木曽駒
矧川志賀先生の『日本風景論』(第三版)を読まれた人は、日本には火山岩の多々なる事という章の終りに、附録として「登山の気風を興作すべし」という一文が添えてあることを記憶されているであろう。其の(七)に中部日本の花崗岩と題して、花崗岩の大塊が富士山火山脈の西に曳き、中部日本に蟠居していることを述べ、「所謂木曾地方悉く花崗岩に成り、其の荘厳雄大なる景象を表出するは実に此岩に因る。中部日本の花崗岩中、須らく登臨を試むべきは」、鎗ヶ岳(三五三一米)及び駒ヶ岳(二五五七米)であるとし、更に「中部日本の大花崗岩塊の東に片麻岩延縁す。既にして甲斐国裡に入り、二塊の花崗岩あり、西に在るを駒ヶ岳塊、東に在るを金峰山塊と称す、共に其の延縁せる面積は些少なるも、而かも此の小塊中に高峰累々、奇抜無比。試に登臨せんか」と呼びかけて、鞍懸山(一四八三米)、駒ヶ岳(三〇〇二米)、鳳凰山(二九一二米)、地蔵岳(二七九七米)及び金峰山(二五五一米)の五座が挙げてある。この記事を読んですっかり有頂天になり、鞍懸山は措て問わず、其他の六座は二千五百米から三千米を超えた日本に於ける花崗岩の代表的高山であるから、一つ残らず登りたいものだと、心もそぞろに待ち憧れていた機会到来して、勇躍旅程に上ったのは明治二十九年の七月であった。
この旅の主眼とするところは花崗岩の山に登ることではあったが、最初に久恋の立山に登り、次手に乗鞍岳と御岳の第二回登山とを試みたので、日数や天候に制限され、其上何といっても予備知識の不足が災いして、鎗ヶ岳と地蔵鳳凰の三山には登りそこねたけれども、両駒ヶ岳と金峰山とは思の儘に目的を果すことを得たので、可なり満足したのであった。この山旅を明治二十八年であったように書きもし話しもしたのは、全く記憶の誤りであって、近頃ふる反故と一からげになっていた雑誌の中から、幸にも駒ヶ岳の記行を載せたものを見付出したので、実は二十九年であったことが判明した。当時は歩くことにのみ身を入れて記録もとらず、簡素な旅日記のようなものさえ、既に散逸してしまったので、斯様な記憶の誤りが他にも有るのではないかと憚られて、憶い出の筆を取ることに躊躇されるのであるが、疎漏の罪は暫く寛恕を願いたい。
駒ヶ岳のこの古い記行は、漢文調を真似た極めて簡略な記事である。それでも今読んで見ると、忘れている節を憶い出す助けとなることが少くないので、これを基として回顧の筆を加えることも一興であろうかと思って、茲に引用することにしたのである。
信濃の中央より南に亘りて、木曾川天竜川の間に蟠れる花崗岩の大山脈あり、其最高峰を駒ヶ岳といふ、高さ八千六百尺、火山の如き広漠たる裾野を有することなく、直に鬱勃崛起して天空を刺し、崢たる峰巒半霄に磅して、石筍植うるが如く、危嶂時に其間に秀で、相頡頏して雲表に錯峙駢聳するさま、既に壮絶なるを覚ゆ、御岳の頂上よりして東に之を望めば、天色縹緲の間に嵯峨たる山峰の積翠を天外に湛へて、油然雲を吐くを見る、其山状の怪偉なる、吾未だ多く其比を見ず。山岳の高峻なるもの、ともすれば純骨を露はして、兀※たる岩石の外は、一木一草の青なく、徒に半天を掠めて転光景の凄愴たるに似もやらず、緑樹山の頂まで蔽ひて、翠を重ね紫を畳み、花崗岩の純白なるものと相映じ、秀色洗ふが如く、蔚乎たる峰勢飛動せんと欲す、若夫れ富岳を以て名山の標準となし、秀麗なる円錐形をなせる火山を以て、山の正なるものとせば、則花崗岩の諸山は其奇なるものに非るなきを得んや、想ふに太古にありて火山の磊たりしものも、星霜を経るの久しき、岩石漸く※爛して、苔を生じ土に掩はれ、遂に今日の観を呈するに至れりしも、其往往にて直截壁立、痛奇を極むること妙義戸隠の如くなるは、これ蓋し異数にして、所謂正中の奇なるものか。駒ヶ岳に至りては実に奇中の奇にして、景象の跌宕眺望の雄大、真に人の意表に出づるものあり、平常多くは曠茫たる裾野を有する火山をのみ看熟せるもの、忽ちこの奇秀に接す、その特に之を激賞する故なしとせんや。
余りにも多く画の多い字を用いたので、漢文科を志していた友人から、なぜ漢文で書かなかったと叱られた程である。『文選』を耽読していたのと、どうも偏に山や石のついた字を使わないと、気分が露れないように思った年少客気の致すところと相俟って、こんな文章となってしまった。勿論『風景論』其者から大なる影響を受けたことは言う迄もない。八千六百尺の標高は、少しでも山を高くしたい贔負目から、『風景論』のものを採用しないで、何処かで瞥見した地質調査所発行の中部地質図に、等高線が二千六百米となっていたように思ったので、夫に従ったものらしいが判然した記憶がない。磊たる熔岩から成る火山が、幾多の年月を経て、岩石※爛の結果、秀麗なる外観を呈するに至ったなどと、曖昧なことは書かずともある可きものを、これも火山に対する無知から勢に駆られた筆の仕業であると見て頂きたい。
山勢の奇抜此の如し、是を以て峭壁至る所に峙ち、千仭削り成して長屏を囲らすが如く、冉々として岫を出づる白雲の低く懸崖の半に揺曳して、宛然神仙の雲梯を架するに似たるを見る、加ふるに潤沢せる草樹の間より流れ出づる幾多の渓流は、淙々として急激なる斜面を奔下し、尽く懸りて飛瀑をなし、危岩の突出せるに遇ひては乱糸となり素絹となり、層々相趁うて墜落すること数十丈、更に集りて藍をせる一道の迅流となり、大塊に砕けたる花崗岩の幾んど楕円形となれるが中を屈折流駛して、終に木曾川天竜川に入る、其水や清冷に、其石や純白に、山水の景致是に至りて其美を極むといふべし。
これは少し山を登ったことのある人ならば、地図を按じて紙上に筆を走らすことを得可き概念的な記事に近いものである。何か漢文の記行を読んで、之を模倣して書いたものらしい。尤も遠見場から眺めた滑川の左岸を成す物凄い山稜や、伊那の前岳から千畳敷を隔てて望んだ主脈の東側、及び黒川上流の岩壁など、充分目を驚かすに足る光景を脳裡に浮べて、其他を類推したものであるにしても。昼過ぎだから雲は捲いていた。瀑と想ったものも、其中の幾つかは谷らしい窪の白いガレであったかも知れぬと思う。
吾既に御岳を攀ぢて遍く山巓の奇勝を探り、地獄谷の噴煙を視、中山道を下りて其夜は寝覚の里に宿り、明れば八月十五日、駒ヶ岳へと志し、一渓流に沿ひ登ること半里ばかり、敬神の瀑を見る、更に登ること二里、熊笹を排し、矮樹を踏みて進み行けば、枯木自ら僵れて竜路に横たはり、土柔かに苔潤ひ、老檜枝を交へて崇軒高聳し、白日猶ほ暗く、習習たる冷風谷より吹き上りて、白露衣襟に落つるなど、浮世に遠き山中とて、早くも秋の音づれてや、こゝかしこの岩蔭には萩、桔梗、女郎花などの名も知らぬ花の中に咲き匂ひて、をかしさいはむ方なけれども、山深くして鳥の声も稀なれば、神澄み骨冴えて、物とはなしに凄まじく、憩ひもあへず辿り行くに、途益急にして、樵夫の外には通ふ人もあらざればにや、蘚菌滑かなること粘土の如く、転するもの数次、遂に巨巌の欹つありて、仄径縷の如くなるを過れば、金懸の小屋といふに達す。
御岳の頂上から黒沢口を下って、福島に着いたのは午後二時半であった。未だ日も高いし、駒ヶ岳へ登るには上松に泊る方が便利なので、川沿いの道を南に下って行く。桟橋の旧跡といわれているあたりは、木曾川の幅も岩崖の間に狭まり、泡立つ急流が足の下に迫って、一寸好い景色であった。上松で聞くと、寝覚からも駒ヶ岳へ登る路があるというので、これ幸とそこ迄行くことにする、町はずれの左側に石の段があって、「駒ヶ岳登山道是より四里二十町」と書いた標石が建っている、是が一合目に在る里宮に通ずる道であろうと思った。間もなく寝覚に着いて、越前屋というに荷物を預け、寝覚の床を見物した。余り期待が大きかったので、これなら規模は小さいが、岩は寧ろ一之関の厳美渓の方がよいと思わず独語したのは、少し当のはずれた腹癒せに外ならない。臨川寺の前には浦島堂というお堂があって、浦島太郎の遺物と称するものが保存され、釣竿だという二間あまりの布袋竹らしいものもあった。
越前屋に戻ると、部屋に案内されてまだ腰もおろさぬ中に、女中から、
「お客さん、そばでお泊りか、御飯でお泊りか」
ときかれて、何の事か能く意味が分らず、返事にまごついたのであった。謂れを聞けば浦島太郎に因んだ長寿そばというのが此家の名物であるとのこと。元より好物であるから早速そばで泊ることにする。
座敷を見廻すと床の間の柱にくくり付けられた五、六本の篠竹に、子供が書いたらしい七夕の色紙が下げてあった。明日が旧暦の七夕に当るのである。其色紙に書いてある文字が何と木曾義仲、源義経、楠正成といったように多くは武将の名であって、漸く天の川と書いたのがあったかと思うと、今度は木曾川、吉野川などと川の名が挙げてある。これには七夕様も驚くことであろう。上松で見たものも大抵似たり寄ったりで、なかのりさんで名高い木曾の、しかも其頃の風習としては、興のさめる七夕祭りであると思った。
風呂から上るとそばが出た。見ると驚く可し、居丈に均しい程ざるが積まれてある、何でも十はあったようだ。それを余さず平げる人のあればこそ、斯うして出すものと見える。私は朝の分まで一緒に持って来たのかと思った程で、我慢にも食べ切れずに四つ許りは残してしまった。翌朝は御飯にして貰ったが、別にそばのざるが四つ、ちゃんと添えてあった。
暫くすると按摩がやって来た、これは用がないから断る。今度は小娘が花漬を売りに来た。見ると四角や円い曲物の底に、金山寺味噌のようなものを入れて、其上に梅、桃、李などの紅や白の花を置き並べたものであるが、蕾もあり開いたものもあり、それを或は扇形、或は菱形、又は花模様という工合に、容れ物に応じて並べ方を替えてある。其花の色が頗る鮮かで、生きた花と変りない。私はそれを塩漬の桜の花のように湯に浸して賞味するものかと思ったが、そうではなく、単に見る物であることを後に知った。余り奇麗なので、先の長い道中の荷厄介を承知しながら、勧められる儘に五箱ばかり買った。斯うした土地の産物を泊り客に売りに来ることは、昔は珍らしいことではなかった。
一人旅の心安さに朝の出立は兎角遅くなり勝だ。寝覚の里の南はずれまで行くと、教えられた通り駒ヶ岳登山道と書いた杭があった。小径を東に伝って滑川の畔に出で、夫に沿うて河原を小一里遡ったのであるが、左岸であったか右岸であったか覚えがない。瀑も見た。記行には夫を敬神の瀑とはっきり書いてしまったが、吾ながら今も迷っている。
上松からの登路と合したことは少しも気付かず、しばし谷間を辿ったかと思うと、路は左を指して嶮しく急な上りとなり、忽ち昼も薄暗い檜の大深林の中に抱き込まれて了った。路とはいうものの一条の細径たるに過ぎない。それも或は灌木や篶竹が掩いかぶさり、或は木の根や岩角が段を成し、時としては倒木が横たわり、大巌が面前に屹立するなど、一人では全く心細いものであった。この林の中にも花金鼠が非常に多く、体に黄色の縦縞があって、長い房々した尾を栗鼠のように背に負いながら、木から木へと跳び移っている。人を見ても余り驚く様子もなく、時としては四、五尺の距離まで近寄って来ることがあった。遅いように見えても実は極めて敏捷であるから、散々追い廻したが勿論捉え得る筈もなかった。檜に交って樅や椈なども少しはあったように思う。金懸の小屋は上松から二里余、丁度五合目に当っている。萩、桔梗、女郎花などがこの高さにある筈がない。何か知ってる花はないかと、考えに考えても思い出せなかった苦しまぎれに麓の花を筆の先で移植したのであった。
此処前に谷を瞰み、後に嵎を負ひ、樅檜奥深く繁り合ひて、木の下露も冷やかなり、吾直に入て主を呼び、膝を抱て共に談る。主石鼎に泉を汲みて茶を煮、蕈を羮にして飯を供す、芳香脆美、覚えず数杯を尽し、暫し憩ひてまた登る。石片危く畳み、樹根怪しく蟠り、漸く上るに従うて花崗岩の大塊交々天を衝て起ち、或は竦峙壁の如く、上に土壌を戴き、稚樅翠黛を粧ひ、或は襞層刀稜の如く、老樹石罅より生じて岩を攫み、根痩せ幹曲りて、直立することを得ず、直に岩面に沿うて俯伏し、往々にして岩をぐるものあるに至る、其間雪よりも白き山百合の露を帯びて咲き残りたるは、唯これ仙女の笑を含みて立てるかと思はれ、白雲身をのせて徐々として登り行けば、天風衣を吹いて異薫身にしみわたり、清楚また人界のものにあらず、聞く山中の花木は豪健磊落なりと、今にして其言の謬らざるを信ず、吾曾て妙義の勝をたづね、之を攀づること前後三たび、深く山状の雄偉にして景象の変化あるに服せしが、是に至りて初めて駒ヶ岳の匹儔に非ざるを知りぬ。
小屋から左に坂を下ること二、三町、一段と大きな木立が繁り合っている場所に岩の間から清水が湧き出している。それを汲んで来て小屋の外にある中凹になった大きな岩に湛えてあった。石鼎としゃれた所以である。白い花は何であったか名を知らないので、茲でも復苦しまぎれに山百合を移植した。如何も漢文口調を真似ると悪い癖が出る。今ならば骨を折って嘘を書かずとも済むものをと、当時を顧みて苦笑を禁じ得ない。しかし小屋の前には実際山百合が咲いていたので、八月半に珍しいことだと訊ねて見れば、下から持って来た球を植えたものだとのことであった。
一時間近くも話し込んで、いざ出立しようと腰を上げた途端に、御免というて上手から入って来たのは年のころ、四十五、六、白布を鉢巻とし、身長六尺に近い大入道で、鼠色の行衣に籠手臑当と見まごう手甲に脚袢、胡桃の実程もある大粒の水晶の珠数を襷のようにかけ、手に握太の柄をすげた錫杖を突き、背には重そうな笈を負うていた。行脚僧か修験者か知らないが名のみ聞く武蔵坊弁慶とはこんな人かと想わせる風体に、主も少なからず驚いた様子であるし、私は恐れて片隅から窃み見ていた。すると其人は主の汲み出す渋茶を啜りながら、私に声をかけて、上りか下りかと聞く、上りと答える。夫は若いのに感心だ。この先で頂上の近くに崩れがある、そこで路が途切れているから気を付けなさいと注意して呉れた。見懸けによらず親切なのに安心して、失礼ながらと身の上を尋ねる。ハハア俺かと笑を含んで可なり詳しく話して呉れたのであったが、其当時書き留めて置かなかったので殆ど忘れてしまったのは、今思うと誠に惜しいことをしてしまった。
其人は何でも尾張の春日井郡の者で、十年ばかり前から日本全国の神社仏閣の参拝を思い立ち、今が三度目とかの途中であるとの事であった。そして参拝した社寺では、必ず捺印して貰うことにしている。それも登山したものは頂上の印を押すのであるが、其印を備えて無い山が多い。この駒ヶ岳なども夫が無いのは甚だ不都合である。笈の中は捺印帖と野宿の時の自炊道具で、米は何時でも一升を携帯していると話した。そこで其帖を拝見に及んだ。奉書だったか鳥の子だったか何でも立派な紙で、錦襴の表装が施してあり、一冊の厚さ二寸に近く、夫が十冊揃っている。開いて見ると寺は能く知らないが、山では恐山、岩木、鳥海、月山其他私の知らない奥羽の山から、北越関東の山名がずらりと並んで、大きな印が押してある。私は見ている中に嫉ましい程羨ましくなったのを覚えている。家にはこれと同じ物が三十冊もあると言われて、全く茫然としてしまった。笈の重量は九貫目あると言う。私は二貫目あるかなしの自分の両懸の荷物を眺めて、何となく恥かしいような気がしたのであった。尾張の春日井郡といえば、天明五年に御岳の黒沢口の登路を中興した覚明行者の生れ故郷で、御岳講の最も盛んな土地であるから、斯様な人が出るのも不思議ではないと首肯される。
斯くて途もなき巌角を踰え、物古りたる灌木の叉簇せる中を上り行くこと一里余にして、林茲に尽れば、雪かと見まがふばかりなる花崗岩もて、築き上げたらむが如き峻岳の嶢として峙てるに、見渡す限り偃松生ひ続きて、蒼髯白沙に映じ、雷鳥其間に棲息し、壑を隔てゝ左に前岳、右に宝剣岳の※※たるを仰ぐ、その半腹には十数条の渓流枝を伸せる緑樹の間に懸りて、さながら白竜の夭※たるが如く、谷間に群れ飛ぶ岩燕も、渺として枯葉の舞ふに異ならず、下は千仭の谷底幽かに、上は万丈の碧落遠く、蒼茫潤沢の気騰々としてらむと欲し、青嵐ひとり動く、既にして山勢俄かに蹙まり、双崖面を掠めて向ふところを知らず、僅に石脈の凹凸せるものに足を托し、駕して之を上れば、危石梁をなし、懸崖深く陥り、足を容るゝところなく、万木森然として唯其梢を瞰る、両手に石を抱き、匍匐して渡り過ぐるに体ふるひ足わなゝき、蓮蹇として纔に之を踰ゆることを得たり、山路の険悪なる未だ曾て此の如きものを見ず、御岳の第三火口に下るところ、赭岩壁立して崩石人と共に下り、頗る危険なれども、彼と此とを較ぶる時は、霄壌も啻ならざるに似たり、今よりして之を想ふも尚ほ冷汗背に浹きを覚ゆ。
午後二時頃に小屋を立った。これから上は花崗岩の大塊が縦横に錯峙し、木は皆ねじけくねって如何にも高山らしい相を呈して来る。遠見場まで登ると林が尽きて一時に眺望がひらけ、全山雪のような花崗岩の細砂に掩われた駒ヶ岳の八合目から上が眼前に展開した。殊に三ノ沢岳から宝剣岳に連る山稜は私を瞠目せしむるに充分であった。当時三ノ沢岳の名を知らなかったので、谷を隔てもせぬ前岳の名を挙げたが、これは左に宝剣岳右に三ノ沢岳と改めなければ適切でない。雷鳥は可なり多かった。翌日私は造作なく頂上で二羽を捕え、其翼を土産に持ち帰った。蚕児の箒立てに雷鳥の羽を使うと蚕があたるというので、御岳で拾った二、三本の尾羽すら珍重されていることを思い出したからである。途中急な登りに疲れて、ふと立止って見上ぐる鼻の先の岩の上に、剣を持った銅像が立っていて、ハッと胆を潰したことも一、二度あった。行者から注意された崩れの所では、終に路が発見されず、止むなく尾根伝いに前岳を登って、馬の背のような岩壁の上を這って渡った。其時左手の二町ばかり下の斜面に二頭の熊を初めて見て、どんなに怖れたことであったか。
いたく疲れたりければ、暫し休息せんとて岩に腰打ち掛けたるまゝ、茫然として吾あるを知らざりしが、忽ち跫音渓間に起り、低く咆哮するものあるを聞く、怪しんで顧れば、渓に臨める巨巌の下に其色墨よりも黒き物の半身を顕はせるを見る、相去ること四百歩許、熟視すれば熊也。大に驚きて急ぎ身を岩蔭に潜め、屏息して之を窺ふ、暫くありてまた咆哮する声の聞えて、一頭の大熊徐ろに蒙茸を排き、渓のほとりを歩みつつも、既に吾を認めしものの如く、矚視之を久うして、終に灌木の中に入る、かゝる程に梢を渡る一陣の渓風、驀然として袂を捲き、肌に粟を生じて汗氷よりも冷やかに、鬼気人を襲ふかと覚えて、そゞろに心の急かるれば、遑しくこゝを立ちいで、俯伏せる偃松の間を右に上り左に廻りて、嶄巌の上を辿り行くこと二十余町、辛うじて前岳の頂に達し、頭を回して来路を俯せば、跡はいつしか白雲に埋れて、身は山上の孤客となり、千古変らざるの天風、嫋々として直に穹窿より流れ来り、斜陽われを照して、翠紫を畳める四山の落暉、月影よりも淡し。
この夜絶巓より九町下なる玉窪の小屋といふに宿り、駒ヶ岳神社の祠官の神龕を開くとて上松より登山せるものと会し、酒を汲み蕈を灸りつゝ夜もすがら語ふに、七月七日の月は宵より中天に懸り、皎々たる光雪の如き花崗岩を照し、白雲谷より谷を埋め来りて、をりふしは窓の下に訪るゝなど、身は陶然として広寒宮裏の仙かと疑はるゝに、樹梢を伝ふ猿の声、近く屋外に聞えて、いと哀なり。
玉窪の小屋に着いたのは五時頃であったろう。小屋はひっそりと閉ざされて人気もない。暫く四辺をぶらついている中に、主人が薬草採りから戻って来た。間もなく一人の若者を伴に神官が上松から登って来るし、日没近く土地の者らしい御岳講の連中が十二、三人やって来たので、小屋は賑わった。神官は下から持って来させた茄子、胡瓜などの野菜を分けて呉れる、私は小屋で酒を買って神前に供え、祝詞が済むと夫を下げて、神官と小屋の主人と私と、別室で互に酒を汲み交しながら、夜遅くまで話した。七日の月は中央に輝いて下界は一面の雲の海だ。ほろ酔いの頬には山上の夜気も心地よく感ずる、これで時々聞える猿の声だという稍鋭い叫びが耳に入らなければ、天上の仙人になりすませたかも知れないと思った。
つとめて小屋をうち出で、巨巌の上に散在せる枝が枝を踏んで、白らみゆく光をたよりに攀ぢ登れば、猟々たる寒風雲霧を捲きて、咫尺の程も見えわかず、やゝ頂上に達して始めて風止み霧収り、山巓の曙色洗ふが如く、旭に映ゆる花崗岩の群巒脚下に簇立して、危峰削られ怪巌蟠り、峭壁峙ち飛瀑下り、崖上壁面尽く偃松を生じ、山腹に森列せる一帯の樹林、蓊蔚として凝黛を沈め、疎密相錯り、濃淡相接し、空翠愈明にして谷益邃かに、として終る所を知らず、更に頭を挙げて眺矚すれば、四周の大嶺天を摩して起り、近くは御岳、乗鞍岳、白峰赤石の諸山、遠くは富士の高嶺、越の白山など、ひとしく双眸のうちに入り、澎湃として岳麓をめぐれる暁雲の上に其青螺を露はして、大海に泛べる孤島に似たるを見る、風物の雄大は更にもいはず、その眼界の宏壮なる、亦以て海内の偉観と称するに足る、巓の東北に一池あり、玉池といふ、めぐり十町ばかり、地層の陥没せる所に雨潦のたまりしものにして、その色堆藍の如く、青嶼其中に浮び、白沙水畔を彩り、風景の瀟洒なる山上の湖としも思はれず、其南に当りて宝剣岳突兀として立てり、巌角を躡みて之に登れば、始めて来往せる白雲の間より、天竜川の一条の銀蛇となりて南走するを望む。
明る朝は少し荒れ模様であったが、日が出ると静穏になった。神官と連れ立って絶頂に登り、神祠の前にぬかずき、さて後ゆっくりと眺に耽った。天候が一変するらしく、高い巻雲や巻層雲が少し空に靡いて、非常な速度で東北の方に動いていたが、此処から見られる程の山は、四方を取り巻く雲海の上に姿を露わしていた。唯乗鞍岳と槍ヶ岳のみは黒い雲に包まれ、雨でも降っているらしい気配があった。此処で神官と別れ、私は中岳を経て伊那の小屋に至り、荷物を置いて農ヶ池を見物し、引返して宝剣岳に登った。恐ろしく急な山もあるものだと呆れた程、岩で築き上げたような狭い頂上は、手放しでは安心して立っていられないような気がした。それでも小さい祠があって、手力雄命が祭ってある。前岳のは日本武尊、本岳のは倉稲魂命で、伊那の前岳にも何神か祭ってあったが記憶に存しない。農ヶ池を玉池と誤記した事に就ては「登山談義」を参照して頂きたい。窪地に水の溜ったものとすらすら書けば無難であるのに、地層だの陥没だのと、地質学の術語と紛れ易い文字を用いたのが吾ながら気が知れない。池の付近には恐らく高山植物が咲いていたであろうに、少しも記憶していないことから推せば、萩、桔梗などの助けを借りなければならなかったのは寧ろ当然という可きである。
古より山に登るもの、必ず日出を以て山上の一大奇観となし、嘆賞措かず、吾前人の文を読んで其記事に至る毎に、常に巻を掩うて其状を想見せずんばあらず、後閑を得て出遊するに及び、至る所の名山大岳、概ね之を攀ぢて其山上に一泊し、殆ど日出の真を窺ふことを得たり、然れども遂に奇たるを覚えず、信甲二州の諸岳の如き、共にこれ日本有数の高山にして、而も日出の時に於ける金縷錯乱の状は、雨後新霽のあした、海岸平地に於て見る所と大差なく、特に奇とするに足らざるなり、山上の壮景はもと日出其者に非ずして、寧ろ其前後に於ける自然の大観にあり、此大観を発揚して、光彩陸離たらしむるものは、実に水蒸気の変形たる雲にありとす、若夫れ払暁、高山の巓に立ちて四望せんか、東天漸く白くして曙色漸く洽く、よべの名残の星まづ消えゆくと見る程に、たゆたふが如き夜色も次第に沈み行きて、立ちこむる峰の横雲ほの白く見え渡り、浩渺として津涯を知らず、須臾にして太陽地平線に上れば、雲之と映発して五彩色を成し、其上に画けるが如き峰頂の或は一峰秀立し、或は数峰岐峙するを見る、紛糾たる幾多の村落また脚下に点綴して、髣髴として隠約の間に在り、時に顧れば身もいつしか雲に駕して、歩虚の仙たらむとす、既にして朝風徐ろに面を払ふに至れば、雲之に伴うて層々浮動し、忽ちにして茫々一白、忽ちにして山湧き河流れ、千象万景得て端倪すべからず、山上の大観むしろ之に過ぐるものあらんや、彼の海や湖や、大岳の巓よりして之を望む、混沌一色、些の変化なく、如何ぞ美と称し奇と呼ぶを得んや、是に於てか初めて知る、古人の所謂「山不得水不生動」の句は、唯これ平地より山岳を仰望する時に於てのみ然るものにして、未だ移して以て山上の壮景を説く可からざることを、山は水あるべし、而も遂に雲なかる可からず。
駒ヶ岳の頂上でゆくりなくも素晴らしい雲海と、変幻極りなき其活動とを見て、日の出の礼讃者は多いが雲海の嘆美者がないのに業を煮やして書いたものであった。久保天随君の著わせる明治三十三年発行の『山水美論』を見ると、殆んど同じ事が書いてある。私と同感であったらしい。
かくて広闊なる頂上を徘徊して、自然の大観に俯仰し、天地間の美を極め、清風に嘯きて静に瞑思黙想すれば、宏遠の気象胸中に鬱積して、飄然として身の塵世にあるを忘る、唯神霊の境凡骨久しく駐る可らず、急ぎ路をもとめて宮田に下り、天竜川のほとりより瞻仰として顧れば、宝剣岳の尖頂雲表に出没して、吾を送るものゝ如きを見る。
宝剣岳を下りて伊那の小屋に少憩した後、午後一時に伊那の前岳から烏帽子山に通ずる路を宮田に向って下り始めた。前岳の東の突端に至るまでは、大岩が屹立しているのみでさしたる高低もないが、突端からは急転直下する峻坂で、偃松帯を離れると、また、黒木の大森林である。其路筋は恐らく五万の図に記入されているものであったろう。途中では一人にも遭わなかった。宮田に着いたのは四時半頃で、急いだ為に可なり疲れてはいたが、甲斐駒に登る便宜上、更に二里を歩いて六時頃伊那部に着いて柳屋というに泊ったのであった。