登山の普及
宗教的に培われた登山の偉大なる萌芽が此土に発生せんとするに先立ち、既に古代信仰による登山が多少なりとも行われていたであろうと思われることは前に述べた通りである。この信仰的登山はたとえ微々たるものであり、又其思想は極めて幼稚で、一向に漠然たるものであったにしても、若しこれに理論上から按出された組織と、統一された信仰上の形式とを与えて、時代を指導するに足る能力ある偉人が現われたならば、恐らく僧侶の手を待たずして登山は盛になったであろうと思われる、それ程にまで山岳礼拝の気運は、既に一般民衆の間に古くから醸蓄積されつつあったのである。この気運の中に芽生えて、我国に固有なる神祇の思想と巧に衝突を避けつつ調和を図り、遂に国民思想と同化した宗教的登山が後日の隆盛を来したのは誠に偶然ではない。
然しこの宗教的登山の開祖達が各所の高山を開いた記録は、信ず可きものに乏しく、多くは伝説程度に止まっているのは遺憾である。中にも聖徳太子及び役行者は、諸国の高山で最初の登山者として伝えられているが、これは後世から附会された説に過ぎないものと思われる。尤も役行者は修験道の始祖と崇められる偉人であるから、修法の為に諸国を跋渉したであろうことは認めてよいが、其間に人跡未踏の高山を幾つか登攀したということは考えられない。加之山の開祖に取りては、登頂を果すことが登山の目的の全部ではなかった。現代の登山が登頂と同時に其目的の全部を完了するのとは違っていた。登頂は登山の目的の前半であって、後半に一層重大なる使命が残されている。即ち有縁の衆生を導いて登山の忍苦に依り、凡夫と雖もよく神人交感の境地に到ることを得て、浄行の法悦に浸り、六根を清浄にし、息災延命を前途に約束し得る喜びは、偏に開祖の徳によるものなることを感悟せしめ、長く結縁を存続せしむるようにしなければ、其本願は空に帰し、神に祈誓して登山した甲斐がない、その為には事情が長く本拠を離れることを許さなかったであろう。白山を開いた泰澄和尚がそうであった。男体山を開いた勝道上人も亦そうであった。其勇猛不退転の精進を以てすれば、又他の高山を開くことも不可能ではなかったろうが、遂に白山又は男体山以外の山に禅頂しなかったことは、山を多く登ることが主ではなく、自己の身命を賭して開いた山を護法の鎮守と崇め、且は修法の天壇として神に法施を捧げ、護国饒民の勤行に他を顧る遑がなかったと共に、高山の禅頂が容易の業でないことを知っていた為であろう。役行者は伊豆に流される迄は、大和が本拠で、葛城山で修法し、大峰入りを創始した。あの長い困難な山脈縦走を修験の道場として完成する迄には、相当の歳月を要したのであろうし、或は一代に其完成を見なかったかも知れないのである。されば役行者と雖も、其宗勢を拡張し、信徒を増加する為には、帝京に近い多年修法の本拠を離れてはならなかったろうと察せられるのである。
古代人が信仰の対象として登山していた山は三、四のものを除けば、其地方では高山であっても、概して平野に近く聳立し、高度も低かった。然るに僧侶の開いた山は、人跡稀な高山又は深山で、中には全く未踏のものもあった。其年代は相当に古く、就中大宝の前後から延暦に至る七、八十年間に開かれたものが多かったようである。蓋し此頃に至りて仏教は漸く隆盛となり、朝廷に勢力を扶植し、日本の神祇もまた仏教に於ける諸天善神と同じく、仏法を悦び仏道に帰依し、之を擁護するものであるという思想が顕官貴紳の間にも広まったことは、気比神や八幡宮の託宣が之を証している。神前に誦経が行われ、神社の境内に神宮寺が建てられたのも、皆神が悦んで仏法の供養を受け納めるという考からであったことは前述の通りである。それがやがては進取の気象に富んだ卓越せる名僧大徳の間に、名山を開いて神に供養し、勝地に託して寺を建立することが本願とされるに至ったものであろう。勝道上人は男体山の登頂を企てた際、我若し山頂に到らざれば亦菩提に至らずと発願した。神に供養せんが為に目指す山頂に到ることが亦自己の菩提に至る所以であると思意されていたことが明かである。しかも上人の碑文は弘法大師の作であるからこれは当時に於ける僧侶の思想を代表するものと見てよろしかろう。時代の波に乗った新興の思想は、溌剌として暫くも停滞することなく、直に各地に伝播して、ここに日本登山史上に特筆さる可き僧侶による山開きの舞台が展開されたものと思われる。そして其動機の根柢には、釈尊が仏となられた苦行は雪山に於てなされたこと、又護法の諸天が山上(たとえば須弥山或は香酔山の如き)に住まえること、少くともこの二つが絶えず働いて強い衝動を与えたであろうことは、見逃してはならない重要な事であろう。
かく僧侶の登山が各地に於て行われ、又其事実であったことを否み得ないにも拘わらず、記録の上からは、唯其山の登山の歴史は古いということを慥むるのみで、山の開祖は知られていない場合が多い、これは早くから多くの人に登られていた反証であると見ることも出来る、さすれば寧ろ其人の定まらぬ方が本当であろうと思う。東海の名山富士が何人に依って開かれたか、伝説の外に確なる記録の存しないのは其一例である。都良香が書いた「富士山記」に拠るも当時早く既に登山者のあったことは明かであるが、開山の名は挙げてない。木曾の御岳、甲斐の鳳凰山なども古く開かれたものと思われるが、亦古記録の徴す可きものがない。鳳凰山頂に屹立するあの大磐石が古人信仰の標的とならないことはなかった筈である。
越の二名山である白山と立山とは、縁起の内容のみならずその山中に於ける伝説までが実によく似ていて、孰れか一方が他を真似た形跡が看取される。立山は大宝元年に慈興上人が開いたといい、白山は養老元年に泰澄和尚が開いたという。恐らく白山の方が古いであろう、立山の雄山神は白山比神より叙位の年月も遅く、位階も劣っていた。この事が後になって対立している二山の信徒の間に競争の念を起さしめ、立山が白山よりも早く開かれたもののように伝えられる基となったのかも知れない。しかし「立山は白山よりも馬の沓一束だけ低い」という口碑が立山信徒の間に残っていることは、白山の優越を認めていたことを物語るものであろう。
四国の高山石鎚山は、白山や立山などと殆ど時を同じくして開かれた山である。『日本霊異記』には、
伊与国神野郡の郷内に山有り、名を石槌山と号す、是即ち彼山に石槌神有るの名也、其山高※にして凡夫は登り到るを得ず、浄行に仕ふる人のみ登り到りて居住す。
とあり、又『文徳実録』の嘉祥三年五月の条にも、
故老相伝ふ、伊予国神野郡に、昔高僧あり灼然と名づく、称して聖人となす、弟子に上仙と名づくるあり、山頂に住止す、精進練行は灼然に過ぎ、諸の鬼神等皆頤指に従ふ。
とある。石槌は本来イハツチで、ツチはイカツチ(雷神)カグツチ(火神)シホヅチ(船長)などのツチと同じく頭目又は首長を意味しているから、頂上附近に於ける大磐石を神と崇めて岩山の魁たることを示す名であって、古代人の信仰的登山の行われていたことを物語るものであろう。灼然は横峰寺を開基して石仙聖人と呼ばれ、聖武天皇頃の大で石鎚山の開拓者であることは疑いない。
石鎚山や白山の開闢に関する縁起は、大体に於て信ずるに足るものであるが、夫にも優りて『性霊集』に載っている「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑並序」の文は、弘法大師の作に係り、当時の記録であるから、思想を知る上にも登山の困難を知る上にも、甚だ貴重なる文献である。それで重複を厭わず男体山登攀に関する記事を茲に掲出することにした。
神護景雲元年四月上旬を以て跋上す、雪深く巌峻しく、雲霧雷迷して上る能はざる也、還て半腹に住むこと三七日にして却還す。又天応元年四月上旬、更めて攀陟を事とす、亦上ることを得ざる也。二年三月中、諸の神祇の奉為に経を写し仏を図し、裳を裂て足を裹み、命を棄て道に殉し、経像を襁負して、山麓に至り、経を読み仏を礼し、一七日の夜堅く発誓して曰く、若し神明をして知るあらしめば、願くは我が心を察し、図写する所の経及び像等、当さに山頂に至り、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし、仰ぎ願くは善神威を加へ、毒竜霧を巻き、山魅道を導き、助けて我か願を果せ、我若し山頂に到らざれば亦菩提に至らず。是の如く発願し訖りて、白雪の皚々たるを跨ぎ、緑葉の※たるを攀ぢ、脚一半を踏み、身疲れ力竭き、憩息信宿して、終に其頂を見る、惚惚として、夢に似たり寤むるに似たり、査に乗るに因らずして忽ち雲漢に入り、妙薬を甞ずして神窟を見ることを得たり、一たびは喜び一たびは悲しみ、心魂持し難し。
『補陀洛山草創建立記』とは多少の相違や前後した点もあるが、孰れも信ず可き者であるから、二者対照して補訂すればよい。出発した場所は大谷川の北岸に建てた四本竜寺であった。前二回は共に四月上旬、最後は三月中となっている。之を太陽暦に換算すると、四月上旬は二回とも五月中旬に当り、天応二年即ち延暦元年は、正月に閏があって三月十一日が五月一日に当るから之も五月中で、結局三回とも大体五月中旬ということになる。其頃には男体の南面は雪も少くなり、日脚は長く寒さも緩み晴天が続き、しかも邪魔になる藪はまだ蟄伏している、登山には誂向きの好季節を選んだ訳であるが、湖畔から二晩泊りで漸く頂上に達したのであるから、其困難は想像するに余りあるものであった。恐らく他の多くの高山も、同じような状態の下に同じように困難して登られたものと思われる。
又是文に拠ると、「坤を眄れば更に一大湖有り」とあるので、頂上に立って初めて中禅寺湖を瞰下したのであろうと考え、東側のキノミ平方面から登ったのではないかと疑ったが、『建立記』を見れば第一回登攀の際、既に山の半腹に一大湖のあるのを発見しているので、半腹に住むこと三七日とあるのは、即ち湖畔に宿して二十一日間の修法を行ったのであることを知った。頂上では吹雪に遭ったらしく「乍看腸を絶ち、瞻佇未だ飽かず、風雪人を趁ふ」と書いてある。或は強風が粉雪を吹き飛ばしたのかも知れない。続いて「我蝸菴を其坤角に結びて之に住み、礼讃勤行すること三七日、已に斯願を遂げ、便ち故居に帰る」と禅頂を果した喜を述べている。そして延暦三年の五月、この勝地に神宮寺が建てられたのであった。此種の記録が今後幸にして発見されることもあらば、当時に於ける登山の模様が更に明にされることであろう。
此の如くにして中古に其端を発した宗教的登山の道は、時を経るに従って次第に開拓された、というのは衆生の一として考えられていた神は進んで菩薩となり、更に進んで仏となった。神は仏の化現で、本地の仏が迹を垂れて神となったのであると説かれる様になって、ここ本地垂迹説は全く完成し、或は天台或は真言の教義に拠りて詳しく説明された精密なる組織を以て、山王一実神道及び両部習合神道が創設され、古来の山岳信仰と牴触矛盾することなくして、民心を収攬するに足る山岳宗教が新に発生したからである。これが将来に於て民衆的登山の普及するに至った最大の原因であり、そして其理論を実践躬行し、之を全国に伝播する媒介者として最も力あったものは、是等の神道と合流した役行者を始祖とする後に修験宗と呼ばれた一派であったと考える。実に山を開いたものは名僧大徳であったが登山を盛ならしめた者は山伏即ち行者であった。
神変大菩薩の号を賜わった役公小角が大峰を開いたのは天武天皇の頃であるが、其歿後は修法の為に登山する者も次第に絶えたものか、宇多天皇の寛平元年に当山派の祖である理源大師(聖宝)が中興開山の峰入りをした時には、榛莽塞りて行路なく、葛を攀じて之を蹈み開いたと伝えられている。山を保護する途は他なし、唯自然の儘に放置するにありといわれている通り、どんな立派な山道でも二、三十年も修理を加えなければ、大抵跡方もなくなって了う。況んや道を作ることを禁じてあった大峰縦走の蹈跡などは、二、三年の間に榛莽の掩う所となるのは当然である。大峰がかく荒廃するに至ったのは、小角歿後に高才逸足の徒弟は本山を去って諸国に名山を探り、己が修行の道場を開くに急で、為に本山の衰微を招来したか否か、或は理源大師が葛を攀じて之を蹈み開いたというのは偽であるとの説もあって、其真相は知り難いのであるが、二百年近き歳月を経る間に一盛一衰あるは免かれぬ所であろう。
理源大師に後れること八十余年にして、堀河天皇の寛治四年に増誉大僧正が白河上皇の熊野行幸に先達を奉仕し、其賞として熊野三山検校職に補せられ、本山派の開祖となったので、此時に諸国に散在していた小角の末徒が多く本山派に属したとの事である。以後修験道は当山及び本山の二派に分れて広く諸国に分布し、更に幾多の支派を分ち、苦行修法する他宗の者までも皆其行法に倣ったので、山開きの間は十六道具に身を固めた行者達が至る所の名山大岳に登り、振鈴の音は雲に入り法螺の響は山をどよもして鳴り亙ったのであった。
修験者即ち行者は其名の示すが如く、山を修験の道場として最難の苦行に堪え、験行を勤め咒法を修得するのが本願であったが、山を下れば諸人の為に加持祈祷して、其咒力により一切の災厄を攘い病苦を救いて、功徳を施すことを怠らなかった。過去の滅罪や未来の仏果もさることながら、此世に於ける現在の苦厄を免かれることが凡夫に取りては当面の一大事で、身にしみる有難さである。されば彼等行者は民衆の信仰を一身に集めて、神仏の権化の如く尊崇された、従ってそこに一の信仰団体に似たものが作られるようになったのは、少しも怪しむに足らないであろう。唯この団体が結社として組織されたのは恐らく徳川時代に入ってからで、富士講が国内に於ける登山結社の最初のものであろうと思う。
行者の山入りは作法が甚だ厳重であり、且其期間も限られていたから、普通人で登山する者は稀であったろうと想われる。これは修法の道場に俗人が容易く近づくことを嫌ったことが登山の作法を厳格にした所以の一でもあった。しかし信徒となれば格別である。元もと吾等の祖先は山を崇めこそすれ、決して恐ろしい魔所として考えてはいなかった、夫を無理やりに恐ろしい場所として考えさせるようにしたのは、怪奇に近い縁起や由来記などが流布したことにもよるが、有力な原因としては、宗門の徒弟達が次ぎ次ぎに先代の法力が非常に優れたものであることを誇張しようとして、仏教から拾ったらしい種に、荒唐無稽ではあるが当時の人をして恐怖せしむるに充分である様々な伝説を附会させ、火口を地獄に比し、磐座を剣の山に擬するなど、神と崇めた祖先からの美しい感情を奪い去って、恐怖観念を漂わせ、世に蒔き散らしたものが芽立って枝葉を拡げたからである。これは一面に於ては山に勿体をつけて、大衆の好奇心と信仰心とに訴え、信徒の増加を謀ったものと考えられる。敬虔なる信者達は、山の開祖が神に供養し神恩を謝する誦経の為に登山したのと同様に、日頃尊崇する行者を先達として、報謝の禅頂を遂げ、宗祖の偉績を偲ぶ霊場に参拝するようになった。かくて経験を重ね修行が積めば、おのずから先達となる資格も得られる訳で、信徒の登山は信徒の先達にて事足り、年を経るに従い次第に登山者の増加すると共に、登山は専門家の手を離れて素人の手に移り、「講」と称する登山結社が各地に作られるようになるや、多年鬱積していた山岳礼讃の潜在意識は漸く擡頭して、宗教的民衆登山は空前の盛況を呈するに至った。言う迄もなくこれは兵乱の惨禍が全く跡を絶った徳川時代に入ってからである。勿論信徒の登山と雖も、入峰の規定を守り行者の作法によらなければならなかったが、左程厳重なものではなく、唯先達の指揮に従えばよかったのである。
徳川時代に於て山登りが如何に普及したかは、中絶していた山の登山が復興し、全国に亙りて「講」と呼ばれる登山結社が設立され、一山にしてよく数十百講、一講にしてよく万を以て数うる信徒を有するものさえあったことから知られる、しかも他講の山に登拝することは互に自由であった。これは生活が安定したので、山を離れては気散じの旅といった気持も手伝っていたに相違ない。恰も現代各地に無数の登山団体が作られ、各所に登山が流行しているのと能く似ていた。異なる所は唯先達の指導精神が飽まで徹底して、山の神聖を汚すような行為が絶対になされなかったことである。啻に中絶していた山が再興されたのみでなく、古人未蹈の山で初登山されたものも少なくなかった。永禄三年六月に木曾長政が登山して以来、暫く中絶の有様であった御岳は、天明五年に黒沢口を改修した覚明行者、寛政四年に王滝口を修造した普寛行者を、共に中興の開山とするが如きは前者の例であり、天明三年六月に南裔和尚が笠ヶ岳に登り、文政十一年七月に播隆上人が槍ヶ岳に登ったのは後者の例である。殊に後者は山が日本北アルプスの中枢にあるだけに、此時代に於ける開山の最後を飾るにふさわしい掉尾の業績であった。唯二人とも登山には勇猛精進であったが、民衆の登山を誘致するには熱意の足りない憾があった為に、広く世に知られずして終ったのは惜しい。交通極めて不便な奥山であったことも関係しているだろう。其他年代は不明であるが、山上に大日、薬師、観音、地蔵等の仏菩薩を安置してある山の過半は、此時代に開かれたものであると称しても過言ではないようである。是等の事実からも登山の盛であったことが窺われる。
此時代には又異った意味で多くの登山が行われた。正保元禄の国図製作、大小名の国境又は領域の見分、山論の裁許、森林監視の山廻り、或は薬草の採取、稀に地理研究の為の登山等が其主なるものである。中には是等が機縁となって宗教的登山が開始された山もあった。たとえば木曾駒ヶ岳は見分の為に再三登られているが(其中元文元年の内藤庄右衛門、宝暦六年の坂本運四郎の両士が残した見分の記録は、当時の模様を知る上に於て貴重な文献である)、天明寛政の頃に御岳講の信者が登山するようになって、山頂に駒ヶ岳神社が奉祀されたのである。斯様な例は奥上州方面其他にも少なくないらしい。又加賀藩の山廻り役によって行われた黒部奥山の巡視は、相当に大規模のものであり、立山後立山の両山脈に於ける高峰の幾つかは、此時既に初登攀を完了されたことであろうが、資料が得られないので詳細を知り難い。維新後に至りてはさしも繁昌を極めた宗教的登山も、神仏混合禁止の大鉄槌に恢復し難き痛手を負いて、頓に衰運に向ったとはいえ、日清戦争の頃までは、まだ登山といえば一般には宗教的登山を意味している時代であった。それが次第に勃興して来た現代の登山、殊に最近に至りて急速に発達したスポーツとしての登山に圧せられて、今は僅に片隅で余喘を保っている有様である。しかも昔の精神、昔の道徳は既に失われて空しき形骸のみが残存しているに過ぎない。登山の精神と道徳とを忘れた登山、歴史は繰り返すというは真か、顧みて今昔の感に堪えない多くのものがある。
以上は主として宗教的登山の発達に関する私見を述べたものである。私は更に維新後に於ける登山の趨勢に就て記述する予定であったが、遂に之を果すことを得なかったのは遺憾である。唯宗教的登山の発達に就ては従来余り言い及ぼされていなかったように思われるので、この機会にせめてそれだけでも稍や詳細に所信を述べて見たいと考えて、紙面の大部分をこれに費してしまった、文が冗長に流れたのはその為である。思うに維新後に於て総ての文物が一変したのと同じ様に、登山の形式内容共に亦一変した。現代の登山は維新前に於ける登山の延長であるとは言えないかもしれない。両者は出発点を異にして発達したものであるから。然し其根柢に於て共通した思想はないであろうか、それはある、即ち自然愛の思想である。