山と山人
我国に於て山登りが始められたのは何時頃からであるか、元より判然たることは知る由もないが、遡って遠く其源を探って見ると、狩猟を以て生活の資を得ていた原始民族に依りて、恐らく最初の山登りが行われたであろうことは想像するに難くない。もとより到る処に獲物の多かったことが考えられる原始時代には、深山幽谷をあさる迄もなく、平地の森林、原野、河沼等に於て充分日常の生活資料が得られた筈であるから、山に登ることなどは殆ど必要がなかったろう。しかし大きな獲物の前には、すべてを忘れて之を追跡する彼等の習性から推して、斯る場合、山へ登ることが無かったとは断言するを得ない。現に二千米近い山の上で石鏃や特種の石器などが時として発見されることがあるのは其証拠ではあるまいか、或は矢を負うた獣類が山上に逃れて其処で斃死したことも考えられるが、総てがそうであったとは云えないであろう。
農耕が発達するに連れて、平地の生存に堪えられない是等狩猟を生命とする民衆の一団は、狩場であった森林の喪失と獲物の減少と相待って、次第に其生活に都合の好い山奥に逃避することを余儀なくされたであろう。中には農耕生活に同化した者もあろうが、其多数は従来の生活様式を棄て兼ねて、安住の地を平地と交渉の少ない山奥にもとめたのは当然である。彼等も平原から移入した火田法を附近の森林に施して、粟や稗などを作り世渡りの助としたであろうが、其生活は狩猟本位であったから、山と最も交渉の深い人達であったことは疑いない。後になって平地の生存競争に敗れた幾群かの人達も亦山奥に逃れて、其処に乏しい、然しながら自然以外からは脅威も圧迫も受けない、安易な生活を楽しんでいたことと思われる。こういう人達も亦おのずから狩猟を生活の要素として取り入れたであろうから、従って又山との交渉も生じた訳である。
こうしてつくられた部落の多くは、肥後の五箇庄や、庄川上流の桂又は気多川奥の京丸などのように、山中の別天地として一般世間から忘れられたまま、永い間全く埋もれていたものもあるが、後から後からと川筋を開拓して侵入し来る平地人と多少の交渉は避け難かったであろうし、又山脊を境として相隣れる部落と部落との間にも、ふとした機会から何時しか必要に迫られた交通が行われて路が開かれ、ここに後の峠なるものが発達したものと想われる。此の峠が旅人のみならず登山者にも大なる便益を与えたことは言うに及ばないことである。
何時の頃にか炭焼や杣又は岩茸採りなどが一年中の或期間、部落民の間に生業として営まれるようになった。それは他所から来た人に教えられたか、部落の或者が里に出て覚えたか、或は偶然の機会が基であったか、若しくはそのすべてであったか、孰れにしてもそうなる迄には、其間に経済的原因や事情があったろう、それらの関係を知ることは容易ではない。ともあれ茲では夫に就て記述するのが目的ではないから、其探究は他日に譲ることとして、そういう人達が登山に関係が有ったか否かを知ればよい。私の考える所では、我国に於ける高山の多くが其開祖と仰がれる信念堅固な高徳の僧侶に依りて登られているが、記録の上には現れていないにしても、其蔭にはこういう人々が働いていたことを想像しても謬ではあるまいと信ずる。それはたとえば、余りにも近代の例ではあるが、天明五年に覚明行者が御岳の黒沢口を開いた時にも、藪原の杣長九郎等十三人の労力奉仕があり、文政十一年に播隆上人が槍ヶ岳の初登山を行った際にも、亦幾人かの労力奉仕者があったことなどから類推されるのである。この僅か一、二の例から古にまで遡って一律に取り扱うことは、大胆な推断のようであるが、暗黙の間に事想の一脈相通ずるものがあることは誰しも認めるであろう。
実際古代に在りて、道もなき高山に登る困難を考えたならば、かかる労力奉仕者なしに十数日乃至数十日に亙る登山は、如何に不惜身命の行苦に心身を鍛錬した僧侶と雖も、不可能ではなかったかと想われる。勿論この人々は何か事が起れば、主を打ち棄てて真先に逃げ帰ったかも知れないが、又恐る恐る昨日の処に引き返して其安泰を知ると共に、以前に倍して尊信と労力とを捧げることを惜まなかったであろう。唯事実を伝えた記録が残っていないので、其真相を知るに由ないのは是非もない。世に伝うる縁起なるものは、ひたすら我仏をのみ尊くせんが為に後人に依りて作為されたものであるから、多くは信を置き難いのである。但し二、三の例外あることは認めてよろしかろう。
是等の部落の人々の中でも、特に登山と密接の関係あったものは猟師である。山の生物を殺すことを業とする彼等の間に行われた信仰のことは別とし、山にかけては何人も及ばない知識の所有主で、豪胆でもあり※捷でもあったところから、山の開祖達は最も多く其助力を受けたことであろう。縁起や由来記などに、忽然として二頭の狼が顕われて先導したとか、或は大明神若しくは仏菩薩が出現して道を教えたとかいうような所伝の裏面には、登路を案内し又は示唆した是等猟師の働きが反映しているものと解釈しても差支ないような気がする。事実明治時代になって、調査にしろ登山にしろ、それが未知の山地である限り、常に優良なる案内者となったものは殆ど皆猟師であったことは、現に吾々が見もし聞きもして知っている通りである。稀に猟師の居らぬ所では、岩茸採りや樵夫などが代用されたが案内者としては勿論猟師に及ぶ筈はなかった。
こういう風に山の人達特に猟師は、原始時代の昔から現代に至るまで、世は移り人は替っても、長い伝統的生活の下に狩猟其他に依って得た山の知識を継承して、絶えず隠れたる功績を登山界に寄与していたのである。
日常生活や信仰に関係なき山登りとして、国見の為に登山することも古代には稀ではなかった。国見山、高見山などと称する山が諸国に多いのは其名残りであろう。勿論平野に臨んで屹立している山ならば、其目的に副う筈であるから、他にも国見の為に登られた多くの山があるのは当然で、筑波山などは其最もよき一例である。是等の山は低い山が多く、中には千米を超えているものもあるが、登山発達の上からは言うに足らないものである。