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ゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン
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Chapter 8 of 9

第四幕

高山。屹立せる、稜角ある岩の頂。一団の雲たなびき来

て、岩に倚りて止まり、突出せる段の上に降る。雲破る。

ファウスト(現れ出づ。)

晴れた日に陸や海を越して、穏かに己を載せて来てくれた

雲の乗物に暇を遣って、10040足の下に極深い寂しさを見卸しながら、

己は十分気を落ち著けて、この絶頂の岩端に足を踏み入れる。

雲は散らずに、ゆっくり己の身を離れる。

その群がまろがった列になって、東を指して行くのを、

感心して、驚いて、己の目が見送っている。10045雲は動きながら破れて、波立って、形を変える。

何かの形に纏まるらしい。そうだ。見違ではない。

日に照された褥の上に、美しく体を横えて、

巨人のように大きくはあるが、神々達に似た女が現れている。

見えるわ、見えるわ。ユノか、レダか、いや、ヘレネか。10050あの神々しく可哀らしく変化して目に映ること。

や。もういざってしまう。遠い氷山のように、

幅広く堆く、不極まりな形をして、東の空に止まって、

移り行く日の大きい意味を目映く写している。

それでもまだ己の額や胸の辺には、薄い、明るい10055霧が漂って、優しく、冷たく、気を霽らしてくれる。

それが今たゆたいながら、軽々と、次第次第に

高く升って一しょになる。目の迷か、あの姿は

疾うに失った、若かった昔の、無上の物じゃないか。

心の奥の一番早く出来た宝の数々が涌き上がる。10060軽快にはずんだアウロラの恋を己に見せる。

あの最初の快速には感じても、理解することの

ほとんど出来ぬ一目がこれだ。そのくせ捉え得て見れば、

どの宝よりも赫くのだ。あれ、あの形の美は霊の

美のように増して来て、解けずに、気の中に升って、10065己の心の内の最善の物を持って行ってしまう。

七里靴一つぱたりと地を踏みて出づ。間もなくまた一つ出づ。メフィストフェレス脱ぎて降り立つ。靴は急ぎ過ぎ去る。

メフィストフェレス

これなら可なり歩いたと云うものだろう。

ところで、あなた、なんだと思っているのです。

こんな不気味な所の真ん中で、恐ろしい岩穴の

を開けている処で雲から降りるなんて。10070わたしはこんな所も好く知っています。しかし

この土地ではありません。地獄の底で見たのです。

ファウスト

なんに附けても馬鹿げたお伽話を知っていて、

こんな時にまでそれをさらけ出すのかい。

メフィストフェレス(真面目に。)

昔神様がわたし共を、真ん中一面に永遠な火が10075熱く燃え立っている、底の底のどん底へ虚空から

堕しておよこしなすった時の事ですね。

なぜお堕しなすったと云うことも知っていますがね。

わたし共は明るいことは明る過ぎる場所で、

随分籠み合った、窮屈な体附をしていたのです。10080悪魔連一同ひどく咳をし出しまして、

上からはごほんごほん、下からはぶうぶう云わせます。

地獄は硫黄の臭と酸とで一ぱいになる。

その瓦斯ってない。それが非常な物になって、

幾ら厚くても、国々の平たい地盤が10085程なくどうどうと鳴って、はじけたのです。

そこで尻尾を撮んで倒さに吊るしたように

これまでどん底であった所が、こん度は絶頂になります。

なんでも上を下へと云う結構な教訓は、

この時悪魔連が発明したらしいのです。10090わたし共は押し籠められていた、熱い穴から逃れ出て、

自由な空気の結構さ加減の絶頂に来ましたからね。

これは無論秘密で、大事に隠して置いて、

人間には後になってから知らせて遣るのですが。

ファウスト

己のためには、山は高尚に沈黙しているもので、10095どうして、なぜ出来たとは、己は問わない。

自然が始て自分で自分の基礎を立てた時、

地球を綺麗に円めたのだ。山は山、谷は谷になった所を

面白がって、岩と岩、頂と頂を並べたのだ。

そして旨く斜面を附けて岡を拵え、なだらかな勾配で、10100次第に低く、谷まで下るようにしたのだ。

その所々で、草木が緑に芽ぐんで、生長する。

自然が慰をするのに、何も物狂おしい

渦巻なんぞをさせなくても好いのだから。

メフィストフェレス

あなたはそんな風に言いますがね。10105なるほどそれがあなたには太陽のように明かでしょう。

しかしその場にいたものは、そうでないことを知っています。

まだ地の底があの下の方で、煮え上がって、火を噴いて

流れていた時、わたしはそこにいました。

まだあのモロホの槌が、岩と岩とを敲き合せて、10110山の欠らを遠方へ飛ばせていた時です。今でも外から来た、

何千斤かの重さの物が、国々に動かずにいる。

あれを飛ばせた力を誰が説明しますか。哲学者には分からない。

そこに岩が在る。そのまま在らせる外、為方がない。

随分今まで行き著く程考えたのです。10115ただ淳樸な下民にはそれが分かっていて、

縦え人がなんと云っても、自分の考を改めない。

その疾うから煉れている考はと云うと、あれは奇蹟だ。

悪魔の手柄になるのですね。

行者共は信仰の杖を衝いて、魔の岩とか、10120魔の橋とかを見に行くではありませんか。

ファウスト

ふん。悪魔がどう自然を観察しているかと聞いて見て、

それを顧慮するのも、無価値ではないよ。

メフィストフェレス

自然は有のままでいるが好い。わたしは構わない。

は衝かない。わたしは見ていたのだ。10125わたし共は大きい事をし出来す連中です。

騒動と暴力とむちゃとで遣るのです。そこの岩山が証拠です。

さてこれからいよいよ分かるようなお話をするとして、

この地球の表面はお気に入りましたかな。

兎に角あなたはこの世界の国々と、その立派さ加減とを、10130随分際限もない広さに、御覧になったのですが。

しかしどうも満足と云うことのない先生だから、

これなら欲しいと云う物もなかったでしょうね。

ファウスト

所が、有るよ。大きい物が己の心を惹いた。

なんだか、当てて見給え。

メフィストフェレス

それは造做はありません。10135わたしはある都を選り出しますね。真ん中には

市民の食物の不気味さがあります。

曲がりくねった、狭い町、とんがった搏風、

けちな市場、大根、菜っ葉、葱がある。

脂の乗った肉を啄きに、10140青蠅の寄る屠肉場がある。

いつでも、あなた、行って御覧なさるが好い。

きっと賑やかで、臭いのです。

それから僭上に、上品らしい見えをする

大通や広い辻がある。10145それからしまいには、関門で為切ってないと、

場末がどこまでも際限なく延びる。

そこでわたしは、馬車の車輪がごろごろと

あっちへ走って往き、こっちへ走って来、

散らばった、うようよする蟻の群が10150永遠に馳せ違うのを楽んでいるとしましょう。

そこでわたしは馬や車に乗って出ると、

いつもそいつ等の中心になって、

千百の人間に敬われるとしましょう。

ファウスト

そんな事では己は満足しない。10155人口が繁殖して、自分の流義で、

気楽に口腹を養って、場合によっては

教育を受け、学問をするのを見て喜んで

いるうちに、ただ叛逆人が出来上がるのだ。

メフィストフェレス

それからわたしは、自分で見ても壮大だと思うように、10160面白い土地へ、慰のために城を造らせましょう。

森や岡や原や牧や畑を、

立派に庭園に築き直させましょう。

緑いろに聳えた垣の前に、天鵝絨のような牧や、

髪の如き道や、巧に結った生木の屋根や、10165岩組で築いた滝や、種々の噴水がある。

真ん中はすなおに升るが、

脇からは形が変って小さく噴き出る。

それから一番の美人を畜えるために、

気の置けない、のん気な小家を立てさせましょう。10170限のない月日を、なんとも言えない

面白い、差向いの寂しみに暮そうと思うのですね。

わたしは美人と云ったが、

それは一人ではない。わたしの女と云うのは、

いつでも複数に考えて言うのですからね。10175    ファウスト

悪く現代的だ。サルダナパアルの驕奢だ。

メフィストフェレス

そう仰ゃると、大抵お望の見当が附きますね。

そいつは飛び離れて大胆です。

もう大抵月宮の近所まであなたは升ったのですが、

やはり天上界へ気が引かれているのでしょう。10180    ファウスト

大違だ。この地球上に

まだ偉大な事業をする余地がある。

驚歎すべき物が成就しなくてはならぬ。

己はまだ大胆な努力をするだけの元気を感じている。

メフィストフェレス

では名聞を博せようと云うのですね。10185あなたは女英雄の色になっていただけありますね。

ファウスト

主権を取るのだ。占有するのだ。

事業が一切だ。名聞はいらぬ。

メフィストフェレス

いらなくても、詩人が出て来て、

あなたの栄華を後世に伝えて、馬鹿話で10190馬鹿の真似をさせるように、人をおびくでしょう。

ファウスト

ところがそれが兎に角君の得にはならぬのだ。

人間の欲望が君に分かるものか。

君の皮肉な、悪辣な、厭な性質で、

人間が何を要求するかが分かるものか。10195    メフィストフェレス

どうでも好いから、あなたのお望どおりにさせましょう。

そこであなたの気まぐれの範囲をお打明なさい。

ファウスト

己の目は海の沖に捕えられていた。

水が涌き立って、堆く盛り上がった。

それが凪いで、平な岸の一帯を襲わせに、10200波をばら蒔いた。

それが癪に障った。あらゆる権利を尊重する

自由の精神を、専横の心が、

喜怒哀楽に鞭うたれた血の勢で、

感情の悩に陥らせるようなものだ。10205己は偶然かと思って、また瞳を定めて見た。

波は止まって返して行く。

息張って為遂げた目的から退いて行く。

また時が来ては、同じ戯を繰り返すのだ。

メフィストフェレス(見物に。)

あれではなんの新しい事も聞き取られませんね。10210そんな事は千百年前からわたしも知っている。

ファウスト

(興奮して語り続く。)

波は自分が不生産的で、その不生産的な力を

八方へ逞うしようとして這って来る。

膨れて、太って、転がって、荒地の

厭な境に溢れる。寄せては返す波が10215力を恃んで専横を窮めていて、

さて引いて行った跡に、何一つ己を恐怖させる程の事を

為遂げてはいない。溜まらんじゃないか。

検束のない四大の、目的のない威力だ。

そこで己の精神は自力の限量以上の事を敢てしたい。10220あれと闘って勝ちたいのだ。

それは出来る事だ。あの汎濫する性質はあっても、

どんな丘陵でもあると、避けて滑って通る。

いかに傍若無人に振舞っても、

瑣細の高まりも中流の砥柱になって、10225瑣細の窪みも低きに就かせる。

そこで己は心中で急に段々の計画を立てる。

あの専横な海を岸から遠ざけて、

干潟の境界を狭めて、

海を遥かに沖へ逐い返したら、10230さぞ愉快な事だろう。

己はその計画を一歩一歩心に運らして見た。

これが望だ。己はこれをはかどらせる積だ。

(見物の背後、右の方遠き所より、鼓の音と軍楽と聞ゆ。)

メフィストフェレス

造做もない事です。あの遠くの鼓が聞えますか。

ファウスト

また軍か。智者の聞くことを好まぬ響だ。10235    メフィストフェレス

戦争でも平和でも好い。己を利するように

それを利用しようと努めるのが賢いのです。

あらゆる好機会を待つのです、窺うのです。

機会はあります。さあ、先生、お掴まえなさい。

ファウスト

そんな謎なら、己は御免を蒙る。10240どうしろと云うのだ。手短かに言い給え。

メフィストフェレス

わたしは歩く途中で聞きましたが、

お気の毒な殿様が大頭痛の様子です。

御承知のあの人です。御一しょに機嫌を取って、

虚偽の富を手に入れさせた時は、10245あの人は世界中を買い占めることが出来ましたっけ。

一体あの人は余り早く即位をなさったので、

快楽の受用と国家の政治とが、

随分一しょに出来て、

そうするのがひどく都合が好く、また結構でもあると、10250飛んだ間違った判断をせられたのです。

ファウスト

大変な間違だ。命令をする人は、

命令その物に快楽を覚えんではならん。

高遠な意志が胸に一ぱいあって、

何を思っているか、それを誰一人窺うことが出来ぬ。10255そして一番忠実な臣下の耳に囁いて、

それが行われると、天下瞠目する。

そんな風で、永く最高の地位、最大の権威を保つのだ。

受用は人を陋しゅうする。

メフィストフェレス

あの人はそんな風ではありませんね。10260受用をしたのです。どんなにかしたでしょう。

そのうちに国は無政府の状態になって、上下交々争い、

兄弟牆に鬩ぎ、相殺し、

城と城との間、市と市との間、工業組合と

貴族との間、僧官と僧侶と信徒との間、10265それぞれに争が出来、

目を見合わするものは皆敵である。

寺で人が殺される。関門の外に出れば、

旅客も商人も性命財産があぶない。

そこで人民一同が可なり大胆になった。10270自家防禦で生存するのです。遣って見ればそれでも行けますよ。

ファウスト

それは行く。歩く。跛を引く。倒れてまた起きる。

それから翻筋斗をして、転がって一しょに死ぬる。

メフィストフェレス

その状態でいて、誰も苦情を言ってはならないのですね。

てんでに頭を出そうとする。また随分出しもする。10275極小さい人物がしっかりした奴と云われる。

そこで余りひどいと、一番好い人までが言い出す。

とうとう豪い奴等が根を固めて置いて謀叛して、

こんな宣言をしました。「治めてくれるのが君主だ。

当代は治めようともせず、治める力もない。10280新しい君を選んで、国に新しく魂を入れて貰おう。

そしたら個人を堅固に保護してくれて、

その新設せられた社会では、

平和と正義とが相嫁ぐだろう」と云うのです。

ファウスト

坊主でも言いそうな事だな。

メフィストフェレス

坊主が言ったのです。10285そして便々たる腹に本領安堵をさせました。

外のものより余計に交ぜ返したのは彼奴等です。

一揆は広がる。神聖にせられる。

そこでわたし共が機嫌を取って上げた、あの殿様は、

今この場で多分最後の決戦をするのでしょう。10290    ファウスト

気の毒だな。あんな分隔のない、好い人だから。

メフィストフェレス

さあ、おいでなさい、見物しましょう。「生きている間は有望だ。」

こっちの手でこの狭隘から救い出しましょう。

今一度救えば、後の千度も救うことになります。

采の目はまだどう出るか、分からない。10295殿様の身に運があれば、その麾下に人もある。

(二人は山の中腹を踰えて前に出で、谷間の陣を望む。鼓、その他の軍楽下より聞ゆ。)

あの陣地を御覧なさい。旨く取ってあります。

わたし達が這入って行けば、全勝ですね。

ファウスト

君はここで何を遣って見せる積だ。

まやかし、目くらがし、空虚な見えだろう。10300    メフィストフェレス

戦争に勝てる計略を遣るのです。

どうかあなたも前途の目的を考えて、

気を大きく持つことに、腹を極めて下さい。

殿様に玉座と版図とを保たせて上げた上で、

あなたは御前に平伏して、海岸一帯の地を10305所領にお貰なさることが出来るのです。

ファウスト

そうか。君も随分色々な事をして来たが、

そんなら今度は会戦に一つ勝って見せ給え。

メフィストフェレス

なに。勝つのはあなたです。

こん度はあなたが上将軍だ。10310    ファウスト

「それが己に適当な高座だろうよ。」

まるで知らない為事で、采配を振るのだから。

メフィストフェレス

幕僚をお拵なさい。そうすれば元帥は枕を高うしていられます。

戦争のらんぼうは疾うから知っていますが、10315戦争のさんぼうは、こん度前以て、

山奥の原人で編成して置きました。

あいつ等を集めたものには、利運が向きますよ。

ファウスト

あそこに武器を執って来るのは、あれはなんだ。

君、山の中の人民共を煽動したのかい。10320    メフィストフェレス

なに。ペエテル・クウィンチェの役者の組と同じ事で、

やくざな中の選抜です。

(三人の有力者登場。)

メフィストフェレス

やあ。奴共があそこに来ました。

御覧の通、年配も区々で、

被服装具もそれぞれ違います。10325だが存外御用に立つでしょう。

(見物に。)

当節はどの子供でも、

鎧と武者領とが大好です。

符牒のような、実のない奴等ですが、

それだけ却ってお気に入るでしょう。10330    喧嘩坊

(年若く、軽装して、はでなる服を著る。)

どいつでも己と目を見合せりゃあ、

すぐ拳骨をに叩き込むのだ。

逃げ出すような臆病者は

後髪を攫んで引き戻して遣る。

はやとり

(男らしく、武具好く整ひ、奢りたる服を著る。)

そんな実のない喧嘩なんぞは10335笑談同様の暇潰しだ。

何にもひるまず取り込んで、

外は一切跡にする。

かたもち

(年寄りたり。厳かに武器を執りて、下に服を著ず。)

それも余り役には立たぬ。

大財産もすぐ蕩けて、10340生活の川水に流れ落ちる。

取るのも悪くはないが、持っているのが一層好い。

万事この薄黒い野郎に任せて御覧なさい。

あなたの物を何一つ、人手には渡さない。

(一同群がりて山より下る。)

外山の端

鼓と軍楽と下より聞ゆ。帝の帷幄開張せらる。

帝。上将軍。護衛者等。

上将軍

この丁度好い狭隘へ10345全軍を密集して背進させたのは、

今から見ても、熟慮した計画でした。

決戦が勝利に帰するのを、わたくしはまだ確信しています。

帝

どうなるかは、今に分かるだろう。

その背進が敗走に似ているのが、己には不愉快だ。10350    上将軍

あれ、あの我軍の右翼を御覧なさい。

戦略はああ云う地形を望むのです。

丘陵が余り嶮しくもなく、余り行進し易くもない。

我には有利で、敵には危険だ。

我兵があの波状をなしている平地に半ば隠れていれば、10355敵の騎兵もうかとは来ません。

帝

いや。今となればその処置を称讃するより外はない。

我軍の精神も手腕もここで験されるのだ。

上将軍

あの中央の牧の平地で、

我部隊が勇悍に闘っているのを御覧なさい。10360空中に、朝霧の中に、日に照されて

槍の穂尖がきらめいています。

あの大方陣が真っ黒に波を打っていますね。

数千の士卒が大功を立てようとあせっています。

あれで多数の気力が分かります。10365敵の力を分割することが、あれになら出来ましょう。

帝

うん。こんな美しい戦況を、己は始て見る。

我兵には倍数だけの威力があるなあ。

上将軍

我左翼については別に申すことはございません。

嶮しい岩山を勇士が守っています。10370今武器が一面に光っている、あの石道が

狭い谷の重要な通路を掩護しています。

ここで期せずして敵の兵力が一敗地に塗れるのが、

もうわたくしには見えるようです。

帝

あそこに弐心の親戚共が遣って来おる。10375己をおじだ、従兄弟だ、兄弟だと云って、

次第次第に我儘になって、玉座に尊敬をなくさせ、

命令の杖に威信をなくさせ、

それから同士討をして国内を荒し、

とうとう一しょになって己に刃向かって来たのだ。10380部下の群は腹が極まらずに観望していて、

風向の好い方に附こうとしているのだ。

上将軍

間牒に出した、信用の置かれる一兵卒が、

今岩を降りて来ます。旨く遣って来たか知らぬ。

第一の間牒

こっちの為事は旨く参りました。10385大胆に、狡猾に立ち働いて、

随分あちこちと潜って来ました。

所がたんと思わしいお土産もありません。

忠実なお身方のように、

殿様に心からの尊敬をいたしているものは多いが、10390そのくせ袖手傍看の分疏しかしません。

内乱の萌があるの、民心が危険だのと。

帝

自己の安全を謀るのが、利己主義の教だ。

恩義も情誼も、義務心も名誉心もない。

罪悪が盈ちて来ると、隣家の火災で10395身を焼くと云うことが分からぬのか。

上将軍

二人目のが帰って来る。そろそろと降りて来る。

あの疲れ切った兵卒は、手足が震えているらしい。

第二の間牒

最初は面白半分の暴行が、

怪しげにはかどるのを見ていました。10400そのうちに思い掛けず、急劇に

新しい帝王が擁立せられました。

それから群集が指図通の路を取って、

野原を進んで参るようになりました。

押し立てられた偽朝の旗に、10405皆附いて来るのです。羊のような根性の奴等が。

帝

僭号を称える奴の出来たのは、己の利益だ。

己が帝王だと云うことが、これで切に感ぜられる。

単に一軍人として己は甲を著たが、

今それが高遠な目的があって著たことになった。10410今まで己ははでな限の祝に出て、

何一つ闕けた事のない時も、危険のないのが惜しかった。

お前方の流義で、己に為合を勧めた。

あの時己は胸を躍らせて、中世の為合の気分になっていた。

もしお前方が疾っくに戦争に反対しなかったら、10415己は今頃大手柄を顕しているだろう。

またいつかの催の夜、鏡に向うように火の境を覗いて見て、

その火と云うものが恐ろしく肉薄して来たとき、

己の胸には独立特行の決心が附いた。

あれは幻影だが、しかし偉大な幻影だった。10420己は夢現の境に、勝利と名誉とを夢みた。

当時等閑にして過した事を、己は今取り返したい。

(偽帝の挑戦に応ぜんとして使を発す。ファウスト甲を著、半ば鎖せるを戴き、三人の有力者上に記せる衣裳を著、武具を取り装ひて登場。)

ファウスト

多分お叱はあるまいと存じて、参著しました。

危険はなくても、御用心はおありなさるが宜しいでしょう。

御承知の通、山の中の人民は平生物を案じて、10425岩に現れた自然の文章を読んでいます。

もう疾っくに平地を遁れた霊どもは、常よりも

岩石に同情を寄せています。霊どもは

金気をたっぷり帯びて立つ、尊い気の中で、

迷路のような谷間に潜んで、密かに働いています。10430その唯一の欲望は、絶えず分析したり、湊合したり、

試験したりして、新しい物を発見したがるに過ぎませぬ。

霊の力の静かな指で、

透き徹る形を築き上げて、

その結晶の永遠な沈黙の中に、10435上の世界の出来事を窺うのです。

帝

それは己も聞いている。お前の詞にはあるまい。

だが、それがこの場でなんの用に立つのか。

ファウスト

サブスの裔の魔術師で、ノルチアに住んで

いるものが、あなたに誠実に帰服しています。10440昔あの男は恐ろしい否運に迫られていました。

もう焚附がぱちぱち云って、の舌が閃きました。

体の周囲に積み上げた、乾いた薪には

児や硫黄の棒が交ぜてあったのです。

神も人も悪魔ももう助けようのなかった時、10445御威勢が燃ゆる鎖を絶ちました。

ロオマでの事でした。それをひどく恩に被て、

あの男はあなたの前途に目を著けています。

あの時から自分の事は考えずに、ただあなたの

お為に、天文を観、深秘を探っています。10450あれが御救助に参るようにと、火急の用事を

わたくし共に托しました。山の力は偉大です。

あそこで自然が、自由に非常な力を展すのを、

魯な僧侶共は魔法と申すのです。

帝

祝の日に機嫌好く遊びに機嫌好く来る客を10455出迎えて挨拶するときでも、あの押し合い

急ぎ合いして、一人毎にその間を狭める客を、

こっちでは歓迎する。それとは違って、

運命の秤がどちらに傾くかと云う、

心許ないその日の朝、力強く身方を助けようと、10460わざわざ出て来る、忠実な人なら、

己は此上もなく歓迎しなくてはならぬ。

とは云うものの、大切なこの刹那には、

抜かれるのを待つ刀から、勇ましい手も引いて貰わんではならぬ。

敵身方と立ち別れて、数千の人が争っている、10465この刹那は尊敬して貰わんではならぬ。

独立するのが男だ。宝冠玉座を望むものは、

自身にそれだけの値打がなくてはならぬ。

己に刃向かって起って、帝だの、この国の主だの、

大元帥だの、百官の司だのと、10470僭称している非類は、

この手一つで死の国へ衝き落さんではならぬ。

ファウスト

それはそうでもございましょうが、大事を成そうと思召すには、

首を賭することは宜しゅうございますまい。

あの冑と云うものは鶏冠や立毛で飾ってあるではございませんか。10475あれは人の勇気を励ます頭を保護する武具です。

頭がなくては、手足は何になりましょう。

頭が寐入れば、体は皆萎える。

頭が傷けば、体は皆傷く。

頭がえれば、体は皆えるのです。10480それゆえいざと云う時には、腕はすぐ己が強さを利用して

盾を挙げて頭を禦ぎ、

刃はすぐ自分の職務を心得て、

受け流してはまた切り込みます。

丈夫な足も幸運な仲間をばはずれまいと、10485打たれた敵の項を踏みます。

帝

己の怒もその通だ。驕った敵の素首を、

足の台にして遣りたい。

使者等(帰り来る。)

わたくし共は余り優待もせられず、

余りお役にも立ちませんでした。10490手強い、立派な、こちらの口上を、

先では古い洒落だと申して笑いました。

「お前の所の帝王はもう行方不明になったのだ。

そこの谷間に谺響がしている。

あれが記念は何かと云えば、お伽話に云う通、10495昔々あったとさだ」なぞと、無礼を申しまして。

ファウスト

それでは動かぬ忠義の心で、お側にいる

我々の望どおりになったのだ。

あれ、あそこに敵が寄せます。身方はきおって待っています。

攻撃をお命じなさい。好い時期です。10500    帝

ここでは己は指揮をすまい。

(上将軍に。)

責任は、侯爵、やはりお前の手に委ねて置こう。

上将軍

そんなら、右翼、さあ、進め。

丁度今坂道に掛かっている、敵の左翼は、

もう一足と云う所で、験された忠誠の10505壮んな力に譲らんではなるまい。

ファウスト

それではどうぞ、この元気な物共を、

すぐあなたの戦列に加えて、

隊の士卒と深く入り交らせ、

一つになって、大きい伎倆を揮わせて見て下さい。10510

(ファウスト右の方を指す。)

喧嘩坊(進み出づ。)

己に顔を向けた奴は、上と下とが砕かれた上でなくては、

顔を向け換えることは出来ぬ。

己に背中を向けた奴は、頸と頭と髪の毛とが

忽ちぐにゃりと項に垂れる。

そこでわたしが荒れる通に、10515お前様の兵卒が棒や刀を振り廻したら、

敵は自分の血の中に

一人々々倒れましょう。(退場。)

上将軍

中央部隊は徐かに続いて、

十分の威力を以て、巧に敵に当ってくれ。10520あの少し右の方では、敵がもう奮起して、

我軍の計画を動揺させているのだから。

ファウスト

(中央の有力者を指さす。)

そこでこの男にも御命令を受けさせてお貰申したい。

素早くて、傍を鼓舞して猛進する男です。

はやとり(進み出づ。)

官軍の勇気には、10525分捕熱も加わらなくてはいけません。

偽皇帝の贅沢な幕の中を、

皆に目当にさせるが好い。

もう長くは椅子の上で、きゃつも息張ってはいられまい。

どれ、その隊の先頭に立ちましょう。10530    陣中の女商人はやえ

(はやとりに寄り添ふ。)

わたしこの方のお上さんにはなっていないが、

やっぱりこの方が一番好な人なのよ。

わたし達の取入をする好い秋が来たのね。

女は握るときは凄いもので、

取るに遠慮はしませんわ。10535勝軍にはいつも先へ出てよ。どんな事でも出来るから。

(二人退場。)

上将軍

兼ねて予期していた通、敵の右翼は我左翼に

猛烈に衝突して来た。あの狭隘の岩道を

是非取ろうとして奮進する敵兵に、

身方は一人々々抗抵するに違ない。10540    ファウスト(左の方を揮く。)

そこでどうぞこの男もお見知置を願います。

強い物に強い物の加わるのは、損のない道理ですから。

かたもち(進み出づ。)

左翼に御心配はありません。

どこでもわたしがいさえすれば、持った物は亡くさない。

昔の話にある通、稲妻の火が落ちて来ても、10545わたしの持った物は放しません。(退場。)

メフィストフェレス

(上の方より降り来る。)

さあ、御覧なさい。あの背後の方で、

どのごつごつした岩穴からも、

武装した兵隊が押し合って出て来て、

元から狭い山道を一層狭くしています。10550甲冑に、太刀と盾とで、

身方の背後に石垣を築いて、相図をすれば打って出る

用意をして待っています。

(小声にて解事者等に。)

どこから連れて来たなんぞと、野暮を言うのじゃありませんよ。

無論わたしはぐずぐずせずに、10555あたり近所の甲冑蔵をさらけ出した。

あれでも徒歩立もあり騎馬もあり、

まだこの世の物らしい風をして蔵の中に立っていた。

昔は騎士だ、帝王だと云っていたのだが、

今は蝸牛の殻ばかりだ。10560その中へ色々な怪物が潜り込んで、支度をして、

中昔をそのままに、蘇らせて見せるのだ。

中実は悪魔の小僧でも、

この場はやんやと云わせるのだ。

(声高く。)

御覧なさい。打ち合わぬうちから勇気を出して、10565急きあって、金物をからから云わせています。

旗竿に結んだ旗のちぎれも、爽かな風に

吹き靡けて貰いたがって、あんなにじれています。

昔の勇士が今様の戦争に出たがって、

待ち構えているのだから、どうぞ察して遣って下さい。10570

(上の方より恐ろしき金笛の音聞ゆ。敵軍たじろく。)

ファウスト

地平線は暗くなった。

ただここかしこに意味ありげな

赤い火の光が見えるばかりだ。

もう刃が血に染まって光っている。

岩も、森も、吹く風も、10575大空さえも我軍を助けるのだ。

メフィストフェレス

右翼はしっかりこたえている。

中にも目立って見えるのは、あの素早い大男の

喧嘩坊のハンス奴が、

あいつの流義で働いているのだ。10580    帝

最初は腕をただ一本振り上げたと思ったが、

もう十二本も振り廻している。

只事ではないな。

ファウスト

あのシチリアの海岸に立つと云う

霧の話をお聞になったことはありませんか。10585あそこでは昼の空に清くゆらいで、

丁度空の中程の高さに、

特別な蒸気に映って、

不思議な影が見えまする。

市街が見えたり隠れたりする。10590庭園が浮いたり沈んだりする。そう云う画図が次々に、

気を穿って出て来ます。これも同じわけです。

帝

しかしいかにも心許ない。どの長い槍の尖も、

皆稲妻のように光って見える。

殊に身方の部隊の槍は、穂尖から穂尖へと、10595小さいが忙しげに飛んでいる。

余り怪物臭いじゃないか。

ファウスト

お免下さい。あれは過ぎ去った

霊なる物の名残です。

航海者の皆祈誓を掛ける10600ジオスコロイの同胞の火です。

あれが今霊験の限をここで見せるのです。

帝

しかし自然が己達に対して、

不思議の限を見せるのは、

誰の為業か、それが聞きたい。10605    メフィストフェレス

別な人ではありません。

殿様の御運を胸に蓄えている、あの尊い先生です。

余りきびしい迫害を、敵が御身に加えるので、

先生は心からおこっています。

よしや自分の身は棄てても、あなたを助けて10610御高恩に報いたいと云っているのです。

帝

そう云えば、いつか人民が讙呼して、己を連れて廻ってくれた時、

己も己の威勢を験して見たいと思ったので、

好い機会と見て、思案もせず、

あの親爺の白鬚に涼しい風を送ったまでだ。10615無論坊主共は慰をし損ねて、

あれからは己の事を好く思わなくなった。

それに何年も立ってから、

あの時喜んでした事の報に、今ここで逢うのかなあ。

ファウスト

心から出た善行の報は次第に大きくなります。10620どうぞ一寸上の方を御覧下さいまし。

今先生が何か相図をせられそうです。

お気をお附なさいまし。今それが現れます。

帝

や。空高く舞う鷲の跡を、すさまじい勢で

グリップス鳥が追い掛けおる。10625    ファウスト

気を附けて御覧なさい。善兆です。

昔話にばかり聞く

グリップス鳥の分際で、

まことの鷲と戦うとは。

帝

今は大きい輪をかいて、二羽が覗い寄っている。10630それと見る間に

もう双方から飛び附いて、

頭や胸を掻き裂こうとする。

ファウスト

御覧なさい。あの笑止なグリップス奴は、

引っ掻かれ、引っ裂かれ、身を傷うばっかりで、10635とうとう獅子の尾を垂れて、

あの絶頂の森の中へ飛び込んでなくなりました。

帝

なるほど、お前の判断する通かも知れぬ。

不思議ではあるが、さもあろうか。

メフィストフェレス(右に向きて。)

数度の突撃が功を奏して、10640敵は余儀なく退却します。

まだ覚束ない抗抵を試みながら、

右へ右へと崩れ掛かり、

その乱戦の結果として、

主力の左翼に混乱を来します。10645我部隊の、堅固な前列は

右に方嚮を転ずるや否や、

電光の如くに敵軍の虚に附け入ります。

あれ、双方の大軍が、

暴風に打たれる波のように、10650火花を散らして奮闘します。

これより花々しい軍は想像にも及びません。

この会戦には勝ちましたね。

帝

(左側にてファウストに。)

あれを見い。あそこが己には心許ない。

あそこの我拠点がどうもあぶない。10655礫の飛ぶのも見えぬ。

低い岩には、もう敵が上っている。

上の岩はもう身方が棄てた。

あ、今だ。敵の一団が

次第に肉薄して来た。10660もうあの狭隘を取ったかも知れぬ。

祝福のない努力の結果はこれか。

お前方の奇術も徒労であったぞ。

(間。)

メフィストフェレス

はあ。あそこへわたしの二羽の鴉が来ました。

なんの便を持って来たやら。10665悪い知らせでなければ好いが。

帝

笑止な鳥奴。何をする気か。

あの岩の上の激戦の中から、

黒い帆を揚げてこっちへ来おる。

メフィストフェレス

(鴉等に。)

さあ、己の耳の側へ来て止まれ。10670お前の保護してくれるものが、滅びると云うことはない。

お前の献策は道理にっているからな。

ファウスト(帝に。)

鳩と云う鳥が、餌を貰い子を育てる巣へ、

遠い国から帰ることは、

あなたも聞いておいででしょう。10675ここに大事な差別があります。

平和に鳩の便があれば、

軍には鴉の使があります。

メフィストフェレス

これは重大な悲報に接しました。

あの岩角で我勇士が10680難儀しているのを御覧なさい。

手近な高地はもう敵が占めました。

あの狭隘が敵手に落ちると、

身方の立場は困難です。

帝

やはり己は騙されたのか。10685お前方は己を網に入れた。

その糸が身に絡むのを、己は気味悪く思っているのだ。

メフィストフェレス

御落胆なさいますな。まだ敗北はいたしません。

耐忍と機智とは結局まで入用です。

末になって来ると、事情は切迫するものです。10690わたくしは慥かな斥候を持っています。

命令権をわたくしにお授下さい。

上将軍

(この隙に歩み寄る。)

この人達と御結托なされたのを、

わたくしは疾うから心配していました。

幻術では堅固な幸福は得られません。10695もうこの戦況を一転する策はない。

為始めた人が片を附けるが好い。

わたくしは指揮の杖をお返し申しましょう。

帝

いやまた好運の向いて来ることもあろうから、

それまで杖はあずかって置け。10700己はあの忌々しい情報や、

この男の鴉附合が厭でならぬ。

(メフィストフェレスに。)

どうもお前に杖は遣られぬ。

お前は適任の男ではなさそうだ。

だが命令はしても好い。救われるものなら救ってくれ。10705まあ、どうにかなるようになる事だろう。

(上将軍と共に帷幄の中へ退場。)

メフィストフェレス

そんならあの鈍い棒に身を護って貰うが好い。

己達にはあんな物は余り役に立ちそうでない。

なんだか厭に十字架に似ているて。

ファウスト

そこでどうする。

メフィストフェレス

もうする様にしてあります。10710さあ、黒い従弟共、急用だ。お前達は山の大湖に往って、

ウンジネに己から宜しくと云って、

水の影を借りて来てくれ。

なかなか学びにくい女の奇術で、

あいつ等は物の体と影とを分けて使う。10715所で誰が見てもその影を体だと思うから妙だ。

(間。)

ファウスト

あの鴉共が水の少女に

心からお世辞を言ったと見えるな。

あれ、もうあそこへ流れて来出した。

方々の水気のない兀岩の上に、10720たっぷり泉の早瀬が涌く。

敵の勝利ももう駄目だ。

メフィストフェレス

随分意外なお待受ですから、

どんな大胆な登手も途方に暮れるでしょうて。

ファウスト

もう一本の小川が何本にもなって、勢強く流れ落ちる。10725谷間に隠れては、倍の水嵩になって出て来る。

一本の滝になって、弓なりに落ちる。

それがまた忽ち平な、幅広な岩の上に広がって、

しぶきを飛ばして、あらゆる方角へ流れて、

段々になって谷底へ落ちて来る。10730大胆に男らしく抗抵した所で、なんになろう。

大波が押し流そうとして寄せるのだから。

こうひどく溢れて来ては己までがぞっとする。

メフィストフェレス

わたしなんぞにはその水の贋物は丸で見えません。

騙されるのは人間の目だけだ。10735わたしはこの不思議な出来事が面白くてなりません。

やあ。群になって逃げ出しますね。

馬鹿共は水に溺れるかと思うのだ。

陸にいるのに、為方で、水を吹き出す真似をして、

滑稽な、泳ぐような身振をして駈けている。10740もう全軍の騒擾になった。

(鴉等再び来る。)

お前達の事を大先生の所で褒めて遣る。

だがここで自分が先生になって遣って見る気なら、

これから火を焚いている鍛冶屋へ往け。

あの一寸坊共が、草臥れると云うことなしに、10745金や石を赤く焼いて敲いている所なのだ。

そして随分念の入った口上を言って、

黒人の消さずに焚いているような、

ぴかぴか光る、ぱちぱち鳴る火を所望して来るのだ。

遠い空の稲妻や、10750一番高い所から瞬く隙に落ちる星は、

夏は毎晩見られもしよう。

だが木立の茂みの中で稲妻がしたり、

湿った土に打っ附かって星がしゅっと云うのは、

そうめったには見られまい。10755そこでお前達、何も大して面倒を見なくても好いが、

最初は丁寧に頼んで見て、それから出せと指図するのだ。

(鴉等退場。白の通の事共実現す。)

メフィストフェレス

敵は目の前が真っ暗だ。

一足踏むのも心許ない。

どこの隅にも鬼火が燃える。10760出し抜けに目映い光物がする。

そこいらは皆至極好い。

この上何かこわい音でもさせようかな。

ファウスト

あの蔵の穴から出されて来た空洞な武具が、

外の風に当って気丈夫になったと見えて、10765あそこの高い所で、さっきからがたがたかちゃかちゃ、

不思議な怪しい音をさせているなあ。

メフィストフェレス

そうです。もう止めても止まりませむ。

結構な昔の世に戻ったように、

騎士らしく打って廻る音が、もうここへ聞えますね。10770籠手やら脛当やらが、

ゲルフェンになり、ギベルリイネンになって、

永遠な闘を繰り返す。

先祖から受けた習慣で、頑強に遣っていて、

媾話なんぞは誓ってしない。10775もう物音が大ぶ広がって来た。

悪魔の手伝う催しは皆そうだが、

しまいに功を奏するのは党派の憎悪で、

止めを刺すまでそいつを息めないのだ。

なかなか気持悪く、人に驚慌を起させるように、10780どうかするとまた大袈裟に、悪魔らしく威して、

物音を谷々へ響き渡らせますね。

(奏楽団の初め戦争の騒擾を学びたるが、終に晴やかなる軍楽の音に変ず。)

僭帝の帷幕

玉座。奢侈なる周囲の装飾。

はやとり。はやえ。

はやえ

とうとう一番先へここへ来たのね。

はやとり

己達より早くは鴉にも飛べまいよ。

はやえ

まあ、好い物がうんとあるわねえ。10785どれを先に取ろうかしら。どれを跡にしようかしら。

はやとり

ほんに幕の中に一ぱいあるのだから、

己にもやっぱり手が著かない。

はやえ

この敷物なんか丁度好いわ。

わたしどうかすると随分ひどい所に寝るのだから。10790    はやとり

ここに鋼鉄で宵の明星が拵えてある。

己はとうからこんな物が欲しかったのだ。

はやえ

この金糸で縁を取った緋の引廻しね、

こんなのが疾うから欲しかったわ。

はやとり

(武器を手に取る。)

こいつはこれで重宝だぞ。10795人を敲き切って置いて、先へ出られる。

お前もう随分たくし込んだが、

まだ何一つろくな物は取らないなあ。

そのがらくたはそこに置いて、

この箱を一つ持って行け。10800これは兵隊に払う給金で、

中実は金貨ばっかりだ。

はやえ

まあ、恐ろしく重いこと。

わたしには持ち上がらないわ。

はやとり

早くしゃがめよ。しゃがむのだよ。10805己が背中へ背負わせて遣る。

はやえ

おう痛。わたしもう駄目よ。

重くて腰が折れそうだわ。

(箱転がり落ち、蓋開く。)

はやとり

見ろ。金貨が一ぱいだ。

早く取らねえか。10810    はやえ(蹲る。)

早くこの前掛にしゃくい込んでおくれよ。

この位持って行けばかなりあるわねえ。

はやとり

それが好い好い。早くしろよ。

(女立ち上がる。)

や、大変。前掛に穴が開いているぜ。

立っている所にも、歩いて行く先にも、10815お前金をばら蒔いているじゃねえか。

我帝の護衛等

この大切な場所で何をしている。

お手元金になぜ手を著ける。

はやとり

なに。こっちは体を売物にして出たのだから、

勝利品の割前を貰うのです。10820敵の天幕に来れば、これは極まりだ。

こっちもやはり兵士だから。

護衛等

いや。そんな奴は我々の仲間には向かぬぞ。

兵士と盗坊とは兼ねられぬからな。

こっちの殿様の方へ来るものは、10825正直な軍人でなくてはならぬ。

はやとり

所が正直と云う奴は分かっていらあ。

すぐに徴発と来るのだ。

お前さん達だって一つ穴だ。

「よこせ」と云うのが仲間の挨拶だ。10830

(はやえに。)

往けよ。持っている物は引き摩って行くのだ。

ここでは己達はもてないからな。(退場。)

第一の護衛

おい。なぜすぐにあいつの横っ面を

ぶんなぐって遣らないのだ。

第二の護衛

なぜだか己は力が抜けて手が出せなかった。10835変に怪物臭い奴等だから。

第三の護衛

己もなんだか目の前に

火花が散るようで、好く見えなかった。

第四の護衛

己もなんと云ったら好いか知らんが、変だよ。

きょうは一日厭に暑くて、何やら気になるように、10840息が詰まるように蒸々していた。

平気で立っている奴がある。遣られて倒れる奴がある。

手探で歩きながら人を切る。

刀を一振振る度に、敵は倒れる。

目の前には霧が掛かっているようで、10845耳はがんがん鳴っている。

始終そんな風で、とうとうここへ遣って来たが、

どうして来たのか、自分にも分からないのだ。

帝と四諸侯と登場。

護衛等退場。

帝

どうしてこれがこうなったにしても、兎に角会戦には勝った。

逃げた敵はもうちりぢりに野原に散らばった。10850玉座は空しく残っていて、絨緞にくるまれながら、

微かに見える宝物が所狭きまで置いてある。

己達はここで立派に身方の護衛を随えて、帝王の威厳を以て、

県々の使者を待ち受けるのだ。

どの方面からも好い便が来る。10855国内は平穏になって、民は帰服したそうだ。

よしや戦争に幻術が手を貸したとしても、

詰まり戦うことは自分で戦ったのだ。

昔から偶然の事が軍隊の助になったことは往々有る。

隕石がある。敵陣の上に血が降る。10860身方を鼓舞して、敵の心をひるまする

怪しい物音が岩穴からした例もある。

敗者は殪れて、謗は必ず下流に帰し、

勝者は栄華を受けて、助くる神を称う。

命令を須いずして、万民信服し、10865異口同音に「神よ我等汝を称う」と呼ぶ。

しかし今まで己は忽にし勝であったが、敬虔な目を

今我胸に注いで、ここに最高の価値を認める。

年若な、気軽な君主は徒に日を送りもしょうが、

年を取っては重大な、刹那々々の意義を考える。10870だから己は今すぐに、お前達四人の元勲と、

内外一切の事を掟てようと思う。

(第一の臣に。)

侯爵。軍隊の巧妙な部署をしたのはお前だ。

それから機を見て大胆な処置に出たのもお前だ。

以後は平時相応な事業をお前に托する。10875お前を式部卿にして、この刀をお前に授ける。

式部卿

今まで国内に働いていた、忠実な軍隊が、

玉体と御位との固に、疆を安く戍る上は、

代々お住まいなさる広い城の大広間で、祭の日に

御膳部の用意をいたすことをお許下さいまし。10880清浄にして献上し、清浄にお給仕をいたして、

尊いお側を離れませぬ。

帝(第二の臣に。)

次には天晴の勇士であって、しかも優美に、おとなしい

お前を侍従長にする。これは容易な役ではない。

お前は宮中一切の職員の頭だ、好く和合せぬと、10885職員が己の役に立たぬ。主君にも、同僚にも、

誰にも気に入るようにして、これからお前

職員一同の模範になってくれんければならぬ。

侍従長

善人をば助けて遣り、悪人にも害を加えず、

その上潔白で欺かず、沈著で偽らなかったら、10890上の御意図に副うわけで、必ずお気に入りましょう。

ただこの胸の中をお見抜下されば、それだけで満足いたします。

お祭の日の事まで想像いたして宜しゅうございましょうか。

あなたが食卓にお就になれば、

わたくしは金のお盥の耳を持っていて、お楽の央に10895折々お手をお滌なさる時、お顔を拝して喜びましょう。

帝

いや。己は今重大な事を思っていて、祭の事は

考えぬが、それは宜しい。それも務の励になる。

(第三の臣に。)

次にお前には光禄卿を申附ける。猟の事、鳥屋、

菜園の事は、今後お前に受け持たせる。10900月々出来る物の中で、好な物を選ることは

己に任せて、料理を旨くさせてくれい。

光禄卿

味の好いものを差し上げて、御賞味あそばすまでは、

わたくしは義務として、何も戴かずにいましょう。

御料の季節を早めたり、遠方の品を取り寄せたり、10905厨の役人と打ち合せて、油断なくいたしましょう。

尤も食卓の飾にする初物や珍物はお好なさらず、

滋養になる常の品がお望だとは存じていますが。

帝(第四の臣に。)

どうも祭の話は所詮逃れられぬと見えるから、

次には若い勇士のお前を、良令にして遣そう。10910その役になったからには、好い酒がたっぷりと

いつも穴倉にあるようにいたして置け。

しかし自分は節酒して、うかと機会に誘われて、

酔ってしまわぬようにいたせ。

良令

殿様の御信任さえ受けますると、若い者も、10915三日見ぬ間に、立派な男に変っています。

わたくしも一つ大宴会の時を想像いたしましょう。

金や銀の、美しい盃で、なるたけ立派にわたくしが

御殿の食卓を装飾いたしますが、

しかし一番結構なお杯は御用に取って置きましょう。10920それは透き徹ったヴェネチアの玻璃で、

中に楽が待ち受けて酒を旨くし、酔わせませぬ。

しかしさような宝を手頼にいたすは尋常で、

寡欲のお徳はそれに増すお身の備でございます。

帝

この大切な日にお前達に言おうと思った事だけは、10925お前達、慥かな口から、信じて聞いたことだろう。

綸言は重いもので、授けた物に相違はないが、

それを確めるには書物がいる、印璽がいる。

方式にうように、それを調えて取らする事は、

その司のものが然るべき時にいたすであろう。10930

(大司祭兼相国登場。)

円天井の建物も、土台の石に重を托して、

それで永く崩れずに立っている。

そこにいる四人の諸侯を見い。今差当り内廷を

維持して行くに有利だと思う廉々を話していた。

国内全体の政治に関した事は、これから五人に10935しっかりと申し附けて置くことにしよう。

お前達の領分は余の臣下より立派にしたい。

そこで己に叛いたもの共の地所を併せて、

今直にお前達の領地界を広めて遣す。

お前達には随分結構な土地を遣った上に、10940今後譲受、買受、交換の折毎に、

それを広めて行く権利をも授ける。

その外領主として正当に行うはずの廉々は、

故障なく行うように、この場できっと許して置く。

裁判官としては最後の審判をいたして好い。10945その審判に異議は申させぬことにする。

それから賦割、利足、献納物、道銭、租金、税金から、

塩や鉱産物の専売、貨幣の鋳造まで、皆差し許す。

これは己の感謝の意を十分に表するために、

帝位の次に引き上げたお前達であるからだ。10950    大司祭

一同に代って厚くお礼を申し上げます。

我々を強く堅固になさるのも、詰まり王室のお為でござります。

帝

まだお前達五人に托する一層重い事がある。

現に己は生きていて、これからも生きていたいが、

祖宗歴代の鎖は、落ち著いた己の目を、10955邁往の衢から畏敬の道へ呼び戻す。

己もいつかは親族に別れずばなるまい。

その時は、お前達、己の世嗣を選んでくれい。

宝冠を戴かせた上、贄卓に登らせて、

騒がしかった世の末を、太平に結んでくれい。10960    相国

誇を深い胸に蔵め、敬を色に表して、

人臣の最上たる諸侯がお前に拝伏します。

忠義の血がこの脈を漲り流れておりまする間は、

我々は君の意志で働く、一つの体でござります。

帝

そこで最後に言って置くが、これまで申し渡した10965一切の事は、追って書附にして、親署して遣す。

総てお前達の所有物は自由に処理して宜しいが、

分割することはならぬ。それが唯一の条件だ。

また己に貰った物を、どれだけ殖やしていようとも、

それをそのままお前達の嫡子に譲って遣って好い。10970    相国

国家の栄、我々の栄のため、大切なお定を、

直様、謹んで記録に留めまして、

浄書、封緘は記録所で扱わせます。

どうぞ御親署を遊ばして下さりませ。

帝

それでは一同暇を取らせる。大切な日であるから、10975銘々この場を引き取って、内省いたしているが好い。

(世俗の四諸侯退場。)

大司祭

(一人残りて、荘重に言ふ。)

相国は引き取りましても、大司祭は残りました。

あなたのお耳に入れたい諫の情に駆られまして、

父のような心がお身の上を気遣うのでござります。

帝

この喜の日に何の気遣があるのか。それを申せ。10980    大司祭

こう云う日に、神聖な、あなたのお心が、

悪魔と結托しておいでなさるのを、いかにも苦痛に存じます。

無論見掛は御位が安全なようでござりますが、

惜むらくは主や法王の祝福がおありなさりません。

法王がもしお聞になったら、すぐに神聖な御権威で、10985罪の深いこの国をお罰しになりましょう。

あなたが戴冠式の日に、今殺そうと云う悪魔師を、

お救になったことを、法王はまだお忘にはなりませぬから。

お冠から出た、特赦の第一の光は、

クリスト教世界に危害を与え、咀われた人の頭に落ちました。10990どうぞお胸にお問になって、擅に受けられた

この幸福の一分を、ロオマへお返しなさりませ。

あの悪魔がお身方をしに出て参って、

あなたが偽貴族の甘い詞をお聴納になった時、

あなたの帷幕の張ってあった、あの一帯の丘陵を、10995過を悔いて、敬虔に、ロオマへ御寄附なさりませ。

山や茂った森の広がっている限、

肥えた牧場になっている高地も、魚の多い、澄んだ湖水も、

迂りながら急いで谷に灌ぐ、無数の小川も、

下の牧場や、原や、谷合になっている、広い低地も、11000そっくり御寄附なさりませ。そうなされたら、お詫がって、

お赦免になるでございましょう。

帝

いや。思い掛けぬ失錯を教えられて恐懼に堪えぬ。

寄附の地所の境界は、お前勝手に極めてくれい。

大司祭

先ず取り敢えず、あの罪悪の場所であった、11005咀われた土地を、なるべく早く、尊い祭の場所にすると、

御沙汰をなされて下さりませ。厚い石壁が忽ち聳え、

歌者の座に朝日がさし込み、段々建て添えられる寺院が

十字形に広がり、信者のいる中の間が延び、高まり、

歓喜する信者の群が、11010熱心に立派な門から籠み入って、

天に聳立つ塔の上から、鳴り響く第一の鐘の音が、

山にも谷にも聞え渡り、再造の恩が受けたさに、

懺悔の民が寄って来るのが、もう心に浮んで来る。

どうぞこの霊場の落成の日に早く逢いたい。11015上の御臨場が当日の最大の光栄でござりましょう。

帝

なるほど神の徳を称え、己の罪障を消滅させるには、

そんな大工事で、真心を広く知らせるも好かろう。

好い。己の心の澄んで来るのが、もう分かるようだ。

大司祭

御決裁と文書の作成とを、相国としてお願申します。11020    帝

その寄附の合式証書をお前作って、己の前へ持って来い。

己は喜んで署名をいたして遣す。

大司祭

(暇乞して起ち、出口にて顧みる。)

さて追って出来上がりまする寺院には、

十分一金、利足金、上納金なんど、一切の租税を、

永遠に御免除下さりませ。立派に維持してまいるにも、11025綿密に経営いたすにも、大した費用が掛かります。

かような荒地へ、至急に工事をいたすには、

戦利品の財宝を多少お下渡し下さりませ。

その外遠方の材木、石炭、スレエトなんぞを使うと申すことも、

申し上げずには置かれません。11030運搬だけは、説教いたして、人民に負担いたさせます。

冥加のために運んで来て、祝福を受けるのでござります。

(退場。)

帝

いや。己の身に負った罪は重くて大きい。

風来の魔法使奴が己にえらい迷惑を掛けおった。

大司祭

(また帰り来て、最敬礼を行ひつゝ。)

今一つ申し上げます。あの評判の悪い男に、11035全国の海岸をお遣しになりましたね。

あそこの十分一金、利足金、上納金、一切の租税も、懺悔の思召で、

寺院へ御寄附なさらぬと、あの男が寺院の罰を受けます。

帝(不機嫌に。)

あれはまだ海の底で、土地にはなっていないのだ。

大司祭

権利を戴いて忍耐していれば、時節が参るのでござります。11040お詞は有功だと、わたくし共は心得ておりましょう。

(退場。)

帝(一人残る。)

あの様子では国を皆遣っても満足はすまいなあ。

Chapter 8 of 9
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