1
我が群島國の先住種族中、石器を使用して、其遺蹟を後世に遺せるものは何なりやとの疑問に對して解决を與ふる諸説の中、最も多數なるは、之を蝦夷なりとするものと、之を蝦夷とは別種なるコロボツクルなりとするものとの兩説なり。其他肅愼人説、土蜘蛛説などあれども、比較的、賛成者少し。而して蝦夷説を唱ふる學者中最も有力なるは、言ふ迄もなく小金井博士にして、コロボツクル説を採らるゝ最有力者は、言ふまでもなく坪井博士なり。兩博士の研究は頗る精緻の域に達す。余輩は、今こゝに蝦夷とコロボツクルの異同を論じて、敢て兩博士の學説に容啄し、之が批判を試みんとするものにあらず。余輩はもと、考古學上の知識に乏しく、更に解剖學上の知識に就きては殆ど絶無なり。故に、此等の點に關しては、諸先輩の學説を敬重して、之を信ずるの外なし。然れども、余輩は、また、別に記録上聊信ずる所あり。即ち此見地より立論して、諸先輩の已に研究せられたる諸説に對照し、以て、兩者の異同に關する管見を開陳せんとす。
管見を述ぶるに先つて、余輩は、先づ、二者の異同に關して已に發表せられたる諸説を觀察するの要あるを認む。
小金井博士曰く、
アイノの開化の度合を考へて見ると、コロボツクル又はトンチなるものは、即ちアイノ自身であると思はれる。即ちアイノは獸獵魚漁を以て業として居る所の人民でありまして、金屬を鍜へる事の技術は、總ての點から考へて見て、曾て知つて居つた事がないと思ふ。即ちアイノが石の鏃を付けた矢を持つて獸を射たり或は石の鋒の銛を持つて魚を捕つたりした時代からして遠くは進歩して居らない。唯僅に他の人種から金屬の器物を得たと云ふさういふ低い程度に居る人民であるといふ事を考へて見ると、コロボツクル又はトンチと云ふものはアイノ自身であると思はれる。(東洋學藝雜誌二六〇號)
此説は、蝦夷即石器時代人民といふ立塲より立てられたる説にして、蝦夷以外にコロボツクルなる種族なしとの義なり。坪井博士は、コロボツクル非アイヌ説を持せらるゝものにして、其説は數多の論文として現はれ、讀者の齊しく知悉せらゝ所と信ずるが故に、こゝに之を引用するを略す。但東洋學藝雜誌二五九號所載の、小金井博士の石器時代の住民論の前半は坪井博士の説を數多の斷片より綜合せられたるものにして、之に對して、坪井博士は「第二五九號一五一から一六三までは、主として私の説の摘要で、彼方此方書き散らしたものを、好くも探り求めて順序を立てゝ下さつたと、深く感謝致します」と言はれたるを見れば、よく、博士の説の要をつくされたるものなるべく、余輩は、之を以て、博士の所説を代表せるものと信ぜんとす。中田法學士は亦、最近に、その「我太古史に見えたるアイヌ語の神名」(史學雜誌十七の九)に於て、アイヌ説コロボツクル説を共に極端に走れる誤謬なりとし、別に、コロボツクルはアイヌ族の一派なりとの説を立てられたり。余輩はある意味に於て此説と類似の意見を有す。然れども、中田氏は、更に、コロボツクル即ち土蜘蛛なりとの説を採られ、而して、彼等は穴居派にして、アイヌは屋居派なりと解し、二者同じ根原ながらも、其間に明に區別ありとせらるゝなり。但其穴居派たるコロボツクル即ち土蜘蛛が九州までも蔓延せし時代に於て、屋居派たるアイヌは如何なる状態にありしものなりやの點に關する見解詳ならず。若し、同氏の説にして、初は皆穴居せしものなりしが、其一部後に進歩して、屋居の俗に改まりたりといふならんには、二者の關孫に於ては、全く小金井博士の所説と同一に歸着するものにして、更に、之に附加するに、蝦夷即ち土蜘蛛なりとの説を以てしたるものとなるなり。
中田氏に先ちて、中田氏と同一の意見を發表せられたるものを沼田頼輔氏となす。氏曰く、
坪井氏の主張せられしコロボツクル説も、小金井氏の主張せらるゝ蝦夷人説も、今日の研究によれば、共に相一致するものにして、換言すれば、本邦に石器時代の遺物遺蹟を留めたるものは、蝦夷人の一派なるクリールアイヌの祖先にして、アイヌの口碑に傳はりたるコロボツクルの傳説は、このクリールアイヌに關するものゝ如し。(日本人種新論二六頁)
中田氏は、單に右の沼田氏の説に加ふるに、土蜘蛛即ちコロボツクルなる説を以てせられたるに過ぎず。
土蜘蛛の事は暫く措き、蝦夷とコロボツクルとの關係に就ては、余輩は大体に於て沼田氏と同一の意見を有す。而して、余輩は、此異同に關して、「伊吉連博徳書」に見えたる熟蝦夷、麁蝦夷、都加留の三種の區別、及び、諏訪縁起繪詞に見えたる、渡り黨、唐子、日の本等の區別を以て立論せんとするなり。
伊吉連博徳書に曰く、
天子(○唐の天子高宗皇帝也)問うて曰く、此等の蝦夷の國は何方にありや。使人謹みて答ふ。國は東北に在り。天子問うて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹みて答ふ。類に三種あり、遠きをば都加留と名け、次は麁蝦夷、近きをば熟蝦夷と名く。今此熟蝦夷、毎歳本國の朝に入貢す。天子問うて曰く、其國に五穀ありや。使人謹みて答ふ、なし、肉を食ひて存活す。天子問うて曰く、國に屋舍ありや。使人謹みて答ふ。なし、深山の中、樹の木に住む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見るに、極めて喜恠なり。云云。
余輩は、右の記事の内容に就いて調査する前に、先づ、博徳のこの記事の價値を攻究するの要あるを認む。博徳は齊明天皇朝の人、その五年七月、坂合部石布、津守吉祥等に從ひて入唐す。此年阿倍比羅夫舟師を率ゐて蝦夷を討ち、捕虜を得て歸る。石布等入唐に際し、乃ち、蝦夷男女二人を伴ひて唐の天子に示す。博徳は恐くは書記として、又、通譯として其行に從ひし人。而して、其見聞せる所を録せるもの即ち所謂「伊吉連博徳書」なり。されば、其記する所實録にして、决して推測より記し、又は後より追記せるの類にあらず。殊に、其蝦夷に關する記事の如き、此時我將新に蝦夷を討ちて最新の知識を齎らし、且、親しく蝦夷二人を一行に伴ひたる際のものなれば、其記する所は、當時の實情を直寫せるものとして十分信ずべき價値を有するものなり。唐書東夷列傳には、此時の事を記して、
蝦夷使者鬚の長さ四尺ばかり、箭を首に珥み、人をして瓠を載せて數十歩に立たしめ、射て中らざるなし。
とあり。唐天子の前に、このウヰルヘルムテル丸出しの射藝を演ず。已に容貌奇にして、而もこの曲藝を演出す。唐天子が我使者に向つて、博徳書に見ゆるが如き下問ありしは、まさに然るべき所なり。されば、余輩は、「博徳書」の蝦夷に關する記事に於て、甚大の價値を認むるなり。
この價値ある博徳書に、當時蝦夷に三種ありし事を説く。曰く熟蝦夷、曰く麁蝦夷、曰く都加留と。熟蝦夷と麁蝦夷とは、女眞に於ける熟女眞と生女眞、臺灣に於ける熟蕃と生蕃に相當す。而して、麁蝦夷の北に更に都加留なるものありし事を明言せるなり。熟蝦夷は毎年本國の朝に入貢す。即ち内附の蝦夷なり。内附の蝦夷に對する麁蝦夷は、未だ王化に服せざる蝦夷たるや明なりとす。而して其北に更に都加留ありきとすれば、まさに、如何なるものを以て之に擬すべきか。余輩は、この疑問に對して、先づ、「石器使用の程度にある蝦夷これなるべし」との假定説を提出せんとす。此假定説は、甞て沼田頼輔氏が其「日本人種新論」を著述せられし際、余と蝦夷に關する談話を交換して、偶此説に及び、余も同意の旨を述べし事ありしと記憶す。然るに、其後同書の公にせらるゝに及んで、一言の之に及ぶものなし。蓋し、同氏は、尚之を以て不安心なりとし、愼重の態度を採りて、之を著書中に加へられざりしものなるべし。
因に云ふ。同書中余が説なりとて、「俘囚の朝廷より受くる所の姓の殆吉彌侯部に限れるが如き」云云の記事を掲載し、「實に適當なる説の如し」と賞賛の辭を附け加へられたれど、余が説は「朝廷より吉彌侯部の姓を賜はるものは、必ず俘囚に限る」との意にて、本書は彼是を顛倒したるものなれば、不適當なる説として、こゝに訂正し置く。
この假定説を證明せんが爲に、先づ、麁蝦夷熟蝦夷の語義を考ふるに、麁蝦夷とは、未だ熟化せざるの蝦夷の義にして、之に對して、熟蝦夷とは已に熟化せる蝦夷の義なり。而して、熟化せざる麁蝦夷の北に、更に一種の蝦夷ありとせんには、そは、必ず、一層熟化せざるものなりきと想像せざるべからず。然れども、熟化すと云ひ、熟化せずと云ふは比較的の語にして、所謂熟化せずと云ふ中にも、自ら程度あり。されば、此熟化せざるものを、程度によりて二樣に分たんには、一は、現今の臺灣の生蕃の如く、未だ王化に服せざるながらも、已に他種族と交通して、或る種類の物品交換行はれ、もはや固有の石器等の使用を廢せる程度にあるもの、一は、未だ此程度に達せざるものとなすを得べし。而して、松前氏統治時代の僻遠地の北海道本島アイヌは、前者の程度にありしものにして、露西亞來航以前の北千島アイヌは、後者の域にありしものなるべし。麁蝦夷と都加留との差亦以て想像するに足らんか。而して、此等に對して、熟蝦夷とは、もはや、日本政府に服從せるものなれば、當時、俗を移し風を改めしむる方針を採りし政府の下にありては、必ずや、日本風に化し、言語の加きも、次第に、日本語を用ふるに至りしものならんと信ぜらる。而して、此熟蝦夷は、其多數はいつしか日本人の中に同化混合して跡を絶つに至りしものなるべし。
熟蝦夷、麁蝦夷、都加留蝦夷の差は、明に開化の程度による區別なりとの事は、もはや疑を容れざるべし。此等の各種の蝦夷の住地は、時代によりて一定せざりしなるべく、彼の蝦夷の國名たる日高見の名が、常陸、陸前の兩地に殘れると同樣に、其限界線は、必ずや我が國力の發展に伴ひて、東北に移りしものなるべし。而して、博徳の時代の所謂都加留蝦夷なるものは、之を阿倍比羅夫征討の記事等によりて、今の津輕地方より、北海道へかけて住せしものなるべしと信ず。北海道渡島にも、もと津輕郡あり、福島郡と合併して松前郡となる。續日本紀に渡島の津輕の津の地名あり。されば、津輕とは、もと、本州の北端より北海道に亘れる地名なりしか、或は、渡島の津輕は、所謂都加留蝦夷の本州より移住せしによりて得たる名なるか、未だ其本末を詳にするを得ずと雖、渡島の津輕の名の古きを思へば、博徳の時代には、津輕蝦夷は北海道本島にまで蔓延せし事を信ずるに足るべし。
奧羽地方の大部分が王化に服するに至りしは、平安朝以後の事なり。續日本紀を奉るの表に、「威は日河の東に振ひて毛狄屏息す」とあり。日河の北上河なる事は、本誌の前號に於て詳説せし所にして、仙臺灣以北にまで王化の及びしは、桓武天皇の御代以後の事なり。尚遡りて、博徳の時代を考ふるに、日本海方面は、比羅夫討伐の功によりて、比較的奧地までも皇威は伸張したれども、大化年中には、漸く岩舟柵(越後岩船郡)を境とせし程にて、太平洋方面は、漸く、磐城岩代地方に及びしに過ぎざりしなるべく、而して 熟蝦夷は其以南の地方に於て大和民族と雜居せしものと思はるゝなり。
然るに、我國力の發展と共に、其境域は漸次北進し、前九年後三年役の頃には、王化は陸中羽後地方までも及び、此地方の蝦夷は、熟蝦夷即ち俘囚となれり。而して、前九年の役は、夷人安倍頼時貞任の父子が、俘囚を率ゐて叛せしに起因し、後三年役は、同じく出羽の俘囚清原武則が、其親族吉彦(吉彌侯)秀武等と相爭ひしより事起りしなり。
この前後兩度の役の爲に、此等の地方の熟蝦夷中のある者は、遠く北海道の地方に逃れたるもあるべし。貞任の弟宗任が談なりとて、今昔物語に記したる所によれば、頼時等も一旦は北海道に逃れんと計畫せし趣なり。後、源頼朝の藤原泰衡を亡ぼすや、奧羽全く服す。此時泰衡は北海道に逃れんとして果さゞりし事、吾妻鏡の明記する所なり。當時、其徒の俘囚の、多く彼の地に投じたりしは疑なし。斯の如く内地より渡りし熟蝦夷を渡り黨と云ふ。彼等は、さすがに一旦熟蝦夷となりしだけに、言語の如きも主として我が國語を用ひ、他の麁蝦夷と趣を異にするものありき。南北朝の頃になれる諏訪縁起繪詞に、鎌倉時代の末頃の蝦夷を區別して曰く、
蝦夷が千島と云へるは、我國の東北に當て大海の中央にあり。日の本、唐子、渡り黨、此三類各三百三十三の島に群居せり。今二島は渡黨に混ず。其内に宇曾利、鶴子洲と、萬當宇滿伊丈と云ふ小島どもあり。此種類は、多く奧州津輕外の濱に徃來交易す。夷一把と云は六千人なり。相聚る時は百千把に及べり。日の本、唐子の二類は、其地外國に連て、形體夜叉の如く、變化無窮なり。人倫禽獸魚肉等を食として、五穀の農料を知らず。九譯を重ぬとも、語話を通じ難し。渡黨和國の人に相類せり。但、鬚多くして遍身に毛生ぜり。言語俚野なりと雖、大半は相通ず。云云。