六 八坂瓊之曲玉という名称
タマといいマガタマという、ともに緒を貫きて綴った一連の佩玉であるとすれば、すでにそれをタマと呼ぶ以上、さらに別にマガタマなる称を生ずるに至った理由いかに。またそのマガタマの語の有する意義いかん。さらにこれを八坂瓊之曲玉、なお詳しくは八坂瓊之五百箇御統之曲玉などと称する理由いかん等の諸問題を解して、本篇を終ることにする。
案ずるに、マガタマ詳しくはマガリタマで、緒に通した連珠の自由に曲る形から得た名であると解せられる。すなわち撓むの意義からタマの名が起ったと解したのと全然同一の理由で、撓むことがすなわち曲ることなのである。しかしてそのマガリタマという語の用例について、余輩は「曲り餅」なるものの形と、名とを提供してみたいと思う。
曲り餅とは紐のごとく細長く作った餅で、古えは普通に世人の食用に供したものであったらしいが、後世では特にある神社に限ってこれを供え、あるいは特殊の場合にのみこれが作られる例になったようである。『和名抄』〔(巻四)〕に、
餅 万加利『新撰字鏡』に、
餌 万我利餅とあるものこれで、『土佐日記』には、紀貫之、国司の任はてての帰途、山崎において見た小櫃の絵も、まがりのおほちの形も、往きに見た時と変っていなかったので、「売り人の心をぞ知らぬとぞ言ふなる」と書いてある。その製法は、『言海』に、
勾餅、略してまがり、米麦粉を飴などに和して固め、藤葛の如く捩ぢ曲げて、油にて揚げたるものと云ふ。とある。果して往古からかかる製であったか否かは知らぬが、貫之のころには山崎なる売店でそれを売っていたので、一般人の食したものであったことが察せられる。川口好和の『諸国奇遊談』山崎会合初めの条には、神社の神棚に餅を盛れる趣を記して、「上賀茂、下鴨などの大社には、今も供ふる事なれども、此地(山崎)にては殊に古へしのばれぬ」といって、貫之の『土佐日記』の記事を引用し、紐を曲げ重ねたような絵を収めてある。そのこれをマガリ餅ということは、明かに緒に貫き綴った連珠をマガリ玉、略してマガ玉ということの語の傍証すべきものである。
マガリはすなわちタワムことで、マガといい、タマという、畢竟は同一意義の語を重ねたこととなるのである。しかしこれはただにこれを精しくせんがために重ねたというのみではなく、実は一方においてすでにタマなる語が、本来連珠を意味すると同時に、他方では第二次的意義として、個々の珠玉そのものをも意味するようになったがために、ことさらにその自由に曲る連珠すなわちタマを、特にマガタマと重ね呼ぶようになったのであろう。しかして「記紀」その他の古書において、この同一物をあるいは単にタマといい、あるいはマガタマといったのは、けだしその編纂のころが、まさにその語の用例変化の過渡時代にあったことを語っているもので、かくて後にはもっぱらマガタマの称のみが用いられるようになったのであろう。
「曲る」は禍津日、曲事などのマガで、直きに反し、普通には避けらるべき行為である。しかしながら連珠は身体の装飾具として、その帯びるところの形に応じて自由に曲るところに長所があり、これを人生に応用しては、相手に対してうまく適合するところに妙用の徳が称えられる。前引五十迹手の語に、「天皇八尺瓊の勾れるが如く曲妙に御代治ろしめせ」といい、『神皇正統記』に大神の神勅を録して、「八坂瓊のひろがれるが如く曲妙をもて天下を知ろしめせ」とあるものこれを証する。曲玉の語もって解すべきであろう。
さらにこれをヤサカニということは、すでに述べたごとくその連珠の長きをたたえた語で、「ヤ」は多数を意味し、「サカ」はある尺度の長さを意味し、「ニ」は宝珠の義である。しからばすなわちヤサカニの語は、これまたただそれだけで十分その連珠を言いあらわすもので、古語しばしば単にこの称を用いてあることは、それで十分その意をつくすためである。しかしてさらにこれに同義のマガタマなる重語を加えて、八坂瓊之曲玉なる称を生じたことは、畢竟これをいっそう鄭重に語ったにほかならぬ。
さらにこれをミスマル、またはミスマルノタマ、あるいはイオツミスマルノタマ、イオツミスマルノマガタマなどという。ミスマルは「御統」の文字が示すごとく、その締め連ねた形からの語で、『日本紀纂疏』に、「以レ糸貫穿、総二括之一也」とある。またイオツは五百箇で、綴られたる個々の玉の数の多いことからの称である。しかしてそれにタマあるいはマガタマなる同義の語を重ねて、ますますこれを鄭重に言いあらわし、その語をしていよいよ荘厳ならしむるに至ったのである。