Chapter 1 of 27

おやしきからのお召し

夕刻のことだった。

「内藤さん、速達!」

と呼ぶ声が玄関からきこえた。郵便物と新聞は正三君がとりつぐ役だ。

「お父さん、速達ですよ」

「ふうむ。何ご用だろう?」

とお父さんはいずまいを直して、大きな状袋の封をていねいに鋏で切った。伯爵家からきたのである。

正三君のところはおじいさんの代まで花岡伯爵の家来だった。もっともそのころは伯爵でない。お大名だから、お殿様だった。いまでは伯爵のことをお殿様とよんでいる。正三君のおじいさんは大殿様から三百石いただいていた。いまなら年俸である。お金のかわりにお米を三百石もらう。一石三十円として九千円。いまの大臣以上の俸給だった。

「三百石といえば大したものだよ。陸軍大将になった本間さんなんか三人扶持の足軽だった。実業界ではばをきかしている綾部さんがせいぜい五十石さ。溝口の叔母さんのところが七十石。おまえのお母さんの里が百石」

と正三君は三百石のえらいことをお父さんからたびたびきかされていた。

「これ、お貞、お貞、お貞、お貞」

とお父さんはへんじのあるまでよびつづけるのが癖だ。

「はいはい、はいはい、はい」

とお母さんも返辞だけして、ナカナカ仕事の手をはなさない癖がある。

「お貞や、おやしきからのお手紙だ」

「まあ」

「お殿様がわしに相談があるそうだ」

「ご冗談でございましょう」

「いや、ほんとうだよ、ごらん」

とお父さんは得意だった。

粛啓

時下残暑凌ぎがたく候処益御清穆の御事と存上候 却説 伯爵様折入って直々貴殿に御意得度思召に被在候間明朝九時御本邸へ御出仕可然此段申進候 早々頓首

花岡伯爵家八月十五日富田弥兵衛内藤常太郎殿

富田さんは家令だ。もう年よりで目がわるいから一寸角ぐらいの字で書いてある。

「まあ、なんでございましょうね?」

とお母さんは合点がいかなかった。大将や重役になっている家来たちのところへは時おり特別にありがたいお沙汰があるそうだが、三百石の内藤常太郎さんはそれほどまで出世していない。正月の二日にごきげんをうかがって四月の観桜会へまねかれるだけだった。

「なんだろうなあ」

「ああ、わかりましたよ」

「なんだ?」

「あなたがあんまりご無沙汰をしていらっしゃるから、呼び出して切腹仰せつけるのかもしれませんよ」

「ばかをいうな。これはけっして悪いことじゃない」

「そうだとよろしゅうございますがね」

「そうでなくてどうする? お殿様じきじき折り入ってお願いがあるというんだもの。おまえはわしにもっと敬意を表さなければいけないよ」

とお父さんはいばってみせた。

晩ごはんのときも伯爵家の話が出た。なんだかわからないが、番町のおやしきからのおさたはみんなの心持ちを陽気にした。

「お父さん、とにかくおでんと蜜豆がいただけますね」

と正三君がいった。

「おでんと蜜豆?」

「ばかだなあ。あれは観桜会のときだけだよ。おやしきにふだんおでんや蜜豆があるもんか」

とお兄さんの祐助さんが笑った。この春二人で観桜会へお父さんのお供をしたのである。

正三君は兄さんが二人と姉さんが二人ある。一番上の兄さんはもう帝大を卒業して朝鮮総督府へつとめている。つぎの祐助君も来年出る。姉さんは一人女学校がすんで、もう一人在学中だ。正三君はこの四月から府立中学へはいった。五人が五人、みんなそろって成績がよい。お父さんは鼻が高い。

「うちの子供はみんなおれに似たんだよ」

とおっしゃる。

「いいえ、女の子は母親に似たんでございますよ」

とお母さんも権利を主張する。

内藤さんの子供がみんな優良なのはむろんお父さんお母さんの性質をうけている。なお教育方法があずかって力ある。両親は一生懸命だ。しかし家庭のいいこともわすれてはいけない。いいといっても金持ちではない。三百石のおじいさんは、その後がらにない山仕事をやって失敗してしまった。郷里の家やしきは人手にわたってあとは紡績工場がたっている。もしいまでもあんな大きな家に住んで昔のままにいばっているとすれば、五人のお孫さんがこんなに優良かどうかはなはだ疑問だ。

内藤さんは大蔵省へ勤めている。高等官だけれど、上の方でないからけっしてぜいたくはできない。そうかといって生活に不自由を感じるほどのびんぼうでもない。子供のためにはこれぐらいの家庭が一番よいのである。

「内藤君、きみのところのお子さんたちはみんな優等だそうだが、なにか秘伝があるのかね?」

と同僚が訊く。

「秘伝なんかないよ。しいていえば、ぼくが酒を飲まないからだろう」

と内藤さんはニコニコする。

「耳がいたいな」

「もう一つ、ぼくの家の金はぼくの汗の香いがする。それで子供たちもゆだんをしないんだろう」

「汗の香いならぼくだって負けない。なにかまだほかにあるだろう?」

と同僚はしきりに秘伝を知りたがる。

さて、内藤さんは翌朝八時半に番町のおやしきへ出頭した。家令の富田さんもちょうど出勤したところで、

「やあやあこれは早い、ご苦労ですな」

といって迎えてくれた。内藤さんは書面のお礼をのべてご無沙汰のおわびをしたのち、

「ときにお殿様のご用とおっしゃるのはなんでございましょうな?」

とうかがいを立てた。

「内藤君、きみはうらやましいですよ」

「どういうわけですか?」

「きみのところのお子さんたちの成績がお殿様のお耳にはいったのです」

「まさか。豚児ぞろいですもの」

「いいや。悪事千里を走る。善なんぞ門を出でざらんやです。そこで今回ご三男様のお相手にきみのところの末のお子さんをご所望なさるのです」

「ははあ。お相手と申しますと」

「お学友です。ご勉学は申すにおよばず、ご武術ご運動おなぐさみ、いちいちお相手をつとめます。大きな声では申されませんが、若様がたはみなさまどうもお姫様がたほどご成績がよろしくない。お殿様も奥様もいろいろとお考えになって、こんどはご三男様をごく平民的にご教育なさるおぼしめしで、○○中学校へお入れになりました」

「なるほど」

「すでに一学期おやりになりましたが、やはりご成績がおもしろくありません。水は方円の器にしたがい人は善悪の友によると申しますから、これは成績のよいものをお相手につけるがよろしいということになりました。旧藩士の子弟の中に現在中学一年生で成績優等のものはないかとのおたずねでございます。わしは方々問いあわせましたが、きみのところがいちばんよく条件にかなっています。ご身分も三百石、申し分ない」

「いや、おそれいります。三百石はむかしの話で、いまは腰弁ですよ」

「いいや。とにかく、といっては失礼ですが、とにかく大蔵省の高等官です。お殿様はせめて高等官ぐらいの家庭でなければこまるとおっしゃいます」

「なにからなにまでと申しますと学友はむろん始終おやしきへあがっているんでございましょうな?」

「そうです。ご三男様と同じ学校へかよって、おやしきでは同じ家庭教師について勉強いたします。今回はぜんぜん平民的教育ですから、中学校ご卒業後すぐさまアメリカへおでかけになって、あちらの大学で仕上げるのだそうです。お学友もお供をしてまったく同様の教育をうけます。いかがですな?」

「愚息でつとまることならまことに光栄の存じます」

「それじゃおうけをしてくれますな?」

「はあ」

「そうなくてはかなわん。むかしは若様のためにはせがれを身代わりに立てたものです。ましてご令息将来の立身出世の道がひらけることですからな」

と富田さんは大まんぞくでお殿様へとりついだ。

お殿様は朝寝坊だから、内藤さんは十時ごろまで待たされた。しかしそのあいだに富田さんから、なおいろいろとお学友の心得をうけたまわった。

「こちらへ」

との案内でようやく応接間へ通って、ここでまたしばらく待っていると伯爵があらわれて、

「やあ」

とおっしゃった。

「ご無沙汰申し上げました。いつもご健勝で祝着に存じあげます」

「ありがとう。さあ。かけたまえ」

「はあ、はあ、はははあ」

と、内藤さんはおやしきへ上がるとすっかり侍になってしまう。

「役所の方はあいかわらずいそがしかろうね?」

「はあ」

「今日は休んで来たかね?」

「御前、今日は日曜でございます」

「なるほど、そうだったな」

とお殿様は七曜にごとんちゃくない。今日を日曜と知って大いに感心したのか、そのままだまってしまった。そこでご家来の方から、

「このたびは……」

と切り出した。

「富田から聞いてくれたかな?」

「はあ」

「承知してくれるかな?」

「はあ、ただ愚息に勤まりましょうかどうかと案じております」

「それは大丈夫だ。きみのところはみんなそろって抜群の成績だそうだな」

「どういたしまして」

「参考のためうけたまわりたいが、いったいどうしてそう成績がいいのだろう?」

「さあ」

「なにか思いあたることはないかな?」

「しいて申せば、私が酒を一てきもいただかないからでしょうか」

と内藤さんは同僚にもお殿様にも同じように答える。

「ふうむ。わしは酒を飲む。これは耳が痛いぞ」

「恐れ入ります」

「なあにかまわん。それからどうだね?」

「もう一つは……」

「なんだな?」

「私の家の金には私の汗の香いがしみています。それで子供が油断をしないで勉強するのだろうと存じます」

「ふうむ。汗?」

「はあ」

「汗を金にしましておくか」

「いいえ、かせいだばかりの金でございますから」

「うむ。額の汗か。労働か。皮肉だな。ハッハハハハ」

とお殿様は快く笑った後、

「万事富田と相談して、来月早々よこしてもらいたい」

「はあ」

「奥もきみに会いたがっている。ちょっと顔を見せてやってくれたまえ」

「はあ」

「暑いところをご苦労だったね」

「はあ」

と内藤さんがおじぎをして頭を上げたら、伯爵はもう出ていってしまっていた。

奥様には日本館の方でごきげんをうかがった。内藤さんは今回の平民教育がお殿様よりも奥様のご発意によることを承知した。奥様はお姫様たちが女親に似てみんな才媛だのに、若様たちはどういうものか不成績で困ると訴えた後、

「内藤さん、どうか助けてください」

とおっしゃった。内藤さんは光栄身に余った。三代相恩の主君、その奥方が助けてくださいと仰せある。

「はあ、はははあ」

と侍にならざるを得ない。

「私たちの心持ちを察してください」

「はあ、はははあ」

奥様のお話はナカナカ長かった。殿様とちがって女の愚痴がまじる。みんながよってたかっておだて上げるから、若様たちは本気になって勉強しないとおっしゃった。わがままもののお相手はずいぶん骨の折れることだろうと、仕事の性質をよく理解していられた。

「内藤さん、あなただけで承知くだすっても、こういうことはお母様に得心していただかないと長続きがいたしませんから、私、そのうちに改めてお願いにあがりとうございます」

「どういたしまして。けっしてそのようなご心配にはおよびません」

「いいえ、むかしとは違います」

「いや、私どもはどこまでも旧臣の身分でございます」

「まだ十三やそこらのお子さんですもの。それを私たちの都合で両親の手から取ろうと申すのはあまり勝手でございます。私、お母様のお心持ちが察しられますから、そこのところを直々お目にかかって念の通じるように申し上げたいと存じます」

「それでは家内をあがらせましょう」

「いいえ、私の心まかせにしておくれ。それから内藤さん」

「はあ、はははあ」

「これはお家へおみやげに」

「どういたしまして、この上そんなご配慮をわずらわせ申し上げてはますます恐縮でございます」

「いいえ、お忙しいところをお呼びたてして申しわけありません」

「奥様、今日は日曜でございます」

「あ、そうでしたかね」

と奥様も日曜をご存じない。

内藤さんは拝領品を平に辞退して、にげるように玄関へむかった。富田さんが待っていたので、また家令詰所というのへはいってしばらく打ちあわせをしているうちに、

「自動車のお支度ができました」

と女中が知らせにきた。

「それでは内藤氏」

「富田様」

とちょっと芝居のようなことをして、内藤氏は玄関へ出る。

「さあ、乗っていらっしゃい」

と富田さんは横づけになっているりっぱな自動車を指さした。

「いや、どういたしまして」

「いいや、お殿様の仰せつけです」

「恐れ入りましたな」

と内藤さんは一礼して乗りこんだ。すると奥様からの拝領品が中に積んであったのにまたまた恐れ入った。

下渋谷の内藤家では、

「プープープー」

と自動車が門前で止まったとき、

「家でしょうか?」

と次女の君子さんが玄関へ出てみた。お父さんはちょうどおりたところで、

「正三はいるか? 正三は?」

と呼んだ。運転手がみやげ物をかつぎこむ。

「お帰りなさいませ」

「正三はいるか? 正三は?」

「正ちゃんはおとなりへ遊びにまいりました」

「呼んできておくれ」

「まあ、あなた、おやしきのご用はなんでございましたの?」

とお母さんがきく。

「その正三の件さ」

とお父さんは長火鉢の前に羽織袴のまま坐りこんで、

「正三をおやしきのご三男様のお学友にほしいとお殿様も奥様もおっしゃる。ぜひともというご懇望だ。家の子供がこうまで評判がよいとは思わなかったよ。わしは面目をほどこしてきた。ごらん、この通り頂戴物をしてきた」

とすこし落ちついたようだった。

「それは結構でございました。そうしてあなたはお受けをなさいましたの?」

「受けるも受けないもない。こっちは家来、むこうはお殿様だ。それに近いうち奥様がおまえのところへじきじき頼みにおいでになる」

「まあ! 私のところ?」

とお母さんは飛びあがらないばかりに驚いた。

そこへ正三君がおなかの時計でもうお昼時と承知してノコノコ帰ってきた。

「正三!」

「はい」

「そこへ坐れ」

「はい」

と正三君は坐ったが、しかられるのかと思ってビクビクしている。

「しかしその服装じゃ困るな。袴をはいてこい」

「はあ」

「袴だよ。お貞、袴を出してやれ」

とお父さんは自ら羽織袴でかしこまっている。夏休みに子供の袴はそう右から左へは見つからない。

お母さんはあっちこっちさがした末、正三君に袴をつけさせて、

「これでよろしゅうございますか?」

と不平そうな顔をした。

「よし。そこへ坐れ。正三や、おまえのおかげでお父さんは鼻が高い」

とお父さんは鼻の上へこぶしを二つ継ぎ足して天狗の真似をした。正三君はなんのことだやだらサッパリわからない。

「正三や、いまお父さんのいうことはお殿様の仰せつけだ。つつしんで承りなさい。正三や」

「ハッハハハハ」

とこのとき兄さんの祐助さんが笑いだした。

「なんだ? 失礼な」

「…………」

「でも正三や正三やって、まるで正三を売りにきたようじゃありませんか」

とお母さんもすこしおかしかった。

「正三や、今日おやしきへあがったら……」

とお父さんはようやく不断の調子にもどって、お学友の次第をくわしく話して聞かせた。

「お父さん、それでは正三がかわいそうじゃありませんか?」

と祐助さんはかならずしも喜んでいなかった。

「なぜ?」

「こんな小さなものがおやしきへあがって他人の間でもまれるんですもの。奉公人も同じことです。ぼくがお父さんならことわってしまう」

「それはおまえ、料簡違いだよ。お殿様の仰せつけじゃないか?」

と内藤さんは昔なら君公のご馬前で討死をする覚悟がある。

「お殿様は昔のことです。今日では知人にすぎません。まったく対等ですよ。特別の契約を結ばないかぎり、権利義務の関係はありません」

と裕助君は法科大学生だ。

「権利義務の関係がないからといっても、おじいさんの代まではいわゆる三代相恩の主君だったじゃないか? 我々が今日あるのもみな伯爵家のおかげだよ」

「いや、おことばを返してはすみませんが、これぐらいの今日は平民にもあります」

「どうもおまえは思想がよくないよ」

「まあまあ、裕助はおだまりなさい。けれどもあなた、これは正三の一生涯に関係することですから、一応正三の意向もたしかめ、私にも相談してくださるのがほんとうでございましょう?」

とお母さんも多少言い分があるようだった。

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