序
私がこれから読者に提示しようとしている年代記は意識的に想像力を働かせた結果ではない。題名が示す通りこの十年間の夢の記録である。折々見た夢を日記から掘り起こして、ほぼ時間的な順序に沿って書き写したものだ。夢から覚めた後できるだけ速やかに筆記したため、必然的に文体が未整理であり用語の洗練を欠いているものの、少なくとも生々しい色彩を得てはいる。それぞれのヴィジョンが私の心の中に強い痕跡を残している間に、眠りの中で見聞きした光景や音響の現実感が去ってしまう前に、紙面に記されたものなのだから。
これらの夢体験が類例のないものかは不明だ。これまでのところ、夢見る能力を私ほどの強さないし異常さで発展させた人物には会ったことがない。たいていの夢は、それが常になく鮮明かつ明晰であっても、行動の統一性や、細部および dramatis personae における一貫性に不足する点があり、故に不完全ないし分裂した大脳機能の所産という烙印を押されることになる。だが、以下に記そうとしている夢体験の最も顕著な特徴は、一つは継続的な記録方法にあり、もう一つは目撃した出来事や読んだり聞いたりした言葉に対するのと同様の知的な目的意識にある。これらの中のあるものは、確かに、意味と深遠さにおいて東方の経典の寓話に類似しており、また夢の中の情景は一再ならず遠くの土地、都市、森、山を精密に描写しているのだが、少なくとも私はそれらの地を一度も見たことがなく、記憶にある限り、そんなものの話を聞いた経験もない。それでもなお、これらの見知らぬ風土は夢の中で驚くほど多彩かつ明確に現れ、目覚めた世界などこれに比べると色あせて現実味がないくらいだ。知る限り、この現象に比肩し得るのはブルワー=リットンの小説――「ラインの巡礼」に描かれたものだけである。そこでは、一人の夢見る能力に恵まれたドイツ人学生について語られるのだが、この学生にとっては睡眠と覚醒における通常の状況が逆転し、眠りの中の人生こそが真実であり、目覚めている時間など、睡眠状態の中で受ける強烈かつヴィヴィッドな興味の合間に存在する長くてつまらない拘留期間に過ぎないのだ。このような自然状態の逆転は私には一切起こっていない。反対に、夢によって得られた値付けしようのないほど貴重な洞察と光明は、人生の数多い困難と謎とを解き明かすために大いに役立った。のみならず、夢の力を借りなければ信仰についても暗いままだったのだ。夢はまた当惑に満ちた我が経歴の浮沈にあって、日光のような光を投げかけ、夫々の状況をもたらした原因や源泉まで貫通し、私の人生に意味と健全さをもたらしてくれた。夢がなければ、それはバラバラで一貫性を欠くものとなっていただろう。
自分の能力を説明する理論について、読者に提示できるようなものは持ち合わせていない――少なくとも生理学的な側面が関係する限り。無論、医学教育を受けた身としてこの現象に関する modus operandi は思いつくのだが、それは仮説とすら呼べぬ程度のものに過ぎない。私は無意識の大脳機能に関するほとんどの主張を相当程度まで知っている。科学者が推し進めてきたこれらの主張は、しかし、合理的な範囲で拡張ないし修正しても私の例に適合するようにはできない。異常な症例を経験した医学の専門家はなにかというとヒステリーだと言いたがるが、これは種々雑多なカテゴリーであり、また私の例を説明するには明らかに不適当である。これらの夢が独特の一貫性を持ち、劇的な統一性が持続していた点ばかりではなく、夢が伝える指示ないし暗示における詩美と繊細さからして、精神疾患に特徴的な病態とは相容れない。その上、これらの夢を見ていた期間中、私は正確な判断力と完全な自制心と精神の清廉さを必要とする科学と文学の追求に常時没頭し続けていたのだ。最も注目すべき生き生きとした夢を見た期間は、パリ大学医学部生として勉学していた時期にあたり、試験の準備をしたり、来る日も来る日も外科手術の助手として病棟に出向いたり、講義に出席したりしていた。学位を得た後は医師としての仕事や報道機関向けの科学記事の執筆に追われた。これまで阿片、ハシシ等の夢を惹き起こす薬物を用いたことはない。その方面の悪癖としては一杯のお茶やコーヒーを嗜む程度が精々だ。このような細部に言及したのは、私の能力の源泉に関しておかしな推論を下されないためにである。
それぞれの夢をいかに解釈し利用するかについては、言わぬが花であろう。多くの夢は明白に寓意的であり、曖昧な部分があるにせよ例外なく調和がとれ、ギリシャおよび東洋の神話の方法論を知る者にとってはかなり歴然たる意味を持っている。それゆえ、ここで自分なりの説明を敢えて加うるの愚を犯す必要はなく、私の前を過っていったままの姿で、目覚めた時心に残ったままの印象の通りに夢を記録するにとどめるべきだ。
不幸なことに、覚醒後の記憶が不正確だったり不完全だったりしたため割愛した夢もある。ヴィジョンの中で目や耳にした書き文字や議論の幾つかが脳に断片的な印象しか残さず、目覚めた後で失われた走句を思い出すのに難渋することになるのだ。
こういった不完全な夢体験は、しかしながら、多くはなかった。逆に、通常の意識のもとで、眠っている間に出会った絵を想起し見聞きした言葉をいともたやすく再現できることに私はいつも驚いている。
数ヶ月の間この種の特殊なヴィジョンが訪れないことも何度かあった。この合間の期間に見た夢は普通の、支離滅裂でどうでもよいものだけだった。かなり長期間にわたって夢体験の観察を続けた結果、前述の能力を発揮するために必要な大脳の状態に至るには、気候、標高、電気の条件が影響を与えると言っても問題はなかろう。乾いた空気、高い標高、キリッとした静かで爽快な空気がこの活動を促進する。一方、高湿、川ぞい、曇天、暗鬱な天候によって無期限に抑制されてしまう。従って、これらの夢、特にその中でも特に鮮明で詳細で幸福な夢の多くを見たのが大陸においてだったというのは、驚くべきことではない。セヴァーン川(*1)の土手にある我が家の周辺は低い湿地が広がり、そこではほとんどかような夢の顕現を得ず、時には、自宅に長期間滞在した後、夢の贈り物を二度と受け取れなくなったのではないかと思ったものだった。ところがパリやスイスを訪れると必ず、瞬く間にそれは戻ってくる。必要な磁気ないし心霊的な緊張があればそれは確実に自己を主張し始め、何週間も経たないうちに再び日記は夜毎のヴィジョンの記録に満たされるのだ。
こういった夢幻の中には、小説の骨格どころか細部に至るまで備わったものがあり、私は折に触れてそれらを各種雑誌に寄稿してきた。『ロンドン』誌に掲載されたある怪談(*)は、怪奇性とショッキングな性格によってたいそう評判になったが、その源はこれである。昨年の『年刊クリスマス』誌に掲載されたおとぎ話(**)もまた同様だ。これは先般ドイツ語に翻訳され、外国の定期刊行物の編集者の手で再録された。私は文芸に対してよりシリアスな貢献もしてきたが、それらもまた同源であり、夢の中で英語やそれ以外の言語による詩の断片を見聞きしたのは一度や二度のことではない。極めて遺憾なことに、一編たりとも全体を思い出すに至っていない。心に残る印象ががいかに明瞭で手近な感じがしても、いつだって全てを書き終える前に記憶の手からこぼれ落ちてしまうのだ(***)。しかしながら、韻文に限ってすら私の夢体験はコールリッジのそれを質量ともに上回る。この方面における彼の能力は詩的断片たる「忽必烈汗」をものするに止まり、その際も情景を夢見たのではなく詩句を得たのみであった。私は諦めてはいない。将来、現在以上の好ましい条件下において、途切れた糸が再び繋がって、夢の詩の数章が完成される日が来るのを。
おそらく、この書物に収められた夢の大多数は明け方に見たものだという点に触れるのも有益だろう。中には日の出後の「二度寝」の際に見たものもある。どうやら何よりも空腹であることが、おおかた何らかの微妙な磁気ないし他の大気の状態と相俟って、この種の感覚への扉を開くらしい。またこれと関連して、私がこの十五年間肉類を避けてきた点を加えてもよかろう。この間じゅうバター、チーズ、ミルクといった動物由来の食物を摂取していたため「ベジタリアン」というわけではなかったが。空腹であること及び飲酒しないことが睡眠中の脳髄が発揮する洞察力に影響する件は、現在よりもはるかに夢を尊重していた古代にも知られていた。これは神的秘術及び神秘学の記録に残る様々な記載から明らかである。後者の例として、ピロストラトスは「テュアナのアポロニウス伝」の中でフラオルテス王(*2)に対しこう語っている。曰く、「夢占い師ないしヴィジョンの解釈者は、夢の解釈を始めるにあたって、まずそれをいつ見たかを問いただすものである。なんとなれば、早朝に見た夢ならば上手に解釈することができる(すなわち、その夢は解釈に足る価値を持つ)だろう、それは魂が解放され予言に向いた状態になっているからだ。だが寝入りしなないし真夜中頃には魂は尚も曇った酩酊状態にあるので、かかる場合、賢い夢占は解釈を拒むものである。そればかりか神々御自らこの意見に賛同され、お告げを下されるのは節制した魂に限られる。僧侶は先立って一日の断食と三日の禁酒をしたるが故、神託を受けるにふさわしき明晰な魂となり得るのだ。」またイアンブリコス、アガトクレスに書きて曰く:――「聖なる眠りについて語られたる事ども及び夢によって得られたる事どもに無益なるものなし。吾人はこう見る:――魂には二重の生あり。低きものと高きものなり。眠りの間、魂は肉体の呪縛を解かれ、自由闊達なる存在としてその知性ある神的な生に至る。対象の真なる姿を――知性の世界の対象なり――見る新しい能力が内より興り目覚めるのであるから、この解放状態にあって、それ自体にあらゆる事象の原理を内在する魂が然様な先行原理の構成せる未来に瞠目すべしとて、誰か驚くものあらんや? 精神の中でより高貴なる部分はより高次の性質を吸収したりて、かくの如く統一し、神々の知恵と予言とを受け取る主体となりたり‥‥肉体の夜は魂にとっては日中に他ならぬ。」
しかし私はこれ以上引用を重ねようとは思わないし、このささやかな作品に不釣り合いな仮説を持ち出して読者を悩ますつもりもない。だから、ここまで私の夢体験について自分で知る範囲の事実と状況を述べたところで、これ以上の注釈なしに我が夢絵巻を紐解き、夢そのものに語らせていくことにしよう。
――A.B.K.