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雪の夜
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雪の夜
小林多喜二
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 5

二

高台になっている公園からは街が一眼に見えた。一番賑やかな明るい通りの上の空が光を反射していた。龍介は街に下りる道を歩きながら、

――俺はいったい何がしたいんだろう、と考えた。しかし分らなかった。分らない? フンこんなばかな理窟の通らない話があるか、そう思い、龍介は独りで苦笑した。

龍介は街に入ると、どこかのカフェーに入って、Sに電話をかけてみようと思った。が彼の通ってゆく途中の一軒一軒が、彼を素直な気持で入らせなかった。結局、彼は行きつけの本屋に寄って、電話を借り、Sにかけた。交換手がひっこんで、相手が出る、その短かい間、龍介は「いてくれれば」という気持と「かえっていないでくれれば極りがつく」という気持を同時に感じた。相手が出ぬ前、受話機をかけてしまうかと思い、ためらった、がその時電話口にSの妹が出た。Sはいなかった。彼はがっかりした。今晩はまただめになったと思った。

本屋を出たとき龍介は、ギョッとした。――恵子だ! 明るいところからなので、視覚がハッキリしなかった。が、電気のようにビリンとそういう衝撃が来た。龍介には見なおせなかった。見なおすよりまず自身を女からかくす、それが第一だった。彼は暗がりへ泥濘をはね越すように、身を寄せた。――が恵子ではなかった。ホッとすると、自分が汗をかいていたのを知った。ひとりで赤くなった。

龍介は街を歩く時いつも注意をした。恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていたときでもよくきゅうに引き返して、小路へ入った。恵子は大柄な、女にはめずらしく前開きの歩き方をするので、そんな特徴の女に会うと、そのたびに間違ってギョッとした。不快でたまらなかった。

龍介の恵子に対する気持はいろいろな経過をふんでからの、それから出てきたものだった。かなり魅惑のある恵子が、カフェーの女であるということから受ける当然の事について気をもみだした、それが最初であった。彼はそういう女がいろいろゆがんだ筋道を通ってゆきがちなのを知っていた。その考えが少しでも好意を感じている恵子に来たとき、「ちょっと」平気でおれなかった。この平気でおれない「関心」が、龍介の恵子に対する気持を知らない間に強めていった。しかし一方、彼は自分が身体も弱く金もないということの意識でそういう気持を抑えていった。彼は自分の恋愛をたんに情熱の高さばかりで肯定してゆく冒険ができなかった。彼にとって、そんな冒険はできない、というより、そんな「不道徳なこと」はできない、といった方がより当っている。そうだった。そしてその二つが同じように進んでいたとき、龍介は気軽に女と会えた。恵子はかえって彼に露骨な好意を見せた。女から手紙が時々来た。「あなたがくる気が朝からしていた。が、とうとうあなたはお見えにならない。胸が苦しくなる想いで寝た」そんなことなど書かれていた。恵子についていろいろな噂が龍介の耳に入った。恵子が淫売をしているということも聞いた。それについて入念な――“Eternal Prostitution”“Periodical Prostitution”“Five yen a time”というような言葉までできていた。彼はその事について、恵子にたずねた。恵子は――「そんなことでしたら、誰がなんと言おうと私を信じてもらっててもいいの!」と言った。恵子が淫売で拘留されたことがあるとか、家の裏に抜穴があるとか、もっと詳しいことが噂立った。龍介はイライラしてきた。恵子を信じていても、やはりそんなことがいろいろに意識のうちに入ってきて、不快だった。しかしそれと同時に、彼は恵子をすっかり自分のものにしたい気持を感じだしてきた。しつこい強さできた。龍介は危い自分を意識したが、だめだった。彼の気持はずうと前に行ってしまっていた。彼はそのことを打ち明けるのに、市から汽車に乗って三十分ほどで行けるZの海岸にしようと考えた。その海岸は眼路もはるかなといっていいほど砂丘が広々と波打っていた。よく牛が紐のような尻尾で背のあぶを追いながら草を食っていた。彼はそこ以外ではいけないと思った。彼はそこでのことをいろいろに想像した。

龍介は他にお客がなかったとき恵子に「Zの海岸へ行く」都合をきいた。言ってしまって、自分でドキまぎした。

恵子は「どうして?」とききかえした。

「……遊びにさ」

「そうねえ――考えておくわ」と言った。

「考える?」

「でも、いろいろ都合があるし……それに主人にも……」

「そう、じゃ二、三日に来るよ」龍介は外へ出たときホッとした。

彼は二、三日経て行った。恵子は今度の日曜ならいい、と言った。彼は汽車の時間をきめ、停車場で待つことにして帰った。土曜日彼はさしあたり必要のない冬服を質屋に持ってゆき、本を売った。それで金の方は間に合った。次の日停車場へ行った。天気なので、どこかへ出かける人でいっぱいだった。龍介は落ちつかない気持で待合の入口を何度も行ったり来たりした。時計を何度も見た。それから恵子のくる通りの方へも出かけてみた。汽車がプラットフォームへ入った。恵子は来なかった!

龍介は汽車が出てしまったあと、どうしようか、と思ったが、カフェーへ行ってみた。恵子は手拭を「ねいさん」かぶりにして掃除をしていた。彼が入ってくると、行けなかったことを弁解した。彼は今度の日を約束して帰った。約束の前の晩、彼はこの前のようなことがないように、と思い、カフェーへ出かけてみた。女は彼にちょうど手紙を出したところだ、と言い、きゅうにまた明日用事ができて行けなくなったと言った。そして本当に気の毒そうな顔をした。彼はまたむりをして作った次の日のための金をそこで使ってしまった。帰ったのが遅かった。

二、三日して龍介はまたカフェーへ行った。そして今度の日曜にはぜひ行こうということにきめて帰ってきた。土曜の暮れ方から雨空になった。朝眼をさますと土砂降りだった。龍介はがっかりして蒲団にもぐりこんでしまった。変な夢ばかりを見て、昼ごろに眼をさました。これで三度だめになった。そしてこういうことが、彼の気持をもズルズルにさした。彼はその間ちっとも落ちつけず、何んにも仕事ができなかった。しかし何回ものこういうことが、かえって彼の恵子に対する気持を変にジリジリと強めていった。彼はまた女のところへ出かけていった。女も「今度こそ本当にねえ!」と言った。

約束の日まで一週間ぐらいあった。その間雨ばかり降った。雪がまじったりした。龍介は天気ばかり気になり夕刊の天気予報で、機嫌よくなったり、不機嫌になったりした。自分でもその自分がとうとう滑稽になった。土曜日から天気が上った。龍介は初めて修学旅行へ行く小学生のような気持で、晩眠れなかった。その日彼は停車場へ行った。彼は朗らかな気分だった。が、恵子は来なかった! どうすればいいのか? 龍介は分らなくなった。

龍介は、ハッキリ自分の恵子に対する気持を書いた長い手紙を出した。ポストに入れるとき、二、三度躊躇した。龍介には「ハッキリ」することが恐ろしかった。がこれから先いつまでもこのきまらない気持を持ち続けたら、その方で彼はだめになりそうだった。彼は思いきって、手紙を投げ入れた。そしてハンドルを二、三回廻すと、箱の底へ手紙が落ちる音がした。恵子からの手紙の返事はすぐ来た。冒頭に「あなたは遅かった!」そうあった。それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――

「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨めだ! 龍介は誇張なしにそう思って、泣いた。龍介は女を失ったということより、今はその侮辱に堪えられなかった。心から泣けた。――何回も何回もお預けをしておいてしまいにあかんべい、だ! 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハッキリ決めれない、なぜか、そうきめるとそれが変になってしまうように思われた。

……龍介は今暗がりへ身を寄せたとき、犬より劣っている自分を意識した。

Chapter 2 of 5
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