Chapter 1 of 26

揺れ揺れ帆綱よ

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

おそらく心からの微笑が私の満面を揺り耀かしていたことと思う。私は私の背後に太いロップや金具の緩く緩くきしめく音を絶えず感じながら、その船首に近い右舷の欄干にゆったりと両の腕をもたせかけている。

見ろ、組み合せた二つのスリッパまでが踊っている。金文字入りの黒い革緒のスリッパが。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

私の今度の航海は必ずしも物の哀れの歌枕でも世の寂栞を追い求むる風狂子のそれでもなかった。ただ未だ見ぬ北方の煙霞に身も霊もうちこんで見たかったのである。ほとんど境涯的にまで、そうした思無邪の旅ごころを飽満さしたかったのだ。南国生れの私として、この念願は激しい一種の幻疾ですらあった。いまこそ私は年来の慾望を果し得ることを喜んでいい。私はまさしく樺太観光団の一員として、この壮麗な高麗丸の甲板上にある。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

ハロウとでも呼びかけたい八月の朝凪である。爽快な南の風、空、雲、光。

なんとまた巨大な通風筒の耳孔だろう。新鮮な藍と白茶との群立だ。すばらしい空気の林。

なんとまた高いマストだろう。その豪壮な、天に沖した金剛不壊力の表現を見るがいい。その四方に斉整した帆綱の斜線、さながらの海上の宝塔。

ゆさりともせぬ左舷右舷の吊り短艇の白い竜骨。

黄色い二つの大煙突。

あ、渡り鳥が来た。耿として羽裏を光らせて行くその無数の点々。

煙だ。白い湯気だ。その無尽蔵に涌出するむくりむくりの塊り。

しかも、見るものは空と海との大円盤である。近くは深沈としたブリュウブラックの潮の面に擾乱する水あさぎと白の泡沫。その上を巨きな煙突の影のみが駛ってゆく。

北へ北へと進みつつある。

ハロウ、ハロウだ。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

そこで、私は支那服をつけているのだ。初めてつけたこの麻の支那服の著心地のいいことは、実に寛々としてさばさばしている。その薄藍いろの上衣には唐草模様の釦どめが鮮かな黄の渦巻をなしている。五つも六つものポケットだ。それから雪白のだぶだぶとしたズボン、利休鼠のお椀帽。

今朝から変装して見て、すこしく気恥かしいが、私には却ってこの方がしっくりする。悠々とくつろげていい。

なんと青い深い耀きをもった空の色だろう。私はマッチを擦る。抓みの厚い土耳古煙草に火をつける。

香炎、香華、香雲、香海。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

いい旅だなと、私は思う。

こうして海洋の旅を続けるのは、私としては小笠原渡航以来十三年ぶりのことである。だが、かつての南の空は明るかったが、私のは重かった。今の潮は暗いようでも、私の心は晴ればれしい。人生の浮沈というものは一向に測りがたいものではあるが、とにかく今の私は平穏である。少くとも幸福である。

今度という今度、廉物ではあるが私は腕時計というものを初めて購った。それからこまごまとととのえたものには洋杖蝙蝠傘、藤いろ革の紙幣入、銀鎖製の蟇口、毛糸の腹巻、魔法罎、白の運動帽、二、三のネクタイ、艾いろの柔かなズボン吊、鼠いろのバンド、独逸製のケースにはいった五、六種の薬剤、爽かな麦稈帽、ソフトカラアにハンカチーフに絹の靴下。白麻のシャツに青玉まがいのカフス釦までつけ換えて、これはどうだいとうれしがった。私は山荘の住人で、平生竹や草や昆虫ばかりの中に立ち交っているので、身のまわりなぞは清潔にはしているが、少くとも野趣そのままにちがいなかった。それがアルパカの黒背広に黒の小さな鞄を肩から引き掛けて、「さようなら、行ってまいります。」だから、それは瀟洒な、(色が黒くて肥ってはいるが)さぞ好紳士に見えたことだろう。

ましてや、誰よりも私のこの長旅行を喜んでくだすったのは私の両親であった。その前夜には、二人の弟もその妻たちも妹もそろって大森の両親のもとに集った。そうして一同が私のために盛んに杯をあげてくれた。友人としては私のいわゆる隣国の王と称する(それは童話国の王だからだ。)「赤い鳥」の鈴木の三重吉が、それこそ上機嫌でぴちぴちして、「ええのう、ええのう。」で意気が昂ったすえには、それはまことに枯淡閑寂な鰌すくいを踊りぬいて、赤い農民美術の木の盆と共に危くひっくり返りそうになったほどだ。それから私は両親の寝床の間にもぐりこんで、長い白髯を引っ張るやら、皺くちゃの乳房にかじりつくやら、ひとしきり困らしていたようだが、いつの間にかぐっすりと眠りこけてしまったらしいのだ。

当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒の乾杯をした。驚いたのは同行すべきはずの庄亮(歌人吉植君)が解纜前五、六分前に、やっとリボンもつけない古いパナマ帽に尻端折りで、「やあ」と飛び込んで来たことである。「アッハッハ」と豪傑笑いをして一寸頭を掻くと、首をすくめて、

「なに、いや、そのう、銀座でこれをやっていたんでね。」と左を利かせる。あくまでも飄々としていたものだ。

「こりゃああぶないぜ、吉植君、これから上陸する時には、よほど気をつけないと、それこそ鬼界ヶ島の俊寛ものだよ。」

誰やらが一本参った。

「いや、大丈夫、僕がついてるから。」

「その兄さんがまたあぶないからな。」

「そこは俺が引き受ける。」

「どうだか、二人ともさぞきこしめすだろうな、こいつあ、どっちも剣呑だ。」

また後ろで奇声をあげたのがいた。

ジャランジャランジャランと銅鑼が鳴ると、税関前に降りた一同はしきりに万歳をとなえてくれた。それから各自にカメラを向ける。活動写真を撮る。私たちは帽子を振る。次第に遠く遠く、小さくなってしまった。

イツテクルヨ、ランランラン こう私は小田原の妻子へ打電するように弟に頼んだが、船が出ると船員が私の前に「電報がまいっております。」と私を探しに来た。

イツテラツシヤイ、バンザイ、パパ、バンザアイ 私は微笑した。そうして竹林の中の草深い私の家を、土間の篠竹を、また紅い芙蓉や黄のカンナを、妻と二人の子を、その一人は生れてやっと一と月にしかならぬ篁子のことを、夜はまた満天の星座と浪の音と虫の声々とに闌けてゆく壊れかかった二階のバルコンと寝室とを私はまた心にふり返った。

健在であれ。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

とにかく、幸先はわるくない。私はまた紫の煙草に火をつける。

や、鯨だ鯨だと騒ぐ声がする。下甲板だろう。

まあいい。そこで、今度の話は印旛沼の庄亮君の宅を訪ねた時に初まるのだが、彼は鉄道研究会員の一人で、新聞聯盟の外報部長であるところから、鉄道省主催のこの観光団に五、六人の同勢と乗り組むはずになっていた。そこで私も勧められたが、その時には何故か浮きたたないで、行くとも行かないとも確答はしずに酒ばかり飲んで帰った。が、妻に相談すると、連れはいいし、またとない好機会だから是非行らしったがいいと、しきりに煽り立てた。と、急に足元から鳥の立つような騒ぎになって切符を申込む、印旛沼へ電報をうつ。それでももう締切にぎりぎりとかで二等の最後の切符がやっとしか手に入らなかった。ところを、研究会の同勢が沙汰止みになって、庄亮君一人となった。で、私はいい工合にその寝室として当てられた最上の特等室に割込ませてもらった訳なのだ。無論増金は出したが、私のために庄亮君が宣伝これ努めたお蔭であるといっていい。

何といってもこの船一の特等室である。談話室と寝室と便器附きの広い浴室と、三室続きの豪奢なものだ。つい前まで関釜連絡船としてのこの船のこの特等室は朝鮮総督の使用室だったというのである。私の親愛な友人は私を大きな寝台に寝かしてくれて、自分は談話室のソファを仮寝台にこさえさして寝た。そうして、さて改まって私を朝鮮の王様と披露した。

朝鮮の王さまもおもしろい。万事のんびりとやってやろ。

そこでこの支那服だが、これはむろん私のものではない。昨夜、そうだ、この船での第二夜、一等の食堂で、期せずして私たちの間に童謡音楽会が開かれた。どうせみんなが酔っていた。私の周囲にはいつのまにやら三等客の学生たちが有りったけの蛮声を張りあげていた。ピアノを弾く者もいた。踊る者もいた。それをまた覗きに来て、ぞろぞろとはいり込む人々で食堂がいっぱいになった。方々の窓にはまた黒い赭い白い顔と手とが鈴なりにぶら下った。その時、大柄ののっぽうの、それでいていつも棗のような顔をして眼の細い、何か脱俗している好々爺が著て来たのがこれであった。

「これはいい、僕が貰っとく。」

そこで、私の麻の浴衣と脱ぎ換えさしてしまった。すると、背の低い小さい小さい実直そうなお爺さんの頭にのっけた鼠の頭巾が目についた。

「お爺さん、その帽子はいただきますよ。」

小さなお爺さんはちょこちょこと私の前に来て、その頭巾を「へい、どうぞ。」と差出した。

「朝鮮の王さま出来ました。」と誰やらが頓狂に叫んだ。

一同礼拝、ハハッ、であった。

こうして身につけてしまったのであったが、朝になると、浴衣と帯とは談話室の椅子の上に畳んでキチンと載っけてあった。となると、支那服は返さねばなるまいが、どうにも欲しい。で、朝から両手に桜麦酒をかかえ込んで遊びに来た九州は福岡の読売新聞の支局長だというY君に、

「どうだね、これは貰っときたいが。」とやった。

「かまいませんさ。私が話しときますたい。著ておいでなさい。」

欲しいものは貰ったがいいだろうと私も思った。

「ちょっとそういって来ますたい。」と、とつかわY君は飛び出した。やっぱり九州人はいいなと思ったものだ。

「大丈夫、くれます。」

「しめた。どうしたい。」

「何ですたい。」と、どかりとソファに身体を弾ねかえらして、薄い口髭をちょいとひねった。円いはじきれそうな赭ら顔のすこしく釣った眼尻を仔細らしく細めると、両腕をテエブルに、そして肩を怒らした。どう見ても快活な佐賀男だ。

「話して見ましたもんな。あの爺さん、何でもあれを神戸で買うて来て、たった一度しか手をとおさないちいいましたけんな。なに、ちっとばっかり惜しか如しとりましたたい。そげんかこついうたっちゃでけん、あげなさい、何か書いてもろうてやるけんよかたい。そげんか支那服いつでん金ば出しゃ買わるっじゃろが。よかよか、俺が善うしてやるち、うんと恩着せて置きましたたい。そしたら喜んで進上しますといっとりますばい。」

「しかし、惜しがってるのを無理に貰うのはいけないな。」

「うん、よかよか。とっときなさい。短冊でんくれてやんなさり。そっでよかたい。」と片手を仰山にうち振ると、それからまた麦酒をグッとひとあおりだ。

「あん爺さんもおもしろか。何でん、下の関で車輛会社をやっとるちいよったが、うん、やっぱり変っとる。いまに酒でん提げて来させまっするたい。」

元気旺溢である。

「そりから、まだえれえ奴がおりますたい。肥前の呼子ち知っとんなはろが。彼処ん王さまん如っとたい。よか親子ですもんな。三等に乗っとりますばってん、そりゃ貴族院議員の資格もあるちいいよりましたばい。鯨ん鑵詰ばこさえとる。全国に出しますもんな。彼ば引っ張って来う。今度呼子においでたなら、そりゃよか、学校ん生徒でん何でんお迎い出すちいよる。」

「鯨の髭さ。ありゃうまいや、粕漬だろう。君。」

「鯨ん鼻ん骨ですたい。輪切がえらかもんな。そりゃ珍らしか。好いとんなはるなら送らせまっしう。うむむ、後で連れて来う。」

ここで話が一転して、もう一人の支那服の白髪のお爺さんの噂へ移る。

私はそのお爺さんが初めから目についていた。日本人には珍らしい、若い時はさぞ秀麗だったろうと思える、禿げ上った頭のそこらに、真っ白い縮れ髪がもじゃもじゃして鼻の太くて高い威風堂々とした朱面の持主である。タゴールそっくりといっていい。いや、それよりも厳ついかも知れぬ。それが白い麻の支那服を著て、一等の談話室の、ラジオの黒い喇叭が二つ背中合せに立っている緑の大卓を前に控えて、ポケットから大きな眼鏡を取り出すと、白髪頭をひと振り振って両耳へ掛ける。何か書類をいっぱいに拡げて、それは精密に書いたり調べたりしている格好を見ていると、まるで白い牡牛のような活気と精力とが充ち満ちていそうであった。

「おい。」と、昨日の朝だったか、庄亮が私の袖を引いた。

「あのお爺さんどうだい。みんながね、白秋さんはどの人だろうと探している様子だから、ひとつ、あのお爺さんがそうだといってやろうかね。おもしろい。」

「莫迦いえ。あんな白髪のお爺さんにされちゃあ困る。」

「いや、いいよ。あれだあれだ。」と頭をかかえて笑い出した。

その話がまた出ると、

「まあいいさ。ゆうべですっかりお里がわかっちまったんだから。」

「あのお爺さんも余程おもしろかったと見えて、おしまいまで、一緒に飲んだり跳ねたりしていたぜ、君。」

「知っとる、知っとる。ほんに酒好きけんな。飲ます事ちなか。とてん偉えお爺さんの如る。」

「それでむしょうにうれしがっていたぜ、君。そして君のことをまるでやんちゃの赤ん坊だ、あれでなくちゃ詩も歌もできまいと。」

「君の稲葉小僧の新助もだろう。」

アッハッハッと、政友本党では幅利きの吉植庄一郎氏の令息で、法学士で、政治ぎらいの、印旛沼は出津の開墾家の、お人よしの、どこか抜けている坊さん風の、歌人の、わが友庄亮が頭を叩いて、「閉口閉口。」と元から細い眼尻を一倍細くして、赤い顔をした。

何でも、今度の観光団は面白そうだとなった。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎の岳父さんもいる。中学校長もいれば有名な富豪もいる。銀行の頭取、牧畜家、材木業者。それに二、三等にも山持ち、汽船持ち、芸術写真のKさん、小学校長、学生、西洋画家、宿屋の主人、等の種々雑多の階級の人たちが全国から三百幾人と集まったのだ。それが、まだしっくりとはとてもうちとけないで、何かしら気づまりで固く鯱こばっていたのが、昨夜の童謡音楽会でさらりと流れ、ふわりと和らいでしまった。

「とにかく、あれでよかったんだ。」

そうだと私も思った。

と、「先生はおいでですか。」と誰やらがいきなり飛び込んで来たものだ。

「明日仮装会をやるんだそうで騒いでいますが、皆さんに御賛成を願います。なんでもこちらに出ていただかないと、どうもなりませんで。二等船客総代という格で伺った訳なんですが、是非どうかひとつ御声援を。ええ。」

「うむおもしろか、やろ。」とY。

「これでいいんですか、この支那服のままで、それならかまいませんよ。」

「やあ、結構です。ではお願いします。どうせまた明日引っ張り出しに来ます。」

「いやあ。」といっているうちに、またポンと飛び出してしまった。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

まったく汽船の旅はいいなと思う。ことに夏の海上くらい爽快なものはなかろう。

第一日は室内の整理やら、入浴やら、何かとそわそわとして暮れてしまったし、明るい食堂の晩餐をも虔ましく片隅に寄って済ました。それから一等の談話室を覗いたり、甲板の籐椅子へもたれて見たり、自分の寝台へ帰って仰向いたり、まだ十分の落ちつきは得られなかった。甲板での活動写真の催しも、いたずらに人寄せの技師が不馴れで、ただ急造の白幕に白い円ばかりを出して、そのままコチコチコチコチで中止になってしまった。

ただ、J・O・A・K、こちらは東京放送局であります。と、はっきりと大きくは唸ったものの、すぐとその後から、ゴウゴウゴウと何処かの無電がしっきりなく邪魔をしかけて、それからの義太夫も太棹も聴いてる方で頭を鑢でこすられるようで苦しかった。

翌朝はまだ暗いうちから取り騒いだが、大洋の黎明は何ともいえずすがすがしかった。そのうちに珈琲が来る。謄写版刷の高麗丸新聞が配られる。この第二日もいい凪であった。私は午後無線電報を続々と諸方に打って貰った。昨日の御礼である。

妻子には、

トクトウニカハツタ、イマヨコハマヨリ二〇〇ノツト、

イチロヘイアン、アア、ヒロイウミ、アヲイウミ

また、ある東京の友人にはこうも打った。

アア、ソラトウミ、ナミヲハシルハエントツノカゲ 私はまた環投げの遊戯に加わった。それに正午にはまだかなりの間があるうちから、しきりに腹が空いて、昼餐の合図の銅鑼ばかりが待たれて困った。ベルを押すことベルを押すこと。

「紅茶を二つ。」

「こんどは珈琲だ。」

「菓子、菓子。水菓子。林檎林檎。」

遠い、いささか薄紫に煙った北方の空を鴎が幾むれも翔った。

ひろいひろい大うねりの黒い波間には、小さな鴨ほどの海鴫が揺られ揺られて浮いたり沈んだり、辷ったり、落ちたりしている影も見た。何という落ちついた叡智の持主であったろう。その羽は黒く紫に、その嘴は黄色く、よく横向に尻尾をあげあげ辷った。

それに船側に添って乱れて駛りのぼる青い腹の、まるで白竜のような新鮮な波の渦巻と潮とをつくづくと俯瞰しては、何とか歌にまとめようと苦吟もして見た。

午後になって、左舷の遥かに金華山らしいのが眺められたが、航路というものは、海岸線には添いつつも、なかなかに近くへは寄れないと思えて、おおかたは空と海とのかぎりない大円盤ばかりを周りにして進んで行くのだ。

「ここまで来れば、何も彼も忘れてしまいますね。」とある船客は幾度かの深呼吸の後で、哄然としてその笑いを放った。

「無だな。」とまた誰かがその言葉を飛ばした。

「ロウリング、ロウリング、ロウリング。」と、ある少年は両手と両足とを思うさま踏鳴らして舞って廻った。

何処やらでは、のうのうと、声をそろえて羽衣を謡っていた。

笛を吹く人もあった。

まったく、大洋はいいなと思った。

何が世の騒壇であろう。幽人高士のあまりに少い今の乱脈さは、その気品の低く、香気の薄く、守ることの浅い不見識は、あの市井無頼の徒たりとも口にすることを恥ずる暴言と態度の賤鄙と(いや、それよりも下俗な覆面の残虐と私情の悪罵と)あの卑劣とは何事であろう。あの狭隘さは、あの某々雑誌の喧々囂々はいったい何事であろう。あの無秩序な、無差別な、玉石も真贋も混淆したあの評価は、あの妥協は、あの美に対する放恣な反逆は。

私がもし秦の始皇帝ならば、焚くべき書、埋むべき坑はいかほどあるか。私は相応に知っている。決して文芸に就いては風俗壊乱のみを狙うべきでない。しかもその行使はほとんどが美への冒涜が多い。むしろ秩序紊乱の罪悪がどれだけ芸術の正しい品位を破るか。近代は澆季なりと時の人が嘆いたあの戦慄すべき保元平治時代よりもまだまだ今日の芸術界の一部は浅ましい。堕落しきってるような気がする。

芸術とはあんなものでない。大乗の、大雅なものだ。

この空を、この雲を、この風を、この海を、この光耀を見たがいい。

私は今日も、空を吸う、雲を吸う、風を吸う、海を吸う、この光耀を吸う。

ハロウだ、まさしく。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

また、腹が空いた。もう昼餐の銅鑼が鳴るのもじきであろう。

どれ、ケビンの甲板に下りて見ようかな。

や、ゴルフをやってるな。

誰だ、いったい。あの桃いろのスカアトを跳ね跳ねして、まるで乳房の張った馴鹿のように踏っているのは。

すばらしい、すばらしい。

心は安く、気はかろし、

揺れ揺れ、帆綱よ、空高く……

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