Chapter 1 of 3

蒲原氏は四十七歳になつてゐた。蒲原家は地方の豪農で、もとより金にこまる身分ではなかつたが、それにしても蒲原氏のやうに、四十七といふ年になるまで働いて金をもらつた例がなく、事業や政治に顔を出した例もなく、かういふ身分の人々にありがちな名誉職にたづさはつた例もないといふ人は珍しいに相違なかつた。蒲原龍彦の名前は門札のほかに存在しないやうなものだつた。

勿論働かないことをもつて一生の主義とするといふやうな尤もらしい主張があつたわけではなく、むしろあべこべに、元来主張するところのものを何一つ持てないほど無気力で弱気で、そのうへ生活の金には全然こと欠かないところから、ずるずるべつたり四十七年ぼんやり暮したわけであつた。平凡無難といへばこの人ほど平凡無難な金持もないわけで、類ひのないほど人が好かつた。

蒲原氏の顔を描くには、まづ福々しい一つの円を想像し、そこへ小粒な、然しこれもまるまるとした目鼻口をちよぼ/\と落すだけでいいのであつた。したがつて胴も手頸も赤子のやうにまるまるとして、ちやうど呑気な、至つて無邪気な、象の子供のやうであつた。

蒲原氏は歩んど書斎に暮してゐた。読書をしたり、かれこれ二十年このかたの書き物をつづけてゐるといふのであつたが、極めて貞淑な、一心同体の蒲原夫人でさへ書き物のことは全然黙殺しきつてゐて、その完成に期待をかける人物はまさしく地上に一人もなかつた。朦朧と書斎にとぢこもつてゐるばかりで、文字一つ書いてゐるわけではないのだと人々は笑ひながらひどい噂をするぐらゐで、何を書いてゐるのやらその題目さへ殆んど人々は忘れてゐたが、きくところによれば「埋もれたる平凡な市井人の歴史」とかいふ題目の由で、これまでの歴史が主として非凡人の歴史であり非常事の歴史であることにあきたらず、青史の外に埋もれた平凡にして善良な市井人のために、そのささやかな、然し各々の精根を傾けた感情や善行の数々を彰顕して、一篇の真に泪ぐましい人間史を描きださうといふのであつたが、あひにく埋もれた市井人の生活を示してくれる文献が殆んどなかつた。あるにはあつたが、あひにくのことに文献の殆んど全部が詩・劇・小説なぞといふ不倶戴天の仇敵で、自家一生の著作が厳密な科学的労作であつても、詩・劇・小説のたぐひのやうな生来浮浪性を帯びた作物である筈はないと固く心に信じてゐた蒲原氏にとつて、まさしく致命的な伏兵であつた。然しながら事実に於て市井人のささやかに燃えさかり埋もれていつた感情を書き残したものは文学のほかになく、要するに埋もれた市民達の感情は、各々の時代に各々の詩人によつて生き生きと語り綴られてきたことを厭々ながら納得しなければならなかつたとき、「埋もれたる平凡な市井人の歴史」と題する死んだ記録を綴るよりも、血の通つた自叙伝を遺す方がよつぽど自然だと疑ぐりだしてしまつたところで、蒲原氏の大業は人々の想像通り遠く十数年以前からものの見事に停頓状態をつづけてゐた。

蒲原氏は毎日書斎に籠つてゐたが、ぼんやりと肱掛椅子に埋もれてゐるばかりで、睡眠と思索との丁度その中間にあたるところの嗜眠性瞑想状態に於て、然しながらなまなましい四十七歳の人生を蚕食してゐた。

蒲原氏に一男一女があつた。蒲原氏にふさはしい悪趣味の名前で、兄を魚則といひ二十四歳、妹の方は南京娘に間違ふやうな奇妙な名前で秋蘭とよび、二十一歳であつた。二人の兄嫁はとうに死んだ先妻の子供で、現在の蒲原夫人は子供達と姉妹のやうな、漸く二十七歳といふ若さであつた。この人には子供がなかつた。

初夏もすぎて、うらうらと雲峰の浮く季節になつた。そのとき蒲原魚則が突然失踪して、行方不明になつてしまつた。

蒲原氏の先妻は強度のヒステリイで、その遺伝といふわけか二人の子供は生れついての腺病質で幾分並とかはつた体質であつたが、蒲原氏も若い頃のあやまちで梅毒を病んだ覚えがあつた。どの遺伝とも分らないが、魚則は週期的に普通と違つた状態になつて、どんな幻想に追はれるものか飄然と家をとびだしてしまふのだつた。

魚則がまだ十八の時であつたが、第二回目の普通と違つた状態になつて、人々の寝静まつたある夜更けに何やら記録めいた書き物に熱中してゐると、後ろの扉をソッとあけて一人の泥棒がはいつてきて、その場に暫く突立つてゐるのであつた。後ろにその気配を感じてゐたが、病的に熱中してゐた魚則のこととて、書き物の手を休める余裕がなかつたため、一段落つくところまで脇目もふらず書いてから、さておもむろに振向いてみると、扉のところに朦朧と立ちすくんで怯えきつた眼付をしながらこつちをボンヤリ瞶めてゐるのは、泥棒ではなく父親の蒲原氏その人であつた。

魚則が自分を瞶めてゐることに気付くと、蒲原氏は思はず顔を掩うて、「おお、私のわるい影だ……」と呟きながらよろめいたのであつた。こんな取乱した父の姿を見た覚えのない魚則は茫然として言葉も身動きも忘れてゐると、蒲原氏はよろめきながらヒイヒイといふ嗄れた呼吸で泣いてしまつて、「お前を苦しめる黒い影が私に見えるよ。怖ろしい私の影だよ! お前に悲しい物を書かせる水のやうな黒い影が私の眼をかきまはしてゐるやうだ……」と呟きながら、顔を掩うた手をはなし、ふらふらと歩みよつてきたのだが、まんまるい顔全体がまつたく涙に曇つてゐて、幾条のよごれた線が流れてゐた。蒲原氏は魚則の顔をなめるやうに瞶めてゐたが、

「今こそ私は告白しなければならないのだよ……」と眼に狂的な絶望を光らせて言つた。

「お前の中には私の悪徳が流れてゐるのだよ。私は気の毒なお前によつて復讐されてゐるのだよ。希望がすでに暗黒の地の下に埋められてゐるよ……」

蒲原氏は呪文のやうな奇妙なことを言ひかけて、愈々なにか重大なことを言ひだすやうに見えたのだが、そこまで言ふともはや堪らなくなつたものか、突然くるりと振向いて、さらに激しく泣くためのやうに自分の寝室へ走つていつた。その悲惨とも滑稽とも言ひやうのない後ろ姿が魚則の目に焼きのこつて、病も癒え、幻覚も去つたのちにも、なほ永遠のやうに離れなかつた。

そんなことがあるかと思ふと、あべこべに、魚則が失踪したり魚則の自殺未遂があつたりしても、ふだん通り朦朧として殆んど驚きを表はさなかつた。ところがさういふ荒々しい出来事が過ぎ去つて平和が戻つてきてからの一日のこと、べつに用はなかつたのだが何心なく秋蘭が父の書斎へはいつてみると、蒲原氏は珍らしく書き物をしてゐた。書き物をしてゐるので立ち去らうとすると、急に蒲原氏は顔をあげて秋蘭おまちと呼びとめ、なあにと言ひながら這入つてきた秋蘭を突然その胸にしつかと抱きしめて、ヒイヒイと掠れた声で泣きだした。泣きながらも何か言はうとするのであつたが、涙がとめどなく流れるばかりで一向声がでないせゐか、たうとう一言も言はずじまひに終つてしまつた。やがて蒲原氏は机へもどつてぼんやり顔を掩うてゐたが、静かに書きかけのものを手にとると、できる限りの細かさに丹念に千切つてしまつた。

ところがこの話を伝へきいた魚則が、食事中の茶碗も箸も落してしまひ、魂のぬけた顔付で暫くぼんやりしてゐたが、やがておいおいけたたましく泣きだしたのだつた。

「お父さんはそのとき自殺しかけたんだよ。書き置きを書いてゐたんだよ」と叫んだ。

勿論この話はこれだけのことで済んだ。蒲原氏は死ななかつたし、もともと死ぬ気配の微塵もない人物だから、蒲原夫人も秋蘭も病的な神経の取越苦労に大笑ひして、一つの笑ひ話としか考へなかつた。

さて、魚則の今回の失踪の時には、馴れてゐたので全く人々は驚かなかつた。

失踪から四日目の夜、長野市の警察から知らせがきて、自殺の目的で長野市中をうろついてゐた魚則を保護してあるから引取りに来るやうにと言つてきた。

その夜、蒲原家には、蒲原夫妻と秋蘭のほかに、魚則の友達で栗谷川浩平といふ若い画家と、秋蘭に心のある石河といふ会社員が集つてゐたが、べつに魚則の身の上を相談してゐたわけではなく、呑気な世間話に笑ひ興じてゐたのだつた。そこへ長野警察署から知らせがきたのだ。

「長野は――。ああ、長野。長野は貴方、栗谷川さん……」

蒲原氏は突然うはずつた情熱に目をまるくして、亢奮のために吃りながら言ひだした。

「長野は貴方、貴方が買つてきた素晴らしいゲテ物の、びん、びん……」

「さうです、貧乏徳利でせう。あれは長野でみつけたのです。あの貧乏徳利は長野近在にたくさんころがつてゐるのですよ。僕のみつけたのは桜枝町の古道具屋ですが、善光寺裏の凡そ薄暗い汚い町でしたよ」

「おお善光寺裏!……私は、そこへ行きたかつたのです。あの貧乏徳利は自然人の栄光ある芸術ですよ。ただ専すらに生活が唄つた詩ですよ」

蒲原氏の眼は生き生きと輝いた。すると蒲原夫人も乗気になつて、「さうでしたわ、あの徳利はほんとに素敵ですわ」と言ひだすし、こんな話になると滅多に面白がらない秋蘭まで、「さうさう。でもそんなに言ふほどのものでもないわ」と口を入れる始末で、一座が一本の貧乏徳利にまつたく熱中しはじめたのだ。

石河だけがその徳利を見たことがなかつた。この話に除外されたのが癪にさはつたばかりではなく、もともと石河は几帳面な会社員でこの家庭の、無軌道な純情ぶりが時々爽快ではあつても、鼻持ちのならない時があるのであつた。彼はひとり苛々して、

「そんなくだらない話に熱中する場合ぢやありませんよ。誰がいつ長野へ出向いて魚則君を受取つてくるか、それを相談することが重大なんぢやありませんか!」

と、噛みつくやうに言ひだしたのだ。

蒲原氏はもう昔からどういふものかこの几帳面な会社員が気に入らなかつた。一喝をくふと吃驚りして、孔のあくほど正義派の会社員を瞶めてゐたが、やがてまるまるとした童顔が次第々々に歪んできて、快心の、然し甚だ人の悪い微笑の皺が、かすかながら歴々と刻まれてきた。

「おお、それでは石河さん、それはたしかに貴方が最も適任者ですよ――」

と、大急ぎで言ひはじめると、その顔面には包みきれない満悦が溢れあがつてきたのであつたが、流石に多少は満悦を隠すやうに努めながら、益々威勢の良い早口で、

「貴方は、貴方は明朝の一番列車で長野へ行つてくださるでせうね。お頼みしますよ。これはほんとに、おお唯一無二のはまり役だ。私達は世間知らずで、全然無能なんですよ」

蒲原氏は言ひ終ると嬉しげに蒲原夫人や栗谷川浩平を眺めまはして、その同意を求めようとするのであつたが、と、蒲原夫人は良人のやうな皮肉な意味は毛頭なしに、また良人の皮肉には聯絡のない純真な態度で、「さうですわね、私達ぢや物の役に立ちませんわ。石河さんにお願ひいたしませう」と言つた。

石河はやむなく引受けて帰つたが、翌朝もしやくしやしながら兎に角六時には上野駅へ現れて、発車の時刻まで苛々と構内を歩きまはつたあげく、どうしても汽車に乗りこむ気乗りがせず、泣きたいやうな癇癪と共にみすみす列車の出発を見送つてから、公衆電話へ荒々しくとびこんで、「つい寝過して一番列車に乗りおくれましたよ。次の列車は八時ですが、それで行きませうか」と怒鳴つた。蒲原夫人は引込んでいつたが暫くすると電話口へ戻つてきて、「御苦労様でした。あとはこちらで取りはからひますから、どうぞ御放念下さいませ」といふ返事であつた。

街で朝風呂をあび、悠くり朝食をとつてから出勤した石河は、机の前で一日苛々と暮してしまつて、会社がひけると早速蒲原家へ駈けつけてみたが、召使ひが静かに現れて、

「ハイ、旦那様も奥様もお嬢様も今朝方自動車でまつすぐ長野へおたちになりました」

と切口上で答へたのであつた。

Chapter 1 of 3