Chapter 1 of 5

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昭和二十年の三月上旬に、B29が東京の下町を襲撃した際に、私は一人の年寄と連れ立って逃げた。その年寄のことを、なが年私はおじさんと呼んでいる。おじさんはそのとき、折りわるく持病の神経痛が出て跛をひいていたので、私は手を引いて逃げたのである。二人ともに身一つで逃げた。おじさんはいちど私のことをいのちの恩人だと云ったことがあるが、そんなに感謝される謂はなにもない。

私達はともにある新聞販売店に勤めていて、そこの主任が出征し、その家族が疎開したあとの留守宅を守っていたのである。店員も皆んな戦争にとられて、店に寝泊りしているのはおじさんと私のほかにはなく、配達は小学生が勤労奉仕でやってくれているような状態であった。そして私も店に寝泊りはしていたが、徴用されて軍需工場に通っている身の上であった。

私が下谷の竜泉寺町にあったその店に住み込んだのは、日華の戦争がはじまる少しまえのことであった。そして私は若い店員たちの中に、一人雑っている年寄りのおじさんを見た。おじさんの主な役目は紙分けであった。紙分けというのは、本社から輸送してきた新聞を、区域別に購読者の数に応じて分けることを云うのである。おじさんが分けてくれた新聞を、私たち配達はそれぞれ肩紐でしょい込んで、配達に出かけていくのであった。

冬の朝などでも、おじさんは暗いうちから起き出して、通りに面した窓際にある事務机の前に頑張っている。本社から廻ってくる輸送のトラックが店の前に横づけされるのを待機しているのである。ジャンパーの上に汚れた袍を羽織って、脹雀のように着ぶくれたその恰好には、乞食の親方のような貫禄がある。向う鉢巻で、机の上に頬杖をついて、こっくり、こっくりしていることもある。

どうかしておじさんが寝過ごしていると、トラックから、

「竜泉寺、竜泉寺。」

と呼ぶのが聞える。おじさんは「おう。」というような寝呆け声を出して跳ね起き、それからパタン、パタンというゴム裏草履の音をさせて梯子段を下りていく。私たち配達はそれを夢うつつで聞きながら、またひとしきり眠りを貪るのである。紙分けの途中で、おじさんが梯子段の口に顔を出して、

「おう。諸君、紙が来たぞ。起きよ。起きよ。」

と声を掛ける。けれども、それで起きる奴などはいない。私達がそれでも一人、二人と不承不承のように起き出して配達に出かけていくのは、おじさんが紙分けをすまして、また自分の寝床にもぐり込む頃なのである。そして私達が配達から帰ってくる頃には、ひと眠りして起きたおじさんが、既に店の掃除をすましているのである。

私はその店にながく住みついたが、おじさんとはとりわけ親しくなった。配達の出入りの多い中で、お互いが古顔であった。親と子ほどに年がちがう。私は元来人づきの悪い、頑な性分で、すぐ人と気まずくなってしまうのだが、おじさんとはそんなことがなかった。私達はつまらないことで、よく諍をしたものだが、そのために互いの気持にこだわりが出来るようなことはなかった。ひとえに、おじさんの寛容な人柄のせいである。

おじさんは能登の七尾の人で、三十位のときに国を飛び出して東京へ来て、それ以来この職業に携わってきたのだという。明治十年の生れだと云うから、私達にとっては大先輩に当るわけである。またおじさんはかつて、小石川のどこやらの裏店に住んでいた、雌伏時代の菊池寛のもとに配達をしたことがあるそうである。おじさんの業界に尽瘁することも久しい。私は心中ひそかに、おじさんのために、こんな墓誌銘をさえ考案しているのだが。

「ここに配達夫礼次郎の墓あり。潔白なる生涯のしるし、肩紐と地下足袋を彫る。」

礼次郎というのはおじさんの名前である。かつて総理大臣をした人に、おじさんと同じ名前の人がいたように思う。いまなお矍鑠としているおじさんに対して、あらかじめ死後のことを懸念するというわけのものではない。

国にいたときおじさんはなにをしていたか、それはつい聞いていない。身の上話などはあまりしない人だが、いちどかつておかみさんだった人のことを、「怪しからぬことがあったから。」と云ったことがある。よくはわからぬが、国を飛び出したのも、そんなことが原因のようである。

私達が女の話をはじめても、それに加わるようなことはまずなかった。おじさんと一緒に道を歩いていて、通りすがりの女のことを、私が、

「悪くないじゃないか。」

と云ったら、おじさんは顔を背けて、苦々しそうに唾を吐いた。

「おじさんはなかなか好男子だから、若いときはもてただろうなあ。」

と私達が冗談を云えば、

「おう、もてたもんだよ。」

と他意なく笑った。

それにしても、おじさんは、国を出てから三十年にもなるわけであった。

おじさんは矍鑠としていた。病気をして寝込むなんてことも殆どなかった。それでも戦争の終る頃には、神経痛が出て歩行困難になり、よそめにもめっきり衰えが見えたこともあったけれども、それは寄る年波のせいもあろうが、主として当時の栄養不足が原因であったろう。気象もしっかりしていて、どうしてなかなか若い者に負けてはいなかった。またおじさんには、おじさんのような境遇にある年寄が持っていそうな厭味が少しもなかった。人に阿ったり、主人に取入ったりするようなところが少しもなかった。誰に対しても、一対一で向っていた。それだけに頑固で人に譲らぬところがあったけれども。そして、そういうおじさんの心意気はその風貌姿勢にあらわれていて、なんとなく飄々とした脱俗味さえ感じられた。

おじさんと一緒に銭湯に行ったとき、冬のことであったが、湯船の中でおじさんが、――はじめはこちらの体が冷えているから、まずぬるい方の湯に這入って、あとであつい方の湯に這入ればいいという、そんな至極当り前のことをもっともらしい顔をして講釈したとき、いっしょに湯に漬っていたいい年の男が、いかにも感に堪えたような顔をしておじさんを見て、

「あなたさまは、ひそかに世の中のために御心労なさっていられる、○○先生のような方ではないでしょうか。」

と云った。○○先生というのはおそらく心学とか道学とかいうものの先生なのであろうが、そのときおじさんは、あたかもその○○先生であるかの如き顔をして澄ましていた。その男も一寸頭のおかしいような顔をしていたが、それにしてもおじさんには、そんなふうに買い被られるだけの人品はたしかにあった。湯船の中ではみんな裸で、おじさんにしても新聞屋の記号のついたジャンパーなどは着込んでいないから、本来の値打が輝いていたのであろう。

おじさんの頭はもうだいぶ禿げ上っていたが、それでも鬢や後頭部にはまだ多少は毛が残っていた。鼻は高く大きくて、若いときは実際に好男子であったに違いない。背筋などもしゃんとしていて、おじさんの気概のほどが見えた。

いちどおじさんが店の朋輩と、とっくみあいの喧嘩をしたのを見たことがある。将棋をさしていたのだが、思いがけず、腕力沙汰になった。相手は店の者の中でも、気の荒い乱暴な男であったが、おじさんも屈せず応酬していた。すぐ留められたが、窓ガラスが毀れ、おじさんの額や唇から血が出た。見ていて、「元気だなあ。」という気がした。

朝刊の配達から帰って、朝飯を食べると、私たち配達はまたひと眠りするが、おじさんは朝飯をすますと、なにやら一帳羅のような着物に着かえて、これもまた色の変った中折帽を被り、手頸に小さな袋をぶらさげて、日本橋の蠣殻町の方へ出かけていく。蠣殻町というところは株屋のあるところである。日曜祭日で株屋が休みの日か、雨降りの日以外は、一日も欠かさずに出かけていく。おじさんはべつに株屋の番頭をしているわけではない。これはおじさんにとっては道楽と云うべきか、これもまた商売と云うべきか、または病いと云うべきか、ともかく熱心なものであった。病いならば、もはや膏肓に入る感じであった。よくは知らないが、おじさんは行った先で同好の士と、その日の株の上り下りにことよせて、御法度の賭けごとをするわけなのである。

おじさんはなにやらいっぱい書き込みをしてある手擦れのした手帳や、色鉛筆で図表の引いてある、これもまたいい加減けば立った方眼紙を持っていた。これはいわばおじさんの商売道具のようなもので、おじさんが手頸にぶらさげて持参する袋の中の代物は、すなわちこれであった。おじさんはときおり、老眼鏡や虫眼鏡をたよりにして、鉛筆をなめなめ、むずかしい顔つきをして、手帳や方眼紙を覗いていた。

「近頃はどうかね。儲かるかね。」

と訊くと、

「さっぱり儲からないよ。」

と苦そうに笑いながら云う。私はべつに賭博好きというわけではないが、それでも、おじさんの止められない気持は、察しのつかないことはない。

着物に着かえ、わずかに残っている頭髪に湿りをくれて櫛でなでつけ、几帳面に帽子を被って出かけていくおじさんの姿は、いかにもいそいそとしていて、まるで堅気の勤人のように見えた。配達から帰ってきて、出かけるばかりのおじさんとぶつかり、「御出勤かね。」と云うと、おじさんは「うん。」とも云わずに、真面目くさった顔つきをして、草履を突っかけて出ていく。往きはおじさんは徒歩でいく。朝の新鮮な空気のなかを、竜泉寺町から千束町に出て、浅草の観音さまの境内を抜けていくのである。これはおじさんの日課の散歩のようなものである。

「いい運動になるよ。体にいいんだよ。」

とおじさんは云う。おじさんが達者なのは、ひとつはこの毎朝の規則立った運動のせいであろう。かえりはおじさんも電車に乗ってくる。その頃、ちょうど三の輪から水天宮行の電車が出ていたので、便利であった。昼まえ、南千住の「浜の家」という弁当屋が私達の昼飯を届けてくれる頃には、おじさんは店に帰ってきていた。朝刊配達後眠りを貪った私達も、その時分になると、ぼつぼつ起き出しはじめるのである。

或る日のこと、おじさんがなかなか帰って来なかった。

「おや、おじさん、まだ帰って来ないのかね?」

とふと誰やらが云い出して、はじめておじさんの帰りのおそいことに、皆んな気がついた。それでも夕刊までには帰ってくるだろうと思っていたが、時計の針は進んでも、おじさんはなかなか帰って来なかった。どうしたのだろうと、私達も訝り心配しはじめた。こんなことは初めてであったし、ふだんおじさんは決してルーズな人ではなかったから。

「まさか、おじさん、しょっぱんしたわけじゃないだろうな。」

と私達は冗談を云った。新聞屋仲間では、無断退店することをしょっぱんすると云い、またその当人のことは「パン吉」と呼んだ。新聞屋なみに卑下した用語である。しょっぱんする際には、誰にしろ、店に対して多少の不義理をしていくわけであるから、その後めたさが自ずと語感にあらわれたわけであろう。この頃は、渡り者の配達で、しょっぱんの前科のない者は殆どいなかった。だから私達は、誰かがまえの晩に廓へ遊びに出かけて、つい朝刊の配達に帰ってくるのがおくれたような場合でも、すぐ疑ぐったものだ。けれども、おじさんはこの店に対してしょっぱんしなければならない因縁は、なにもなかった。念のために、おじさんの行李が入れてある押入れを覗いてみたが、改めるまでもなく持ち出されてはいなかった。おじさんの出勤先でか、若しくはその帰途かで、なにか事故が起きたのに違いなかった。

「自動車にでも轢かれたのではないかしら?」

私はそんなばかな心配をした。到頭、おじさんが帰らないうちに、夕刊のトラックの方が先に来てしまった。私達が配達から戻っても、まだおじさんは帰ってきていなかった。ようやく私達も一つの結論に落着いた。おじさんは出勤先での御法度の賭けごとが祟って、その筋の御厄介になったのに違いないと。それでも私達は、いまにもおじさんが間の悪そうな顔をして、ひょっこり帰って来そうな気がした。その夜、私達はおじさんの帰りを空しく待ち明かした。

あくる日、店の主任はおじさんの出勤先へ出かけて行ったが、やがて帰ってきての話では、やはりおじさんはその処の警察署の御厄介になっているのであった。その日十人あまりの者が一網打尽にされたそうである。おじさんはそれでも二週間ばかり拘留された。警察側としては、一寸お灸をすえたわけなのだろう。おじさんの留守の間は、私が代って紙分けをした。

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