Chapter 1 of 12

幼少の思い出

隣り同士の僕と菊太郎君は妙な因縁だ。凡そ仲の好い友達といっても、僕達二人のようなのは類があるまい。三十余年間、始終一緒だった。学校も一緒、商売も一緒、何方か病気をしない限り、毎日顔を合せて来ている。同業のものは僕達のことを御両人と呼ぶ。僕も菊太郎君もそれに異存は毛頭ない。

「羨ましいね、御両人は」

「若旦那同志のお神酒徳利だ。そのまゝじっとして並んでいさえすれば、今に時節が廻って来る」

「男は好いし、金はあるし、御両人は兜町切っての果報者だよ」

こういう評判も有難い。しかし、

「御両人は何方だろうな? 結局」

と言われると、僕達は胸の鼓動が高まる。お互に負けまいという気がある。御両人はそれを常に意識していながら、隠し合っている。特別に親しい同志が何かにつけて張り合うのは真に厄介なものだ。

手近い例を挙げれば、一緒に銀ブラをして、カフェーへ入るとする。女給達が二人を取巻く。兜町の若旦那は会社員や新聞記者とは違った香がするのらしい。僕は特別に女が好きという次第ではないが、一番綺麗なのに目を留めて、其奴がどれくらい菊太郎君に好意を持っているかを考えて見る。当り前なら構わない。しかし目に余るようなら、翌晩単騎遠征を試みて、更に一層の好意を此方に示させる。御苦労な話だけれど、そうして置かないと気が済まない。ただし初めての家なら、当然僕の方が余計注意を惹くから、翌晩の単騎遠征は大抵菊太郎君の役割になる。

僕達は競争する運命を持って生れて来たのらしい。二人は共通点があると同時に、背景が似ていたから、子供の頃から好い対照になった。僕は長男で、姉が三人ある。菊太郎君も長男だ。その後妹が二人生れた。何方も男の子としては女の中の一粒種だった。それから偶然のことに、二人は同じ日に生れている。十一月三日、天長節だった。菊太郎君の菊は菊花節の菊を利かしたものである。

僕達は守に背負われている頃から仲が好かった。顔を合せると、お互にニコ/\したそうである。何方の坊っちゃんが好い器量かという議論が守と守の間に起ったらしい。似たものが二つ並べば、出来の善し悪しが問題になる。僕の守は無論僕の方に力瘤を入れて、

「奥さま、お隣りの坊っちゃんに負けるのは業腹ですから、おべゝも背負い半纒も縮緬ずくめにして戴きます」

と要求した。

「お由や」

「へい」

「お前は馬鹿だね」

と母親は相手にしなかったらしい。自信がある。

「何故でございますか?」

「負ける心配があるの?」

「無論ございませんけれど」

「それじゃ宜いじゃありませんか?」

「でも」

「何故?」

「お隣りの坊っちゃんは福徳長者の相ですって。大したものですって」

「まあ!」

「見れば見るほど好くなりますって、易者が申していました」

「易者が来たの」

「通りがかりのお爺さんです。このお子さんは有り余って施しをする人相ですって」

「家の坊やは何う?」

「さあ」

「見て貰わなかったの?」

「へえ。なんだか汚らしい爺さんでしたから」

「乞食でしょう、そんなのは屹度」

「でもお隣りの奥さまからお礼を戴いて帰りました」

「乞食だから貰って行ったんでしょう。そんなものゝ言うことが当てになるものですか?」

「兎に角、縮緬にして戴かなければ、私、御奉公が勤まり兼ねます」

とお由は地位を賭しての申入れだった。この女は忠義者で、僕が小学校へ上る頃まで勤め続けた。

店には番頭が数名いた。恐らく皆若い元気者だったろう。或日、僕を神輿担ぎにして、ワッショ/\と喚きながら、隣りへ押し寄せた。示威運動の積りだった。馬鹿なことをしたものである。しかし父親は、

「まあ、宜いさ。若いものゝすることだ」

と言って、大目に見ていた。隣りでは更にその上を越した。ワッショ/\の声が高まったと思ったら、菊太郎君が矢張り店員達に担がれて現れた。菊太郎君のお父さんが向う鉢巻をして、音頭を取っていた。

親同志も競争意識に支配されていたのである。こんな話を聞かされると、僕は人並に育ったのが大きな儲けものだったと思う。家中総がかりで煽て上げるのだから、余程素質が好くないと、立派な馬鹿旦那になってしまう。菊太郎君もその辺を斟酌して考えたのか何うか知らないが、

「これぐらいなら親孝行だよ、僕達は」

と言っている。万事僕と同じの積りでいるところが可愛い。昨今では二人の間に一見殆んど甲乙は認められないけれど、幼少の頃は僕の方が遙かに智恵が早かったらしい。何でも先だった。市岡家ではそれを苦に病んで、両親が菊太郎君にチョチ/\アワヽを教えようとした。しかし菊太郎君は頭が未だその程度まで発育していなかったから、その晩大熱を発して、引きつけてしまった。医者が駈けつけて、これは無理に智恵をつけた結果ですと診断した。幸い手当が届いて落ちついた。医者は年来僕のところのかゝりつけだったから、思いついて、帰りに家へ寄ってくれた。菊太郎君といえば、直ぐに僕を聯想する。近所界隈がそういう心理状態になっていた。

「坊っちゃんはお変りありませんかな?」

「はあ。お蔭さまで元気でございます」

「お元気でも無理に智恵をおつけになっちゃいけませんよ。お隣りではチョチ/\アワヽで大失策を致しました。御主人と奥さんがお二人がかりでチョチ/\アワヽ、チョチ/\アワヽ」

と医者が手真似をしたとき、母親の膝に抱かれていた僕は忽ち、

「チョチ/\、アワヽ。チョチ/\、アワヽ」

をやり出した。直ぐに覚えてしまったのである。その折国分さんが吃驚した顔付は未だに忘れられないと言って、母親が一つ話にしている。この国分さんはもう疾うに亡くなってしまったが、

「日出男さんは豪物になりますよ。お楽しみです」

と僕の将来を始終保証してくれたそうである。今の国分さんは第二世だ。僕のところでも菊太郎君のところでも子供が時々世話になる。医者も患者も代が更っていると思うと、僕達も年を取ったものだ。

医者で思い出したが、僕は三つの時、百日咳を患った。それが直ぐ上の姉に移って、二人とも長いこと苦しんだそうである。元来を言えば、僕が菊太郎君のを貰ったのだ。菊太郎君も重かったそうだが、これは自分で仕出来したのだから仕方がない。それから四つの時に痲疹をやった。これも菊太郎君のが移ったのである。菊太郎君は軽かったが、僕は余病が出て、母親が神信心をしたくらいだった。次に水痘というのをやった。これは何方も大したことがなかった。皆後から聞いた話で、自分には覚えがないけれど、その都度菊太郎君から頂戴している。菊太郎君は病気を移す名人だった。有り余って施しをする人相というのが妙なところで当っていた。

さて、朝から取りかゝって、これ丈け書き進んだとき、妻が上って来た。僕の書斎は二階だ。株屋の息子に書斎は変だと思うかも知れないが、僕だってこれで○○大学を卒業している。同級生には教授や経済記者もあるから、人の褌で相撲を取るのでもないが、分相応の学者の積りだ。

「御精が出ますね、何を書いてらっしゃいますの? お手紙?」

と妻が覗き込んだ。妻は幽香子という。名詮自性、蘭の花を聯想させるような美人だ。これを貰うについては、菊太郎君が一方ならず骨を折ってくれた。親友の有難味がないでもない。普段は競争していても、死生の問題になれば違う。尤もそれには経緯があった。尚お僕は菊太郎君が久子さんという難物を貰う時、犬馬の労を取ってやっている。

「こんな長い手紙を書く奴はないよ」

「なあに? それじゃ」

「小説さ?」

「あら! 原稿紙ね、生意気に」

「おい/\」

と僕は怖い顔をして見せた。

「オホヽヽヽ」

「お前はどうも僕を馬鹿にする癖があっていけない」

「馬鹿になんか致しませんけれど、小説なんて」

「なんだい?」

「柄にありませんわ」

「書けないと思うのかい?」

「えゝ」

「そう見括ったものじゃない」

「恋愛小説?」

「いや、人生小説だ」

「そんな小説がありますの?」

「小説はすべて人生を描く。それだから恋愛問題も当然取扱う。お前のことも書いてやる」

「厭よ」

「何故?」

「もうそんな年じゃありませんわ」

「そんなに老込まなくても宜かろう。ところでなにか用かい?」

「いゝえ、余り下りていらっしゃいませんから、どうなすったのかと思って」

「創作に没頭していたんだ」

「結構でございますわ。唯ノラクラしていらっしゃるよりも」

「ノラクラは厳しいな」

「お茶でも入れて参りましょうか」

「うむ。それからね、お隣りへ使をやって、菊太郎君がいるかどうか訊いておくれ。電話でも宜い」

「お在宅でしたら?」

「呼びつけてやろう、今日は。直ぐに出頭しろって」

「大威張りね。雨降りの日曜ですから、丁度好うございますわ」

と妻はイソ/\して下りて行った。

間もなく菊太郎君がやって来た。

「何だい? 急用ってのは」

「顔が見たくなったんだよ」

「有難い仕合せだ。しかしよく降るね、この雨は」

「うむ」

「何うだい? 家にいても気が詰まる」

「さあ」

「呼びつけられてノコ/\やって来るからには、僕だって条件がある」

「凄いね。どんな料簡だい?」

「条件だよ。交換条件がある」

と菊太郎君が誘いかけたとき、妻が上って来て、挨拶をした。

「丁度間に合った」

と僕が言った。

「何あに?」

「菊太郎君が誘いかけたところだった。僕を連れ出そうと思って」

「あら! 久子さんに申上げますよ」

と妻が睨んだ。幽香子さんは目千両だと菊太郎君も認めている。

「ハッハヽヽ」

「この頃は聯絡が取ってありますのよ、久子さんと」

「道理で警戒が厳重です」

「思い当りまして?」

「はあ」

と菊太郎君は頭を掻いていた。不良というほどでもないが、決して善良ではない。

「私がこゝでこの帯留に手を当てますと、すぐ久子さんに通じる仕掛けになっていますの」

「まさか」

「本当よ」

「僕は日出男君と違います。そんな子供瞞しには乗りません」

「それじゃ試めして御覧に入れましょうか?」

と妻は帯留の金具を指さした。

「いや、それには及びませんけれど」

「矢っ張り怖いんでございましょう。オホヽヽヽ」

「日出男君とは違いますよ。乗りかけていたのに、奥さんが見えたら、態度一変です」

「おい。好い加減なことを言うなよ」

「ハッハヽヽ」

「僕はこれから当分蟄居するかも知れないぜ」

「謹慎か? 何の口が破れたんだい?」

「性が悪いな」

「ハッハヽヽ」

「些っと考えたことがあるんだよ」

「感づいたのかい?」

「思いついたんだよ」

と僕は机の上に目をくれた。小説のことを吹聴したくて呼び寄せたのだった。

「ふうむ。机の上だね。何だろう?」

「今朝から書いている」

「何を?」

「小説さ」

「えゝ?」

と菊太郎君も僕を馬鹿にしている。

「柄にありませんわね」

と妻がお愛想のように言った。

「驚き入りました」

「一生懸命よ」

「御主人は一体何でもやり兼ねない人です。しかし小説とは思いがけませんでした」

と菊太郎君は這い寄って、机の上の原稿に手をかけた。

「いけないよ」

「何故?」

「未だ下書だ。読んでも分らない」

と僕は取り上げてしまった。菊太郎君のことばかり書いてあるから、目の前で読まれては困る。

「恋愛小説だな、君のことだから」

と菊太郎君は幸いに誤解してくれた。

「うむ。恋愛場面のない小説は味のついていないアイスクリームだ」

「うまいことを言うね。君が考えたのかい?」

「無論さ」

「その分なら書けるかも知れない。考えて見ると、君は僕と違って、作文が得意だった」

「駈け出しの文士ぐらいには書ける積りだ」

「幽香子さんを貰う時のことを書き給え。あれはあのまゝで恋愛小説になる」

「まあ、オホヽヽヽ」

と妻は寧ろ満足のようだった。

「君と久子さんのことも書くよ」

「書く値打が充分ございますわね。オホヽヽヽ」

「あれは針小棒大に伝わっているんです」

「いや、僕は初めから関係しているから、そうは言わせない。君のこそ、そのまゝ小説だ」

と僕は急所を握っている。

「お手軟かに頼むよ」

「無論然るべく潤色するさ」

「余り貰いたがったように書き立てられると、奴、増長する」

「まあ。奴なんて」

と妻が咎めたら、

「陰では日出男君だってこの調子ですよ」

と来た。菊太郎君、何うも宜しくない。小説で痛めつけてやる値打が充分ある。

「君が主人公になるかも知れないよ」

「困るよ」

「汝を呼び出すは余の儀でない。材料に使う為めさ」

「本当かい? 君」

「迷惑はかけない。安心し給え」

「書いたところで何処でも出してくれないから、大した心配はない」

「自費出版ってことがある」

「いけない/\」

と菊太郎君は手を振った。

「要するに、君と僕の自叙伝小説になりそうだ」

「僕の自叙伝を君が書くって法はないよ」

「しかし僕のことを書けば、どうしても君のことが出て来る。切っても切れない関係だからね」

「御両人か?」

「然うさ。君と僕の見た人生を扱う。子供の時から書く積りだが、疑問が起った。一体君は幾つぐらいから覚えがある?」

「到頭自叙伝を書かれることになってしまったのかい?」

「何もお附き合いだ。君は幾つぐらいからのことを覚えている?」

「さあ」

「僕は君に種々の病気を移された頃のことは些っとも覚えがないんだ」

「変なことを言うなよ」

「自叙伝小説だから、覚えているところから書き出す」

「僕は学校へ上ってからだね」

「そんなことじゃ駄目だよ。偉人の伝記を見ると、三つ四つの頃のことを覚えているぜ」

「然うさな。学校へ上らない頃のことゝいうと……成程、多少覚えているよ」

「努力して見給え。遡って思い出せるほど、偉人の資格があるんだ。目を瞑って、よく考えて見給え」

「よし/\、君と豊子が僕の家の縁側で綾取りをしていた時……」

「君、君」

「うむ?」

「茶碗が危い」

「大丈夫だ」

「目を開いている方が宜い」

「君と豊子が……」

「君自身のことの方が宜いんだよ」

「僕自身のことだけれど、君と豊子が僕の家の縁側で……」

「君」

「オホヽヽヽ」

と妻が笑い出したので、菊太郎君は目を半眼に見開いた。僕の注意が漸く分ったのらしい。

「何だい? 幽香子」

と僕は薄氷の気味だった。

「私、お話のお邪魔になるといけませんから、下へ参りますわ」

「一向構わないよ」

「でも」

「宜いじゃないか?」

「いゝえ」

「お前がいる方が弾むんだよ」

「それじゃ伺わせていただきましょう。丁度奥さまもお見えになったようですから」

「妻が来るんですか?」

と菊太郎君はもう気が散ってしまった。

「はあ。この通り。オホヽヽヽ」

と幽香子は帯留の金具を押えて見せて、急いで下りて行った。

「冗談じゃない」

「君」

と僕は声を潜めた。

「分ったよ」

「気をつけてくれ。豊子さんの話が出ると、妻は機嫌を悪くする」

「ついウッカリしていて失敬した。ところで妻は本当に来るのかい?」

「然うらしいね」

「僕の方は幼少のことよりも最近のことが危い」

「仇討をしてやる」

「冗談じゃないぜ。それでなくても、妻は君に訊きたがる」

「何を?」

「金子さんに訊いて見ますが、何うですかと来る」

「来たぜ/\」

「余計なことは言わないでくれ」

と菊太郎君は口を拭って見せた。そう大したことの出来る男でもないのに、己惚がある。

妻が久子夫人を案内して来た。

「自叙伝小説の御相談というお知らせが帯留の無線装置に響きましたから、手のものを差置いて参上致しました」

と久子夫人も曲者だ。

「大変なことになってしまったよ。記憶力の試験を受けている」

と菊太郎君が言った。

僕は久子夫人に軽く会釈した丈けだった。異性の綺麗なのに慇懃を尽すと、兎角後がいけない。

「幼少時代を考えて見給え」

「うむ」

「遠く遡って思い出せるほど、偉人の資格がある。これが一種のメートルだ。偉人は頭が好いから忘れない」

「一体偉人は幾つぐらいから覚えているんだろう?」

「さあ」

と僕はこゝで久子夫人の手前、博識を衒う気になって、

「誰だったか、一寸度忘れをしてしまったが、三つ四つの時に女王陛下の御前へ出て、玉手を触れていただいた記憶があるといっている。これは確か瘰癧の直るおマジナイだった。女王陛下というのだから、英国だったろう。容易に拝謁が叶うところを見ると、貴族だったに相違ない」

と長々しくやり出した。

「この先生、甚だ覚束ない。これじゃ何処の話だか分らない」

「三つ四つの頃、途上乳母車の中からビスマルクを見かけて喜びの声を立てたら、ビスマルクも馬上から挙手の礼を返して笑って行ったと自伝に書いている人がある。これは独逸人だ」

「名前は?」

「忘れた。音楽家だったか、画家だったか、兎に角、有名な芸術家だった。後年出世をしてから、ビスマルクに会って……」

「後年出世をしたから、有名な芸術家になったのだろう?」

と菊太郎君は久子夫人に頭の働きを見せる積りか、突如揚げ足を取った。

「然うさ。後年ビスマルクに会って、途上交驩の昔話に及んだら、ビスマルクは些っとも覚えがないと答えたそうだ。それでその芸術家は自分の方が鉄血宰相よりも頭が好いと言っている」

「それは少し無理だろう」

「三つの時教会へ行ったことを覚えている偉人がある」

「名前はまた度忘れだろう」

久子夫人は見るに見兼ねたのか、権力を示す為めか、

「あなた、そう一々変なことを仰有るものじゃありませんよ。失礼じゃございませんか?」

と注意した。

「牧師さんがお母さんに『こんな小さいお子さんを何故こういう人込みの中へつれてお出になるんですか?』と咎めるように訊いたら、お母さんは『この子は家にいると泣きますが、あなたのお説教が分ると見えて、少しもむずからずに拝聴しています』と答えた。この問答までチャンと覚えているんだから豪い。しかし誰だったか、名を逸してしまった」

「今度は逸したのか? 別の言葉を使って誤魔化しても、矢っ張り忘れているんだから、君は偉人の資格がないよ」

「常盤御前の乳房を含んでいる頃に雪の中で助けてくれた弥平兵衛宗清という武士の顔を覚えていたのは牛若丸後に、源義経だ」

「常盤御前なら牛若さ。小学生でも知っていらあ」

「その昔、母常盤の懐に抱かれ、伏見の里にて雪に凍えしを、汝が情をもって親子四人が助かりし嬉しさ。その時に我れ三歳なれども、面影は目先に残り、見覚えある眉間の黒子、隠しても隠されまじ」

「おや/\」

「ても恐ろしい眼力じゃよなあ。老子は生れながらに敏く、荘子は三つにして人相を知ると聞きしが、かく弥平兵衛宗清と見られた上は……」

「成程。それは明治座でやっている。この間見て来た」

「今漸く分ったのかい?」

と僕が勝ち誇った時、妻は流石に、

「オホヽヽヽ」

と笑って、僕の味方をしてくれた。

「お宅の御主人は声色がお上手でいらっしゃいますわね」

「いゝえ。横好きの方でございます」

「何う致しまして。堂に入っていらっしゃいます」

「お褒めになると、好い気になって困ります」

「矢っ張り小説をお書きになるくらいですから、御器用ね。拍子木さえ買ってお上げになれば、立派な街頭芸術家として御飯がいただけますわ」

と久子夫人はひどいことを言う。

「閑話休題に願いまして、斯ういう具合に、偉人は和漢洋ともに幼少の頃のことを忘れません。普通の人間とは違っています。栴檀は二葉より香しい。菊太郎君、さあ、どうだね?」

と僕はつづけた。

「異議なし」

「議論じゃない。何か覚えているかどうかと言うんだ」

「僕はビスマルクだ。偉人だけれど、度忘れをする癖がある」

「グイッと来たね」

「単刀直入さ。参ったろう?」

「成人してからのことは忘れても構わないんだ」

「まして必要のない幼少時代のことだ」

と菊太郎君は異性が側にいると、兎角見栄を張って、僕に突っかゝって来る。

「何方も何方ね」

「迚も偉人なんて柄じゃございませんわ。お宅さまの方は存じませんけれど」

「似たり寄ったりですわ、宅だって」

「それでこんな気が合うんでございましょうかね」

「仕合せのことに、この人、少し足りないなんて思ったことは一遍もありませんけれど」

「それが目っけものでございますよ」

と女房同志は忌憚なく見積りを交換している。

「君、あるよ、一つ。君のことだけれど、僕が覚えているんだから、僕の資格になる」

と菊太郎君が言った。

「何だい?」

「幼少も、君、純幼少に属する。僕は君がお母さんの乳を飲んでいる光景を思い出す。明かに覚えているよ」

「成程」

「偉人だな、僕も。乳を飲んでいる頃といえば、三つだからね」

「お気の毒だが、それは資格にならない」

「何故?」

「僕は君と違って末っ子だから、六つぐらいまで乳を飲んでいた」

「ふうむ。成程、然う言えば、そんな話を聞いたことがある」

「君は恐らく僕が六つの時のことを覚えているんだ。君は僕と同い年だから、それは六つの時の記憶だよ」

「おや/\」

「失望することも何もない。何うせお互は偉人なんてものじゃないんだから」

「諦めていたけれど、一寸慾が出たんだよ」

「それは人情だ。儲かりそうな会社の目論見書を突きつけられると、誰だって引っかゝる」

「もう面倒だ。三つ四つの記憶はないと定める。偉人は諦める」

「実は僕もこの間から考えていたが、極く古いところで五つか六つの記憶だ。それが当り前らしい」

「安心した。お互は偉人じゃない」

「値打はその辺が一番よく知っているんだから」

と僕は淑女達を見返った。

「それは然うさ。妻にかゝっちゃ迚も主張は出来ない」

「本当の偉人だって、その夫人の目から見れば、偉人という折紙はつかないかも知れない。何うでしょうね? 市岡さんの奥さん」

「まあ。オホヽヽヽ」

「菊太郎君は偉人でしょうか?」

「凡人よ」

「同じ凡人にも程度がありますが、普通ですか?」

「迚も凡人よ。ダラシがないってありません。オホヽヽヽ」

「有難うございました。有りのまゝを伺って置きますと、小説を書く上に好い参考になります」

「金子さんの奥さん」

と菊太郎君が呼んだ。

「はあ」

「金子君は凡人ですか?」

「偉人よ」

「これは驚いた」

「但し凡人中のよ」

「それじゃ少し豪いんですね?」

「いゝえ。同じ凡人にも程度がありましょう。特別誂えらしいのよ」

と妻も久子夫人と同じ見積りだった。

「有難うございました。有りのまゝを伺って置きますと、お附き合いをして行く上に都合が好いです」

「散々だね、お互に」

「うむ。君が妙なことを言い出したものだから、折紙をつけられてしまった」

「矢っ張りそれ丈けのことをしているんだから、抗議も申込めない」

「本当だ」

「何をか言わん」

「好い薬になったよ」

と僕達は黙ってしまった。しかしこれは撃退の一手だ。煩くて仕方がない。二人の非凡な女性は間もなく下りて行ってしまった。

「これからだよ」と菊太郎君が言った。

「うむ」

「先刻の話はどうしてくれる?」

「何だい?」

「交換条件さ」

「応じよう。凡人の特別誂えだなんて言われたんじゃ謹慎していても張り合いがない」

「出来した」

「煽てるなよ。悪友だな、君は」

「大したところへは引っ張らない。飲む丈けだ。それから一つ折り入って君に相談がある」

「何か儲かる口かい?」

「それなら大威張りだけれど、手張りの方が悉皆曲ってしまった」

「昨日逃げなかったのかい?」

「逃げる積りだったけれど、もう一日辛抱して見る気になった。何あに、相場の方で言うことを聞いて来らあって肚だったけれど、矢っ張り思い切りが悪かったんだ」

「いけないぜ。明日は尚お高い」

「皆高いと言やがる」

「何だって売りに代ったんだい?」

「直観だよ。いつもの通り」

「その直観が曲っていたんじゃ仕方がない。明日は是が非でも仕舞うんだよ。危い/\」

「仕舞うについての相談だ。いつかの一件以来手張りは親父から封じられている」

「一体幾つ売っているんだい?」

「二百だ」

「大きいね」

「千円と少しだ。その都合がつかないと、ボロが出る。親父やお袋に叱られる丈けなら宜いけれど、今も君が見ていた通りの女房だ。恥を言うようだけれど、僕は君同様余り頭の上る方でない」

「おい/\」

「君は同病相憐れむという気はないか?」

「僕になんとかしてくれと言うのか?」

「頭が好い」

「褒められても、僕だって君と同じことで金の自由は些っとも利かない」

「判を一つ捺してくれ給え。初めてのお願いだ」

「成程。よし」

と僕は簡単に頷いた。競争相手が恩を着に来たのである。小説を書くにしても、此方が負けるところばかりでは面白くない。

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