Chapter 1 of 6

Chapter 1

これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノッチ・クーロチカに聞いた物語ぢやが、これには一つの故事来歴がついてゐる。ところで、元来このわしの記憶といふやつが、何ともはやお話にならぬ代物で、聞いたも聞かぬもとんとひとつでな。いはば、まるで篩の中へ水をつぎこんだのと変りがないのぢや。我れながら、それを百も承知なので、わざわざ彼にその物語を帳面へ書きつけておいて呉れるやうに頼んだ次第ぢや。――いや、どうか達者でゐて貰ひたいもので――あの先生わしには何時もじつに親切な男でな、筆をとるなり、さつそく書いておいて呉れたわい。わしはその帳面を小卓の押匣へしまつておいたのぢや。そら、諸君も御存じぢやらう、あの、戸口を入つた直ぐとつつきの隅にある小卓なんで……。いやはや、これはしたり、すつかり忘れてをつたが――諸君はまだ一度もわしの家へ来られたことがなかつたのぢやな。ところで、わしがもう三十年このかた連れ添ふうちの婆さんぢやが、恥をいへば目に一丁字もない女なんで。この婆さんがある時、何かの紙を下敷にして肉饅頭を焼いてござるのぢや。時に親愛なる読者諸君、うちの婆さんときたら、その肉饅頭を焼くのがめつぱふ上手なのぢや、あれくらゐ美味い肉饅頭はどこへ行つても食へつこない。それはさて、何気なくその肉饅頭の下敷にしてある紙を見ると――なにか文字が書いてある。へんに思ひあたる節があるので、小卓のところへ行つてしらべて見ると、どうぢやらう――くだんの帳面が半分くらゐの丁数になつてをるではないか! あとは残らず婆さんめ、肉饅頭を焼くたんびに、引きちぎつては使つてしまひをつたのぢや! だが、どうしやうがあらう、まさかこの老齢で、掴みあひができるではなしさ! 去年のことぢやが、たまたまガデャーチをとほつたので、まだその市へさしかかる前に、この一件についてステパン・イワーノッチをたづねることを忘れまいとて、わざわざ*忘れな結びをしておいたほどぢや。それだけならまだしも、市なかでくしやみが出たら、それをしほに必らずあの仁のことを想ひ出さうと、しかと我れと我が胸に約束しておいたのぢやが、それもこれも無駄ぢやつた。市をとほりながら、くしやみもしたし、ハンカチで鼻汁もかんだけれど肝腎のことはすつかり忘れてしまつてゐたのぢや。で、やつと気がついた頃は、市の関門を六露里ばかりも距たつてゐた。どうもしかたがない。尻切蜻蛉のままで印刷にまはすことになつてしまつた。だが、この物語のさきがどうなるか、是非とも知りたいとお望みの方には、ひとつガデャーチへ出むいて、ステパン・イワーノッチに訊ねていただくまでのことぢや。あの仁は大悦びでこの物語を、恐らくは初めからしまひまで、お話しすることぢやらう。住ひは石造の教会堂のつい近所でな。あすこのとつつきに小さい横町があるが、その横町へ曲るとすぐ、二つめか三つめの門がそれぢや。あ、さうさう、それよりもよい目標は、庭に太い棒が立つてゐて、それに鶉がかけてあり、草いろの女袴を穿いた、ふとつちよの女が出迎へる(ステパン・イワーノッチが独り者だといふことを御承知おき願ふのも妨げにはなるまい)と、それが彼の邸なのぢや。それとも市場で先生をつかまへることも出来る。奴さんはそこへ毎朝、九時までには必らず出かけて、自分の食膳を賑はす魚菜をみたてたり、アンティープ神父や、それから請負商の猶太人などと話し込んでゐるのが平素のならはしなんでな。それにあんな派手な花模様のズボンを穿いたり、鬱金の南京繻子で出来たフロックコートを著てゐる人間は、あの男のほかには一人もゐないから、すぐに見分けがつく。もう一つの目標は、歩く時にきまつて両腕をぐるぐる振りまはす癖のあることぢや。今は亡き彼地の陪審官デニス・ペトローッチは、遠くから彼の姿を見かけると、御覧なさい、御覧なさい、そら、あすこへ製粉場の風車が歩いて来ますぜ!と、きまつてさう言つたものぢや。

忘れな結び 用事を忘れず思ひ出すよすがに、ハンカチに結びこぶを作ること。

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