Chapter 1 of 13

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乃公は昨日で満十一になった。誕生日のお祝に何を上げようかとお母さんが言うから、乃公は日記帳が欲しいと答えた。するとお母さんは早速上等のを一冊買って呉れた。姉さん達は三人共日記をつけているから、乃公だってつけなくちゃ幅が利かない。

物は最初が大切だそうだ。初めて逢った時可厭だと思った人は何時までも可厭だとは、お花姉さんの始終言う事だ。それで乃公も此最初を巧くやる積りで、色々と考えて見たが、どうも面白い事が書けない。すべて物には始めがある。正月は明けましてで始まり、演説は満堂の紳士淑女諸君で始まり、手紙は拝啓陳者で始まる。しかし日記は何で始まるものか、始からして分らないのだから、全然見当がつかない。弱っちまう。

お花姉さんのには什事が書いてあるか知ら、一つお手本を拝見してやろうと好い所に気がついて、乃公は窃と姉さんの室へ上って行った。平常机の引出に入れとくのは承知しているが、鍵がかってあるので、合う奴を探すのに大骨を折った。

実際鍵をかけて置く筈だ。乃公の悪口が大分書いてある。第一太郎太郎と呼捨てに書いとくのが気に食わない。「太郎のオシャベリが皆喋って了った」等は頗る厳しい。どっちがお喋りだ。兎に角処分は追って後の事として、帰って来ない中にと、乃公は一生懸命で丁寧に一頁写し取った。

日が暮れると間もなく、富田さんがやって来た。富田さんは毎晩のように遊びに来る。肥り返って岩畳骨格の男だ。顔は頗る不器用で御丁寧に鰥と来ているが、お金は大層あるそうだ。お島のいう所に依ると大分お花姉さんに参っているそうだが、トランプで参ったかピンポンで参ったか、其辺までは詳しく訊いて見なかった。

乃公が例の日記帳を抱えて、得意然と客間へ入って行くと、富田さんは例の赤ら顔をテカテカさせて、

「やあ、太郎さん、どうだね」

と言って、キャンデーを呉れた。乃公は此人は那に嫌いでもない。君の持っているのは其は何かねと訊くから、是は日記帳です、未だ買いたての貰いたての写したてのホヤホヤですと答えた。すると尚お拝見致したそうにしているから、お目にかけてやった。

「ふーむ、是や豪気だ。金縁だね」

と富田さんは仔細らしく乃公の日記帳を見ている。姉さんのお気に入ろうと思って、乃公にまで恁に御愛嬌を振撒くのだろうが、豪気だの豪勢だのという下町言葉を使っては、気位ばかり妙に高いお花姉さんに好かれる筈がない。それでも富田さんが、

「花子さん、これから私が太郎さんの日記を朗読致しますから、歌子さんも御謹聴なさい」

といって椅子を離れた時には、お花姉さんもお歌姉さんも、何卒といったように頷いた。乃公も面白かろうと思って、別段故障を申立てなかったが、今考えて見ると彼の時故障を申立てると宜かった。トウトウ大変な事になって了った。富田さんは委細頓着なく、エヘンと気取った咳払をして、早速読みにかかった。

「富田さんなんか最早来なければ宜い。日曜の晩にも来て真正に煩さかった。私如何しても彼の人は嫌い。お金があるってお母さんは仰有るけれど財産ばかりが人間の全体じゃない。誰が好き好んで若い身空を那ところへ嫁くものですか。お母さんだって若い時の記憶もありましょうに、真正に少しは私の身になって考えて呉れても宜さそうなものだ。那鬼のような手をして不恰好なってありゃしない。家作が何軒あるの地所を何程持っているのって外、何一つ碌な口も利けない芸無しの癖に。年甲斐もなくまあ彼の赤いネクタイは何でしょう。本当に生好かない気障な人だ。第一趣味が低いわ。低い所じゃない全然零だわ。此間も帰りがけに私を捉えて失礼な接吻をしようとしたり……那奴に接吻される位なら、私は伊勢鰕に接吻して貰う方がいい。同じ人間で斯うも違うものか知ら。ああ清水さん! 清水さんは憤っていなさるのか知ら。此間も妙に何か嫌味をお言いだったが、どうして世の中は恁うしたものだろう。男らしい男が貧乏で、富田さんなんかが金持なんだから、真正に人を馬鹿にしている。若し清水さんが富田さんで、富田さんが清水さんだったら……おや然うじゃない。清水さんが富田さんで、富田さんが清水さん――じゃ矢っ張り都合が悪い。ああ何だか分らなくなっちまった」

お花さんは日記帳を取返そうとして頻りに焦燥ったが、富田さんは矮小だけれどお花さんよりは丈が高い。それに其度に渡すまいと丈伸をして手を高く揚げるから仕方がない。トウトウ読んで了った。そして果せる哉、本統に伊勢鰕のように真赤な顔になった。乃公は困ったと思うと、富田さんが突然乃公の手を捉えたのには喫驚した。

「太郎さん、是は君の悪戯だろうね」

「いいえ、僕じゃないんですよ。お花姉さんの日記を僕が写したんですよ」

と乃公は嘘を吐いちゃ悪いと思って、事実ありのままを答えた。これで富田さんがワシントンのお父さん位物の道理の分った人だと、早速乃公を抱き上げて、私は大馬鹿三太郎と書かれても一つの嘘を言わぬ我が親愛なる太郎さんを持つ事を好むとか何とかと直訳的の事を言って、大に喜ぶのだろうに、不幸にして先方が其人でなく、当方もワシントンでないのであって見ると、今更何とも苦情の言いようがない。乃公も嘘を吐けばよかった。富田さんは見る間に顔色を変えて、何か言いたそうに口をモグモグさせたが、グーイと喉を鳴らしただけで一言もなく、さっさと出て行って了った。戸が毀れやしないかと思われる位大きな音がした。乃公は何だか気の毒でならなかった。

富田さんが門あたり迄行った頃、「太郎さん本当にお前は!」とお花姉さんは突然乃公の首筋に獅噛付いた。乃公は実際先刻から既に恐縮していた矢先だから、心臓が脳天へ登ったような心持がした。そして斯う事が面倒になっては又什目に遇わされるかも知れないと思って、手早く振切って、一目散に自分の室に逃込んだ。

今日は家の者は皆御機嫌が悪い。乃公の顔を見ると白い眼をする。お島の談話によると、乃公のお蔭で大略出来かけていた下話が全然毀れて了ったのだそうだ。言葉を換えて言えば、乃公の為めにお花姉さんは富田さんの許へお嫁に行けなくなったのだそうだ。果して然らば真に願ったり叶ったりじゃないか。姉さんは頓首再拝して乃公にお礼を言って然る可き筈だ。然るに是は又何たる矛盾な仕打だろう。無暗矢鱈とツンツンして、今にも食い付きそうに乃公を睨める。真正に恩を知らぬ行為というものだ。乃公は最早決して清水さんの許へなんか使に行ってやらないからいいや。

恁時に家にいたって些とも面白くない。然うかといって長男であって見れば、家を逃出して電車の車掌になる訳にも行かないから、乃公は釣竿を担いで川へ出掛けたけれども、今考えて見ると実際釣魚になんか行かない方が宜かった。乃公は何時でも後で後悔する。尤も牧師さんも人間は後悔するようでなくてはいけぬというから、是で善いのかも知れぬ。其は兎に角乃公は川へ落ちて尚少しで死ぬ所だった。これというのも自一至十姉さん達が悪い。乃公は家に凝っとしていたかったのだけれど、姉さん達が苛めっ子見たいに白い眼ばかりして、出て行けがしにするものだから、乃公は可厭だったが押して出掛けたのだ。何人が物数奇に落ちたくて川へ落ちるもんか。落ちたのは如何にも乃公の過失だ。しかし其過失の原因は全く姉さん達にある。

余り天気が好いので魚は些っとも餌につかない。乃公は退屈だったから、ワッフルを喰べ、ビスケットを食い、林檎まで平げて、最早好い加減にして切上げようとしていると、浮が頻りに動く。竿が絞れる程グイグイ引く。占めたと思って竿を揚げる拍子に、余り前へ乗出したもので、不覚川の中へ込んで了った。決して落ちたくて落ちたんじゃない。

気がついた時には、乃公は藁火の傍に大勢に取巻かれていた。大方乃公が死んだと思って火葬にする積りだったのだろう。気の早い奴等だ。若し骨になってから正気に返ったら奈何する積りなんだろう。真正に危い所だった。油断も隙もなりゃしない。

水車の叔父さんに背負さって、家に着いたのは最早トボトボ頃であった。お母さんは乃公を抱占めて涙を流した。宛然十年も別れていたようである。姉さん達も太郎太郎って恰も太郎の歳の市が始ったような騒動を入れる。殊にお花姉さんは身に覚えがあるから親切なもので、上等のビスケットを乃公の枕元へ持って来てくれた。皆の御機嫌は既に全然変っている。して見ると時には川に落ちるのも、大阪の伯父さんの言葉を借りていえば、川に陥るのも、満更損じゃないと思う。それは兎に角、無暗と乃公に毛布を巻付けて、写真を撮るのじゃあるまいし、凝っとしてお居で、凝っとしてお居でというのには尠からず弱った。熱苦しくて仕様がない。水で冷えたのだから折返して温めさえすれば直ると思っているのだろう。ドクトル森川にも似合わぬ単純な思想である。

乃公は余り苦しいから、窃と室を脱出して、客間へ入ったけれども、見つかると又叱られるから、窓掛の後に匿れていたが、其中に大層身体が疲るくなり、次いで睡くなった。

何だか話声がすると思って目が覚めた時には、最早燈火が点いていた。乃公の直ぐ前の長椅子に何人か二人腰を下している。腰を下しているばかりじゃない、何うやら凭れ合っているようだ。一人はお春姉さんに相違ない。香水の香で分る。お春姉さんのは何時もバイオレットだ。お春姉さんの御相手なら、今一人は彼のハイカラ筍に極っている。森川さんは先刻乃公に薬を盛ってくれて、未だ愚図愚図していたと見える。二階でピアノを弾いてるのは彼はお歌姉さんだろう。いやお歌姉さんにしては少々巧過ぎる。今夜は富田さんが来ないから、お花姉さんもお二階なのだろうなどと思っていると、

「ねえ、春子さん、たった半年の事だから、あなたも機嫌好く待って下さい、ね。秋になれば下条さんの病院で若手が一人要る。最早概略約束が出来ていますから、然うなれば患者も今よりは豊と殖えます。もう僅か半年、六箇月です。ね、待って下さい。春子さん」

確かにドクトルの声だけれど、一体何を待つのだろう。

「そりゃ貴下さえ其積りで確乎していて下さるなら、私は何年でもお待ち申しますわ」

とお春姉さんが答えた。そして二人は何かクスクス笑い出した。何が那に可笑しいのだ。此方の方が余っ程可笑しいけれど、尚お息を殺して聴いていると、

「けれどもね、春子さん、是は極く秘密にして置きましょうねえ。秘密は最良の政略です」

「無論私も其積りよ」

とお春さんが答えたか答えないに、何人か表から戸をコツコツと叩いた。すると姉さんは電気にでも打たれたように飛立ち、森川さんも人真似子真似で、ボールのように飛上って、二人はテーブルを距てて端然と向合に坐って、「お入りなさい」どうも種々な芸当をする奴等だ。

殆んど其と同時に戸が開いて、大勢ドヤドヤ入って来た。お母さんが先立になって、これは失礼、太郎は此処へは参りませんでしたかと訊く。森川さんは「はい、一向」と答えた。はい一向もないものだ。乃公は先刻から僅半間とは離れぬ処にいるんだぞ。今日は乃公が死にかけたので、只今見舞人が罷越したのであるが、肝腎要目の御当人の姿が見えないので、お母さんが探しに来たのである。はい一向もないものだ。で、此上御心配をかけては済まないと思ったから、乃公は窓掛けの中から躍出て、突然其処に四つん這になって、ウーウと一つ唸ってくれた。

「ああ太郎、お前はまあ奈何おしなのだねえ」

とお母さんは然も呆れ返った如く、ねえを引張って、天手古を舞いかける。

「まあ太郎さん、お前は先刻から此の中にいたのかい」

とお春姉さんはお自慢の大眼玉をる。

「ええ、いましたよ、十六世紀頃から此処にいました。ねえ、姉さん、秘密は最良の政略ですねえ。半歳は六ヵ月で厶いますねえ。ヘッヘヘヘヘ」

と乃公は一歩進んで赤ん眼をして呉れた。

お春さんは顔を赤くして乃公を捉えた。そして、

「さあ彼方へ行らっしゃい。お母さんに御心配をかけて」

と万事お母さんに託けて、乃公を捲く料簡と見えた。

「行きますよ行きますよ。其様に酷い事をしなくたって行きますよ。けれども姉さん、姉さんと森川さんは……」

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