Chapter 1 of 2

持ち味を生かす

星岡茶寮において、料理人の補充を京都の地に求めたのは、単に茶寮の幹部がみな京都人であるからばかりでなく、日本料理というものが、京都を源流にして発達しているからであって、京都という土地は、言わば日本料理の家元なのである。

今は京都も時世の推移とともに面白からぬ風潮が流れ込んで、持ち前の美風も、よい産物も、だんだんと失われていくようであるが、それでも家庭料理などを見ると、今もなお古えに思いつかれ、究められた、真の料理らしいものが、古河に水の絶えざるが如く、多少はその面影を今に残している。そのわずかの存続からでも、私たちの学ぶべきところのものは決して少なくないのである。まことに真の料理、合理的の料理、無理のない料理、無駄のない料理、美しい料理となっては、古えの京都ほどに発達したところは、日本のどこにもないのである。

しかるに、その反面、料理屋の料理、料理人の料理なるものはと言うと、このたび、諸君が腕をふるって、私たちに示されたものを見るにつけても、甚だ遺憾に堪えぬものがあるのである。料理の技法の点においても、その点睛のための味付けの点においても、甚だ不徹底極まるものであって、これがかつて、それぞれ京都一流の旗亭に在って、主要なる務めを果されていた諸君の仕事とは、どうしても受け取れなかったのである。しかし、事実は枉げがたい。そこで、わが京都の料理も、いつの間にか末に末にと走りつつ、邪曲の路に行くものであることを思わずにはいられない。

家庭の料理は気儘が利く。故に、自然とその自己に生きるところがあるために、その本来の要旨を失うところが少ないが、料理屋の料理となっては、世間の様子、人の顔色といったようなものを気にしつつ進まんとする傾向があるので、大事な大事な手元の自己というものを失ってしまい、知らず識らずの間に、料理を非合法的なものにしてしまい、遂には得体の知れない怪料理をなすに至るのである。

元来、諸君は料理屋の料理をつくることにおいて、甚だしい誤解をしているのである。食品原料の特質を殺し、形を変え、色を変じ、味を別にして、一見一喫して、なおかつ、なんの原料によってつくった料理であるか、素人には容易にわかりにくいものにし、得意の鼻をうごめかすふうがある。これは断然悪道の所作、あくまでも排斥しなければならない。料理の本義はどこまでも、その材料の本来の持ち前である本質的な味を殺さぬこと、これが第一の要件である。魚介、蔬菜、乾物、すべてそうである。

と言うと、諸君はあるいは言うであろう。豆の形を変えてしまって豆腐という無類の料理ができているが、それはどうかと、これらはその本質を変じた料理としては、例外的な大成功であって、料理の一般論の上には、むしろ、その議論の適用を控えるのが至当であるだろう。ところで、豆腐をさらに変じて豆腐百珍などと称し、果して豆腐であるかどうか分別に苦しむようなものが間々つくられるが、それこそ、私のいわゆる無理を重ねた料理と言うべきであって、食べて豆腐の美味さなく、見て得体が知れず、ただ幼稚な食道楽をして、これが豆腐でできているとは――と、たわいない一驚を喫せしめるにすぎないものである。

真に心得のない料理人は、常にかような根本主義を誤った低劣な料理をつくり、ふつつかにもみずから玄人をもって任じているのであるが、まことに恐縮のほかない次第である。仮りに豆腐を美味しく食べようとするに当って、思慮ある人であるなら、湯豆腐ならば、焼き豆腐ならば、揚げ豆腐ならば――と、その材料を生かすための最上の方法をまず知ってかかるであろう。と同時に、その材料を吟味するに至る用意をもしてかかるであろう。事実、このくらいのことがわからなければ、また、そのくらいの聡明さをもたなければ、料理人たることはできないのである。

要するに料理の根本は食品原料、すなわち、さかな、野菜、肉など、なんであっても、大体において、いずれも、その持ち前の味を変えない心掛けが肝要である。西洋料理や中国料理にあっても、そうであることに間違いはないが、ことに日本料理にあっては、料理法と材料の関係上、これを深く考慮しなければならない必要がある。

西洋料理や中国料理は、食品原料の持ち味に欠けるものが少なくないために、料理する際に、盛んにいろいろな補助味を使って調味し、一種の混成味による料理をつくることは得意のようだが、日本料理に至っては、真に優良美味な食品原料に恵まれているために、補助味と言えば、大部分がかつおぶしの一種で用が足りる。もっとも上方においては、昆布も使うが、日本料理の補助味は、このように至って簡単である。

およそ料理についても、ものの味わいというものを考えてみるのに、天然の味に優る味というものはないようである。大根の味でも、豆の味でも、一尾のいわしの味でも、半片のまぐろの味も、到底、人為的には作り得るものではないのである。

料理通のひとりであるという桜井という工学博士は、歳七十にも余る人であったが、かつての文藝春秋社の催した食物についての座談会の席上、私たちに向かい、「日本には調味料、補助味の類が、ほとんど発明されていない」と言って、さも見くびったように慨歎されたのであったが、それは日本が文明に遅れているためでもなければ、科学に無能なためでもないのである。その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語るものであって、桜井博士が誇りがましく言われる西洋料理に調味料、補助味の豊富なことは、とりもなおさず、西洋の食品原料が粗質で、その持ち味に欠けるところがあるためにほかならないことを、端的に物語るものなのである。

私は見たわけではないから、推量であるが、おそらく「味の素」の本家である鈴木氏の家庭ですら、きっとかつおぶしを欠かさずに、ふだん用いておられると思う。このようなことをくとくどと言うわけは、つまり、自然味に優る人工味なし――ということを強調したいためである。

それだけに、いやしくも調理に志あるものは、自然味というものを、もっとも大切に取り扱わなければならない。これをまず第一に念頭に、しっかりと打ち込んでおかなければいけない。そして、その天然の持ち味というものを、いかに取り扱ったら、より以上持ち味を生かすことかできるか――ということに常に想いを致さなけれはならないのである。

浅草のりを一枚焼くにしても、大根おろしひと口拵えるにしても、自然の持ち味を生かすか殺すかという問題が生ずるのである。朝のそうざい味噌汁にも、納豆にすら、全くこの活殺の呼吸があるのである。三度三度の飯の炊きように至っては、ことにその活殺によって一等米も三等米に堕し、三等米も一等米に賞味できる場合があるのである。

米のことが出たついでに言うのではないが、今の料理人に、果して米の飯を完全に美味く炊ける人があるだろうかという問題については、私はこれを危ぶまずにはいられないひとりである。そもそも米の飯を、日本料理中、もっとも大切な料理のひとつだと心得ている者があるだろうか――私の感じるところを率直に言えば、米の飯こそ料理中重要な料理の一品であって、しかも宴会などにおいては、最後のとどめを刺す役まわりをするものであるから、これが不完全な飯であった場合は、せっかく数々の苦心の料理も水の泡である。事実、飯の美味い不味いは全料理の上に、大きな影響を及ぼすものであるが、試しに一流の料理人に向かって、「飯が炊けるか」と問う人があるとするなら、おそらくノーと言うのに手間はかかるまい。これはたしかに米の飯は料理の中のひとつであることを意識していないことに由来するものである。それゆえ、もとより飯の炊けないことを、料理人の恥辱だなぞとは夢にも心得ないのみか、むしろ、飯を炊くような料理人がいれば、それこそ料理人の恥辱だぐらいに考えているであろう。

このようなことを、事実おこなっている現代の日本料理人は、いずれにしても驚くべき料理意識の誤った持ち主であると言わねばならない。なるほど、現今の日本料理は、その本領をほとんど失って、日に日にその世界を縮めて行き、卑俗な中国料理ののさばりを許し、西洋料理の侵略にまかせて、余すところの日本料理というものは、縄のれん式の下手料理と、最高材料を用いる貴人料理のわずかになごりを存するものと、一部の家庭料理によって、その跡を絶たないまでなのである。

飯を食わなければ後腹がわるい、という飯好きの日本人から愛想をつかされた形の現今の日本料理は、これを大部分、日本料理人の無知無能にその責を帰さなければならない。同時に客の方の立場も考慮して、客の心理をよく呑み込み、把握することが確実でなければならない。そしてお客の心理にも、あまたの矛盾のあることをよく知りつくさねばならない。しかも、その矛盾を許さなければならない立場に、自分が在ることを知る必要もあるのである。

諸君は、まずここに深く留意して進まなければ、いかに百年よくこの道に腕を磨くことがあっても、終にその名手たるの栄光を勝ち得ることはできないだろう。やさしいようで、また、誰にだってできそうであって、その実、料理というものは全くぼんやりしていたり、また、ぼんくらであってはできないのである。

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