八
博覽會行きの日が來た。私は朝理髮店へ行つて髯を剃つた。そのあとは何となく爽かだつた。そして自分ながら云ふのも恥かしい程、自分の顏に信頼を感じた。晝迄の少しの間、本を取り上げてみたが手につかなかつた。
午後になると、いつもより早目に千駄木へ向つた。格子戸をあけると、そこに見覺えのある下駄があつた。澄子さんはもう來てゐた。
「今日行つて下さるんですつてね。有難う。」
彼女は私を見るとさう云つた。何でもない言葉だが、私にはその感謝が心から嬉しかつた。
姉は支度の最中だつた。弟が二階から下りて來た。彼は初めから行かないと云つてゐた。
「健次さんはほんとに頑固なのよ。お姉さまと二人でいくら勸めても、どうしても行かないつて聞かないの。半日位遊んだつて、何でもないんだのに。ねえ、健吉さん。」
「さあ、――」私はわざと首を傾げた。
弟は云ひ譯をした。「僕は時間が惜しいんで行き度くないんぢやないんです。行つたつて面白くないから行かないんです。」
「どうして面白くないの。」
「どうしてつて、面白くないから面白くないんです。家庭博なんて、女子供をだますだけぢやありませんか。」
「どうせさうよ。だけど面白くない處へだつて、行つて下すつてもいゝと思ふわ。」
「まあ御免を蒙りますね。僕は。――」
弟の言は恰も私を嘲つてるやうにも取れた。私は鳥渡急所に觸れられて、少し癪にも障つたが、それよりも大きな幸福の手前、何とも云はなかつた。今日は自分の方が勝利者だと思つてゐたからだ。
そこへ姉は支度が出來上つて出て來た。弟を殘して三人は上野へ出かけた。天氣がうつすら晴れてゐたので向うまで歩いてゆくことにした。私は遲い女の歩調に合せながら、着飾つた姉たちを見て通る、行人の視線を享樂した。同伴者の幸福、私は誰か知つた人が、見て呉れゝばいゝとすら感じた。
私と澄子さんとの間には姉が入つた。それで道々彼女とは多く話さなかつた。
季節外れではあつたが、晴れた日曜だつたので、會場には可なりの人出があつた。私は彼女らのために、切符を買つてやつた。
會場内はいつもの博覽會通りだつた。只化粧品小間物類の陳列棚が、殊に色彩を濃くして竝んでゐた。女たちは初めから丹念に、一々硝子戸に觸れる許りにして覗き込んだ。私は後から促しながら批評めいた事を云つた。彼女らは人形のある棚へ來ると、「まあ」と云つて立留つた。呉服類は殊に彼女らを永く引きとゞめた。私も屡々それらの批評を求められた。私は仕方がないから、一々の品を澄子さんに似合ふか似合はないかで評價した。
場内を半分だけ周つたら、さすが興味を湧かした女たちも疲れて來た。そこで中庭へ出て、精養軒の出店で紅茶を飮んだ。それから今度は、澄子さんの發議で餘興館に入つた。
餘興館には活動寫眞と、天洋一座の奇術がかゝつてゐた。吾々が入場した時は、丁度奇術がはじまつてゐた。私たちは背後の方の空席を選んで、腰を下ろした。姉が先きに立つて入つた。私は一番後だつた。それで腰をかけた時、澄子さんと私とは竝んで了つた。
舞臺には燕尾服を着た男が、退屈し切つたやうな顏に薄笑を浮べて、骨牌を弄んでゐた。それからお定まりの赤い球を指の間で隱見させた。その後には青い繻子の服を鳥のやうに着込んだ女が、卓の上に空の鉢を載せ、その上に蔽ひをしてから、短銃をどんと放つた。鉢の中からは生きた鳩が、眼をきよとつかせながら羽摶き下りた。
澄子さんは短銃の音に大仰な驚きを見せた。そして私の方を振り向いて、嫣然と笑つた。二度目の短銃からは耳を蔽うた。彼女はよく奇術師の片言半語に笑つた。笑ふ毎に彼女の體の動搖がすぐ傍の自分にも傳るやうであつた。或る時は肩がつき當つた。鈍い彈力を以てそれを撥ね返した私の肩は、夢のやうに疼く氣がした。どうかした拍子に、彼女の顏は可なり私の眼近へ來てゐた。髮の淡いジヤスミンの香がそつと私を掠めた。
場内は電燈が光り輝いてゐると云つても、どことなく暗かつた。私はゆくりなくも、記念祭の日の出來事を思ひ出した。私は眼では見なかつたが、私の左手から三寸と離れない處に、彼女の手が置いてあるのを知つてゐた。私はそれにムヅ痒ゆいやうな誘引力を感じた。「不良少年のやうな眞似をするな。」と耳許で誰れかが囁いた。が、「今だ。又とない機會だ。」と何ものかゞ心の底で囁くのも聞いた。私はもう舞臺を見てゐながら。奇術は見なかつた。
とう/\「今だ。又とない機會だ。」と云ふ囁の方が勝つた。私はそつと手をやつて、一二度偶然のやうに彼女の手へ觸れた。そして三度目には思ひ切つて、明らかに彼女の甲を犇と握つた。が、彼女の柔かい割合に冷たい手が、私の掌の中に存在してゐたのは、僅か數秒を出なかつた。彼女は舞臺を見てゐた目を、急に咎めるやうに私の方へ振り向けた。私は飽く迄正面を見ながら、その動作をすつかり感じた。そしておやと思つた。彼女は一瞬間憚るやうに私の顏を覗いて、そしてから急に自身の手を引いた。すべては反感に滿ちてゐた。私は云ひやうのない汚辱と、苦痛とで顏がほてるのを意識した。彼女はそれつきり私の傍へ手をよこさなかつた。私はそれから一刻もゐたゝまれない心持になつた。
暫くすると姉が出ようと云ひ出した。私は賛成した。澄子さんはもう少しゐたいらしかつたが、抗ひもせずに立上つた。三人は外へ出た。私は澄子さんを見ないやうにしてゐた。
姉たちももう可なり草臥れてゐるので、見殘した館内をざつと見て歸ることにした。私は首垂れて後から從いて行つた。ざつと見ると云ひながら、彼女らの足は屡々美しい女物の前で引き止められた。或る文房具屋の出店が在つた。彼女はそこをちらと見たゞけで一旦行き過ぎたが、澄子さんは何と思つたか、「鳥渡待つて頂戴」と云つて引き歸した。
「買ひ物ですか。」私たちもしやう事なしにそこの店頭へ戻つた。
「えゝ。健次さんが一人で家にゐるのが可哀さうだから、何か御土産を買つてあげるのよ。姉さん、持つて行つて上げて頂戴。」彼女はかう云つて、唐草模樣の燒繪をした、木製の筆入れをあれかこれかと選んでゐた。
私は更に二重の苦痛を受けた。そしてこの時ばかりは心から弟の存在を呪つた。けれどもそれを押し匿して、ぢつと平氣を裝はなければならなかつた。
「これがよくはありませんか。」私は手許にあるのを取り上げて見たりした。
「こつちの方がよくつてよ。」彼女は私の薦めるのに目も呉れず、自分で選んだのを買ひ取つた。
三人はやうやく歸途についた。
歸途も、私は嘲るやうな彼女の冷たい眼を感じた。私はこの上の苦痛に堪へなかつた。それで千駄木の家の前まで來ると、二人が何とか云つて止めるにも拘らず、一人別れを告げて立ち去つた、私は泣かん許りだつた。
今日の出來事は私に、自分の卑劣な行爲に對する慚愧と共に、云ひやうのない失望を與へた。あの記念祭の日の、樂しい記憶は悉く拭ひ去られて了つた。彼女の私に對する好意に就ての唯一の根據は、全く根柢から覆へされた。この深い悲しみを抱いて、一人とぼ/\寺に歸つた時、私はつく/″\行かなかつた弟の幸福を羨んだ。弟の前で筆入れを出しながら、快活に今日の話をしてゐる澄子さんと、うつすり微笑を湛へて、嬉しげに聞いてゐる弟の光景が目に見えるやうに心に浮んだ。私は慌てゝそれを消さうと頭を振つた。
すつかり銷沈して寺に歸つたら、松井が隣から聲をかけた。「どうだつたい、今日の首尾は。」松井は幾らか私の口から事情を知つてゐた。
「bad, worse, worst だ。」と私は嘲るやうに聲を吐き出した。「こんな事なら行くんぢやなかつた。家で英文法でも見てゐた方がよかつた。」
「兎角戀と試驗は兩立しないさ。」柄にもなくそんな事を云ふ松井も、私を嘲つてゐるとしか思へなかつた。
私はもう云ひ返す力もなかつた。そして頭をかゝへて机に向つた。
もうかうなつては、いよ/\勉強に沒頭するしかないと決心を固めた。とは云へこの頭の調子では、これから先きが思ひやられた。あれを思ひこれを思ふと、只暗澹たる前途があるのみだ。――