれの身の上話か。それこそ、お前なんかには面白くないよ。少女 もう寝ない? おぢいさん。老人 うむ。先へ寝なさい。おれはビールの残りをゆつくり飲んでからにする。少女 お金、そいぢや。もらつとかうかしら。老人 さ、あすの電車代を残して、みんなお前にあげるよ。少女 それぢや多すぎるわ。でも、せつかくだから、ハンド・バックひとつ買つてね。これだけあれば、上等のが買へるわ。老人 いゝとも、いゝとも。好きなものを買ふがいゝ。さ、早く床へはいりなさい。眠つてしまつてもかまはないよ。少女 おやすみなさいつと。ハンド・バックやめて、白革のサンダル買はうかしら。老人 ほしいものはいくらでもあるだらう。しかし、お前のほんとにほしがつてゐるものは、そんな手近なものぢやないはずだ。おれもこの年になつて、まだ、自分の一番ほしいものがなんだかわからんのだ。いや、わかるやうな気はするんだが、これとはつきり口では言へん。そいつは、この眼でたしかに見たこともある。手をのばせば掴めさうに思つたこともある。が、そいつは、さうはいかなかつた。なにをしてもムダさ。お前にこんなことを言つてきかせるのはまだ早いが、時々は考へてみるといゝ。――これさへあればいゝつていふものが、いつたいぜんたいどこにあるのか。少女 なにしやべつてるの、おぢいさん。まだ寝ないの。老人 いつでも寝られると思ふと、さう急いで寝たくはないんだ。年寄りの楽しみは、半分は、延ばすことだよ。それより、お前はずいぶん疲れてるだらう。おれのしやべることなんか聴いてないでもいゝよ。しかし、うるさいから黙る。少女 うるさくないわ。おぢいさんの声は、なんだかしんとしていゝわ。老人 褒められたからいふわけぢやないが、おれもこれで歌に夢中になつた頃があるよ。昔、喉自慢なんてものがあつたら、おれも一番名乗り出たかも知れん。なんでも夢中になるつてことはすばらしいことだ。問題は続くか続かんかだ。おれは、子供の時分は船長になりたくつて、海のことを書いた本ばかり読んだもんだ。商船学校をすべつたばかりに、船長は断念した。どうして水夫から叩きあげる気にならなかつたか。今から思ふと変な話だが、そいつは気がつかなかつた。さういふ風にまはりができてゐたんだ。それから、歌に凝りだした。するとまた、音楽学校だ。こいつは、おやぢが許さない。いやいや弁護士の書生にさせられた。刑事事件専門の弁護士ときてるから、悪党の顔を毎日倦きるほど見た。ところが、よく考へてみると、その悪党は、みんなどこかおれに似てるんだ。おれは自分がおそろしくなつた。いまに、なにをしでかすかわからんといふ気がしてきた。それに、おれのおふくろといふのが、ひどく気紛れな女で、ときどき冷やりとするやうなことを平気でいふんだ。別に酷い扱ひをするわけぢやないんだが、とりつく島のないやうな素ぶりを思ひがけないときに、ふつと見せる。こつちは、母親のつもりで、多少甘えたくもなるんだが、そんな時、剣もほろゝに突つぱねられることが、よくあつた。お前なんかに用はないといふ風なあしらひほど、おれを、キッとさせることはなかつた。あゝ、もう眠つたか、ヒサ坊。すやすや、よく眠つてるな。おれは物心がついてから母親をほんとに懐しいと思つたことはない。世間並に親馬鹿みたいなところはあるにはあつた。しかし、どうにも、母親らしく口を利く気にならない。第一、小遣をせびるのに、おふくろの顔を見ずにおやぢの顔を見て、遠廻しにいつたもんだ。それで成功しないと、なんのことはない、店の売上げをちよろまかした。商売は玩具屋だ。今でもはつきり覚えてる。おれはよそのおつ母さんがいつでも羨やましかつた。玩具を買つてくれるからぢやない。母親の正体がまるみえだからだ。無理をいつて泣き続く子供を、おれはいくどにらみつけてやつたかわからん。少女 いや、いや。いやだつていふのに、いやだつたらいやよ。老人 なんだ、寝言か。寝言つていへばおれは失敗したことがある。さつき話した弁護士の家で、旧の正月の一日暇が出た。行くとこがないから、自分の家に帰つたわけさ。その晩、おれが、つい寝言をいつた。それをおふくろが、さも急所をにぎつたみたいに、翌朝みんなに言ひふらすんだ。嘘ぢやない証拠に、おれが口走つた女の名前つていふのが、その弁護士の事務所に勤めてゐた女の子の名前なんだ。それを、おふくろが笑ひ話に持ちだすならいゝんだが、それを、吹聴する調子が、まつたく聴くに堪へないほど、下品で、意地わるで、人を小馬鹿にした調子なんだ。おれはその時、思つた。――この女は、すべてのものを歪めて、醜くしてしまふ女だ、と。もちろん、おれにはまだ恋愛の経験はなかつた。事務所の女の子、忘れもしない、倉橋君江は、ちよつと愛嬌のない美人だつたが、年も上だし、おれはまともに惚れてゐたわけぢやない。もしもどうかできたらといふ空想は、それやしたにはした。それだけのことだ。寝言にいふなんて、自分でもをかしいくらゐだ。おれは弁解はしなかつた。ただ、その時、ぐつと胸にこたへたことは、おれが女の子と仲よくするなんて、およそ、滑稽なことに違ひないつていふことだ。それは、おれの青春をメチャメチャにした原因だ。少女 よう、だから勘弁してね。あたしだけが悪いんぢやないわ。老人 さうとも……みんながわるいんだ。余計なことを考へないで、しづかにおやすみ。その頃、おれは、倉橋君江嬢から、いろんな本を借りて読んだ。好きな歌はどうしてもやめられなかつた。つい、事務所でも、客がゐるのを忘れて鼻唄を唱ふ。再三叱られても、またやる。たうとうそれを理由に首をきられた。日露戦争のはじまつた年だ。タテヨコの釣合がとれてないつてんで、兵隊はのがれたが、おれは軍夫といふやつを志願した。そして、奉天で病院にはいつた。隣の寝台に梶村つていふ新聞記者がゐた。これが、おれの生涯で、また大きな役割をつとめた人物なんだ。今はゐないが、この男は、その頃、本を書いて有名になつた。おれは、日本へ引揚げると、この男の後ろにくつついて歩いた。わかつてもわからなくつても、この男のいふことに耳を傾けた。新聞の取次店をやつて、すこしばかり景気のいい時代をすごしたのは、この男のおかげさ。だが、おれは、その次ぎにまた、取りかへしのつかん失敗をしでかした。少女 だれがそんなこと……。老人 おや、なにがそんなに悲しいんだ。泣かなくてもいゝ、泣かなくつても……。いや、泣くなら泣いてもいゝよ。泣きたいだけ泣くさ。その失敗といふのは、ひよいとしたはずみに、女房をもらつたといふことだ。それつていふのがじつに簡単なことさ。女房を持たうかな、と思つてる鼻先へ、ちよつぴり気の利いた風来娘を、どうだといつて突きつけられたからだ。こつちはともかく、向うにその気があるのか。あるどころぢやない、ほかのところならいやだといつてる。おれはぽうつとなつた。まつたく、その時の気持は、一口に言つてしまへばなんでもないが、実は、複雑をきはめたものだつた。あり得ないことが起つたといふ半信半疑の状態と、それみろ、おれにだつてどこか見どころがあるんだ、といふ自惚れと、あれほどの女に買ひかぶられてはあとがかなはんぞ、といふ懸念とが、それこそ一度におれの頭の中で渦を巻いた。しかし、幸福とはだ、誰かがいつたやうに、その幸福を失ふおそれをも含んでゐるものだ。たつた一度の見合ひで、その娘はおれのところへ嫁さんに来た。祝儀のすんだその晩から、おれは、世にもあきれた亭主にされてしまつた。なぜかといへば、この女、おれを自分好みの男に仕たてるつもりかなにか、一挙手一投足に干渉しはじめた。やれ、イビキをかくな。やれ、字がまづいから手習ひをしろ。やれ目下のものに敬語を使ふな。やれ、交際費を予算以内で使へ。やれ、子供は二年たたなければ生みたくない。やれ、立膝をするな。やれ、鼻毛を切れ。それも、毎日、立てつゞけに、あれをしろ、これをするな。まつたく、やりきれたもんぢやない。すこし酒を飲んで帰つて来ると、どこで飲んだとくる。はじめは、うつかり、ほんとのことをいつた。どうもそれがまづいらしい。芸者の来る席といふのが気にくはんのだ。おれも、さうさう女房の気に入るやうなことばかりしてゐられない。時には、勘にさはつて、やり返す。一日や二日、口を利かないことはざらにあつた。それでも、三年目にやつと子供ができた。その子供は五つの時死んだ。世間に、女房らしい女房はいくらだつてあるのに、うちの女房に限つて、どうしてかう女房つていふ気がしないのか、おれはつくづく考へた。それや、なんでも、よくやるにはやる。女のすることは、ひと通り心得てゐて、もう文句のいひやうはない。それで、さて、こゝが肝腎と思ふところで、ひよいと、うちの神さんでなくなつちまうんだ。女房甲斐がないといつて、あれくらゐ亭主に気を張らせる女が、そもそも、亭主なんぞ持つのが間違ひだ、と、おれはなんべんもいつた。間違ひは、こつちでなくそつちだらうと、あべこべに喰つてかゝるから、おれは、それもさうかと思つて、あとはなんにもいはないことにした。少女 チエッ、バカね。ウフヽヽヽヽ。老人 聴いてるみたいに笑ふなよ。びつくりするぢやないか。もちろん、十年も二十年も、いがみ合ひばかりしてゐたわけぢやない。普通の夫婦らしく、飯もおほかた一緒に食ふし、芝居の招待券をもらふと、お前行つて来いと、髪を結はせて出してやつたこともある。保険も女房を受取人として身分不相応につけた。人前では荒い言葉も慎んだ。持病の心臓弁膜症が発作を起すたびに、おれは、夜つぴて看護をし、洗濯物がたまつた時は、しぼつたり、干したりぐらゐこつちも手伝ふやうにしたもんだ。ところが、こいつだけは、おれもギャフンと参つたことがある。ある晩のことだ。近所に婚礼があつて、二人とも招ばれて行つた、その晩さ。おれはもう五十に手のとゞく頃、女房はあれで、待つてくれ、たしか四十二だ。花嫁に負けない気かなんかで、その日はえらくめかし込んだもんだ。無理に飲まされたといつて、眼のふちをすこし赤くしてござる。なに、ちつたあその方がいゝと、おれも、ご機嫌さ。さて、家の閾をまたいで、茶の間にどかりと坐つた女房は、それつきり、長火鉢に頬杖をついて動かうとしない。ときどきおれの顔をちらと見るんだが、その眼つきは、どうもたゞごとでないんだ。さう云へば、帰るみちみち、当り前に話をしてたのが、ぷつりと口を噤んでしまつた。なにをこつちがいつても、生返事だ。さういふ時はそつとしとくに限ると思つて、おれは、ひとりで寝る支度をした。おれは、正直、多少酔つてゐた。女房がそのうち、明りを消して寝床へはいる気配がしたので、おれは、ちよつと来い、といつてみた。こいつはよくよくのことさ。反応まつたくなしだ。いまいましいが、どうしようもない。おれは兜をぬいだ。その時、女房は、冷然としておれにいつた――あたしは、あんたと一緒になつて、一度も、ほんとにあんたのものになつたことはないよ、と、かうだ。おれは、はじめ、なにをいつてるのかと思つた。しかし、いつてることは、この耳でちやんと聴いてるんだ。おれは、えッといつたきり二の句がつげない。女房は、顔をそむけて、肩で呼吸をしてゐる。バカバカしい、と、おれは、口の中でいつてみた。実は、由々しいことだ、と、思はないわけにいかなかつたからだ。いつたい、なにが女房にこんな放言をさせたのか。おれのどこに不満があるんだ、と、開き直つて訊ねる勇気はもうなかつた。その翌年、十九年ぶりで、二番目の娘、今年二十三になるツネ子が生れた。子供つていふもんは、妙な時に飛び出して来るもんだ。母親は、この子が四つになると、もう用はないといはんばかりに、さつさとあの世に行つてしまつた。男手ひとつで娘を育てたなんていふことを、おれはちつとも自慢にしたくない。ほかにいくらも方法はある。おれが、その方法を撰ばなかつたのは、誰のためでもない。おれ自身のためだ。少女 おぢいさん、まだそこでぶつぶついつてるの。あゝ、いやな夢みちやつたわ。老人 お前が眼をさますほどの声は出してないつもりだが、やつぱり邪魔になるかな。少女 うゝん、邪魔になんかならないわ。それより、さつきから天井で鼠が騒いでやしない? それで眼がさめたんだわ、きつと。おぢいさん、さうしてて、ねむくないの。老人 ねむくなつたら寝るよ。おれのことなんか心配しないで、ゆつくりおやすみ。お前がかうしてそばにゐててくれるだけで、おれはうれしい。お前はおれにとつて、いつたいなんだ。なぜおれと二人きりで、こんな部屋にゐるんだ。これほど悲しい運命がほかにあるか。お前がもしおれの自由になるとしたら、おれはそれより先に、人間を廃業する。おれは、道徳家面をしてそんなことをいふんぢやない。急に、さういふことに厭気がさしたといふわけでもない。お前を、たゞ、かうして眺めてゐると、おれにはお前が、いろいろなものにみえてくるんだ。なにかしら、お前のなかにあるものが、新鮮な泉のやうにおれの渇いた喉をうるほしてくれる。それはなんだか、まだはつきりわからない。しかし、おれがとにかく、生涯をかけて探してゐたもののひとつだといふ気がする。おふくろからも、女房からも、現在一緒に暮してゐる娘からさへも得られない。なにかしらやさしいもの、すべてがゆるされるやうなものが、不思議にお前のなかにはある。お前は、なによりも女なんだ。はじめて会つたおれといふ爺さんのそばで、かうして無心に眠つてゐるお前、いるだけのものを出させたら、あとはなんにも望むところなしといふふうな、お前のその全体が、おれには、神々しいほど美しくみえるのだ。少女 ウム、ウム、ムニャムニャムニャ。老人 また、うなされてるな。どれ、今のうちにそつと出て行つてやらう。さて、ツネ坊のやつはどうしてるかな。もう、いくらなんでも戸に鍵をかけて寝てるだらう。やれ、やれ、朝までどこをうろつくかだ。しかし、今時分、町を歩いてると、また交番がうるさいかな。どつちにしてももうかうなつたら、こゝで夜を明かさう。ツネ坊の出て行つた後で家へ帰る方が気楽でいゝ。あ、あ、眼が冴えて眠られさうもない。どれ、あくびでもひとつしてやれ。なるほど、鼠がゐる、ゐる。ひどい暴れかただ。若い時分にみた映画の場面に、たしか、かういふところがあつた。連れの女を寝台に寝かせて自分だけソフアで眠る男の、妙に硬ばつた表情が眼に残つてゐる。もつとも、その男は血気盛んな青年だつた。それでなけれや、面白くもなんともないだらう。