一
父は旅行、母は買物、兄は散歩といふわけで、珍しく民子一人が、縁側で日向ぼつこをしてゐるところへ、取次も乞はず、義一がのつそり庭伝ひにはひつて来た。
「あら、だあれも出なかつた?」
「呼んでもみなかつた。」
「物騒ね。」
「ねらつてゐる奴がゐるからな。」
さう云つて、東義一は、民子の顔をじろ/\見直した。
「へえ、今日は日本の着物を着てるんだな。似合ふよ、なか/\。」
「和服が似合はなかつたら、大変だわ。」
「自信がある人は違ふよ。」
「さういふ風に取るのは、いけないわ。」
「おい、ピンポンしよう。」
「駄目よ、相手に取つて不足だわ。」
「生意気云つてらあ。しかし、今日あたり、奥村がやつて来さうなもんだなあ。」
「あの方、あんまり真剣で、こはいわ。でも、今度は決勝戦なの。」
「あいつ、なんでもむきになる性だからなあ。お父さんは何処へ行つたの?」
「舞鶴よ。姉さんのとこの子供が、見たいらしいのよ。」
「さう/\、男の子だ。民ちやんも早く見せてあげるといゝや。」
が、それには答へないで、民子は、自分も来年は二十二だといふ考が、ふと、頭に浮んだ。
東義一は、海軍大尉で、軍令部出仕の参謀であつた。同郷の関係で、兵学校時代から、父が保証人になつてゐた上に、近頃では、外務省に勤めてゐる兄の速男とも仲好しになり、かうして、月に一度か二三度は、きまつて訪ねて来るのである。軍人らしい磊落な半面に、何処か冷徹なところがあり、それだけ人物が複雑なやうに思はれた。
父の南条宇吉は、長く欧洲航路の船長をしてゐたのが、今は職を退いて気楽な余生を送れる身分でありながら、ぢつとしてゐるのが嫌ひな性分で、その後も二三の海運事業に関係したりして、実際以上に忙しさうな風をしてゐるのである。豊かな見聞をもつてゐるせゐか、あまり窮屈な掟を設けない代り、何かよくないことをする人間を見ると、「あいつは日本人の名折れだ」と、罵倒するのが癖であつた。
この父は、上の娘を「商人」にやつたから、下の娘は「銭勘定のわからん男」にやつてもいゝなどと、戯談半分に云ふくらゐだから、それとなく、この海軍大尉に眼をつけてゐることは、民子自身にもわかつてゐたのである。
「兄貴はどうしたの。」
「球突でせう。あ、さうだわ。まだ御存じないのね。兄さん、また外国行よ。」
「今度は何処?」
「土耳古なの。悦んでるわ。文明国はもう厭き厭きだつて……。」
「大きく出たね。しかし、土耳古のモダン・ガールと来たら凄いんだぜ。で、何時発つの。」
「まだ内命だけでわからないんだけど、来月早々らしいわ。」
「来月つて云つたつて、もう幾日もないぢやないか。」
「さうよ。桜が散つてしまつた頃、送別会をするつてことになるんでせう。」
さういふ話をしてゐるうちに、民子は、妙に淋しい気持がして来た。二年前に、久々で仏蘭西から帰つて来た兄が、また遠くへ行つてしまふのだといふ妹らしい感傷も、むろん含まつてはゐるが、それよりも、実を云ふと、まだ誰にも明かしたくない理由が外にあつたのだ。
民子は、つと起上つて庭下駄を突つかけ、垣根に添つたれんげうの植込みに近づいて、咲き残つた花を一つ、何気なくむしり取つた。それは、微かな不安を追ひ払ふはかないヂエスチユアであつた。が、そこへ後ろから、東義一の声が、かぶさるやうに響いて来た。
「民ちやん、どうしたんだい。いやに考へ込んぢまつたね。」
「うそよ、今、この花の特徴を探してんのよ。」
「ふうん、さうして女理学博士にでもなるのかい。」
理学博士と云はれて、彼女は、またはツとした。それは、自分でも可笑しいと思ひながら、どうすることもできないのだつた。そこで、慌てゝ、手に持つた花を、空に向つて投げた。頭の真上で黄色いほのかな花びらが散つた。
「あのね、東さん、今時分咲く花で、一番綺麗なのはなんでせう?」
と云ひながら、民子は、頭の中で、一人の青年の姿を想ひ浮べてゐた。それは、さつき、ピンポンの話の時一二度名前が出た、奥村圭吉であつた。兄の中学時代の友達で、一年ほど前から急に足繁く遊びに来るやうになつた、若い理学士なのだ。彼はある半官半民の化学研究所に勤めてゐた。詳しい専門のことは、なぜか口を噤んで語らないが、なんでも日本では珍しい、しかし、重要な軍事用薬品の研究をしてゐるのだといふ話だけは、兄から聞いてゐた。学者らしい落ち着きと、物に感じ易い性情とが、程よく入り交つて、その風貌に云ひやうのない好もしい陰翳を与へてゐた。
今迄民子の眼の前に現はれた男性のうちで、これほど彼女の心を惹きつけた相手は一人もなかつたのである。それは全く、無条件にと云ひたいほどだ。
と云ふのは、東の方は、もう長い交際でもあり、彼女に対して、自然に親みを加へて行つたといふだけで、別に変つた素振りも見せないでゐるのに反し、奥村の方は、来る度毎に、何処となく、彼女に臨む態度が違つて来てゐる。云はゞ、好意以上のある感情をひそかに抱いてゐることが彼女自身にもわかるのである。ところが、東の方は、さういふ風でゐて、何時なんどき、直接にしろ、間接にしろ、結婚の話を持ち出すかもわからないのだが、奥村の方は、今迄の様子から見て、必ずしも自分の方へ手を差出すとは限らないのである。或ひは、兄がゐなくなれば、それつきり、顔を見せなくなるかも知れない。兄の友達として以外、表面、この家へ足を向ける理由がないと云へばないのである。
それを思ふと、彼女は、どうしていゝかわからない。
花の問答は、海軍大尉には苦手と見え、
「さあ、僕は花が咲いてゐるのはわかつても、この花がなんの花かつていふことをあんまり考へたことはないんだ。桜は春、菊は秋、それくらゐかなあ、知つてるのは……。」
と、東義一は、素ツ気ない返事をして、その返事をいはゆる豪傑笑ひで紛らしてしまつた。
「あの笑ひ方……。」
と、民子は、心持眉をひそめた。どう考へてみても、海軍大尉は何かしら余計なもの、又は足りないものをもつてゐた。少くとも彼女の好みから云つて、東ならどうでもよく、奥村の方はなんとかしてといふところまで気持が進んでゐた。彼女が人知れず望んでゐることは、東の方で話を切り出さない先に、奥村の本心を確めておきたいことだ。