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支那人間に於ける食人肉の風習
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支那人間に於ける食人肉の風習
桑原隲蔵
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Chapter 9 of 13

八

(二)籠城して糧食盡きた時に、人肉を食用する場合。

食人肉の風習を有する支那人は、若し彼等が重圍の中に陷つて、糧食盡くる際には、人肉を以てその不足を補充するのが、古來殆ど一種の慣例となつて居る。さきに引用した『左傳』の宣公十五年の條に、楚が宋を圍んだ時の記事に、「易レ子而食」とあるを始め、同樣若くば、類似の記事が歴代の史料に疊見して居るが、しばらくその中の三四を左に紹介する。

後漢の末に一代の義士臧洪が、袁紹の爲に雍丘に圍まれて食竭きた時、彼はその愛妾を殺して部下の將卒の食に充てた(『後漢書』卷八十八、臧洪傳)。梁の武帝が反臣侯景の爲に建康の臺城に圍まれた時、官軍糧食に乏しく、馬肉に人肉を雜へて飢を凌いた(『南史』卷八十、侯景傳)。唐の安禄山の賊軍が有名な張巡、許遠を陽に圍んだ時、城中食竭くると、張巡はその愛妾を殺し、許遠はその奴僕を殺して士卒に饗した。『舊唐書』卷百八十七下、張巡傳に、當時の状況を次の如く描いてある。

攻圍既久(陽)城中粮盡。易レ子而食。折レ骸而爨。人心危恐。慮二將有一レ變。{張}巡乃出二其妾一。對二三軍一殺レ之。以饗二軍士一曰。諸公爲二國家一。戮レ力守レ城。一レ心無レ二。經レ年乏レ食。忠義不レ衰。巡不レ能下自割二肌膚一。以啖中將士上。豈可下惜二此婦人一。坐視中危迫上。將士皆泣下。不レ忍レ食。巡強令レ食レ之。{許遠初殺二奴僮一。以哺レ卒}。乃括二城中婦人一。既盡。以二男夫老小一繼レ之。所レ食人口二三萬。人心終不二離變一。

精忠義烈な張巡の後に、かかる悲慘な陰翳が伴うて居る。心ある支那人の中には、早く當時から張巡の不慈を非難した者も絶無ではないが(李肇の『唐國史補』卷上の李翰論張巡の條參看)、一般の支那人は、かかる所行を格別不人情とは認めぬやうである。

唐末から五代にかけて、城守の際に、人肉食用の蠻行が頻發したことは、さきに紹介した『資治通鑑』の(5)(7)(11)(12)(13)(14)(16)等の記事に據つて疑ふ餘地がない。五代の趙思綰は、食人鬼として著聞して居るが、彼が長安で後漢の攻圍を受けた時の光景を、『資治通鑑』には、

趙思綰好食二人肝一。嘗面剖而膾レ之。膾盡人猶未レ死。又好以レ酒呑二人膽一。謂レ人曰。呑レ此千枚。則膽無レ敵矣。及二長安城中食盡一。取二婦女幼稚一爲二軍糧一。日計レ數而給レ之。毎レ犒レ軍。輙屠二數百人一。如二羊豕法一(後漢紀三、乾祐二年の條)。

と記し、『五代史記』卷五十三の趙思綰傳には、

{長安}城中食盡。{趙思綰}殺レ人而食。毎二犒宴一。殺二人數百一。庖宰一如二羊豕一。思綰取二其膽一。以レ酒呑レ之。語二其下一曰。食レ膽至レ千。則勇無レ敵矣。

と傳へて居る。

蒙古の太宗が、金を伐ち、その國都京を攻圍した時も、城民は饑餓に苦んだ。『歸潛志』の著者の劉祁は籠城者の一人として、當時の悲慘極まる光景を詳細にその書中に記載してある。

米{一}升直銀二兩。貧民往々食レ人。殍死者相望。官日載二數車一出レ城。一夕皆※二食其肉一淨盡。縉紳士女。多行二※于街一。民間有レ食二其子一。錦衣寶器。不レ能レ易二米升一。人朝出不二敢夕歸一。懼爲二飢者殺而食一。平日親族交舊。以二一飯一相二避于家一。……至二于箱、篋、鞍、※、諸皮物一。凡可レ食者。皆而食レ之(『歸潛志』卷十一、録大梁事の條)。

元末天下騷擾の際、張巡の再生と呼ばるる不華が、淮安を固守すること五年に亙つたが、至正十六年(西暦一三五六)十月に城の陷る頃には、城中糧盡きて盛に人肉を食した。

賊{軍}……攻圍{淮安城}。日益急。{官軍}總兵者。屯二下一。相去五百里。按レ兵不レ出。凡遣レ使十九輩告レ急。皆不レ聽。城中餓者仆二道上一。即取啖レ之。一切草木、螺蛤、魚蛙、燕烏。及皮、鞍※、革箱、敗弓之筋皆盡。而後父子、夫婦、老穉更相食。撒レ屋爲レ薪。人多露處。……城陷。不華猶據二西門一力鬪。中レ傷見レ執。爲二賊所一レ臠(『元史』卷百九十四、不華傳)。

これがその當時の記録である。

その後約三百年を經て、明末の李自成が開封を攻圍した時の慘状は、更に一層甚しい者がある。當時の史料に『守日志』がある。籠城者の一人李光※の筆録したもので、備さに開封城中の糧食缺乏の有樣を傳へ、その崇禎十五年(西暦一六四二)八月初八日の條に、

人相食有二誘而殺レ之者一。有下群捉二一人一殺而分食者上。毎三擒二獲一輩一。輒折レ脛擲二城下一。兵民競取食レ之。至二八月終九月初一。父食レ子。夫食レ妻。兄食レ弟。姻親相食。不レ可レ問矣。

と記して居る。清初に出た大梁(開封)の人周在浚の『大梁守城記』には、同一事を一層詳細に傳へて、

{崇禎十五年}八月三日。五城巡兵倶割級。獻二周邸一。挾二重賞一。仍賣二民間一爲レ糧。一首率三四金。或云皆良民。四日。中丞勒二富民巨室一追二買糧一。初猶公擧輸勸。已而掲告。已而搜括。望二炊烟一而入。萬竈皆冷。……絶者折レ金。毎石八十金。至二一百二十金一。……毎レ至二一家一。以二大針數百一鑽二稚子膚一。鍛錬之方。極二其哀慘一。匿レ糧者。有司懸レ賞募レ告。……八日。人大相食。初猶食二死人一。死者戒不二敢哭一。至レ是有二誘殺強殺者一。九月初。則父子兄弟更相食。白骨載レ道。初猶熟食。後生食矣。……十六日。命二郷約一報二民間牛驢馬驢一。充二兵餉一。肉一斤。當二兵糧一斤一。五日而盡。……二十日以後。食二牛羊皮襖、靴箱、馬鞍一。……未レ幾人面皆腫。……城之五隅。皆有二鹽坡一。坡上生二蔓草一。民以爲レ美。爭攫之。以二絹布一網二紅蟲一。一斤獲二錢數千一。……糞蛆盈レ器。亦數百錢。盡則食二膠泥馬糞一。有二騎而過者一。※捨而隨レ之。水蟲馬糞。皆而食レ之。……九月初。城中※骼山積。斷髮滿レ路。天日爲昏。存者十之一二。枯垢如レ鬼。河牆下敲二※人骨一。吸二其髓一。

といふ。明末には可なり多數の宣教師が支那に入り來り、その若干は開封にも滯在し居つた。その一人なる Roderic de Figueredo(費樂徳)の如きは、開封陷落の時に城と運命を共にして溺死した(Cordier; Histoire gnrale de la Chine. Tome III, p. 84)。從つてこの開封の慘事は、彼らの記録にも傳へられてある。Martin Martini(衞匡國)の所傳は、下の如く大體に於て『守日記』や『大梁守城記』とよく一致して居る。

六ヶ月間に亙る{賊軍の}攻圍によつて、開封城中の食糧が竭きた。米の一ポンドは同目方の銀と交換せられ、腐敗せる古皮の一ポンドは十クラウンに賣買されるといふ有樣である。死人の肉は豚肉同樣に公然と市場で販賣されて居る。死人の屍を通衢に曝らして、他人の食料に供することは、大なる功徳と認められた。やがて強者の餌食となるべき運命をも知らぬ弱き饑人達は、この屍の肉で露命を維いだ(Bellum Tartaricum{Semedo; History of China}p. 270)。

比較的近代の事實としては、阿片戰爭の時(西暦一八四一)廣東でも人肉を食せし事あり(Chinese Repository Vol. X)、同治年間に起つた囘教徒の叛亂中にも往々 Cannibalism が現はれた。同治五六年(西暦一八六六―一八六七)の間に、巴里坤城内在住の漢民は、囘匪に糧道を斷たれた結果、遂に人肉を食用して居る(清の魏光の『戡定新疆記』卷一)。その約二年前の同治三四年(西暦一八六四―一八六五)の頃に、カシュガル城が重圍の裡に陷つた時、城中の支那人及び之に味方したトルコ人等は、糧食に竭きて人肉を食した。

最後に彼等は五人又は六人づつ組を作り、蚤取り眼で餌食を搜がし歩く。單獨なる行人に出會ふと、彼等はこの不幸なる犧牲者を物蔭に引き込みて殺害し、その骨立せる躯體に僅に殘れる肉を、各自に分配した(Visits to High Tartary, Yarkand and Kashgar. p. 48)。

これがその後間もなく千八百六十八年に、カシュガル地方を觀光した英人 Shaw の傳へる報道である。咸豐十一年(西暦一八六一)に、長髮賊徒の一根據地たる安慶が陷る頃には、三年に亙つて官軍の攻圍を受けた城中の住民は、人肉を以て、糧食に當て、人肉一斤は銅錢四十文にて市場に賣買されたといふ(Wilson; The Ever-Victorious Army. p. 79)。

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