Chapter 1 of 3

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二日物語

幸田露伴

此一日

其一

観見世間是滅法、欲求無尽涅槃処、怨親已作平等心、世間不行慾等事、随依山林及樹下、或復塚間露地居、捨於一切諸有為、諦観真如乞食活、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実に往時はおろかなりけり。つく/″\静かに思惟すれば、我憲清と呼ばれし頃は、力を文武の道に労らし命を寵辱の岐に懸け、密かに自ら我をば負み、老病死苦の免さぬ身をもて貪瞋痴毒の業をつくり、私邸に起臥しては朝暮衣食の獄に繋がれ、禁庭に出入しては年月名利の坑に墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の漣波絶ゆる間なく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の火時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿動もすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は大乗妙典の御名を呼べども、羝羊の暗昧無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るは真に即無常、金口説偈の姿なれども、※※として視る無き瞎驢の何を悟らむ由もなく、いたづらに御祓済してとり流す幣もろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常に悪からむ、縁に遇へば則ち庸愚も大道を庶幾し、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや。一歳法勝寺御幸の節、郎等一人六条の判官が手のものに搦められしを、厭離の牙種、欣求の胞葉として、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の御佩刀をたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り敷華成果の暁を望まむと、遂に其月十五夜の、玉兎も仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、恩愛永離の時こそ来つれと、髻斬つて持仏堂に投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯を切つて振り捨てつ、弦を離れし箭の如く嵯峨の奥へと走りつき、ありしに代へて心安き一鉢三衣の身となりし以来、花を採り水を掬むでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠を供じ、案を払ひ香を拈つては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、兀坐寂寞たる或夜は、灯火のかゝげ力も無くなりて熄まる光りを待つ我身と観じ、徐歩逍遥せる或時は、蜘蛛の糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の世と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫に網代小笠の塵垢を濯ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆御法説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙りに思ひを擬へ、鴫立沢の夕暮にを停めて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて幾干の山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、汀凍れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に薄紅の花を愛で、象潟の雨に打たれ木曾の空翠に咽んで、漸く花洛に帰り来たれば、是や見し往時住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空の道理を示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友はいづち行きけむ無常迅速の為体は、水漂草の譬喩に異ならず、いよ/\心を励まして、遼遠なる巌の間に独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇告して仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所讚岐の国真尾林には来りしが、此所は大日流布の大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて如斯草庵を引きむすび、称名の声の裏には散乱の意を摂し、禅那の行の暇には吟咏のおもひに耽り悠自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻に銷して両肩軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん。奢を恣まにせば熊掌の炙りものも食ふに美味ならじ、足るに任すれば鳥足の繕したるも纏ふに佳衣なり、ましてや蘿のからめる窓をも捨てゞ月我を吊ひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。

久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ

其二

真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ。汝は三冬にも其色を変へねば我も一条に此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の黄巻に飛ばせば、我また風に托して香烟を木末の幽花にたなびかす。そも/\我と汝とは往時如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土悉皆成仏と聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは相応しゝ。我は汝を捨つるなからん。

此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん

あら、心も無く軒端の松を寂しき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の潮泡の跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ仁和寺の北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今眼前に見ゆるがごとし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実に人界不定のならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひ奉るもいとかしこし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも志渡にて崩れさせ玉ひし日と承はれば、月こそ異れ明日は恰も其日なり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで御陵のありと聞く白峯といふに明日は着き、御墓の草をもはらひ、心の及ばむほどの御手向けをもたてまつりて、いさゝか後世御安楽の御祈りをもつかまつるべきか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

其三

頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風蕭と衣裾にあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、小語くごとき声を発する中を然として歩む西行。衆聖中尊、世間之父、一切衆生、皆是吾子、深着世楽、無有慧心、などと譬喩品の偈を口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の往来定めなく、後山晴るゝ歟と見れば前山忽まちに曇り、嵐に駆られ霧に遮へられて、九折なる岨を伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、前途の路もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、樅柏の大樹は枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が手首をも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる松蘿はとして静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたる児が岳とは今白雲に蝕まれ居る峨と聳えし彼峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭の谷底より霧漠と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大地に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、四方を視るに霧の隔てゝ天地はたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。何と思ひも分け得ざる間に、雲霧自然と消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らで眼に遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやすく彼方の峯に既没りて、梟の羽し初め、空やゝ暗くなりしばかりなり。木立わづかに間ある方の明るさをたよりて、御陵尋ねまゐらする心のせわしく、荊棘を厭はでかつ進むに、そも/\これをば、清凉紫宸の玉台に四海の君とかしづかれおはしませし我国の帝の御墓ぞとは、かりそめにも申得たてまつらるべきや、わづかに土を盛り上げたるが上に麁末なる石を三重に畳みなしたるあり。それさへ狐兎の踰ゆるに任せ草莱の埋むるに任せたる事、勿体なしとも悲しとも、申すも畏し憚りありと、心も忽ち掻き暗まされて、夢とも現とも此処を何処とも今を何時とも分きがたくなり、御墓の前に平伏して円顱を地に埋め、声も得立てず咽び入りぬ。

其四

実にも頼まれぬ世の果敢なさ、時運は禁腋をも犯し宿業は玉体にも添ひたてまつること、まことに免れぬ道理とは申せ、九重の雲深く金殿玉楼の中にかしづかれおはしませし御身の、一坏の土あさましく頑石叢棘の下に神隠れさせ玉ひて、飛鳥音を遺し麋鹿痕を印する他には誰一人問ひまゐらするものもなき、かゝる辺土の山間に物さびしく眠らせらるゝ御いたはしさ。ありし往時、玉の御座に大政おごそかにきこしめさせ玉ひし頃は、三公九卿首を俛れ百官諸司袂をつらねて恐れかしこみ、弓箭の武夫伎能の士、あらそつて君がため心を傾ぶけ操を励まし、幸に慈愍の御まなじりにもかゝり聊か勧賞の御言葉にもあづからむには、火をも踏み水にも没り、生命を塵芥よりも軽く捨てむと競ひあへりしも、今かくなり玉ひては皆対岸の人異舟の客となりて、半巻の経を誦し一句の偈をすゝめたてまつる者だになし。世情は常に眼前に着して走り天理は多く背後に見はれ来るものなれば、千鐘の禄も仙化の後には匹夫の情をだに致さする能はず、狗馬たちまちに恩を忘るゝとも固より憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には芬芳の香り早く失せて、蝶漸く情疎なるもまた恨むに詮なし。恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脱し得玉はねば、如是なり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫たる大日輪は螻蟻の穴にも光を惜まず、美女の面にも熱を減ぜず、茫たる大劫運は茅茨の屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙を餽る、尽大地の苦、尽大地の楽、没際涯の劫風滾たり、何とりいでゝ歎き喞たむ。さはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、幾干の罪業を作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き寒衾旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば御傷しく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや終夜供養したてまつらむと、御墓より少し引きさがりたるところの平めなる石の上に端然と坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす。妙法蓮華経提婆達多品第十二。爾時仏告諸菩薩及天人四衆、吾於過去無量劫中、求法華経無有懈倦、於多劫中常作国王、発願求於無上菩提、心不退転、為欲満足六波羅密、勤行布施、心無悋惜、象馬七珍国城妻子奴婢僕従、頭目身肉手足不惜躯命、……

日は全く没りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、樹端の小枝音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でず。ふけ行くまゝに霜冴えて石床いよ/\冷やかに、万籟死して落葉さへ動かねば、自然と神清み魂魄も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く存るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも他の声ともおぼつかなく聴きつゝ、濁劫悪世中、多有諸恐怖、悪鬼入其身、罵詈毀辱我、と今しも勧持品の偈を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位と呼ぶ声あり。

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