一 ハンナ
高らかな歌声が×××村の往還を川水のやうに流れてゐる。それは昼間の仕事と心遣ひに疲れた若者や娘たちが、朗らかな夕べの光りを浴びながら、がやがやと寄りつどつて、あの、いつも哀愁をおびた歌調にめいめいの歓びを唄ひだす時刻であつた。もの思はしげな夕闇は万象を朦朧たる遠景に融かしこんで、夢見るやうに蒼空を抱擁してゐる。もう黄昏なのに歌声はなほ鎮まらうともしない。村長の息子のレヴコーといふ若い哥薩克は、*バンドゥーラを抱へたまま、こつそり、唄ひ仲間から抜けだした。彼の頭には仔羊皮の帽子が載つてゐた。彼は片手で絃を掻き鳴らしながら、それにあはせて足拍子をとつて往還を進んでゆく。やがて、低い桜の木立にかこまれた一軒の茅舎の戸口にそつと立ちどまつた。それはいつたい誰の家だらう? 誰の戸口だらう? ちよつと息を殺してから、彼は絃の音に合はせて唄ひだした。
バンドゥーラ ギターに似た四絃琴で、小露西亜独特の楽器、我国の琵琶のやうに物語の吟詠の伴奏にも用ゐる。
お陽さま落ちて、ばんげになつた、
さあ出ておいで、恋人さん!
「いや、あの眼もとの涼しいおれの別嬪は、ぐつすり寝こんでゐると見える。」哥薩克は歌をやめると、窓際へ近づいて呟やいた。「ハーリャ、お前ねむつてるのかい、それともおれの傍へ出てくるのが嫌なのかい? おほかたお前は、誰ぞに見つかりはしないかと思ふんだらう、でなきやあ、その白い可愛らしい顔を冷たい夜風にあてるのが嫌なんだらう、きつと。それなら心配おしでないよ、誰もゐやしないし、今夜は暖かだよ。もしか誰ぞが来ても、おれがお前を長上衣にくるんで、おれの帯をまいて、両腕で隠してやるよ。――さうすれあ、誰にも見つかりつこなしさ。もしまた冷たい夜風が吹きつけても、おれがしつかりとお前を胸へ抱きしめて、接吻でぬくめて、白い可愛らしいお前の足にはおれの帽子をかぶせてやるよ。おれの心臓よ、小魚よ、頸飾よ! ちよつとでも顔を出しておくれ。せめてその白い小さい手だけでも、窓からさし出しておくれ……。ううん、お前は寝ちやあゐないんだ、この意地つぱり娘め!」彼は、ちよつとの間でも卑下したことを恥ぢるやうな調子で、声を高めた。「お前はこのおれをからかふのが面白いんだな。ぢやあ、あばよだ!」
彼はくるりと背をむけて、帽子を片さがりに引きおろすと、静かにバンドゥーラの絃を掻きならしながら、つんとして窓をはなれた。その時、戸口の木の把手がことりとつた。ギイつといふ音といつしよに戸があいた。そして、花羞かしい十七娘が微光につつまれて、木の把手をもつたまま、おづおづと後ろを振りかへり振りかへり閾を跨いだ。なかば朧ろな宵闇のなかに、澄みきつた二つの眼が星のやうに媚をたたへて輝やき、赤い珊瑚の頸飾がキラキラと光る。鋭い若者の眼は、面はゆげに少女の頬にのぼつた紅潮を見のがさなかつた。
「まあ、気みぢかな方つたら!」さう、娘はなかば口の中で怨ずるやうに、男に言つた。「もう腹を立ててるんだわ! なんだつてこんな時分にいらつしたの? ときどき、人が多勢で往来をあちこちしてるぢやありませんか……。あたし、からだぢゆうがぶるぶる顫へて……。」
「なあに、顫へるこたあないさ、おれの美しい恋人さん! もつとぴつたりおれにより添ふんだよ!」さう言ひながら若者は、長い革紐で頸に懸けてゐたバンドゥーラを撥ねのけて、女を抱きよせながら、その家の戸口にならんで腰をおろした。「おれは一時間だつてお前を見ないでゐるのが辛いのさ。」
「あたしが今どんなことを思つてるか、知つてて?」娘は物思はしげに男をじつと視つめながら遮ぎつた。「なんだかあたし、このさきふたりはこれまでのやうにちよいちよい逢はれなくなりさうな気がしてしやうがないの。こちらの人たちはみんな意地悪ねえ。女の子たちはあんな妬ましさうな目つきで眺めるし、若い衆たちは若い衆たちで……。そればかりか、この頃では、お母さんまであたしにきつう眼を見張るやうになつたんだもの。ほんとのことを言へば、あたし異郷にゐた時の方がよつぽど楽しかつたと思ふわ。」
この最後の言葉をいひきつた時、娘の顔には一種哀愁の影が浮かんだ。
「生れ故郷へ帰つて来て、やつと二た月やそこいらで、もう、退屈するなんて! おほかた、このおれにも倦きが来たんだらう?」
「まあ、あなたに倦きが来るなんて、そんなことないわ。」娘は微笑んで言つた。「あたし、あなたがとても好きなのよ。いなせな黒眉の哥薩克さん! あなたの、その鳶いろの眼が、あたし大好きなの。その眼であなたに見られると、ほんとに魂の底からにつこりさせられるやうに思へて、ぞくぞくするほど好い気持ちなの。それからあなたの、その黒い口髭の動く具合が、とても可愛いわ。あなたがおもてを歩いたり、歌を唄つたり、バンドゥーラを弾いたりするのを聴いてるのが、ほんとにあたし好きなのよ。」
「ああ、おれのハーリャ!」さう叫びざま、若者は娘を接吻して、一層ひしと自分の胸へ抱きすくめた。
「まあ、待つてよ! ちよいと、レヴコー! それよりか、あなた、あの、お父さんにお話しなすつて?」
「何をさ?」と、夢からでも醒めたやうに男は言つた。「ああ、おれがお前と結婚したいと思つて、お前もそれに賛成してるつてことかい? ああ話したよ。」だが、この話したよといふ一語は、彼の唇のうへで妙に憂鬱な響きを立てた。
「それで、どうでしたの?」
「親爺なんか、てんでお話にならんよ。あのおいぼれつたら、いつもの伝で、聞いて聞かぬ振りをしてるのさ。何を言つても取りあげないばかりか、あべこべに、おれが碌でもないところをほつつきまはつたり、仲間と往来で無茶な真似ばかりしてると言つて、さんざ毒づくのさ。だが何も心配することあねえよ、ハーリャ! おれは哥薩克魂に誓つて、きつと親爺を説き伏せて見せるから。」
「ええ、さうよ、レヴコー、あなたがさう仰つしやりさへすれば、屹度あなたの言葉どほりになるんですもの。あたし自分の身に覚えがあつて、よく分るの。ひよつとしたらあなたの言ひなりにはなるまいと思つたりするやうな時でも、あなたの言葉をきくと、ついうかうかとあなたの言ひなりになつてしまふんですもの。まあ、ちよいと!」女は男の肩に顔を凭せかけたまま、二人の前の桜の樹のいりくんだ枝に、ちやうど下から網を張つたやうに蔽はれた、暖かいウクライナの空の、果しなく青ずむ方へ眼をあげながらつづけた。「御覧なさいつたら、そうらね、遠くの方でお星さまがキラキラしばたたいてゐるでしよ、ひい、ふう、みい、よう、いつ……。あれはほんとに神様の天使たちが、天にあるめいめいの光りのお家の窓をあけては、あたしたちを見おろしてゐるんでしよ? さうでせう、レヴコー? あれは、このあたしたちの地上をお星さまが見護つてゐらつしやるんでしよ? もし、人間にも鳥のやうに翼が生えてゐたら、どうでせうねえ――あすこまで、高あく高くとんで行かれたら……。怖いわねえ! この辺には一本だつて天までとどくやうな樫の樹はないのね。だけれど、どこかしら遠い遠いお国に、梢が天国までもとどいて、ゆらゆら揺れてゐる樹が一本あるつてことよ。さうして復活祭の前の晩になると、神様がその樹をつたつて地上へ降りていらつしやるんだつて。」
「さうぢやあないよ、ハーリャ、神様のとこには天からこの下界までもとどく長い長い梯子があるのさ。それを復活祭の前になると、けだかい大天使たちがちやんと掛けるのさ、そして神様が一番うへの梯子段に足をおかけになるといつしよに、悪霊どもは残らず真逆さまに転げ落ちて、ひと塊まりになつて焦熱地獄へおちこんでしまふのさ。だから復活祭には、一匹だつて悪魔はこの地上にゐないつていふ訳なのさ。」
「まあ、なんて静かに水が揺れてること! まるで子供の揺籠みたいだわ!」さう言ひながらハンナは、暗い楓の茂みと、傷ましげな枝々を水に浸して哀哭してゐるやうな柳の木立にとりかこまれた、陰気な池の面を指さした。恰かも力萎えた老翁のやうに、その池は己が冷たい懐ろに遠く暗い大空を抱擁して、燦爛たる星々に氷のやうな接吻をそそいでゐる。星々は輝やかしい夜の帝の間もなき台臨をはやくも予覚するもののやうに、暖かい夜の大気のなかで仄かに揺曳する。森のかたへの丘のうへには、一棟の古い木造りの館が、鎧扉を閉したまままどろんでゐる。苔や雑草がその屋根を蔽ひ、窓さきには林檎の樹々が枝をひろげて生ひ茂り、森はその館を蔭につつんで不気味な凄みをそへ、榛の茂みが家の土台ぎはから生ひはびこつて、池の汀へとすべり下りてゐる。
「あたし、まるで夢みたいに憶えてゐるのよ。」と、ハンナはその館にじつと眸を凝らしながら言つた。「もう、ずつとずつと以前、まだあたしが小さくて、お母さんのそばにゐた頃に、あのお家のことで、なんか、それはそれは怖い物語を聞いたことがあつてよ。レヴコー、あなたは屹度そのお話ご存じでしよ。ね、話して頂戴な!」
「そんな話なんか、どうだつていいぢやないか、おれの別嬪さん! 女房連や馬鹿な手合は何を言ふやら分つたものぢやないよ。胸騒ぎがして、怖気づいて、夜もおちおち眠られなくなるのがおちだよ。」
「話してよ、話してよ、ね、可愛い、いなせな黒眉のお兄さんつてば!」彼女はさう言ひながら自分の顔を相手の頬におしつけて、男を抱きしめた。「ぢやあ、きつと、あんたはあたしを好いてゐないんだわ、あんたには屹度ほかに好い娘があるんだわ。ね、あたし怖がりなんかしなくつてよ。夜もとつくり眠るわ。もし話して下さらなければ、それこそ眠られやしないわ。気になつて気になつて、考へこんぢやふから……。ね、話してよ、レヴコー!……」
「なるほど、娘つこには好奇心をそそのかす鬼がついてるつてえのは、ほんとだ。お聴きよ、ぢやあ――それはずつと昔のことなんだよ。ね、あの館にはさる*百人長が住んでゐたのさ。その百人長には一人の娘があつたんだよ。綺麗な令嬢で、ちやうどお前の顔みたいに、雪のやうな肌の娘だつたのさ。百人長はもうずつと前に奥さんを亡くしてゐたので、新らしく後妻をむかへることにしたのさ。『お父さまは二度目のお嫁さんをお貰ひになつても、今までのやうにあたしを可愛がつて下さるの?』――『ああ可愛がらいでか、嬢や、これまでよりか、もつともつと強くお前を抱きしめてやるよ! 可愛がらいでか、嬢や、もつともつと綺麗な耳環や、頸飾を買つてやるよ!』
百人長 カザックの百人隊の長官で、ほぼ中隊長に相当する。 で、百人長は若い後妻を新らしい住居へ迎へたのさ。その新妻は美人だつた。白い生地へ紅を溶かしこんだやうな瑞々しい女だつた。だが、その女が義理の娘をきつと睨んだまなざしは、娘が思はずあつと叫び声をあげたくらゐ怖ろしかつたのさ。そしてまる一日ぢゆうこの邪慳な継母は一と言も娘に口をきかなかつた。夜になると、百人長は若い妻をつれて自分たちの寝間へ入つてしまつた。色の白い令嬢も自分の居間へ閉ぢこもつた。彼女は悲しくなつて、さめざめと涕きだした。ところが、ふと気がつくと物凄い黒猫が一匹、いつの間にか彼女の身辺へ忍び寄らうとしてゐるのさ。その毛は火のやうに光り、鉄のやうな爪で床を掻く音がバリバリと聞える。ぎよつと胆をつぶした娘は、咄嗟に腰掛の上へ飛びあがつた――すると猫もその後を追つて来る。娘は寝棚の上へ飛びあがつた――と、猫もそこへ飛びあがつて、いきなり、娘の頸へ掴みかかつて咽喉を絞めようとする。娘は悲鳴をあげながら、猫をもぎはなしざま、床へ投げつけた。だが又しても、この物凄い猫は立ちむかつて来る。娘は無性に口惜しくなつた。壁に父親の長劒が懸つてゐた。それをおつとりざま床をめがけて擲げおろした――と、鉄の爪をもつた前足を片方斬りおとされた猫は、ぎやつと叫ぶなり、部屋の隅の闇がりのなかへ姿を掻き消してしまつた。その翌る日、一日ぢゆう若い奥方は自分の居間から出て来なかつた。三日めに姿を見せた彼女の片手には繃帯が巻かれてゐた。可哀さうな令嬢は自分の継母が妖女であつたことと、自分がその片手を斬りおとしたことをさとつた。四日めから百人長の娘は、卑しい百姓娘と同じやうに、水汲みやら家のはき掃除に追ひ使はれて、奥へはもう一歩も足踏みをさせられなかつた。可哀さうに、娘にはそれが何より辛かつたけれど、どうすることも出来なかつた。彼女は父のいひなりになつてゐた。五日めになると百人長は、途中の用意に麺麭ひとかけ与へないで、裸足のままの娘を家から追ひ出してしまつた。その時、令嬢は白い顔を両手でおさへながら、恨めしさうにかう言つて泣くよりほかはなかつた。『お父さま、あなたはこの生みの娘を台なしにしておしまひになりました! あの妖女があなたの罪ぶかい魂を滅ぼしてしまつたのです! どうか神様があなたをお赦しになりますやうに、でも薄倖なあたしは、もうこの世に永らへることができません……。』――そこで、ほら、あすこに見えるだらう?……」さう言つて、レヴコーは館の方を指さしながら、ハンナを振りかへつた。「こつちの方を見て御覧よ、ほら、あの家から少しはなれた、一番小高い岸だよ! あの岸から、その令嬢は水のなかへ身投げをしたのだよ。そして、それつきりこの世へは戻つて来なかつたのさ……。」
「で、その妖女は?」と、涙のいつぱいにたまつた眼をじつと男にそそぎながら、おづおづとハンナが遮ぎつた。
「妖女かい? 婆さん連の想像では、その時からこつち、月夜の晩には、これまでにこの池へ身投げをした水死女たちが、みんな揃つてあの邸の庭へあがつて、月の光りで日向ぼつこをするんださうだが、百人長の娘はそのかしらに立てられてるつてことだよ。なんでも、或る晩のこと、ふと、池のほとりにゐる継母を見つけると、彼女は不意に躍りかかつて、喚き声もろとも水のなかへ曳きずりこんでしまつたとさ。ところが、妖女はさすがに尻尾をみせないや。彼女は水底で水死女のひとりに化けてしまつたのだ。さうして、水死女たちが彼女を打ちのめさうと身構へてゐた若蘆の笞をまんまとのがれたといふのさ。女房連のいふことを真にうけての話だよ! まだこんなことも言つてるのさ――令嬢は来る夜も来る夜も水死女たちをひとところへ集めて、そのうちどれが妖女なのかを見わけようものと焦つて、ひとりひとりの顔をしげしげと覗きこむのだが、今だにそれが分らないつてことだ。それで、だれかれなしに人の顔さへ見ればきまつて、それを見わけてくれればよし、さもなければ水の中へ曳きずりこむからと言つて嚇すのださうだよ。老人たちが語りつたへてゐる話といふのは、ざつとこのとほりだよ、ハーリャ!……今あすこを持つてゐる旦那は、あの敷地へ酒倉を建てようともくろんで、わざわざそのために酒男がこちらへ来てゐるんだ……。おや、話声がして来たよ。みんなが歌をおしまひにして帰つて来たんだな。では、さやうなら、ハーリャ! 静かにお寝み、そして、あんな女房連の作りばなしなんか気に懸けるんぢやないよ。」
さう言ふと彼は、娘をしかと抱きしめて、接吻をしておいて立ち去つた。
「さやうなら、レヴコー!」ハンナは、もの思はしげに暗い森の方を見つめながら言つた。
大きい、火のやうな月が、この時、おごそかに地平線のうしろから顔をのぞけた。まだ、した半分は地平にかくれてゐるが、もう下界は隈なく、一種荘厳な光輝に満たされた。池の水の面はキラキラと揺めいた。木立の影が小暗い青草のうへにくつきりと描きだされた。
「おやすみ、ハンナ!」さういふ声がうしろで聞えると同時に、彼女は接吻されてゐた。
「あら、また戻つていらして?」さう言つて彼女は振りかへつたが、見も知らぬ若者を眼の前に見ると、咄嗟に脇へ身をかはした。
「おやすみ、ハンナ!」またしてもさういふ声がして、再び彼女の頬を誰かが接吻した。
「まあ嫌だ、こつちにもゐたわ!」と、彼女は腹立しげに叫んだ。
「おやすみ、可愛らしいハンナ!」
「あら、まあだゐるんだわ!」
「おやすみ! おやすみ! おやすみ、ハンナ!」さういふ声といつしよに、四方八方から接吻の雨が彼女のうへに降りそそがれた。
「まあ、ほんとに、この人たちつたら、一聯隊もゐるんだわ!」彼女は、我れ勝ちに自分のからだへ抱きつかうとする若者たちの群れから身をすりぬけながら、叫んだ。「なんて性こりもなく接吻ばかりする人たちだらう! ほんとに、うつかり往来へも出られやしないわ!」
さういふ言葉についで扉はぴつたり閉され、ギーつといふ音がして、鉄の閂が挿されたらしかつた。