Chapter 1 of 14

汽笛ががらんとした構内に響き渡つた。私を乘せた列車は、まだ暗に包まれてゐる、午前三時の若松停車場を離れた。

「ぢや左樣なら。おまへも今年卒業なんだから、しつかり勉強しろよ。俺も今年こそはしつかりやるから。」

私は見送りに來てゐた窓外の弟に、感動に滿ちて云つた。襟に五年の記號のついた、中學の制服を着けて、この頃めつきり大人びた弟は、壓搾した元氣を底に湛へたやうな顏付で、むつつり默つて頭を下げた。恐らくは、弟も、この腑甲斐のない兄の再度の首途に、何を云つていゝか解らなかつたのであらう。考へて見れば自分は、既に弟に追ひつかれてゐるのだ。上京の時日は弟より三ヶ月先きの今だが、弟もやがて中學の制服を脱ぎすてると、この四月には上京する身なのだ。私はもう一度妙な感慨を以て、ぢつと立つてゐる弟の姿を見やつた。

私はもう一言何か弟に云ひたかつた。が汽車は既に、ゆつくりと、しかも凡ての物に係りなく、動き出してゐた。そして思はず涙の浮びかゝつた私の眼から、ぼんやり明け近い暈をかぶつた燈火と、蝙蝠のやうに驛員たちの立つてゐる歩廊が、見る/\中に後退つて行つた。

弟の小さくなつた姿が、もう歩き出してゐた。そして此方を見てゐないらしかつた。それでも私はもう一瞥の別れを投げかけようとしたが、その時暗い物影が、恐らくは積まれた材木ででもあるらしい物影が、私と歩廊との間を遮つた。而して再びその暗が豁けた時、汽車は既に故郷の殘影である燈火の群から遠く駛つてゐた。

私はやうやく窓から首を引込めた。そして何となく首途らしい感慨に打たれて、危ふく熱くなりかゝつた瞼を抑へながら、かうなる迄の自分の位置を默想し始めた。――

私に取つては、今度のそれは全く決死の首途なのだ。去年の一高の受驗に於ける不面目な失敗、その後を受けた今年こそは、どうしても成功しなくてはならぬ首途なのだ。それにしても何故、去年もつとしつかりやらなかつたらう。それは第一に上京が遲れたからだ。秀才だつた義兄の言に信頼し過ぎて、卒業後の大切な數月を刺戟のない田舍で勉強しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空氣の中にゐたら、或ひは勉強ももつと緊張し、又受驗術も巧妙になつてゐたかも知れない。從つて友人の三島のやうに、或ひは及第してゐたかも知れない。なあに三島だつて自分だつて、腦力にさう軒輊が在る譯はないのだ。無いどころか、自分の方が卒業の成績さへよかつたのだ。そして受驗前の問答なぞでも、自分の方がずつと知つてゐたのだ。ところが受驗の結果は彼が見事に入つてゐながら、私はすつかり失敗してゐた。一體ほんとに彼と私とに、どこであの差が出來たのだらう。

それは彼と僕との單なる英語の單語一つ知る知らぬから生じたらしい。少くとも自分はさう考へる。あの英語の第一問にあつた、呪ふべき Promotion といふ單語の譯し方一つに、彼と私との運命の差が生じたのだ。私はこの字を知らなかつた。それで前後の意味から參酌して、大體當りさうな譯語をつけて來た。(今考へるのも恥しい。)それがあとから聞いてみると違つてゐた。その他の問題では、どの科目に於ても、いつも彼と歸途に話し合つて、二人が一致したのだつたが、これだけは私が明かに失敗してゐたのだつた。

その他にも或ひは私の失敗があつたかも知れない。そして二人の間に見えない差異が生じたのかも知れない。併し際どい選拔試驗の及落では、單語一つの識不識は、直ちに運命を支配する事もあり得る。否、さうあるべきだと思ふ。聞く處によると及落を分つものは、僅かに五點の差を出でぬと云ふではないか。――兎に角、私の場合に於ては、單語一つにかゝつたと考へて差支ないやうに思ふ。しかも自分はそのために、云ひやうのない屈辱の半歳を過した。父には叱られた。母には泣かれた。義兄、姉妹たちにまで輕蔑の眼を以て見られた。たゞあの私のひそかに思つてゐる、義兄の從妹の澄子さんだけが、同情して慰藉の手紙さへ呉れたが、あの人だつて内心輕蔑したに違ひない。が、それでもあの人の慰めが私の今迄の唯一の光明だつた。

今度の早い上京だつて、父はなか/\許しさうにもなかつた。が自分は今年入らなければ廢すと迄誓つたため、やつと許して呉れたのだ。だからいづれにもせよ、今年入らなければ生きては歸れないのだ。それに弟だ。彼奴ともとう/\受驗期が同じくなつて了つた。それを考へると私は、何となく恥づかしくてたまらない。

何しろ、上京したらしつかり勉強しなければならない。さう思ふと胸が躍るやうだ。そしてもう今日の中には上京してゐるのだ。今迄の陰慘な、屈辱な家での蟄居から、あの光りかゞやく都會に出て、自由に勉強することが出來るのだ。それに東京には、去年の八月來半年會はない、慕はしい澄子さんが待つてゐる。私が上京したら、いつもの通り晴々しい笑顏を持つて、義兄の家へ訪ねて來るに相違ない。それがどんなに自分の勵みになるだらう、それにしても何故去年、あの人の前で自分は一高へ入らなかつたらう。入つてゐたら白線入の帽子を被つて、今時分は大手を振つて會へたのだ。それを考へると私は口惜しくなる。が、何しろ今年だ。今年入つて了へば、すつかりよくなるのだ。――「何しろ今年だ」と自分はもう一度獨語した。そしてその後につれて、「今年だ、今年だ今年だ、」と呟いてゐるやうな、うす眠い車輪の音にぼんやり聞き入つた。……

ふと氣がついて見ると、右手の車窓が急に銀いろな明るみを帶びた。汽車はもういつの間にか、幾つかの停車場を越して、今、曉の猪苗代湖に沿うて走つてゐるのだ。

湖面は一たいに小波が在ると見えて、曉とは云ひながら殊に仄白かつた。そして水がずつと擴がつた向うの、布引あたりの山々は、明け急ぐ雲のけはひに包まれて、空との境を分明にしなかつた。たゞ私の眼には全景の左手を劃る、安積山鼻が際だつてゐるばかり、それで全體の湖水の風景は、いつもより茫漠たる廣さをもつてゐるやうに感ぜられた。

窓からは冷たい風が入つて來た。それでも私は何ものかに打たれて、ぢつとこの湖景を眺め入つた。何だか云ふことのできぬ暗示が、そこにあるやうな氣がした。ほんとに自分自身の曉が、新らしく開ける運命の曉が、そこに暗示されてゐるやうに感ぜられた。私の眼には獨りでに涙が出た。

山潟で夜が明けた。

上野へは薄暮にならぬ中に着く筈だ。汽車は猶も私と私の默想とを載せて、たゆたひながら、しかも只管に焦つて、そこへ急ぎつゝあるのだ。――

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