1
パルチザン・ウォルコフ
黒島伝治
一
牛乳色の靄が山の麓へ流れ集りだした。
小屋から出た鵝が、があがあ鳴きながら、河ふちへ這って行く。牛の群は吼えずに、荒々しく丘の道を下った。汚れたプラトオクに頭をくるんだ女が鞭を振り上げてあとからそれを追って行く。ユフカ村は、今、ようよう晨の眠りからさめたばかりだった。
森の樹枝を騒がして、せわしい馬蹄の音がひびいてきた。蹄鉄に蹴られた礫が白樺の幹にぶつかる。馬はすぐ森を駈けぬけて、丘に現れた。それには羊皮の帽子をかむり、弾丸のケースをさした帯皮を両肩からはすかいに十文字にかけた男が乗っていた。
騎馬の男は、靄に包まれて、はっきりその顔形が見分けられなかった。けれども、プラトオクに頭をくるんだ牛を追う女は、馬が自分の傍を通りぬける時、なつこい声をかけた。
「ミーチャ!」
「ナターリイ。」
騎者の荒々しい声を残して、馬は、丘を横ぎり、ナターリイの前を矢のように走り抜けてしまった。
暫らくすると、再び森の樹枝が揺れ騒ぎだした。そして、足並の乱れた十頭ばかりの馬蹄の音が聞えて来た。日本軍に追撃されたパルチザンが逃げのびてきたのだ。
遠くで、豆をはぜらすような小銃の音がひびいた。
ドミトリー・ウォルコフは、(いつもミーチャと呼ばれている)乾草がうず高く積み重ねられているところまで丘を乗りぬけて行くと、急に馬首を右に転じて、山の麓の方へ馳せ登った。そこには屋根の低い、木造の百姓家が不規則に建ち並んでいた。馬は、家と家との間の狭い通りへ這入って行った。彼は馬の速力をゆるくした。そして、静かに、そこらにある車や、木切れなどを蹴散らさないように用心しいしい歩んだ。栗毛の肉のしまった若々しい馬は全速力で馳せのがれて来たため、かなり疲れて、呼吸がはずんでいた。
裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台ともつかないような入口の作りつけられている家の前で、ウォルコフは、ひらりと身がるく馬からおりた。
人々は、眠から覚めたところだった。白い粘土で塗りかためられた煙突からは、紫色の煙が薄く、かすかに立のぼりはじめたばかりだ。
ウォルコフは、手綱をはなし、やわい板の階段を登って、扉を叩いた。
寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻って内から掛金をはずした。
「急ぐんだ、爺さんはいないか。」
「おはいり。」
女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身を脇の箱を置いてある方へそらし、ウォルコフが通る道をあけた。
「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」
一分間ばかりたつと、その戸口へよく肥った、頬の肉が垂れ、眉毛が三寸くらいに長く伸びている老人がチャンチャンコを着て出てきた。
「ワーシカがやられた。」
「ワーシカが?」
「…………。」
ユーブカをつけた女は、頸を垂れ、急に改った、つつましやかな、悲しげな表情を浮べて十字を切った。
「あいつは、ええ若いものだったんだ!……可憐そうなこった!」
老人は、十字を切って、やわい階段をおりて行った。おりて行きながら彼は口の中でなお、「可憐そうなこった、可憐そうなこった!」とくりかえした。
老人はウォルコフが乗りすてた栗毛の鞍やあぶみを外して、厩の方へ引いて行った。
ウォルコフは、食堂兼客間になっている室と、寝室とを通りぬけて、奥まった物置きへつれて行かれた。そこは、空気が淀んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱や馬鈴薯の匂いが板蓋の隙間からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の室から、爺さんの百姓服を持ってきた。
ウォルコフは、その百姓服に着換え、自分が馬上で纏っていた軍服や、銃を床下の穴倉へかくしてしまった。木蓋の上へは燕麦の這入った袋を持ってきて積み重ね、穴倉があることを分らなくした。
豆をはぜらすような鉄砲の音が次第に近づいて来た。
ウォルコフのあとから逃げのびたパルチザンが、それぞれ村へ馳せこんだ。そして、各々、家々へ散らばった。
二
ユフカ村から四五露里距っている部落――C附近をカーキ色の外皮を纏った小人のような小さい兵士達が散兵線を張って進んでいた。
白樺や、榛や、団栗などは、十月の初めがた既に黄や紅や茶褐に葉色を変じかけていた。露の玉は、そういう葉や、霜枯れ前の皺びた雑草を雨後のようにぬらしていた。
草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で草の上に長々ところんで冷たい露に頬をぬらすのが快かった。
逃げて行くパルチザンの姿は、牛乳色の靄に遮られて見えなかった。彼等はそれを、ねらいもきめず、いいかげんに射撃した。
左翼の疎らな森のはずれには、栗本の属している一隊が進んでいた。兵士達は、「止れ!」の号令がきこえてくると、銃をかたわらに投げ出して草に鼻をつけて匂いをかいだり、土の中へ剣身を突きこんで錆を落したりした。
その剣は、豚を突殺すのに使ったり、素裸体に羽毛をむしり取った鵞鳥の胸をたち割るのに使って錆させたのだ。血に染った剣はふいても、ふいてもすぐ錆が来た。それを彼等は、土でこすって研ぐのだった。
栗本は剣身の歪んだ剣を持っていた。彼は銃に着剣して人間を突き殺したことがある。その時、剣が曲ったのだ。突かれた男は、急所を殴られて一ッぺんに参る犬のようにふらふらッとななめ横にぴりぴり手足を慄わしながら倒れてしまった。突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得ることではないと思っていた。が実際は、何のヘンテツもない土の中へ剣を突きこむのと同じようなことだった。銃のさきについていた剣は一と息に茶色のちぢれひげを持っている相手の汚れた服地と襦袢を通して胸の中へ這入ってしまった。相手はぶくぶくふくれた大きい手で、剣身を掴んで、それを握りとめようとした。同時に、ちぢれた鬚を持った口元を動かして何か云おうとするような表情をした。しかし、何も云わず、ぶくぶくした手が剣身を握りとめないうちに、剣は、肋骨の間にささって肺臓を突き通し背にまで出てしまった。栗本は夢ではないかと考えた。同時に、取りかえしのつかないことを仕出かしてしまったことに気づいた。銃を持っている両腕は、急にだらりと、力がぬけ去ってしまった。銃は倒れる男の身体について落ちて行った。
暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。
その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。
「これからだって、この剣にかかってやられる人間がいくらあるか知れやしないんだ。」栗本はそんなことを考えた。「また、俺等だって、いつやられるか知れやしないんだ。」
右の森の中から「進めッ!」という声がひびいた。
「さ、進めだぞ。」
兵士は横たわったままほかの者を促すように、こんなことを云った。
「ま、ゆっくりせい。」
「何だ、吉川はかくれて煙草をのんでいたんか――俺に残りをよこせ!」
白樺の下で、軍曹が笑い声でこんなことを云っているのが栗本に聞えてきた。
栗本は銃を杖にして立ち上った。
兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の帯革をかくすくらいに長く伸び茂っていた。
「見えるぞ、見えるぞ!」
右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、低声に云った。ロシアの女を引っかけるのに特別な手腕を持っている永井の声はいくらか笑を含んでいた。
栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。
靄に蔽われて、丘の斜面に木造の農家が二軒おぼろげに見えた。
「ここだ。ここがユフカだな。」
そう思った。が、その実、そこはユフカではなかった。
兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、弾丸が小屋の積重ねられた丸太を通して向うへつきぬけたことがこちらへ感じられた。吉田はつづけて三四発うった。
森の中を行っている者が、何者かにびっくりしたもののようにパチパチうちだした。
小屋の中に誰もかくれていないことがたしかめられた。一列に散らばっていた兵士達は遠くから小屋をめがけて集って来た。
小屋には、つい、二三時間前まで人間が住んでいた痕跡が残っていた。檐の鶏小屋には餌が木箱に残され、それがひっくりかえって横になっていた。扉は閉め切ってあった。屋内はひっそりして、薄気味悪く、中にはなにも見えなかった。
兵士は扉の前に来て、もしや、潜伏している者の抵抗を受けやしないか、再びそれを疑った。彼等は躊躇して立止った。誰れかさきに扉を開けて這入って行きさえすれば、あとは、すぐ、皆ながおじけずになだれこんで行ける。が、その皮切りをやる者がなかった。
「栗本、貴様行け。」
煙草を吸っていた吉川をとがめた軍曹が云った。
栗本は、なにか反感のようなものを感じながら、
「うむ、行くか!」
そう云って、立ちふさがっている者達を押しのけて扉の前へ近づいた。「大きななりをして、胆力のないやつばかりだ。」そこらにいる者をさげすむように、腹の中で呟いた。彼の腰は据ってきた。
扉の中は暗かった。そこには、獣油や、南京袋の臭いのような毛唐の体臭が残っていた。栗本は、強く、扉を突きのけて這入って行った。
「やっぱし、まっさきに露助を突っからかしただけあるよ。」
うしろの方で誰れかが囁いた。栗本は自分が銃剣でロシア人を突きさしたことを軽蔑していると、感じた。
「人を殺すんがなに珍しいんだ! 俺等は、二年間×××の方法を教えこまれて、人を殺しにやって来てるんじゃないか!」
反感をなお強めながら、彼は、小屋の床をドシンドシン踏みならした。剣をつけた銃を振りまわした拍子に、テーブルの上の置ランプが倒れた。床板の上で、硝子のこわれるすさまじい音がした。
扉の前に立っていた兵士達は、入口がこわれる程、やたらに押し合いへし合いしながら一時になだれこんできた。
彼等は、戸棚や、テーブルや、ベッドなどを引っくりかえして、部屋の隅々まで探索した。彼等は、そこにある珍らしいものや、値打のありそうなものを、×××××××××××××××ろうとした。
既に掠奪の経験をなめている百姓は、引き上げる時、金目になるものや、必要な品々を持てるだけ持って逃げていた。百姓は、鶏をも、二本の脚を一ツにくくって、バタバタ羽ばたきするやつを馬の鞍につけて走り去った。だが産んだばかりの卵は持って行く余裕がなかったと見えて、巣箱に卵がころがっていた。兵士は、見つけると、ばい取りがちをし乍ら慌てて残されたその卵をポケットに拾いこんだ。
三
山の麓のさびれた高い鐘楼と教会堂の下に麓から谷間へかけて、五六十戸ばかりの家が所々群がり、また時には、二三戸だけとびはなれて散在していた。これがユフカ村だった。村が静かに、平和に息づいていた。
兵士達は、ようよう村に這入る手前の丘にまでやって来た。
彼等はうち方をやめて、いつでも攻撃に移り得る用意をして、姿勢を低く草かげに散らばった。
「ここの奴等は、だいぶいいものを持っていそうだぞ。」
永井は、村なりを見て掠奪心を刺戟された。彼は、ここでもロシアの女を引っかけることが出来る――それを考えていた。
「おい、いくら露助だって、生きてゆかなきゃならんのだぜ。いいものばかりをかっぱらわれてたまるものか!」