一
修吉が北越山中の秋山家を訪ねたとき、恰もそれを見るために遥々やつてきたやうに、まづ仏像のことを尋ねた。
仏像は弥勒だといふ話であつた。観音に似た女性的な柔和な相をし、半跏して、右手で軽く頬杖をついて静思とも安息ともうけとれるやうな姿をしたあの像である。この弥勒像の柔和な顔にきざまれた不思議な微笑に就いて、かねて友達の野沢から屡々話をきいてゐたのだ。野沢の姉が秋山家の当主に嫁してゐるのである。
玉木修吉は仏像の研究家でも蒐集家でもなかつたし、また上代文化に特別造詣のあるわけでもなかつたので、この仏像の話に興味を覚えたことが殆んどなかつた。
夏が近づいたとき、野沢と旅の話をした。そのとき、秋山家で一夏暮してみないかといふ話がでたのだ。山中だから涼しいうへに、ほど近い谷間には温泉のわく部落もあるといふ話であつた。十人ぐらゐの来客が一向目立たない大きな家だし、これといふ娯楽のすくない僻地のことだから、漫然たる滞在客を喜ぶのである。牛肉や海のものが食へないぐらゐの不自由を忍べば、なまじ山間の温泉宿で隣室の絃歌や喧噪に悩むよりはましだらうと野沢は言つた。
「奇妙な微笑をたたへてゐる弥勒像のあるうちだね」と、修吉は思ひついて言つた。
「そのうちなんだよ。ところで――」と、そのとき野沢が語つたのである。「そこの娘が、つまり僕の姪に当る娘なんだが、君はかういふこぢつけた見方がきらひかな。年頃になるに順つて、弥勒像の性格だ。二年前の話だが、十九の年に見合ひして、近村の豪農の息子と結婚することになつたのだ。見合ひから帰つてきての言ひぐさが、あんな美男子は始めて見た、少女歌劇の男役よりも綺麗だと思つたなんて、他人のお聟さんでも見物してきた話のやうに笑ひながら言つたさうだ。好きなのかと訊くと、大好きだと答へたので、結婚させることになつたわけだ。ところが、あと十日ほどで結婚式といふ時分になつて、その娘が、誰ひとり知らないうちに婚家の方へ電話をかけて、結婚をやめることにしたからといふ通知をしてしまつたさうだ。縁談はおぢやんになつたが、娘の態度が至極あつさりしたもので、自分のしでかしたことを一向に一大事だとは思つてゐない風なので、両親も叱りやうに困つたといふ話なのだ。これが突飛な行動の第一回目で、その次には、夜中に屋敷をぬけだして、山奥へ失踪したことがあつたさうだ。急に死ぬ方が綺麗のやうな気がしたからだと言つたさうだよ。生れつき一冊の文学書も読む気になつたことのない娘で、泣顔の想像ができないやうな呑気な風があるのだが、僕がまた女の神秘といふやうなものに興味も持ち、いくらかそれにこだはりすぎるせゐかも知れぬが、弥勒の微笑に似た秘密なものが目の中に感じられて、なんとなく行末が気にかかる娘なんだね」
盛夏がきて、愈々二人が秋山家へ出発といふ当日に、のつぴきならない用ができて、野沢は同行できなくなつた。先方ではすでに用意をととのへて待つてゐることだからと、修吉だけ一足先に行くことにした。野沢は用をかたづけて、四五日あとには追ひつく筈であつたのだ。――が、結局彼は一夏中多忙に追はれる破目になつて、修吉の長い滞在中、つひに姿を現さずにしまつたのだが。
修吉は娘にからまるいくつかの話をきいた後になつても、仏像の神秘な微笑といふものを、身を入れて考へてみたことはなかつた。なるほど一夏の温泉宿も月並だ。いくらか窮屈であるにしても、山中の豪家で暮す一夏が、多少は新鮮であるかも知れない。修吉はさう考へて、漫然と行く気になつてしまつたのだつた。
修吉は部屋へ案内してくれた十七八の下婢に向つて、仏像のありかを尋ねてみた。その下婢はまつしろな肌に、眼の色すら青くはないかと疑はれるほど異国風な顔立で、ふさはしい衣裳をまとふてゐたなら、都会でも目立つだらうと彼は思つたほどだつた。仏像よりもこつちの方がいいのぢやないか、と、そんな気持がしてゐたのである。
「そこにあります」
意外にも、下婢はきはめてあつさりと、部屋の床の間を視線で示した。なるほど、そこに仏像があつた。気付かずに、尋ねたことがてれくさいほど、人間なみの大きさをした木像であつた。
「いつもこの部屋におくのかね」
下婢は修吉の質問がのみこみかねて、しばしぼんやり顔をみつめた。ふだんはめつたに使はない特別の客間ださうだが、野沢が仏像を好んでゐるから、この部屋を特に二人の使用に当てたのだといふ。
かうして彼は娘の顔を見ないうちに、まづ仏像を見たのであつた。
なるほど弥勒の像である。台に腰かけた姿勢なのだが、右足を左膝の上へのせてゐる。さうして右手の指先を軽く当てて頬杖をつき、物思ひとも憩ひともつかぬ風をして、かすかに笑つてゐるやうである。立上つたら、ちようど四尺七八寸の仔鹿のやうに敏捷な婦人の姿になりさうだ。胴体や手足は顔にくらべていくらか細く、飛鳥天平の仏像に似て現実的な肉体の線をよほど離れたものであつたが、注目すべき一事には、非現実的な曲線からみづ/\しい肉感があふれあがつてゐることだつた。飛鳥天平の肉体の線は、内面の静寂を象徴して、肉感を超えてゐるのが普通なのである。鎌倉頃の観音や地蔵の像には、工匠達がその憧れの肉体をそこにもとめたかのやうに、その肉感のなやましさに見る人々を呆気にとらせるものがある。然し、それらの肉体の線は飛鳥天平の象徴的な手法と異り写実的な手法であつて、現実の女体さながらなのが普通である。この弥勒は現実を夢幻的に歪めてゐること飛鳥天平のものにちかいが、その甚しく非現実的な肉体から、見れば、みづ/\しい肉感の縹渺と放つてゐるのである。凝視めてゐると、涯の知れない遠さのなかにあるやうなその肉感が、ひどく身近くせまつてゐるので、妖しい思ひになるのであつた。
この肉感に気付いたうへで顔の表情へもどつてくると、笑ひの神秘がよほどはつきりと分りかけてくるやうだ。モナリザの笑ひとも違ふ。もつと素直で、さり気ない笑ひなのである。さうして、笑ひを意識して視るのでなければ、それを見逃してしまひさうな幽かな笑ひの翳にすぎない。そのくせ、いつたん意識してしまつたあとでは、笑ひに魅入られてしまつた風に、それが深く絡みついてくるやうになる。またその顔の美しさが、ひどく静かで、清潔だ。血を吸ひ飽いた宝石の冷たさよりも静寂である。また、安らかなものであつた。