一
善良な人間は暗示が利く。尤も悪人でも利かないことはない。泥棒は皆暗示の産物だとも言える。元来手癖が悪く生れついて来る人間はない。何かの切っかけで、地道よりも邪まの方を手っ取り早いように思い込む。それが数重なると、世の中を太く短くという暗示になって、悪い方へ転向してしまう。開業後は又暗示に満ち/\た生活を送る。一寸戸が開いていても、こゝの家は入れそうだという暗示を受ける。同輩が強盗をやったと聞けば、奴の出来ることなら俺にも出来る筈だという暗示を受ける。
しかしこれは泥棒の話でない。善い方の暗示の利く善良人の場合である。いや、善い方ばかりにも、限らない。悪人でないから、悪いのは利かないけれど、極く当り前の、可もなく不可もないのが利く。考えて見ると、悪人が悪い暗示に満ち/\た生活を送るように、善人の生活も種々雑多の暗示に満ち/\ている。その中、善いの丈けを受けて、これに則っていれば、聖賢になれるのだが、お互の受けて則る暗示は可もなく不可もないものが多いのである。何うしても難よりも易に就く。例えば或会社で重役が座談中に、
「それは君、お互生身の人間だ。機械とは違うんだから、半期に二日や三日の欠勤は不可抗力じゃなかろうか?」
と身体の弱いものに同情したとする。その折傾聴していた社員は皆勤の貴さということを考えるのが本当だろうけれど、それはそれとして、
「君、一大発見をしたよ」
「何だい?」
「半期に三日までの欠勤はボーナスに影響しないらしい」
と都合の好い暗示を受けて、仲間に吹聴する。それだから重役はそんなに危いことは決して言わない。
藤浪君も斯ういう暗示を受け易い人だ。唯今、出勤して、机に坐ると早々、左の手でマッチを擦って、煙草に火をつけた。この左ギッチョも煙草も来歴をいえば暗示に属する。乳母が左利きだったから、いつの間にか左を余計に使うようになってしまったのである。
その後、両親が矯正に努めたから、ペンや箸は右を使うけれど、他のことは大抵左で用を足す。煙草は大学卒業後現在の社へ入ってから始めた。藤浪君は新聞記者である。
或日、同僚数名が一塊になって話し込んでいる時、一人が咳をして窓を開けた。煙草の煙に噎せたのだった。
「煙草を吸わない人間は迷惑するよ」
「成程。木下君は蛙だったね」
「蛙?」
「うむ。蛙に煙草を飲ませると、斯う首を縮めて、頻りに咳をする。それから腸を吐き出すぜ。僕は子供の時に試したことがある」
「あれは腸を洗うんだそうだよ」
ともう一人も経験があるようだった。
「実は僕も蛙です。中学生時代に煙草に酔って、死にかけたことがあります」
と新入社の藤浪君が告白した。
「これは又話が大きいんだね」
「本当です。雪の中へ倒れてしまったんです」
「ふうむ」
「雪の降る日に何か用を頼まれて出掛けたんです。兄貴が外套を貸してくれました。村を二つ越して、町へ行くんです。外套のポケットの中へ手を入れたら、煙草とマッチが入っていました。バットだったと思います。退屈凌ぎに飲んで見る気になったんです。生れて初めてです。一本やりました。すると頭がグラ/\して歩けません。雪の中へ倒れてしまいました」
「成程」
「実に苦しいものですね。酒どころじゃありません」
「君は左の方も利かないのかい?」
「利きます。左ギッチョです」
「いや、その左じゃない。酒だよ」
「酒も駄目です」
「人格的に出来上っているんだな」
「雪の中に倒れて動けないでいるところへ、幸い人が通りかゝって、近所の百姓家へ担ぎ込んでくれました」
煙草の話が尚お続いた。お互に量を言い合った。社で一番の喫煙家は主筆だろうと決定したところへ、主筆が葉巻をくわえて入って来たものだから、大笑いになった。
「何を笑っているんだ」
「噂をすれば影です。唯今主筆が話題に上っていました」
「悪口かい?」
「いや、主筆の葉巻は鼻と同じように顔の造作の一部分じゃなかろうかという疑問が起ったんです」
「これか? ハッハヽヽ」
「随分おやりのようですな」
「今更持て余している」
と主筆は歎息したが、間もなく、
「しかし人間、煙草を吸わないようなのは積極的の企業心に乏しい。考えて見給え。鼻から、いや、口から火を吸って鼻から煙を吐く。子供の時、これを見て珍らしいと思わないようなのは元来好奇心がないんだ。大抵のものなら、よし、大人になったら一つやって見ようって気になる。僕は気をつけて見ているが煙草を吸わない人間には温厚篤実の君子が多い。君子、勿論結構だ。沈香も焚かず、何とやら。間違がなくて宜い。しかし吸う方には君達のような役に立たずもいるけれど、数が多い所為か、いざという場合に使える人間が多い。何しろ子供の時から将来火を吸って煙を吐いてやろうという料簡があったんだから、性格が積極的だ」
と我田引水論をやり始めた。
「矢張り沈香を焚く方が宜いんですか?」
「勿論さ、君子人なら兎に角、君達の程度じゃ何か焚かないと鼻持ちがならないぜ」
「ハッハヽヽ」
「積極的にやることだ」
「主筆、すると煙草が沈香ですか?」
と木下君は文字通りに解釈して疑問を発した。
「頭の悪い奴は駄目だ」
藤浪君は傾聴していて、悉皆感心してしまった。自分は訪問に行っても、用件が極く簡単に片付く。拙速だから、好い種にありつけない。煙草でも吸って、ゆっくり構えていればもっと有効な仕事が出来るのだろうと考えていた矢先だったから、忽ち暗示が利いた。一つ使える人間になってやる。万事積極的に行く。ついては煙草だ。早速試みたけれど、雪の中のようなことはなかった。尤も目が廻るといけないから成るべく吸い込まないようにしていた。腹が空っていると頭に利くから、稽古は食後に限ると教えてくれるものもあった。唯さえ陥り易い習癖を努めて実践躬行したのである。藤浪君は間もなく一人前の喫煙家になって、積極的行動の資格を得た。