二
二十二日。初狩駅で下車して荷拵が済むと直に歩き出す、浅井君のキャビネ版の写真機が荷物になるので皆で分担することにした。其他は二度分の食糧と少許の防寒具に過ぎない。空は隈なく晴れて陰暦十月十八日の月が照っている。真木では織物に名を得た郡内の地方だけに、電灯の光と共に梭の音の洩れて来る早起きの家もあった。やがて西奥山に通ずる道と岐れ、桑畑の間を辿って、間もなく小山の突き出している鼻を左に曲って行くと、橋を渡って真木川の右岸に移った。思いの外に岸も高く岩壁なども露出して、滝でもあるらしい水音が聞えた。こういう夜道をすると、いつも木下利玄の
夜さむ道向うにきこえそめしせゝらぎに歩みは近より音のところを通る
せゝらぎの音するところに来かゝりしがまた遠退きてわが夜道すも
というのが思い出される。道は追々と勾配を増すが、間明野を過ぎて桑西に至る迄は迷うようなことは滅多にない。極めて寒村らしく想像される沿道の部落も、見窄らしい住居は余り見受けなかった。養蚕が盛んで暮し向きに余裕のある為であろう。耕地も大部分は桑が植えてあるので、霜枯れた葉が人の跫音にも落ちてかさこそと音を立てる。
桑西に着いたのは夜明けに近い頃であった。人家を出離れて暫く行くと左に小坂を下りて、すぐ川を渡る道を取らなければならない筈の所を、真直ぐに進んでしまった。これが自分等の行手に待ち構えていた多くの失錯の最初のものであった。尤も道の様子が前とは少し変ったことに気が付いて不安を感じたので、左手を覗いて見ると低い窪のようになっている、暗くて良くは分らないが、道らしいものは眼に入らないのに安心して、其儘行程を続けた。なぜここで地図と照し合せて見ようとしなかったのか、吾ながら合点が行かない。
径の導くままに足に任せて辿って行く。行くに従って四辺の様子が銘々の予想とは、如何も甚しく相違していることを誰も気にしているらしかった。夜が明けて見ると山の側面を登って居た。何処だかさっぱり見当がつかないので、幾つかの途方もない説が出たりする、たとえば焼山に踰える峠の南の主脈を登っているのではないかというのは其一例だ。風が寒い。朝食の後やがて幅の広い尾根の頂上らしい所に着いて、南に富士を望み、北に間近く茅処の山を超えて真黒に針葉樹の茂っている山を仰いで、初めて今居る位置が合点された。自分等はつまり野脇の谷に沿うて中双里に登り着いたのである。
ここで北方の山の写真を一枚写すことになって、可なり強く吹きつける寒い北風に曝されながら、浅井君が苦心惨憺してやっとシャッターを切った。其当時は今のように整色乾板やフィルターなどが有ったかなかったか、そんなことは少しも知らない、よし有ったにしても此時は使わなかったことは確だ、あとで原板を借りて写真屋に焼かせて見て驚いた。肉眼には紺碧の空にあれ程鮮かに浮き出して居た富士や南アルプスが、靄に包まれたようにぼんやりしている。どうしてもこの富士をはっきり焼きつけて呉れとねじ込んで、開業した許りの写真屋を手古摺らせたりした。尤も後に其名を知ったこの黒岳山と、外に大菩薩岳とを撮した二枚だけは、近かったせいか先ず無難であったが、其他のアイノ尾根の上の大平附近から見た富士や南アルプス、御坊山の北側から眺めた飛竜や雲取、佐野峠から仰いだ大菩薩連嶺等は、情ない程に白茶化ていて、輪廓さえもはっきりしていない。山の写真と言えば極めて尖鋭でないと気の済まない自分は、それ等を見る度につくづく整色乾板とフィルターとの有難さを思う。
ここ迄来ては最早焼山へ踰える峠へは出ずに、黒木の茂っている山から東に曳いている尾根を上ろうと言う事に決した。即ち大峠附近から赤谷(赤岩)を経て黒岳山に至るものである。正面に見える茅処の山は、頂上だけ禿げていて麓は藪が深い。白いガレの様な細い谷が一すじ高く喰い込んでいるのが目を惹く。翌日夫を登ることになろうとは元より知る由もなかった。
北に向って横を搦みながら藪の中を下ること一時間で、ミズナラ、トチ、ブナ、センなどの大木が生えている渓沿いの平に出た、道がある。それを辿って四、五十分進むと左から来る水のある沢に橋が架けてある。そこでお茶を煮て早昼飯にした。これは地図上の広里村とある広の字の下へ流れて来る沢らしかった。空模様が次第に悪化して、風が南に変ると雨が降って来た。そこで引返して桑西に泊ることとし、上流の方を少し踏査した後、幸に雨も小降りとなったので、十一時四十五分に道筋通りに下りに向った。一時間許りで炭焼の男に遇ったのを幸に、附近の山や谷の名称を質している中にまた雨が大降りとなったので、二時間許り小屋で過した。真木沢のツメが大峠であること、大峠の東の山は雁ヶ腹摺に相違ないこと、黒木の山の東の茅処を赤谷と呼ぶことなどは判然したが、日向別当、日向ジャクシ、ハメエバ、鎮西ヶ丸などは、あの辺だと指示されても、雲や霧が深いので慥めることを得なかった。
このハメエバはハマイバの転訛であるという。ハマイバならば日本全国の各地に亙って広く存在する名であって、ハマを射た場所であることを示すものである。ハマとは特殊の的のことで、之を射るに用いた弓矢をハマ弓ハマ矢と称し、後には単に男児の初正月を祝う飾物となってしまった。ハマは藁縄や藤蔓などを綰ねて作ったり、又は木で作ったりする。形は真丸で、大さは径三寸位から一尺に及ぶものもあったらしく、大さに従って相当な厚みがあり、中央に穴が明いていた、つまり輪なのである。それを転がすか投げ上げるかして動いている所を横から射止めるのである。私の子供の頃は、ハマ投げと称して、二組に分れた十三、四歳の子供の群が、樫の木で作った径三寸か三寸五分位の輪を投げて、それが非常な勢いで転走して来るのを手頃の棒で受け留めて投げ返し、一定の線から追い出された組を負とする極めて危険な遊びがあった。これなどは射ることが廃れてから思い付いた遊びであろう。
ハマイバという地名が平野に残っている例を私はあまり知らない、大抵山懐か丘陵に沿うた山村に限られているようである。近くは名栗川上流の名栗村、酒勾川中流の川村向原や内山村にもあるが、さりとて漸く二百米か、或は高くも四、五百米の丘上にあるのが普通で、此処のように千七百米を超えた山上にあることは稀有の例である。実際そんな高い所まで登ってハマを射たものか、それともハマを射るによさそうな場所だと云うだけのことか、土地の古老にでも聞き質したら謂れが解るかも知れない。ハマイバの南の鞍部はコメショイというそうであるが、これも場所がら珍しい名である。
降りみ降らずみの雨の中を、まだ少しは見るに足る紅葉を賞しながら、桑西に着いたのは午後四時十分であった。見かけの悪くない家の前の流で、一人の男が鍬を洗っている。早速言葉を懸けて一泊したいと頼むと、案じたより易く引受けて呉れた。小林仁兵衛という人の家で、山からは取り付きの左側である。夜は附近の地名に就て質し、吹切、野脇、湯ノ沢ドウミ(湯沢峠)などいう名を覚えた、干した舞茸の煮つけたのも珍しかった。