落盤
「今日は、坑内を御覧になったそうだが……」
その午後、孫軍曹の部屋を訪問した鉱山の経理は、半ば威嚇するような、また媚びるような複雑な表情をして云った。
「坑内のことに就いては、沈大佐殿にも既に御諒解を得ているので……どうか一つ、あなたもよろしく願いますよ。こういう仕事ですからね。外部へ知れていいことばかりはないので……これはそのほんの手土産代りですが」
「何ですかこれは?」
「そう改まって仰有るほどの金じゃアありませんが、街へ出た時にでもお役に立てて下さい」
年輩の経理は厭味な笑を作って――若いの、分っている癖に、あっさりとって置け――という眼付をした。
「はああ、あれを見た口どめという訳ですね」
「そ、そういう訳じゃありません」経理はむっとしながら云った。
「私共は大佐殿の命令に背いたことはしていないのですからね……それとも何か不都合な所でもありましたかな」
「惨めなものですな子供達は……第一、あの身体の青さはどうです、まるで草の葉のような色じゃないですか」
が、経理は、笛のように咽喉を鳴らして笑っただけである。
「あ、ありゃアあなた……仕方がありませんよ。錫の鉱石の中に、酸化砒素というやつが入っていますんで、日がな一日細かい鉱砂を吸っている奴等は、砒素に中毒しているんです……しかし、そんなことを気にしてはいられません……私共は単に私利私慾の為に錫を採っているのではないのですからね、これも国家への御奉公です。今、錫を出さなかったら、あなた……」
孫軍曹は、乗り出して来る経理の鼻をぴしゃりと打つように云った。
「戦争に錫が必要だ位のことは仰有らなくても分っています」
「いいえ、あなた、単にそれだけじゃありませんよ」
経理は、自分が国家の政策に就いても色々の知識を持っているということを示すのを、邪魔されるのを恐れるかの様に、甘ったるい猫なで声を出して喋り出した。
「箇旧の鉱山は我々の抗戦を力強いものにする為にですね、アメリカから一億弗……億ですよ。それを借款する担保に入っている、この錫がですよ」
が、雲南府で学生にそれを聞いている孫軍曹が、少しも驚かず、そんな事は知っているという風に薄笑いを浮べているのを見て、経理はついほんきになって本音を吐き出した。
「それだけじゃあない、実は中央政府は、これを機会に、何とか箇旧の錫鉱山に難癖をつけて、全部政府の直営にしようと企んでいるのです。ようがすか、そんな事になったら、われわれの龍雲省長閣下はどうなります。閣下の腹心の幕僚は何とかその分前に食込むとしてですね、年々二千五百万ドルからの錫をこの蕃地から出す七百の鉱山主はどうなります……猛運動をして漸くここの守備隊長になられた沈大佐も、莫大な徴発金がとれなくなれば、部下のあなたも、甘い汁は吸えなくなるということになるんですよ」
「沈大佐が猛運動をしてここへ来た」
「そうですとも。ここは月給の百倍も収入のある土地ですからね。沈大佐も、軍務司長あたりに莫大な贈物をしたという噂ですよ……まあ何にしても、あんた方と吾々は同じ利害関係を持っているんですからな……一つ仲良く行きましょう……」
「…………」
経理は、それでも、むっと黙り込んでいる孫軍曹に、怒りの色を浮べたが、それも一瞬で、声を落して囁いた。
「蒋閣下のように二百万の兵を殺し国を焦土にして国民を路頭に迷わしても、外国へ亡命すれば向うの銀行に十億近くも預金のある人はいいですがね……われわれ、今稼いで置かないと何処へ追払われるか分ったもんじゃない。だから、どんな事をしても今のうちに沢山錫を採らなきゃア……何処へ行って暮すにも金だ。沈大佐だってそれを考えたんですよ……お互も一つうまくやろうじゃないですか」
「そりゃあ本当なんですか。世の中ってものはそんなものですか」
孫軍曹は、自分のもの知らずを、悲しむかのように悄気返った。
「嘘にも本当にも、中国の将軍連は戦に負けて亡命しても、百万二百万の金を持っていないものはないじゃアありませんか。世の中は利口に立廻らないと馬鹿を見ますよ」
経理は立ち上って、そう云い乍ら、孫軍曹の肩を軽く叩き、この男も蒙古犬だが、うまく仕込めばいい番犬になるだろうと、そんなことを考えながら出て行った。
孫軍曹は、うちのめされたように項垂れていた。
“俺が万一の時には命を賭けても守ろうという決心で、国境から遙々雲南府まで持って行ったあの機密書類が、買官の依頼状だったのだろうか。あの厳重に密封した重い荷が、軍務司長への贈物だったのか。周副官が吉報だと云ったのも、そう云われれば頷かれる”
彼は十七の時から、軍隊にとられて教育され、抗日は救国に絶対必要であること、蒋主席の尊敬すべき大人物であること、沈大佐の忠誠なる軍人であることに、少しの疑いも持たなかった。
それが今、一朝にして崩れかけているのだ。
“蒋主席や、あの厳格な沈大佐殿が、本当にそんなことをしているのだろうか”
孫軍曹は、沈大佐がまだ少佐の時従卒となって、以来順調にここまで来た。
三年前、命が惜しければ残り、出世がしたければ前線に来いと云われ、命は惜しみませんと答えてついて来たのだ。
少佐殿も大佐になられた。俺も軍曹だ。その間、随分叱られもしたが、人一倍可愛がられもした。
“嘘だッ嘘だッ、経理の野郎、俺を買収しようと思って、でたらめを云やアがって”
彼は目の前の金包を鷲掴みにして、経理の後を追った。
その時例の坑口の入口では坑夫達が何か興奮して走り廻っていた。
「どうしたんだ」
「落盤です。子供が三、四人埋まってしまったのです」
「なに埋った? 何処だ、なにを愚図々々しているんだ、早く掘って出してやれ」
孫軍曹は現場へ駈けつけたが、誰れも手を下そうとする者はない。衛兵が仕事の手を休ませないのだ。
孫は激怒した。しかし、衛兵と監督は、三人や四人の子供を助ける為に、五十弗も百弗もかかる工事をやって採鉱を遅らしたら、自分達が首になるというのだ。
「俺がやらせたと云え。文句を云う奴があるなら俺が相手になる……子供達を早く掘って助けてやれ」
が、それでも躊躇する坑夫達を見ると、孫は鷲掴みにしていた金包を破いた。
「さ、早い奴に褒美をやる」
赤肌の大地に、明るく銀貨が音を立てて飛ぶと、坑夫達は大人も子供も仕事を放り出して群がって来た。
「そこを掘れ、後は助けてからだ」
坑夫達は歓声をあげた。坑内に知らせに行くもの、指図するもの、衛兵も、もう手がつけられなかった。孫軍曹の噂を知っている坑夫達は、彼の保護に安心して、続々坑内から出て来ると、新しい工事に加わった。
孫軍曹は、掘起した岩の上に仁王立になって指図しながら、事務所から出て来て苦り切った顔をしている経理に、
「錫も大切ですが、人間の命は何より大切ですからな」
と云った。
少年達が再び歓びの叫びをあげて小さな穴から、地下へ這い込んだのは、それから数時間の後だった。
引上げられた少年達は殆んど気を失っていた。坑夫達は、彼等を地上に寝かし、あるものは自分達のボロ布で扇ぎ、ある者は自信あり気に揃って不思議な祈祷をやり始めた。
彼等の世界に医者というものはないのだ。
「医者は居ないのか、ここに医者は居ないのか」
孫軍曹は、そう呶鳴っていたが、坑夫を分けて手負に近づくと、愕然としてその一人を抱きあげた。
「おい、しっかりしろ、おいッ」
孫は、興奮に青くなって叫びながら、抱えた手負を荒々しくゆすぶっていたが、額にたれた髪を撫であげて、落盤に酷く打たれている致命的な傷に気がつくと、突き放つように死骸から身を退いた。
「馬鹿野郎、こんな所で死にやアがって……何だって俺が坑へ入った時出て来やがらねえんだ」
「軍曹さん、万里を知っているんですか」
「俺の生れたところの奴だ。俺の家から一町とは離れて居ない……おい、この鉱山に、この万里より二つ三つ下の、春生という子供はいないか……おい、誰か知っている者はないか、春生という子供を……」
真剣な、何時もの彼に似合わない縋りつくような調子だった。
が、誰も答える者はなく、しーんとして、子供達は済まなそうな顔を見合せるばかりだった。
「そうか、誰も知らないんだな」
孫軍曹は、弟や母の安否を、また新しく思い出しながら力なく立ち上ると、残りの銀貨を投げ出した。
「約束だ、何かの足しにしろ。それから他の怪我人は小屋へ運んで置け。上等兵に手当をして貰ってやるからな」
そう云うと憂愁に沈んだ顔をして帰って行った。