Chapter 1 of 4

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墨子は周秦の間に於て孔子老子の學派に對峙した鬱然たる一大學派の創始者である。

墨子の學の大に一時に勢力のあつたことは孔子系の孟子荀子等が之を駁撃してゐるのでも明白で、輕視して置けぬほどに當世に威を有したればこそ孟子荀子等がこれに對して筆舌を勞したのである。それのみならず人間の善惡を超越し是非を忘却するやうなことを理想としたかの如き莊周でさへも墨家に論及し、それから又手嚴しい法治論者の韓非までも墨家を儒家と列べて論じてゐる。此等の事實は皆墨子の學が少からざる力を當時に有してゐたことの傍證であつて、秦以後の書の孔叢子、淮南子、史記、漢書、七略等に見えてゐることと、その前の尸子、晏子春秋、呂覽等に散見してゐることとを除いても、墨子の本書に、墨子の弟子禽滑釐等三百餘人が墨子の道の爲に守禦の器を持して宋の爲に楚を防がんとしたことが、魯問篇に見えてゐるし、又墨子の弟子の公尚過といふものは越王に優遇され、越王は墨子を故の呉の地方五百里を以て封ぜんことを申出し、又楚の惠王、魯陽文君等は墨子を崇敬し、衞、宋、魯等の君も墨子を尊んだことは本書の各篇に見え、墨子の弟子は禽滑釐を首として、高石子、縣子碩、耕柱子、魏越、管黔敖、高孫子、治徒娯、跌鼻、曹公子、勝綽、彭輕生、孟山譽、王子閭等は皆墨子に道を學び、或は道を問うたものであることは本書に見え、漢書藝文志、呂覽等によれば、隨巣子、胡非子等は墨子の弟子で書を著はし、禽滑釐の弟子には許犯、索盧があり、許犯の弟子には田繋があり、胡非子の弟子には屈將子があり、其他、韓非子、莊子、呂覽等によれば、墨子の學系には、田子、相里勤、相夫子、陵子、苦獲、相里氏の弟子の五侯子、それから孟勝、田襄子、腹※、徐弱、謝子、唐姑果等を指摘し得る。是の如くに墨子の弟子又は再傳三傳の弟子を二千年前の昔に指摘し得ることは、墨子の道の盛行したことを語るもので無くて何であらう。

墨子を孔子と同列のやうに取扱つたのは、早く韓非子の時からで、韓非子顯學篇に、既に儒墨と併稱して、八儒三墨と其の流派を擧げてゐる。儒の至る所は孔丘なり、墨の至るところは墨なり、と韓非子が言つてゐるのであるが、是の如く墨子を孔子と併べ稱したのは、墨子の道が孔子の道の如くに天下に顯然としてゐたからでもあるが、一つは又孔子の道が世を救ひ人を正しうするに在る如く、墨子の道もまた世を救ひ人を正しうするに在つて、聖賢を稱揚し、道徳と政治とに兼ね亙つてゐること、相似通ふところがあるからに本づいたのでも有つたらう。で、後に至つて韓退之の如きは孔墨を論じて、其道は相戻るほどの鴻溝大嶺が其間に存するのでは無いとして、余おもへらく辯は末學の各其師を售るを務むるの説に生ず、二師の道の本より然るに非ざる也、孔子は必ず墨子を用ゐ、墨子は必ず孔子を用ゐん、相用ゐざれば孔墨たるに足らず、とさへ言つてゐる。退之の此論は勿論割引しなければ通ぜぬ論であるが、先秦諸子の各一家の言をなしてゐる中で、墨子の教が孔子の教に近いことは、それは他の莊、列、韓非の輩の孔子に遠いのに比して、大に近く、まことに一脈相通ずるものがあることは爭へない。孔子の堯舜禹湯文武を稱するが如く、墨子も堯舜禹湯文武を稱し、聖王賢主の民を率ゐ躬を正しうしたところに準據してゐるのであつて、自分の小さな知識や感情から一家の言を成し、我より古を成さうとしてゐたのでは無いのである。理想に於ては孔子も墨子も治國平天下、民をして安穩幸福に生を遂げしめんとしたのである。

さて墨子は何樣いふ人であつたかといふに、墨子の姓は墨、名はであつて、魯の人であつた。宋の人といふ説も諸書にあるが、それは恐らくは墨子が宋の太夫となつたところから生じたことであらう。墨氏は孤竹君の後で、墨台氏といつたのが、改めて墨氏となつたのであるといふのが、姓氏學者の説である。姓氏學者の説は時に信ずべからざることがあるが、墨氏が墨台氏で孤竹君の後で有らうと有るまいと、いづれにしても墨子に取つては大したことで無いから論ずるに足らぬ。墨子の姓はで名は烏といふ異説もあるが、それは周櫟園が書影に記してから人の談に上るやうになつたので、櫟園は好い人物であり、書影は面白い雜筆だけれど、其説は元の伊世珍の※※記に賈子説林といふものを引いて記したのが原で、賈子説林なんといふ書は有無不明であり、恐らくは世珍の妄言、墨子の母が日中の赤烏が室に入るを夢みて驚き覺めて生れたから烏と名づけたなどといふことを作り出したのだらう、他の古書に見及ばぬことであるから、面白い説だとて信ずるには足らぬ、たゞ是れ茶話の料たるまでである。

墨子の在世時代は、墨子に接觸してゐる人の上から推測考定して、周の定王頃に生れて、安王の廿四五年頃に死んだのであり、其壽は甚だ長く、八十餘歳、九十一二歳かであつたらうと考へられる。孔子の時に並ぶ、或は曰く其後に在りと、と史記は記してゐるが、史記の撰者は墨子が嫌ひであつたか何樣か知らぬが、墨子に對しては甚だ同情少く、墨子のために其傳を立つるに勞を吝んでゐる。後漢の張衡が、公輸班と墨と並びに子思の時に當り、仲尼の後に出づ、と云つてゐるが、實に當を得てゐる。墨子は孔子に後るゝこと百年近く、孟子の師の頃で、丁度子思よりは二十幾歳の年下であつたらうと思はれる。秦火以後に諸子は復活したが墨子は其の學統さへ全く絶えて、終に晉の代の魯勝が出るまでは少くも墨子に左袒する氣味の人が無かつたのであるから、今更判然と考定する事の出來ぬのも自然の數である。墨子の如き儉を尚び民を愛する主張の學説が、長城を築き阿房を起した如き秦の政府に憎惡されたらうことは、儒教其他の學説よりも一層太甚しかつたらうことは想像に難くないことで、秦以後に復び其の學説が起つ能はざるまでに壓迫されて了つたこともおのづから想像するに難くないことであるから、漢に於て儒教が復興し得たにかゝはらず、墨家は殆んど撲倒されたまゝになり了つて、從つて墨子の事に就いては漢でも既に不明になつて了つたのであり、たま/\淮南子に其の少許の傳説、論衡に其の教説の批難が見える位で、墨子派の遺緒を紹ぐ者などは見出されないのであつた。史記の撰者父子はたま/\墨子を愛尚しなかつたのか否か不明であるけれども、孔子と併稱された墨子に對しては、餘りに其の筆墨を吝んでゐるが、それもたま/\既に當時に於て墨子の繼紹者が絶無であつたか、或は甚だ微力であつたかを語るものである。

墨子の説は墨子の創唱になつたものか、或は古より其の一派傳統のあつたものか、これも論定されてゐないことである。然し漢書の藝文志に、墨家の首に尹佚二篇を擧げてゐる。尹佚は即ち史佚で、周の太史であり文王の時から成王康王の時に亙つた功臣である。此の史佚の書は漢の時に猶ほ遺つてゐたもので、其言が墨家に同じきものがあると認められたからこそ、墨家の首に置かれたのであらう。して見れば墨子の學は、尹佚の流を汲んだものであるとしてよい。古の史官といふものは、實に禮經を司どり國典を管し、其の學は皆傳統的に受授したものである。魯の惠公が郊廟の禮を天子に請うた時、桓王は史角をして魯に往かしめられた。惠公は史角を魯に止めた。此の史角の後が魯に在つた者に就いて墨子は學んだといふことが、呂氏春秋の當染篇に見えて居り、丁度孔子が老や孟蘇靖叔に學んだと同じやうな例に引いてある。して見れば墨子は史角の後の人に學んだのだが、史角は其名と事とによつて考へれば無論周の史官であり、そして恐らくは史佚の後であらうと推察される。で、墨子の學は史佚の系と見ても可なることになる。漢書に、墨家者流は蓋し清廟の守に出づ、茅屋采椽、是を以て儉を貴ぶ、三老五更を養ふ、是を以て兼愛す、選士大射す、是を以て賢を上ぶ、宗祀嚴父す、是を以て鬼を右ぶ、四時に順つて行ふ、是を以て命を非とす、孝を以て天下に視す、是を以て同を上ぶ、と云つてゐるのは、墨子の書の篇中の主目に依つて言を爲してゐるやうで、少し不穩のところも有るやうだが、大體に於ては當つて居り、そして莊子の天下篇に、後世に侈らず、萬物に靡せず、數度に暉せず、繩墨を以て自づから矯め、而して世の急に備ふ、古の道術、是に在るものあり、墨禽滑釐其風を聞いて之を説ぶ、と云つてゐるのと相應ずるところがある。漢書の各家學説に對する言は、凡べて之を官に淵源する者としてゐるので、儒家は司徒の官に出で、道家は史官に出で、法家は理官に出で、名家は禮官に出で、縱横家は行人の官に出でたとする類で、大體は然樣も言ひ得るのであるが、少し押付がましい傾向もある。名家が禮官に出でたと云つても、公孫龍や惠施の學が禮官とは餘り關係が薄いし、二氏の學はむしろ墨家の末流である。縱横家が行人の官に出たと云つても、蘇秦や張儀の辯が行人の官とは縁遠いものであるが如く、出たと云へば出たやうなものゝ、必ずしも其の正系本統では無い。墨家の學が清廟の守に出たといふのも極稀薄な意味で、其の流れの末だといふ位に取らねばならぬ。然し、各派の學説の源を説いて、古の道術是に在る者有りと莊子の説いたのと、九流皆官に出づると爲して漢書の説いたのとは、同じく誣ひざる者があつて、各家の説皆古に原づくところのあることを語つて居るのであるから、墨家者流も忽然として新説を立てたのでは無く、古に依り古より出でゝ説を爲したとして宜しい。清廟に事有るものは巫でなければ史である、史佚史角の流は成程其人であらうし、墨子が史角の後に學び、史佚が墨家に列せられてゐるところを見れば、今は史佚の書が亡びて何樣な言を爲したものか考知することが出來無いが、墨子の學も其邊から出て來たとして認むべきである。但し墨子が史佚史角の學系に出たにせよ、墨子が自家の力量識見を以て、これを墨流に擴張し開展して、そして所謂墨家を成立たせたことは認めなければならぬ。墨子以前の墨家者流の撰述と認むべきものは、尹佚二篇のみで、墨子以外の墨家者流著述は皆墨子の弟子の手に成つたもののみであるから。

墨子の書は漢の時に於て七十一篇存在したが、今に存してゐるのは五十三篇である。そして其書は漢や晉に於て他の諸子が既に注釋詮考され出したにかゝはらず、墨子のみは棄てゝ置かれたので、唐から宋へかけても、誰も注疏などした人が無く、長い歳月の間に於て、漢の王充が墨子を論駁し、晉の魯勝が墨辯注を著はし、唐で韓退之が評し、宋で黄東發が評した位の事であつた。魯勝の墨辯注は何樣なものであつたか、晉の時代は後世の史家等から餘り立派な時代で無いやうに云はれてゐるが、定論になつてゐてもそれは感心されぬ論で、支那の各時代中でも哲學がゝつた方面は進歩した時代であると云ひたい位である。魯勝は天文學的知識の有つた人で、自分の生命を賭けて其學問上の自説を主張したと云はれて居り、其の注した部分は墨子の書の中でも今猶ほ甚だ讀み難き部分であるから、其の泯びたことは惜むべきであるが是非が無い。陶淵明の文と僞傳されてゐるものに、墨家の人のことに筆の及んでゐるものがあるところを見ると、晉時代には墨子が少しは士人の談論に上つたのかも知れないが、文の記するところも何だか異樣である。同じ晉の代には彼の博學能文の葛洪の爲に墨子は仙人のやうにされてしまつて、墨子は變化の術や金丹の法を得た人となり、墨子五行記などといふ者が有つて、神通變化の術を説いてあると云はれ、漢の劉安が未だ僊去せざる時に其要を抄記した一卷が遺つてゐるなどと傳へられ、五代の唐の莊宗の時に魏州の妖人楊千郎といふものが墨子の術を知つてゐて、能く鬼神を使役し、丹砂水銀を化する事を爲すとて、莊宗の崇愛を得た事實が、五代史卷十四に見えるに至つてゐる。葛洪は面白い人だが、神仙傳を撰んで、多く神異の事を録したために斯樣いふ事が起つたので、又同人の著はした抱朴子及び金※經にも墨子と仙道に關することを載せてゐる。葛洪が妄撰した談だか、當時然樣いふ傳説が有つて、葛洪が之を記したのか不明だが、晉以來墨子が其爲に道家と縁を結んで、後には莊宗の爲に殺されて了ふ楊千郎の事の如きも五代の時には起るに至つたのである。然し何が幸になるか知れないもので、墨子が道家に混入させられた爲に、道藏の中に墨子の佳本が收採されてゐて、その爲に今日墨子を讀む便宜を得るに至つたのである。道藏外の墨子は訛舛の實に甚だしくて讀み難いものであつたのである。晉より後に至つて、梁の陶弘景、これも大學者の詩人であるが、道家が其の本領で、此人も神仙傳に依つて言を爲したのであらうが、墨子が金丹を服して仙となつたと記してゐる。孫子も鬼谷子も韓非子も諸葛孔明も、道家は皆これを道家にして了ふのであるから、墨子が道家にされても不思議は無いが、一つは墨子の學には「實物を處理する」ところがあつて、それが口授親傳され、そして其實際知識の得了されたものが所謂「巨子」となつて其學の宗師となる不文律のやうなものが有つたのであるから、神仙家の假託の談の成立つべき祕密傳授の如き地が有つたからであるかも知れない。墨子の弟子の禽滑釐が日に焦げ黒み、手足胼胝して苦學したといふが如きも、たゞ室内に在つて道を聞き教を受けるのでは然樣いふことになる譯は無い、工學的の實際を敢てしたればこそ然樣なるのであつて、然樣して其學成就すれば「巨子」となるのである。墨者の巨子孟勝が死に臨んで巨子を田襄子に屬した談の如くに、巨子といふのは儒家に於ける碩儒といふやうなたゞの美稱の意味のみでは無い、一種の相傳的地位といふやうなものの附加されてゐる意味を有してゐるのである。斯樣いふところは神仙家金丹家臭いところが無いでも無いのである。そして墨者は死を以て其道と地位とに殉ずる意氣が甚だ強かつたもので、墨子の弟子禽滑釐等三百人は楚を敵として死なうとし、巨子孟勝が呉起の亂に死した時は弟子徐弱をはじめ八十五人が皆死んでゐる。で、莊子には「巨子を以て聖人と爲し、皆之が尸たらんことを願ふ」と記し、淮南子には「墨子の服役百八十人、皆火に赴き刀を踏み、死して踵を旋さゞらしむ可し」と記し、新語の思務篇に「墨子の門、勇士多し」と云つてゐる。此等の有樣を考へると、墨學傳授の有樣は儒家とは大分異つて居り、特に兵科の事の實際を墨子の書の記してゐるところに照し考へれば、墨子は非戰主義では有るけれども、非戰主義でも無抵抗主義では無くて、侵略者を沈默させる主義であるため防禦的兵科を實習實行することをしたもので、それ故に史記に「守禦を善くす」と云はれたのである。神仙家の中には今日の化學作業の如きことをした者もある。墨子の學にも理化學的作業のやうなことをした部面も或は有つたかも知れぬ。飛行機の孩子の如き木鳶を墨子の造つた傳説も有り、雲梯等の攻城器械を無功ならしむる各般の實際設備と、攻城に對する防禦施爲とを墨子が説いてゐるところを觀ると、墨子の學は心識的のみで無くて手腕的の方面も伴なつてゐたもので、その實際施設の方面には口授親接によつて傳へられたものも多かつたらう。墨子が神仙家の方へ引張り込まれたのも少しは理由が有つたかも知れない。韓非子さへ其の學の核心に老子風の人生觀が少し許り存したため道家に入れられた位であるから。

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