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念仏の家
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念仏の家
小寺菊子
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 3 of 5

三

夜になつてから、私は二男に案内されて、医者の家に行つた。

「ほう、大変珍らしいんぢやね」

幼少のころ私と許嫁になつてゐた、昔の道楽医学生の彼は、晩酌後の機嫌のいゝ顔をして、少し背を丸くしながら出て来た。大分もういゝ年な筈だのに、案外若々しい。私は本家の酒屋よりもこの家の方が、それゆゑにずつと親しまれるので、二十年の月日を一足飛びにとびこえたやうな気安さで、とん/\と二階に上つた。近頃新築したといふ立派な医院で、まだ木の香がぷんとしみた。細君は四十五六の善良さうな人で、たしか二度目だつた。皆で愛想をつかさないで、この医者と結婚させられてゐようものなら、両鬢を首人形のやうに張り出した丸髭なんぞに結つて、私はこの細君とおきかへられてゐたのだらうか――と思ふと、可笑しくてならなかつた。

「こんな立派な家に棲んで、お茶をたてたり、香を焚いたり、俳句を作つたり、随分あなたはのんきなお医者様ね。」

私はそちこち見廻しながら云つた。

「いや、さうでもないさ、これでなか/\忙しいんぢやよ、何しろこの地ぢや医者らしいのが、僕の外にたつた一人しかゐないんぢやからね。ときに、お母さんや妹はどうしとるかね。」

「母は一昨年死んだの、妹は丈夫でぴん/\してゐますよ、九年前主人に別れて、三人の娘を育てゝ独立でやつてますの!」

「ほう、そりや大変ぢやね。それから、あの、……お房さんはどうしたかね。」

「震災後だつたでせうか、疾に死んぢやつてよ。」

「ふむ、さうかね、もう死んでしまつたかね。ふむ!」

彼は独りで感に堪へてゐる様子だつた。私の唇がそのとき或記憶の連想から、自然に徒らつぽくほぐれて来た。

「もういくつぢやつたかな、たしか僕より三つほど若かつたと思ふが………」

「そんなもんでせうか……医学校時代あの人とあんた少し怪しかつたんぢやない? ちよつとそんな噂があつたやうに思ふわね、はつはつはつはつ。」

無遠慮に云はれて、彼は青年のやうに眼元を紅くした。お房さんといふのは、私を初めて東京へつれて来てくれた私の従姉である。十五の時家老の二男が婿に来て、二十の年にもう未亡人になり、髪を切らされた叔母の長女で、我儘一杯に育つた従姉である。彼女がまだ田舎で女子師範に通つてゐたころ、同じ師範の生徒で、近在の寺の息子の英さんといふ男と出来、ある夜英さんが寄宿舎へ帰る時間がおくれ、学校の塀を跨いでゐるところを門衛に見つけられ、卒業間際になつて退校処分にあつた。それからしばらく従姉は英さんと同棲してゐたが、彼女は自分が卒業すると、ぢきに又新しい恋愛に陥り、英さんを置き去りにして東京へ出てしまつた。そのあひだに金沢の医学専門学校に入つてゐたこの医者とも、ちよつと関係したものらしいのだ。

「お房さんも最後はあんまり幸福ぢやありませんでしたよ、社会党の旦那さんを持つて大分苦労して十年も経つてから、又若い愛人を作つて一緒になつたりして、結局はその人とも別れて独りになつてね。変化の多い生活でしたよ。」

「ふゝむ、さうかね、容色はよし学問は出来るし、中々才女ぢやつたがね。ふゝむ。」

この男は幼少のころ許嫁であつた私になんの未練も興味も持たないで、あのお房さんのことを今だに忘れないでゐるのか、と思ふとちよつと憎らしかつたが、それは不思議でない。彼と彼女との関係がほんの軽い遊戯であつたにしろ、その時代としては相当モダンな二人が、傍の思惑なんかちつとも念頭にかけないで、徹底的に自分たちの恋愛本能を満喫したに違ひないのだから。

医者は煙管にタバコをつめながら始終ニコ/\して、そんな昔語りが楽しさうだつた。強い近眼鏡を透して見える彼の眼は、正午の猫のやうに細くて愛嬌がある。

「何しろ、あんたとの噂はたしかだつたわね、今なら白状してもいゝでせう、私、子供なりにもそんな噂きいてゐたんですもの…………」

「馬鹿ぢやね、そんなことないよ、ありや兄貴の方さ。」

いよ/\眼を細めて嬉しさに笑つて見せる。

「へい、お兄さんもだつたの、呆れたわね、あの従姉、一生恋愛生活に憧れてゐて、結局ひとつも最後までは掴めなかつたのよ、一体いくつ恋愛したか知れないわ。私なんかをやかましく監督しい/\、自分が恋愛ばかりしてゐたんですもの、でもね、子供はなし、末は淋しかつたのよ。男なんて女が年老つてきたなくなると、もう構つちやくれないんだから、あんたなんかも随分女にや罪作らせた方でせう!」

「若いときやお互ひさ、君だつて東京へ行つてからどんなことがあつたか分らんからね。今の旦那さんとのことも評判ぢやつたぜ。」

私たちは明けつ放しで賑やかに笑つた。

「本家の長男は、どうなすつたんですの? 又例のぢやない! 子供が三人もあるのに……」

私は話をかへた。

「いや、神経衰弱なんぢやよ。」

「さう云つてるまに例のになつてゐやしないか知ら? 私そんな風に直感したんだけど……一体この土地の人南無阿弥陀仏にばかり凝つてゐて、あの病気を少し早目に諦めすぎるんでせう、なんとか精一杯の努力でもつと治療したら、なほるもんでもなほさずにしまふんぢやないかと私思ふわ。東京でも今仏教復興と云つて騒いでるけど、科学の力が進歩するほど、お念仏の効能が薄くなりやしない? 伯父さんのあんたがお医者なのに、こんな差出口利いちや悪いけど。」

医者はちよつと、ドキリとしたらしく、

「そんなことないよ、呼吸器はなんともないんぢや、只少し気が弱くてね、去年家内が死んでから、あんなになつたんで…………」

「あんなに日当りのわるい部屋に寝かしとかないで、どつかへ養生に出したらどう? 大切の息子ぢやないの、お金はうんとあるんだしね、お念仏主義はいゝ加減にした方がいゝわね」

医者は軽くうなづくだけだつた。今だにやつぱり「人間の生命」よりも、先祖代々から伝はつてゐる財産の方が大切なのだらうか? だが、私はこの医者と久しぶりな思ひで対談してゐることは悪い気持でなかつた。

Chapter 3 of 5
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