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天馬
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天馬
金史良
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Original Public Domain
Chapter 6 of 7

6

「莫迦に大村君は遅いですな、一人で帰ったのでしょうかな」

と田中に向って云った。彼は玄竜が大村を雷のように怖れていることを知っているからである。

「え、大村君?」果して玄竜は一時に酔いがさめたように目を大きくしてぐっと体を起した。「大村君、大村君と一緒だったんですか?」

「うん、そこらで何か買物をすると云っていたがね」

怪訝そうな顔をしてから答える田中の話を聞いて、あ、これはいけないと慌てて、

「そうなんだ」と訳の分らぬことを叫んだ。「だから大村君と力を合わせて、朝鮮民族を改良するために努力しているんだ。問題は簡単なんだ。朝鮮人悉くが今までのような固陋な思想からぬけ出て、東亜の新事態を確認し、そしてひとえに大和魂の洗礼を受けることなんだ。それがため僕は人から気違いとまで云われながらも、大村君のU誌にいつもセンセイショナルな論文を書き立てたんだ」そこで急に声をひそめて首を突き出し、

「大村君は僕のことを何とも云わなかったのかい?」と訊いた。

「いや別に……」

と田中はお茶をにごしたが、玄竜は又急にもとのような調子にかわって、

「大村君は実に当代稀にみる立派な奴だよ。だから僕など民間にいながら率先して全力を尽し助けているんだ。だが惜しいかな、好漢大村君も芸術家が分っていないんだよ、真の芸術家というのが……だから田中、君のような作家が大いに啓蒙してやるべきだと思うんだよ。ハムレットでもあるまいに、僕にお寺へ行けと無茶を云うんだから愉快なんだよ。それがね、尼寺へならともかく禿坊主のところへなんだよ。ねえ、僕がオフェリヤかよ? 僕はこう見えても憚り様ながら頭はしっかりしているんだ!」

角井はいかにも憐れむように田中に嗤ってみせつつ、すっぽらかして出て行こうというふうに、その洋服の裾を引張った。ところが玄竜が妙に喉にからんだ声を張り上げて強がりを云っている時、当の大村が悠然と入口の方からはいって来た。見るからに四十がらみの堂々とした立派な紳士である。玄竜はすっかりうろたえて、へーと笑いながら首筋に手をやるとぺこんと頭を下げた。角井は傍で意地悪い声を出してけけけと突然嗤うのだった。大村はここに玄竜がいるのを見て急に不機嫌になって呶鳴った。

「どうしたんだ、君は又こんな所へ来てくだをまいているのか」

「へー大村さん、へ、どうも」と玄竜は纏わりつきながら腰をかがめた。「……実はそのう、田中君を一日中捜し廻ったんですよ。それで腹ぺこになったもんですから……つい、へ」

「おい、どうしたんだ、お寺には? ぐずぐずしないで一日も早く行くんだ!」

「はあ」と畏って玄竜はばつ悪そうにもじもじするのだ。「それはもうよく分っているんです」

大村は角井や田中ににやりと目配せをしてみせ、それから遠来の客もあることなので自分が朝鮮にいて如何に朝鮮人のためを思っているかを身をもって示さねばならぬと考えた。

「早く謹慎の状をみせるんだ! 警察の手に君を渡すに忍びない気持があるからこそ、立派な和尚さんの所へ行って頭を直して来いと云うのじゃ。要するに君のような人間たちの魂を引き上げるためなんじゃ。煩悩を断つんだぞ、煩悩を」

「はあ、だから僕も……」

「分ったか、宜しい」そこで得意げに一度肩を張った。客達は皆目をきょとんとさせてこの光景を眺めていたが、さすがに田中は感慨無量そうに目をつぶったまま聞いていた。

「今はどういう時局だと思う。はっきり時局を認識しなくてはいかん。酒場を飲み倒したり、女を強奪したり、人を恐喝するなどもっての外じゃ。君は内鮮一体内鮮一体と気違いのように叫び廻るけれど、朝鮮人は誰一人君を相手にしないそうじゃないか。もう少し反省するんだ。まともな人間に帰れと云うのじゃ。分ったか、わしが君を応援することにつけ込んで、人の好意を利用するなんて絶対に許されん。莫迦奴! そんなに恩知らずだとはわしは始めて分った!」それから自分の語調に感動しついには興奮してしまった。「全く恩知らずの悪い奴め! まだ君の悪いことが分らんのか。内鮮一体ちゅうのは君のような人間の魂まで引上げて内地人同様にしてやることなんだぞ」

「それはそうです、だから僕は人に気違いとまで云われる程の熱情でそれを主張して来たんです。そうですとも、実際男分の日本が女分の朝鮮に手を伸して仲よく結婚しようと云うのにその手に唾をひっかける理由はないですからね。一つの体になることによって始めて朝鮮民族も救われるんです。僕は感激しているあまり朝鮮人に誤解さえ受けているのです。朝鮮人ちゅうのは一体に猜疑深い劣等民族ですから」

「それは待った」と大村は手を上げて思い深げに差し止めた。「朝鮮人の君達はあまりに自虐性にかかっている。わしの周囲にいる朝鮮人は皆自分の民族の悪口ばかり云って来るがそれが先ず第一いかんことじゃ。分ったか。もちろん反省し自分達の悪い点をなおすことは肝腎じゃ。だが自分を大事にしなくちゃいかん。大事に。それが出来ないのが、他の民族に劣る点じゃ。内地人を御覧! 内地人は決してそんなことはない」

「そうですよ、だってそうじゃないですか」と玄竜は慌てふためきつつ何の前後脈絡もないことを叫び始めた。彼は自分が何時か書いたことのある、至って学術的な文句を先から思い出してそれで頭が一杯だったのである。「少くとも地理的にみても、考古学的にみても、それから人類学的にみても、即ちアントロポロジー的にみても、生物学的にみても……」

こうしきりに並べたてる時、角井ははたと学者的な良心に突き当ったので、

「それは君、アントロポロジーじゃなくてアントロポロギーだよ」と訂正した。

「そうですよ、そのアントロポロギー的にみても、又フィロロギー的にみても日本と朝鮮は男と女の相違しかないんです……」

大村は彼のこのペダンチックな慌て方がおかしくてひとりでにやにや嗤っていたが、ふとそれを見た玄竜はもう大村が自分の熱情に気をよくし直したのに違いないと考えたので、いきなり全身をぐっと前に乗り出して、

「ところが大村さん」と叫んだ。「田中君とは僕はかけがえのない親友なんですよ」

だが大村は云うだけ云ったというような調子で、くるりと田中や角井の方へ向き直って云った。

「さあ、もうそろそろ引上げましょうかな。大抵どんなものか見当がついたでしょうな」

「ああ大村さん、もうお帰りになるんですか」

と玄竜はびっくりして、急にばね仕掛けにでも弾かれたように大村の腕へ獅噛附くように飛び出した。が、そのとたんに落ちていた桃の枝に足元がひっかかったので、彼は咄嗟にそれをすくい上げて抱え込みながら喘いだ。

「大村さん、大村さん!」

「どうしたんだね、それは又」と大村は不審そうに体を反らしてじっと見つめたかと思うと、「そんな様をして又歩いているのか、君のことはもうわしは知らん!」

「大村さん、大村さん」玄竜は急にへなへなに腰がくだけて悲しげに叫んだ。「あまりに花がいたいけないので街で百姓から買って来たまでなんです」その時自分の飲み代まで角井が払いをすましている様子なのを見て、彼はきまり悪くなったのか、慌しく田中の方へ廻って来て袖を引張りつつせき込みながら、

「田中君、田中君、実は君に折り入っての話があるんだよ」

と哀願するように呻いた。

「もっとつき合ってくれな、もっと」

「ほう、これはいい花だね」

と、田中はまぎらわせる様にしどろもどろに呟いた。そこで玄竜は急に勝ち誇った様に元気を出して桃の枝を肩に担ぎあげるや、

「そうだろう、いい花だろう、桃の花だよう、桃の花なんだ」と、声高に銅鑼声を上げつつ、恰で兵隊ごっこをする子供のように先頭を切って出て行った。やはり自分もこの偉方達にくっついて一緒に歩き廻りたくもあったのである。大村や角井と田中は後から仕方なさそうに嗤いながらぞろぞろと出て来た。蒼然とした月がぼっかり空にかかっているけれど、小路は相も変らず薄暗かった。彼は少しくおどけて桃の枝を担いだまま体を揺りながら二間程進軍して行ったが、突然立ち止って胸を張り空を見上げ不意に桃の枝を股の下に引きずり込んで乗っかるようになったかと思うと、天に合図するかの如く手を振り上げて一度けらけら笑った。他の三人は知らぬ振りをして彼の横をすごすごと過ぎて行く。彼は慌てて声高らかに叫んで曰くに、

「僕は天に上るんだ、天に上るんだ、玄竜が桃の花に乗って天に上るんだ!」

そこで恰も木馬に乗った勇士のようにすっすっと彼等の傍を突き進んで行った。意想天外なこの神秘主義者を見てくれといわぬばかりに。花々が無慙に首を折られ花びらをよごして所々に落ち散らばった。が、ふと思い出したように振り返って見ると、田中が一人暗がりの芥溜に小便を垂らしている。それで玄竜はこの時だとばかりその傍へ飛んで戻るや息をはあはあ切らしつつ、「田中君」と喉に詰った声で囁いた。「大村君に僕のことを頼んだぜ。お寺へ行かぬようにしてくれ、お寺へ」

その声があまりにも絶望的な悲しみにうちふるえていたので、驚いて田中は玄竜の顔を見つめた。ぞっとするようにひきつって見える形相が急に崩れて、気味悪い笑顔が浮んだ。それから彼の片方の手が自分の肩を卑屈そうに打って来た。

「あれはどうも官僚だからへいへい云わないと悦ばんのだよ。芸術家というのも分っていないんだよ……明日ホテルに行くぜ」

と云い捨てると、再びこれ見よがしに桃の枝に跨がって引きずりつつ天を仰いで喚き始めた。

「玄竜が天に上るんだ、天に上るんだ!」

その際に大村と角井は田中を横小路の方へ引張って大通りに出ると、自動車を止めるために手を挙げた。小路では益々いい気になった玄竜の喚き声が続いていた。

五

とうとう天には上れなかったのだ。翌朝彼はやはりいつものように穴部屋の中で、苦しそうに悲鳴を上げると共に目を覚した。誰かに縄で首をしめられる悪夢にとりつかれたのである。体は汗びっしょりだった。何しろ体を動かすのが怖ろしいようで、再び目をつぶり息ばかり激しく喘いだ。本当に首の方は大丈夫なのだろうかとわくわくふるえつつさわってみようとして、手を持って行こうとしたとたんに、何かごついものに手先がふれたのでびっくりした。本当だなと思い、目をつぶったままじっと息をころした。全く祈るような気持になって、今度は憚るようにそうっと反対の方の手を出して用心深そうに首筋の方へ近づけようとした。おや、そうでもないらしいぞと思う矢先に何かが又指先にふれてぎょっとし、そのまま仏像のように固くなった。ものの二三分もしたであろうか、やっとこさ心を落着けて、それは一体何だろうかともう一度つついてみようとした。気のせいか今度は触れたものが少しばかり揺れたようである。何だかおかしいぞと思って二つの指で挟んでみて、おやおやと引きずられるままにそれをまさぐっていたかと思うと、

「なあんだ!」とあきれ返ったように叫びながら、彼は首筋の所へおいかぶさっているものを慌てて払いのけるのと同時にはね起きた。それはがさがさと物音をたてて吹っ飛び温突の上で揺れている。他ならぬ、泥まみれになった桃の枝だったのだ。彼はふーと大きく息を吐き出し手で首筋の汗をふいていたが、急に気でもふれたようにけらけらと笑った。が、瀬戸物でもこわれたような自分の声までちっとも変っていないので、彼はいよいよもう大丈夫だと胸を撫で下した。

むさくるしい部屋の中が尚薄暗いところからすれば、まだ朝は早いようである。一日中これっぽっちも陽の当らない穴ぐらのような所ではあるが、でも彼には紙張障子の明るさ加減が時計のかわりになっていた。裏の方に続いた台所の土間では、老婆が今日も亭主と喧嘩をしているらしく何かを突慳貧に喚きたてながら焚口に火をくべていた。土間に一杯たちこめた煙が温突紙のやぶけたところや、障子の穴、壁の割れ目等からもやもやと侵入して来る。彼は息がむせるようで二三度苦しそうに咳をして、相貌を険しく歪めたまま不機嫌らしげにじいっと桃の枝を見つめた。もう花はすっかりなくなり枝々の先も折れ、見るかげもなく泥によごれている。触らぬ神に崇りなしとどんな男からも怖れられた玄竜が、それしきの夢にこれは又何ごとだと思えば急に忌々しくもなって来た。惨めな残骸を曝している桃の枝が今の自分の姿とも思われるのだ。すると昨夜の花売り百姓の哀れな像が大写しで現われ、それが両手を振りながら絶望的に喚いている声が聞えて来る。

Chapter 6 of 7
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