第一場
山間の小駅――待合室
真夏の払暁。
発車の直後といふ気配。
二三の旅客に交つて、都会のものらしい夫婦連れが、改札口の方から現れる。一隅を選んでそこに手荷物を置き、汗を拭ひ、左右を顧み、やがて、女が先に、男がそれに続いて腰を下ろす。
他の旅客は、待合室を通り過ぎるだけである。
男は出来合ひらしい白の洋服、女は現代風のかなり整つた身じまひ。――手荷物は、服装の割に野暮な信玄袋と行李鞄、それに、中型のシューツケース。
亮太郎 疲れたらう。あや子 やつぱり眠れなかつたわ。どつかに顔洗ふところないか知ら……。亮太郎 朝飯を食へば、前の宿屋で洗へるけれど……まだ早すぎるだらう。それとも軽便を一つ待つて、六時のに乗つたつていいや。あや子 六時のだと、何時に着くの。亮太郎 七、八、九、まあ、九時だね。あや子 それでもいいわね。折角買つたお弁当が無駄になるけど……。亮太郎 お土産にちやうどいいよ。あや子 お弁当のお土産つて、あるか知ら……。(間)あたし、さうする。亮太郎 待てよ、ちよつと、見て来よう、もう起きてるかどうか(出て行く)あや子 (待つてゐる間、信玄袋の上に両腕を托し、それに額を当ててゐる)亮太郎 (首を振りながら入つて来る)駄目。駄目だ。あと一時間かかるつて……。それぢや六時のに間に合はない。あや子 その次は何時?亮太郎 (時間表を見ながら)六時の次が、七時三十分……その次が九時三十分……。あや子 ぢやいいわ。まだおなかはすいてないし、それに、顔なんかどうだつていいんでせう。見る人なんかゐやしないわね。亮太郎 見る人はゐるよ。みんな見るよ。それこそ、通る奴通る奴、みんな振り返つて見るよ。君のやうな女は、開闢以来、あの村に現れた例しはないんだから……。あや子 いやな方……。でも、お化粧なんか気をつけて見る人はないでせう。これでいいのよ。亮太郎 でも気持がわるかないかい。あや子 いいの、面倒臭いわ。亮太郎 そんならいいさ。軽便一時間半、馬車一時間、谷を下り、坂を上ること二十分、橋を渡ること二度、梯子段十七段、門から玄関までざつと十間、廊下二十歩、それでやつと座敷へ通ると、おやぢとお袋の口上が短く見積つて滔々十五分、着物を着替へて風呂へはひり、昨夜は寝てないからと言つて一休みするまで、なかなか暇がかかるぜ。あや子 いくらなんだつて、着く早々寝られやしないわ。お母さんは優しい方?亮太郎 だから不断さう言つてるぢやないか――お袋は、僕の言ふことならなんでも聴く。恐らくお嫁さんにも同様だらう。うちには女の子がゐないから、きつと珍しがるよ。甘えてやり給へ。あや子 甘えられるお母さんだといいわね。(間)ねむいのよ、あたし……。(また信玄袋の上に突つ伏す)亮太郎 寝てろよ。まだ三十分ばかりある。(間)恐ろしい霧だ。
間。
あや子 あれ、霧なの。さうだわ、変ね、あたし、さつきから、なぜ煙みたいなものが一杯あるのかと思つてたの。やつぱり気候のせゐね。亮太郎 気候のせゐさ。海抜二千九百尺、これからまだ登りになるんだ。君は白樺といふ木を見たことはないだらう。それから、落葉松、えぞ松といふやつ……。(間)眠れるかい。あや子 ええ。亮太郎 話はやめようか。あや子 いいのよ。聴きながら眠るから……。亮太郎 洒落たこと言つてらあ……。君に、栗の木のこと話したか知ら……。あや子 なに?亮太郎 栗の木さ……。屋敷にある大きな栗の木さ。あや子 ええ。亮太郎 話したかい。あや子 ええ。亮太郎 なんて話したつけな。あや子 村で一番の栗の木だつて……。亮太郎 あれや、全く見ものだよ。二抱へある栗の木つていふのは珍しいだらう。栗が落ちる頃は、毎朝、うちぢゆうの女が出て拾ふんだが、朝の間だけでは拾ひきれないほどなんだ。あや子 ……。亮太郎 この秋は、東京へ送らせることにしよう。独りぢや、栗を焼いて食ふ気にもならないからね……。(間)だけど、家ん中が穢いのをびつくりしちや駄目だよ。田舎の家なんていふものは、古いのを自慢にしてるんだからね。煤けてるほど値打があると思つてるんだ。その代り、風が吹いたつてぐらぐらするやうなことはない。あや子 もうあと幾分?亮太郎 三十分。あや子 まだ三十分? さつきとおんなじね。亮太郎 おんなじだ。あや子 時計が止つてやしない?亮太郎 止つてやしないよ。あや子 ……。亮太郎 軽便まで誰か迎へに来てるかも知れないよ。弟が来てるか、おやぢが来てるか。あや子 お父さん、そんなにお達者なの。亮太郎 達者もなにも、急ぐ時でなきや、馬車なんかへ乗りやしないよ。あや子 お歩きになるの、馬車で一時間の処を……?亮太郎 あたり前さ。田舎者つて、そんなものだよ。畑だつて、自分でするんだよ。あや子 あら……。だつて、人を使つていらつしやるんでせう。亮太郎 使つてるさ。使ふもんも一緒になつて働くんだよ。あや子 そんなもんなの。亮太郎 そんなもんさ。あや子 さうでせうね。あたし、早くお父さんが見たい。亮太郎 おやぢの方で腰をぬかすか、君の方で眼をまはすか、僕も早くそれが見たいよ。あや子 なぜ?亮太郎 なぜつて、お互に意外だらうからね。君が想像してる僕のおやぢと、おやぢが想像してる僕の家内と、その両方とも、僕にはどうやら見当がついてる。実際と違ふ程度が、どつちも同じやうなものだよ。あや子 さうか知ら……。お父さん、お髭を生やしてらつしやる?亮太郎 さあ、髭つていふより、毛に近いものを生やしてたかも知れない。どうして?あや子 髪は分けてらつしやる? それとも……。亮太郎 禿げてるかつていふんだらう。まだ禿げてやしなかつたらう。薄いには薄いがね。だが、分けてるなんと思ふと大間違ひだぜ。第一……もう止さう、そんな馬鹿な話……。君は、駄目だよ。わからないかなあ、田舎の百姓爺がどんな恰好をしてるか……。あや子 百姓爺つたつて、普通のお百姓ぢやないんでせう。亮太郎 その差大ならず。僕が櫛を使つてたら、息子が女の真似をするやうになつたつて村中言ひふらしやがつた。あや子 まさか。亮太郎 (笑ひながら)まあ、そんなもんだよ。(間)今のうちに眠つとけよ。あや子 もうねむくなくなつたわ。少し寒いか知ら……。亮太郎 自分はどうなんだい。羽織はすぐ出せるやうにしてあるんだらう。朝晩はこの調子だよ、これから……。あや子 夏涼しいと変ね。亮太郎 夏だと思はなけれやいいさ。なにしろ、裏の森ぢや鶯が啼いてるんだからね、今頃……。あや子 さうですつてね、去年の夏、軽井沢へ行つた友達がさう言つてたわ。軽井沢とそんなに違はないんでせう。亮太郎 もつといいとこだよ、変な毛唐なんかうろうろしてなくつて……。あや子 あなたは西洋人が嫌ひね。亮太郎 嫌ひだよ、あんな化物みたいなもの……。それはさうと、僕の方の田舎にね、初めて毛唐がやつて来たことがあるんだ。もう二十年も前だけれどね。それが、今で言へば山岳旅行をやつたんだね、毛唐のことだから……。すると、一人の百姓が、山の中でその毛唐に出くはしたらしいんだ。その百姓、びつくり仰天して、山を駈け降りて来たのさ。さうして天狗がゐた、天狗がゐたと、村の者に注進に及んだからたまらない、その頃は青年団なんていふものはなかつたから、屈強な若いものが、手に手に得物を携へて天狗退治に出かけた、といふのは嘘らしいが、兎に角、あとで、それが毛唐だとわかり、なるほど鼻は高かつたと、みんなが……。あや子 うそばつかし、そんな話……。だけど、ありさうなことね。(と言つて、今度は、腹を抱へて笑ひ始める)亮太郎 それ見ろ、面白いだらう。君、毛唐好きか。あや子 好きでも嫌ひでもないわ。亮太郎 そんならいいや。あや子 何がいいのよ。亮太郎 なんだか忘れた。あや子 ……。亮太郎 兎に角、栗の木は見ものだよ。花が咲いてれば、一里手前から見える。あや子 あたし、お弁当たべようか知ら……。お茶がないわね。さうだ、お茶がない。どうするつもりだつたのか知ら……。亮太郎 飲まないつもりだつたんだらう。水で我慢するさ。この辺の水はいいよ。それに薬かも知れないよ。ラヂウムかなんか含んでて……。あや子 そんなら、すまないけど、汲んで来て頂戴。亮太郎 何へ?あや子 何かへよ、きまつてるぢやないの、その辺に空壜か何か落ちてないこと?亮太郎 よし、君が、それだけ徹底してくれりや、水も汲んで来甲斐がある。待つて給へ。(出て行く)あや子 (弁当を開いて食ひ始める)
この間に、温泉廻りの上方者らしい男が、芸者か仲居風の女を連れて、汽車の時間表を見に来る。が、しばらくすると、また何処へか行つてしまふ。
亮太郎 (ビール壜を提げて帰つて来る)あや子 (片手でそれにさはつてみて)あら、熱いのね。お茶を貰つてらしつたの。亮太郎 男子意気に感ずれば、お茶ぐらゐ貰つて来るよ。僕も食ふぜ。(腰をおろし、弁当を食ひはじめる)この魚、大丈夫か。あや子 お茶、どうして飲むの。亮太郎 自分で考へろ。あや子 かうすんの? (と言ひながら、喇叭飲みをしようとするが、思はしく行かない。徒らに唇を尖らすばかり)亮太郎 (素知らぬ顔で)飲んだら、こつちへよこせ。あや子 (すぐに)ぢや、はい。亮太郎 何だ。飲んでないぢやないか。(流石に、手際よく壜を傾ける)あや子 これで、折角の、紳士旅行も台なしね。亮太郎 台なしなもんか。あや子 だつて、あの汽車の中のすまし方はどう。あたし、可笑しくつて……。不断のみもしない葉巻なんかふかしてさ……。脚をかう組んで、額に八の字をよせて、そして文芸春秋を読んでる光景は、たしかに歴史的よ。亮太郎 君はどうだ。……止さう、顔が赧くなる。あや子 おつしやいよ。あたしのどこが可笑しい?亮太郎 可笑しいさ、あんなに何べんも時計を見ちや……。あや子 時計? あら……。(笑ひながら)汽車に時間はつきものよ。亮太郎 駅長ぢやあるまいし……。しかし、君は案外可愛いらしいところがあるよ。四十円の腕時計で、たうとう一晩の睡眠を棒に振るなんて。あや子 (もう相手にならない)おいしくないのね、このお弁当……(ちよつと顔をしかめ)どら、お茶を飲まして……。亮太郎 おやぢより、弟を見てびつくりしやしないかなあ。あや子 なぜ。亮太郎 無愛想な奴だからさ。あや子 そんな?亮太郎 いつか、模範青年つていふんで県で表彰されたんだがね、なんでも、そん時、知事なんかゐる前で、この免状みたいなものは、なんにもならないから返すつて言つて、問題を起しやがつたんだ。あや子 でも、痛快な方ね。亮太郎 痛快でないこともないが、誰にでもその調子だからね。君なんかにも、平気でどんなことを言ふかも知れないよ。あや子 それがわかつてればいいわ。でも……。亮太郎 乱暴なことはしやしないよ。ゐるかゐないかわからないやうな男だからね。十日も口を利かないことがあるよ。あや子 まあ。亮太郎 だから、こつちから、あんまり話なんかしかけない方がいい。うるさいと思ふと、返事をしないんだ、誰にでも……。あや子 あなたにでも……。亮太郎 (曖昧に)うん。(間)自然、みんなとの折合が悪くつてね。それはまあ、近頃のことなんだがね。あや子 みんなつて、おうちの方と……?亮太郎 それより、村の顔役なんかとね。そのくせ傭人にはいいらしいんだ。変なもんだね。使つてるものの評判は馬鹿にいいんだ。あや子 社会主義ぢやない?亮太郎 さうかも知れんよ。(間)そんなこともあるまいがね。あや子 ずつと、おうちにいらつしやるのね。亮太郎 師範を中途でよしてね、嫌ひなんだ学校が……。本はなかなか読むらしい、何処で探して来るか。あや子 でも、さういふ方も面白いわね。あたし、朴訥な方、好きよ。亮太郎 馬鹿ぢやないんだよ。あや子 馬鹿なんて、そんな……。ぢや、東京の者なんかはお嫌ひでせう。亮太郎 都会といふものを軽蔑はしてるね。あれで、なかなか、理窟を言はせると、言ふらしいね。あや子 油断がならないわね。兄さんを負かしやしない。亮太郎 こつちは、理窟は苦手だからね。農村問題なんか、真つ平だ。あや子 あなたは、もうすつかり都会人ね。亮太郎 さうでもないが、所謂「根こぎにされたもの」の一人には違ひない。その点、弟の偉いところも、わかるにはわかるんだ。あや子 それやさうだわ。生れた土地を離れないつていふことは、善し悪しは別として、美しいことだわね。亮太郎 (妻の顔をつくづくと見つめ)君にしてその言あり、世は挙げて郷土主義に靡くかと思はれるね。あゝあ、山川にして情あらば、嘗て一度志を立てて郷関を出でたる我れ、今、身に錦は飾らずとも、美しき妻を携へて、再び汝の懐に還り来れるを喜び迎へよか。ブウブカドン、ブウドンドンだ。あや子 おや、おや……。亮太郎 (やけに茶を飲む)
長い沈黙。
あや子 霧が霽れてよ。亮太郎 霽れた。(時計を見て)さ、出掛けよう。もうあと十分で出る。あや子 軽便までは遠かないんでせう。亮太郎 一足だよ。そこに見えてるぢやないか。あれの一時間は優に汽車の五時間草臥れる。大丈夫か。あや子 大丈夫よ。亮太郎 大丈夫か。そいぢや、弁当の空なんかいつまでも持つてないで、そいつを一つ持つた。(シューツケースを頤で指し、自分は信玄袋と行李とを両手に提げる)あや子 (惶てて弁当の空を椅子の下に投げ込み、起ち上る)亮太郎 (歩き出しながら)旅行といふものは不思議なもんだね。動くことが苦にならん。あや子 (これも歩き出し)ねえ、あなた、ちよつと待つて頂戴、(と言つて背中を夫の方に向け)帯、ちやんとなつてる?亮太郎 なつてる。
両人、再び歩き出す。