Back
古器観道楽
Table of Contents
古器観道楽
北大路魯山人
Reading Settings
Font size
18px
Theme
Light
Dark
Sepia
Eye care
Line spacing
Reading mode
Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 10 of 29

古九谷赤絵壺

前々から言っていることであるが、古九谷と万暦赤絵といずれが良いかという問題になると、一般には漠然とではあるが、万暦赤絵の方が(本歌ものと言う意味のもとに)良いものと思われている。今一つは、むしろ万暦赤絵と古九谷とを本気になって比較し、はっきり考えてみようとする人がないということも言える。

ところが両者を実際に比較検討してみるならば、万暦赤絵は風采容貌の点は非常に立派だが、内容はその立派な風采に伴わない。しかるに九谷の方は万暦ほどの風采を持たないが、その中味を見ると、非常にしっかりしたものをもっている。

要するに彼は形式の作品であり、是は内容の作品であると言い得るのである。

単に一本の線を見てもまるで違う。彼は巧者な熟練した手をもって上手な線を引いているが、是は巧者と言わんよりは、むしろ不器用な手を以て一々味の籠った、雅味のある線を引いているのである。意匠から言うと、むしろ鈍なものがある。例えば、この壺の七宝や無地唐草など、甚だ気が利かぬ模様であると言わねばなるまい。だがそれにも拘らず、いい感じであって、ただ気が利かぬと言い放って捨て去ることの出来ない特異な味を持っている。

ひるがえって赤の色栄えを見るならば、ここに於てもまた同じことが言える。万暦赤絵の赤色は甚だ綺麗である。それは誰の眼にも美しい。しかるに、この方は色も黒ずんでいるし、塗り方もきたない。中国のもののような手際がない。だから、女が見ても、子どもが見ても、綺麗であるとは言われない。だが、それにも拘らず、よい感じがする。むしろ、その色の悪いところによいところがある。手際の悪いところに、よいところがある。

これは結局作者の国柄と人の問題である。いい人の手になったものは、不手際でもいいものが出る。つまらぬ人間がいくら手際よくやっても、やはり、そのつまらなさを蔽うことは出来ない。手際がよければよいだけ薄っぺらな感じが現われて来る。ちょうど料理に於て、素人が誠心誠意を籠めて一生懸命作ったものの方が、玄人が鼻唄まじりに、ただ手際だけよく作ったものよりも遥かに優れた料理が出来るのと同じである。汁粉一杯考えてみても、婆さんが不手際ながら丁寧に作った汁粉はうまい。反対に汁粉屋の汁粉は手際はいいが、どこか水くさい。古九谷と万暦赤絵にはちょうどそれと同じ関係がある。そして、そこがつまるところは日本と中国との相違である。

中国は明代の絵などを見ても、本当に頭の下がるものは先ずない。殆どないと言っていい。宋、元に上っても同じである。しかし、絵の様子のいいこと、柄の優れていることには感心するものが多い。日本人は、元々それを学んだのであるが、日本人には中国人に見られない持ち前の中味が備わっているから、中国を学んだことが、恰も鬼が金棒を掴んだようなものとなったわけだ。中国人はそれが国民性というのか、柄や形式や風采に走って、常に内容の空疎を意としないところがある。中国が今日の如く、何につけても救い難い所まで堕落したのも、そのためであろう。

古九谷は何と言っても、しっかりしていて、しかも、雅致を持っているところがよい。そして楽にものを造っているところに、日本人としての見識がある。この壺は完全だが、中には作の生地が初めから曲ったり、いびつになったり、または少しぐらい窯切れのあるものをよく見受ける。

もしそれが中国ならば、そういうものは不上がりとして、初めからこれに上絵を描こうとはしない。絵などを描かずに捨ててしまうであろう。

ところが日本ではそんなことは一向平気で、曲ったものにでも、いびつのものにでも、窯切れのあるものにも、構わずに丹念な絵を入れている。そこに作者の見識がある。一概に曲ったものはいかんとか、窯切れのあるものはいかんとは言わない。それでも一向構わないとするだけの自信があって仕事をしている。それだけの見識があったのである。だから万暦赤絵などには曲ったものや窯損のあるものはないが、古九谷にはそれがある。そうした欠陥が少しも作品の内容を左右するものでないことを、我々の祖先は知っていたのである。

果せるかな、今日そんなことに頓着なく、古九谷が堂々としてその真価を認められ、高価に取引されている。その点は物の内容を見る明があってこその話である。

このごろの日本は、かような見地からすればすこぶる中国式に傾いている。何でも完全でなければいかんという考えが先になって、物の内容を忘れがちになっている。九谷時代に比べて不見識も甚だしいと言わねばなるまい。

例えば、西洋皿にけし粒ほどの傷が出来ると既にこれはいかんと言う。言い換えれば、けし粒ほどの傷がないためにその皿にはなんらかの価値があるが、けし粒ほどの傷があれば、既に無価値に堕してしまうということである。だから、かかる皿には初めから内容的価値は全くなく、作者にはけし粒を意としないだけの見識もないのである。

内容さえあれば、誰がけし粒ほどの瑕瑾をとがめよう。人間でもそうだ。いかに偉人でもちょっとした欠点は持っている。そんな瑕瑾があるために、偉人の価値が消えてなくなるだろうか。かかる風潮の現代人は宜しく古九谷の前に恥ずべきである。以上の考えから、私は結論して言う。

万暦赤絵のような綺麗なものは西洋人に持たせるがいい。九谷の方は日本人が所蔵すべきである、と。(昭和十年)

Chapter 10 of 29
|