水源地の記文
ここに利根川水源地というのは、大略西は宝川笠ヶ岳の支脈と、東は武尊山の支脈とに依りて限られた利根川上流の地域を指したものである。此地方の山は割合に高度が低いので、谷は深く木立は繁っているにも拘らず、人目を惹くことが少ない許りか、反て夫が為に人を遠ざからしめる傾がないでもない。私の知っている限りでは、古来此地方に関する記行文としては、僅に『上野藤原温泉記行』と「利根水源探検紀行」との二編を有するに過ぎないのを見ても、探訪の人が稀であったことが分るであろう。この中前者は天保十三年に宝川温泉へ湯治に行った時の記行であって、著者は不明であるが、文中に「かの処は上のしろしめす土地なれば」とあるので、当時此地の領主であった沼田の土岐家の人であったことが察せられる。弥生の十八日(高頭君編著の太陽暦年表に拠れば陽暦四月二十八日)に江戸を出発して其日は桶川泊。十九日は境(伊勢崎の東南一里半)、二十日は赤城山西麓の溝呂木に泊って、二十一日の昼頃に森下に着いた。然るに片品川が雪しろ水で渡船が出ない。止むなく其日は森下に逗留し、二十二日森下から二里半許上流の生越の先で川が二岐している所に架した橋を渡って沼田に入り、荷物の着く迄滞在。二十六日沼田を出立、高日向にて銚子橋を渡り、利根川の右岸に沿うて沼原大穴の二村を過ぎ、湯檜曾橋を渡り、夜後橋にて利根の左岸に移り、西橋にて再び右岸に出で、山路の残雪を蹈んで、其日の夕暮終に宝川温泉に到着した。「沼田より遠く雪のみへし山も次第に近くなり、つひに雪の消残る山のふもとをよぢいる也」など、昔の人の山に入る心持がよく顕れている。道中はすべて駕籠に乗ったようである。此処に一ヶ月ほど滞在して、其間に見聞したことや地方の有様などを筆に任せて書き付けてあるが、参考とす可き有益の資料に乏しくない。後者は明治二十七年九月に群馬県師範学校教諭渡辺千吉郎氏が利根川水源の探検を企て、一行十数名と共に二十一日湯小屋を出発して大芦に出で、矢倉橋を渡りて利根の右岸を遡り、其日は湯の花附近の河原に野営。二十二日西仙ノ倉沢を過ぎて利根の左岸に移り、午前十時水長沢の合流点に達し、利根川の本流を左に見て、其儘真直に水長沢に沿うて進んだ。一里許り行くと河床が辿れなくなる。右岸の山腹を攀じ、途中一泊して二十三日に井戸沢山脈の一峰に登ることを得た。此処から初めて利根川が幽谷の間に白練を布けるが如く流れているのを下瞰し、其奥に大利根岳の突兀天に朝するを望み、水源探検の目的殆ど爰に終れりとし、再び水長沢に下りて之を遡り、上越国境山脈を踰えて尾瀬に出ることに決し、途中二泊して所謂文殊岩を発見したる後、二十五日午後に至りて漸く尾瀬ヶ原に達し、夫より戸倉に出で、二十九日沼田に帰着した当時の実況を詳細に記述したものである(明治二十八年一月発行の『太陽』第一巻第一号所載「利根水源探検紀行」参照)。これも有益な資料であるには相違ないが、山や谷の名称も模様も極めて纔に紹介されているのであるから、読過一番思ったより得る所が少ないのは是非もない。それというのも人夫の大部分が藤原の者でなく、且好案内者を伴わなかった結果である。
私が此地方に始めて足を蹈入れたのは、渡辺氏の一行に追蹤して尾瀬に出た時であるが、今にして其当時を回想するも何一つ記憶に存しているものが無い。岩を攀じたり流を乱したりすることに満身の興味を覚えて、人の導くが儘に黙々として足を運ぶ初心の年少登山者に、元より何等観察眼などある可き筈もなかった。
大正九年の夏になって、日高、藤島の二君と利根の奥に行こうではないかということに話が纏った。藤原の小学校や其地唯一の旅舎である柳淀の主人に照会して、山地の形勢、登路の有無、人夫の賃金其他を問合せるなど、一人で骨折って呉れた日高君が、愈七月十日の夜に出発しようとする数日前になって、急に都合が悪くなって同行を断られたのは遺憾であったが、兼て此方面に注目していた武田君が一行に加わることになった。三人は七月十七日の夜行列車で上野駅を出発して、翌十八日高崎駅に下車し、夫より電車の便を借りて沼田に至り、沼田から自動車で小日向に行き、此処で藤原へ戻る馬を頼んで荷物だけを運ばせ、三人は空身でぶらぶら歩きながら、其日の午後六時というに打上の柳淀に着いた。尤も武田君は早く帰京しなければならぬ事情があったので、私達は最初に至仏、笠品及武尊の三山に登り、其後藤島君と私とは利根の奥へ出発することに極めて、先ず至仏山へ登る目的で十九日に湯之小屋へ出懸けた。然るに案内を頼もうと思った湯屋の主人の強慾に呆れて、残念ではあったが登山を中止し、翌二十日柳淀に帰ると直に準備を命じ、藤島君と私とは二十一日に予定の旅に上り、武田君は宝川笠ヶ岳に登った後、玉原越を経て帰京の途に就かれた。私達は初の考とは多少計画を変えて、利根川水源地の登山の第一歩を小沢岳に向って投ずることにした。そして二十三日の午前十時過に漸く其頂上に攀じ登ることを得た。夫からは上越の国境山脈を辿り、露営四泊にして二十七日午後三時大白沢山の一角に達し、猫又川を下りて貉沢から至仏山に上り、ヘエヅル沢を下って二十九日に柳淀に帰着したのである。
上述のような次第で実際私の跋渉した部分は甚だ少く、其余の宝川笠ヶ岳から小沢岳に至る上越国境山脈や、片品水上二村の界をなす山脈及この両山脈から派出する幾多の支山脈に就ては、更に知る所がないというてよいのである。是等は他日蹈査の上増補する考であるが、其中の若干は地誌や絵図の類に拠って、其梗概だけでも述べて置くことにした。