一
それは春とは云つても、まだ寒い頃であつた。北の海から冷々としたうら寂しい風が吹いて来て、空にはどことなく冬のやうな底重い雲が低く垂れ込めてゐた。庭の植込みを囲んであつた「雪除」がやつと取外されて、濃い緑色をした蘇鉄や棕櫚竹などが、初めて身軽になつたといふ風に、おづ/\と枝を張り幹を伸して、快げに自分々々の身を持返した。さうして、時をり降りそゝぐ小雨が、しと/\と湿つぽい温気をもたらしてくると、ふと庭の隅々から小さな草の芽生を見出すことが出来た。それでも北国の春はやつぱり寒いのであつた。どんよりとした鉛色の重い雲にとざゝれた陰鬱な日が、幾日も/\打ちつゞいた。
ある日――その日も朝から空が灰汁をまいたやうに薄暗くわびしげに曇つてゐた。その午後であつた。街から二里ばかり離れた村に住んでゐる源右衛門といふ男がお町の家を訪ねて来て、お町の父の為造と奥の座敷でひそ/\と何か話をしてゐた。二人の話が何となく家の人だちに或不安を与へた。為造にその頃さういふ風な内密らしいことが度々あつた。家の人だちはさういふ場合に接するのを、いつとなく虞れるやうになつてゐたのである。
為造はこの一二年前に、ある投機的な仕事に手を出して大きな失敗をした。さうして、一時殆ど失神したやうになつて倒れてゐた彼は、ふと思ひついて金貸業をはじめたのであつた。彼は自分の莫大な損失に対する償ひを、貪欲と無慈悲との結果から産み出さうと決心した。彼は世間のあらゆる人々に対して、もはや全く血も涙も持たない、一個の守銭奴と化し去つたのである。
源右衛門は最近に於ける負債者の一人であつた。彼は歯のまばらに脱け落ちた、人品のよくない、真黒に日に焼けた百姓爺であつたが、何処か生一本な、律儀さうな処の見える五十年輩の男であつた。その日二人はしめやかに話し合つてゐたが、その声が妙に低くさゝやくやうで、どうしても何か密談を凝らしてゐるとしか思へなかつた。さうして、二人の話は却々果てさうもなかつた。為造の妻のお幾は黙つて茶の間で針仕事をしてゐたが、とき/″\深い溜息を吐きながら、座敷の方に耳を傾けてゐた。
やがて、しばらくすると、二人の話声が急に調子づいて来た。その揚句にだん/\と声高に罵り合ふやうになつた。お幾は姑のお八重と一緒にふと起つて、心配らしい顔を合はせながら襖の傍に身を摺り寄せた。その時に座敷の二人は突然取組合をはじめたのである。ドタン、バタンと二人の体が代る代るに襖に打突かつて、ピリ/\と唐紙の上に波動を浮かせた。源右衛門の口からは絶え間なく為造を罵る言葉が口穢なく吐出された。為造はそれを押し伏せるやうに、
「何ツ。」
と叫びながら、源右衛門に激しく掴みかゝつた。
お町はその時丁度、生れて間もない赤ん坊をお負つて悦んでゐたのであつたが、その騒ぎに驚いて、後から引かれるやうに重い体をよち/\と踏みこたへながら座敷の方に気を配つた。座敷の中には今怖ろしい争闘がはじまりつゝあつた。彼女はすぐに引返して、そつと玄関から表の方を見た。門口にはもう人が一杯にたかつて、各自に爪立をしながら、家の中の様子を知らうとして血眼になつてゐた。二人の女中も台所から出て来て、頻りと座敷の方を覗かうとした。彼女はわな/\と顫ひながら、赤ん坊を揺振り揺振り台所を往つたり来たりしてゐた。座敷の争闘がどうなるのかと怖ろしくてならなかつた。お町は到頭赤ん坊をお負つたまゝ、土蔵の中へ逃げて行つてしまつたのである。
お町は平常から、何か怖ろしいことがあると、よく土蔵へ這入つてゆくのであつた。そのくせ、弟などがいたづらをしたりした時に、母が凄い眼色をして、
「土蔵へ入れてやるぞ。」
と威かしてゐるのを聞くと、土蔵の中は何でも怖い処にちがひないとお町は考へてゐた。けれど、お町は自分で悲しいことなどがあると、不思議にその怖い処だと思つてゐる土蔵の中へ這入つてゆく気になつた。彼女は自分がさうやつて、土蔵へ這入つた時に、若し外から錠をおろされて、その上に土の扉までも閉鎖されてしまつたらどうしよう――と云ふやうなことを空想しながら、一度そんな目に遭つた自分を見たいやうな気がしてゐた。併し、その中にだん/\と或恐怖に襲はれて、やがて彼女は慌立しく土蔵を出てしまふのが常であつた。
その日も土蔵へ這入ると、お町は行成刃物か何かでスイと首筋を撫でられたやうな、鋭い冷気を感じた。彼女は土蔵の重い戸を開けた瞬間に、いつも考へる「土蔵の神様」といふものを幻に描いたのである。土蔵の中へ這入つたら、大きな声さへも出してはならぬといふ風に、常に謹慎してゐることを教へられてゐるお町は、祖母たちが土蔵の神様、土蔵の神様といふたんびに、土蔵にはどんな神様が棲んでゐるのだらうと思つてゐた。それは屹度昔語りに聞いて想像する、真白の長い髭を貯へた仙人のやうな姿の翁にちがひないとも考へた。その神様が厳粛な顔つきをして、土蔵へ這入つて来るものを、一人々々監視してゐるのかも知れないとお町は思つてゐた。
土蔵の中には何となく人間の体を吸ひ込んでゆくやうな、神秘的な湿つぽい空気が隅から隅までに行き渡つてゐた。さうして、小さな西の窓から僅ばかり射し込んでくる鈍い光線に透かして見ると、其処等中一杯に家財道具が詰められるだけ詰まつて、黴臭いやうな饐えたにほひが、其処此処に流れ漂つてゐた。二重にも三重にもかさなつた正面の棚に、何年も手をつけられたことのない埃塗れの箱入物がならんでゐた。「仏具」と大きく書いてある幾つかの箱の中には、法事などの際にのみ座敷に飾られる、とつときの輪燈や、蝋燭立などが納つてあるのであつた。お町はそんな物に対しても、いつも感ずる一種の無気味を感じながら、暗い二階の方にちよいと眼をやつた。この頃その責任を果し得なかつた債務者のある家から差押へられて来た大きな柳行李が二つ、二階のすぐ上り口に投り出されてあるのが、お町には不愉快な忌はしいものであつた。その行李の中から出た女の児の着物を、そのまゝ彼女の小さな妹に着せられてあることも、年には割合老せた少女心には、浅ましく、情なく思へてならなかつたのである。その他に抵当に預つてあるいろ/\の品物などを見るのが、お町にはもう気が咎めて為方がないのであつた。
「私のお父さんはいやな商売をしてゐらつしやる。」
お町は常にさう思つて、子供ごゝろにも苦々しくて堪らなかつた。
彼女は今土蔵へ這入りは這入つても、父のことが心配になつてならないので、戸前の金網にピツタリと摺り寄つた。さうして、背中の赤ん坊をしつかりと後手でかゝへて、網の目から庭越しに家の様子を窺つた。祖母だの母だのがうろ/\として、縁側を駈け廻つてゐるのが見えたり、男の怒鳴る声が聞えたりした。お町はもう気が気でなかつた。土蔵の中にゐることの無気味さが、いつもよりも、もつと強く犇々と彼女に感じられて来たのである。
彼女はやがて忍び足になつて、隠れ家のやうな土蔵を出た。長い板敷の内廊下を通つて、台所から茶の間の方へ、丁度お町がおづ/\顔を出さうとした時に、其処へバタ/\と為造と源右衛門とが暴馬のやうにトチ狂ひながら、掴み合つて出て来た。二人とも顔を真赤にして、鳩尾の辺まではだけて、獣のやうな胸毛をあらはしてゐた。着物の前が酔漢のやうにしどけなく乱れてゐた。為造は源右衛門を突き出し突き出し、玄関まで向ひ合つたなりで突き進んで行つた。
源右衛門は川へでも投り込まれたやうに、跣足のまゝで意気地もなく土間へ突き落とされた。彼は狂暴な為造の振舞を憤つて、再び家へ上らうといた。それでも為造は必死になつて、力一杯に源右衛門の頑丈な体を圧しつけた。源右衛門は焔のやうな息を吐いて、いきなり其処に有合はせた男の下駄を片方拾ひ上げた。その瞬間に、したゝかに為造の眉間を打ち据ゑた。
「己れツ。」
為造は猛獣のやうな呻き声を発して、その下駄を素早く源右衛門の手から奪ひ取つた。刹那に又源右衛門の額を目がけて思ひ切り彼を擲りつけた。源右衛門の日に焼けた黒い額からは、タラ/\と血汐が滲み出た。彼は丸で夢中になつて怒り狂つた。そして、
「泥坊!」
と物凄まじい濁音で一声叫んだきり、人垣をわけて何処かへ駈け出して行つてしまつた。見物人はざわ/\とどよめいて、彼の跡を追かけて行つた。その残りの幾人かゞ、やつぱりぢつとして家の様子を見ようと乗り出してゐた。
そのときお町は父の顔を見るのすら怖くなつて、又台所へ引込んで行つた。そして、泣きもせぬ背中の赤ん坊を拍子を取つて揺振つて歩いた。
座敷では祖父母だちやお幾などが、今苦しさうに喘いでゐる為造を取巻いて、一生懸命に押なだめてゐた。お幾は夫の口へ茶碗の水と宝丹をすゝめながら真青の顔をしてゐた。為造は太い息を吐いては「畜生、見てやがれ」などと口走つてゐた。お町はぶる/\と顫ひながら、祖父母や母に取巻かれた父の険悪な相好を唐紙の隙間から怖ろしさうに透見してゐた。此突然な出来事に対する目前の結果に、或不安と恐怖が家の人だちの胸を一杯にしめてゐたのである。
やがて其処へ警官が来た。そして、為造と横柄な調子で押問答をはじめた時には、家の人だちの恐怖が更に更に大きくひろがつて行つた。為造は流血した真赤な眼の中に、陰険な底冷たい光りをみなぎらせて、腕まくりのまゝ警官に向つて源右衛門の不当の乱暴を訴へた。お町はその時、自分の父のそんな風に取り乱した醜い姿を、警官や見物の人だちに見られるのを恥ずかしく思つた。自分の父があんな賤しい百姓爺などゝ喧嘩をして、遂に警官などの厄介になるやうな、そんな賤しい男であるかと自分も驚き、且つ他所の人にもさう思はれるのが、彼女には口惜しいのであつた。
警官は為造の話をきゝながら、又しても表の人群りを制してゐた。けれど、それは何の効もなかつた。見物は此事件の成行を知れるだけ知つてゆかうといふ風に、だん/\と玄関の土間近くにまでも押しよせて来た。お町はもう怖ろしさにふるへるばかりで、歯の根も合はなかつた。体中に悪寒が来てぞく/\と寒かつた。彼女の耳には源右衛門が最後に叫んだ「泥坊」と云ふ一言が、幼い胸を抉られたやうに強く響いてゐるのだつた。
「なぜ私のお父さんのことを泥坊だなんて云つたのだらう。」
お町はさう思つて寧ろ不思議でならなかつた。それと同時にあんな田舎の百姓爺などに「泥坊」と呼ばれた自分の父は、なんといふ価値のない人だらうと考へて情なかつた。お町は幼心にも自分の父に対する尊敬の念をひどく殺がれた気がした。そして、その上に又家庭に対する一種の陰惨な疑惑の影が、小さな胸に漠然と湧いて来た。彼女はその時喚くやうな荒くれた声を出して警官と争つてゐる父に対して、何ともいへぬ親しみがたい憎悪の念を抱いたのである。父の額に筋張つてゐる忿怒の現はれが、やがて彼女に最も醜く見苦しく思はれてきた。
為造と警官は大分長い間、昂奮した言葉と、冷静な言葉とを戦はしてゐた。警官は結局為造を引致しようと云ふのであつた。
為造は再三それを拒んだ。引致される理由が此方にないと云ひ張つた。けれど、警官はどうしても肯かなかつた。為造は遂に怒りに焼きたゞらされたやうな膨れ上つた顔つきをして、座敷に駈け込んだ。
「オイ、着物を出せ、着物を出せ。」
かう叫んで彼は忙しなく引きちぎるやうに帯を解きはじめた。お幾は泣くやうな、哀訴へるやうな声で、夫に私語いて何か力強い言葉を一言でも訊かうとした。けれど、為造はそれどころではなかつた。彼が表面の気強さに似合はず狼狽してゐる苦しい表情が、お幾にはよく解つてゐるのだつた。お幾は不承々々に箪笥の抽斗をぬいて、夫の着物を一枚づゝ出した。お八重が其処へ来てお幾の手を押へながら、しよぼ/\とした眼に涙を一杯にためて、
「どうなるのぢやらうない、どうなるのぢやらうない。」
と云ひ云ひ泣いてゐた。為造はふう/\と切ない息をしながら、殺気立つた形相をして、手早く着物をきかへた。そして、誰とも口を利かないで、只咄嗟の弁明に懊悩してゐるやうに、彼はそのまゝ警官と一緒に外へ出て行つてしまつたのである。
お町は父の上に自分で想像出来るだけの、いろ/\な忌はしい疑惑を一杯にのせて見た。大手を振つて警官と一緒にならんで街を行つた父の後姿が、彼女のいたいけな眼に辛く沁み入つた。彼女はたゞならぬ怖ろしいことの暗い聯想を喚起した。お町は何にも分らないで、只悲しいと云ふことゝ、傷ましいといふことゝの溶け合つた、幼い感傷に浸されて、家の人だちと一緒になつて、メソ/\と襖の蔭で泣いてゐた。