Chapter 1 of 3

大海に釣らん

会社に勤めること三年余、僕も少し世の中が分って来たような心持がする。公私、いろ/\と教えられるところがあった。

公に於ては、上のものに認められなければ駄目だと悟った。出世の階段を自分の足で一段々々上って行くのだと思うと違う。自分の足もあるけれど、上のものが認めて引っ張り上げてくれるのである。それだから空々寂々では一生下積みを免れない。誠心誠意に努力するものが認められる。

私に於ても誠実が物を言う。僕は同僚との折合が好い。喧嘩をして却って別懇になったのもある。一杯飲んで胸襟を開くと皆うい奴だ。渡る世間に鬼はないという諺は豪い。

こゝで名乗って置くが、僕は姓は橘高、名は庄三である。新年会の折、専務の名倉氏が僕の姓名を利用して洒落を言った。僕はクジ引きで社長と専務の間に坐ってしまって、犬が屋根へ上ったような形だった。隠し芸の順番が廻って来た。社長が謡曲を唸った。僕は芸がない。あったところで、右に社長左に専務では仲間同志の時と違う。仕方なしに、もし/\亀よ、亀さんよを歌って笑われた。次に専務が立って、

「君、一寸立ってくれ給え」

と僕に言うのだった。僕は立った。すると専務が、

「橘高、庄さん、待ってた、ホイ」

とやったのである。社長初め老輩が拍手喝采した。社長は秀逸だと言った。しかし若い連中は意味が分らなかったから黙っていた。社長が立って、

「情けないな。この頃の若いものは洒落が通じない。困ったものだ。僕が説明する。いゝかな。『来たか、庄さん、待ってた、ホイ』という人口に膾炙した文句があるんだ。名倉君はそれをもじったんだ。『橘高、庄さん、待ってた、ホイ』さ。うまいよ。当意即妙じゃないか?」

と推賞した。そこで皆改めて大いに笑った。

以来、僕の姓名が会社中に知れ渡った。仲間同志でも、待ってたホイをやる奴がある。これによってこれを見るに、橘高庄三は社長重役の間に認められている。豈努めざるべけんやだ。

さて、同僚の女房について一言する積りだったが、同僚といっても、徳川時代の洒落の分るような頭の禿げたのは計算の外に置く。老輩は遠慮があるから、自然敬遠する。本当の同僚、即ち君僕の間柄が二十名近くいる。半数が世帯持で半数が独身だ。僕が特別に感じているのは、この世帯持連中が押しなべて平凡な女房に満足していることである。そう多くは会っていないが、時折偶然の機会で紹介されて、幻滅の感に打たれる。奴の材幹を持ってして、これは何うしたことだろうと沈吟させられる。時に例外がある。このボンクラがと思っているのが素晴らしい細君に恵まれている。好妻拙夫という諺が肯ける。しかしこれは原則を証明する例外に過ぎない。若い同僚は押しなべて拙い女房につれそっている。

探りを入れて見ると、皆仲人結婚だ。これあるかなと思った。持ち込まれると、そう/\贅沢を言えない。大概のところで堪能してしまうから、拙いのを貰う。運の好い奴が麗人を引き当てる。

此方はこれからだ。大いに自重する。仲人の持って来るクジは引かない。一々断っている。自分で探して、ロマンスで結婚する。一度しかない青春だ。釣堀の鯉や鮒は釣らない。大海の鯛を釣る。

僕はこういう方針で就職以来心掛けているけれど、まだ手答えがない。その反対に時々軽い失策をする。初めタイピストの三輪さんに惹きつけられて、かなり懇意になった。皆も認めている麗人で、社長専属だ。来たか庄さん以来、僕に興味を持ったらしい。

「橘高さんなら堂々としていて、何処へ出しても立派なものよ」

と言ってくれた。僕は映画会社が三輪さんを引っこぬきに来ないのが不思議だと言って、お世辞を使った。自信のある女性にはこの手で乗じる。効果百パーセントだ。会社の帰りを誘って、銀ブラをしたこともある。昼食後屋上で屡話した。会社はビルディングの六階全部を借りている。

雲の峯が立ちはだかっている夏の真盛りだった。屋上の展望は広い。

「三輪さん、自然は大きいけれど、人間は小さいですね」

と僕は詩人めいた感想を洩らした。

「本当ね。何て雲でしょう! 凄いわ」

「雲の峯日本の夢も崩れけり」

「俳句?」

「えゝ」

「俳句をなさるの?」

「えゝ少しやります」

「あなたは文学青年ね、こう見えても」

「何う見えるんですか?」

「会社員ってことよ」

「僕は文学よりも哲学です。哲学者が生活の都合で会社員を勤めているんでしょう」

同僚の有象無象とは聊か選を異にするというところを印象づける積りだった。続いて人生問題から生活問題へ移った。話の切っかけが丁度好かったから、

「時に三輪さんも何うせ良妻賢母でしょうね?」

と訊いて見た。

「えゝ」

と三輪さんは無条件で答えた。

「簡単ですね。何か理想があるんだと思っていたら」

「そんな面倒なものないわ。もう定っているのよ」

「はゝあ」

「オホヽヽヽ」

「本当ですか?」

「えゝ。従兄よ。KOの医科を出て、助手を勤めながら論文を書いていますの。それが通り次第に」

「式を挙げるんですか?」

「えゝ」

「それはお芽出度いです」

「とても好い人よ。御紹介申上げましょうか?」

「いや、結構です。これは敵わない。ハッハヽヽ」

と僕は笑ってごまかした。これが第一回の見込違いだった。第二回も第三回もある。宮下君は失恋だと言うけれど、そんな根柢の深いものでない。単に不注意。ミステークだ。失恋でない証拠に手傷少々も負わない。

数ある若い同僚の中で、僕は宮下君と一番親しくしている。僕より二年後れて入って来て、大学も二年後輩だ。君は先輩だから面倒を見てやってくれ給えと課長から頼まれた。僕は机を並べて、聊か指導してやった。初めは「橘高さん、あなたは」と言って敬意を表したが、僕は「橘高君、君は」と言うようにならなければいけないと注文をつけた。今日ではその限度を越して、「橘高、お前は」なぞと言い兼ねない。それ丈け肝胆相照らしたのである。

「君、そう失恋ばかりしていないで、仲人を頼む方が早いぜ」

と宮下君がからかった。

「馬鹿を言うな。一世一代だ。ロマンスで行く。大海の鯛を釣る」

と言って、僕は意気軒昂たるものがあった。如何に同僚の多くが拙い女房につれそっているかを話して聞かせた。

「実は僕も時々縁談があるんだけれど」

「けれども何だ?」

「満を持して放たずさ。まだ早い」

「早いとも。慌てることはないよ」

「しかし僕は兎に角、両親が急ぐんだ。僕のところは至って世間並で、早く孫の顔を見たい組だから」

「ロマンス辞退か?」

「うむ。それが少し残念だけれども」

「又けれどもか? おい。もう話が進んでいるんだろう?」

「いや、まだだ。始まれば必ず報告して、君の勘弁を仮りる」

宮下君は僕のようなアパート住いと違って、東京に家がある。お父さんは官吏の古手だ。恩給がある上に、何処かに勤めている。しかし切りつめた生計だから、嫁を貰っても披露会なんかやれないと宮下君はそれを度々言うのだった。昨今のことだから、皆内輪にやっている。

「新婚旅行もやらない」

と言う。

「おかしいぞ。君はこの頃そんな話ばかりしている」

果して僕の推察の通りだった。或日、宮下君は、

「君、報告がある。屋上々々」

と誘った。同僚は何かというと屋上を利用する。議論をした後、さあ、屋上へ来いと言った奴がある。

「何だい?」

「話が始まったんだよ」

「ふうむ。イヨ/\来たな」

「隣りの佐藤という人が持って来たんだ。断るばかりが能じゃないから、一つ考えて見ろと父も母も言うんだ。佐藤氏は長く英語の先生をした人で、今は進駐軍の通訳を勤めている。ずっと以前に虎の巻を出して、それが当って家を建てたんだ。年来隣り同志だから、僕のところとは別懇の間柄だ」

宮下君は仲人の履歴から説き起した。

「見合をするのか?」

「うむ。写真が気に入ったから、兎に角会って見ようと思う。見せようか?」

「何だ? 持っているのか?」

「肌身離さずって訳でもないが、君に鑑定して貰おうと思って持って来た」

宮下君はチョッキの下から大きな台紙の写真を手繰り出して突きつけた。僕は仔細に検めて、

「ナカ/\好いじゃないか?」

「好いかい?」

「これなら好いよ。美人だ」

「美人とまでは行かなくても、相当のところだと思う」

「相当以上だよ。学校は何処を出たんだい?」

「旧制の女学校と洋裁学校さ」

「年は?」

「二十二だ」

「丁度好いじゃないか?」

「申分ないと思うんだ。佐藤氏の昔の同僚の娘だよ。父は恩給を取って、神田あたりの受験学校に勤めている。僕のところと似たり寄ったりだ。佐藤氏の娘さんの同級生だから、身許や性格は佐藤氏が絶対保証をしている」

と言って、宮下君は徹底的に進んでいた。

何のことはない。鑑定でなくて推薦を求めているのだった。何うだ? 参ったろうと言わないばかりだったから、心委せにする外仕方がなかった。それに釣堀の魚としては上乗のものと認められたから、僕は満腔の賛意を表して置いた。

宮下君は早速見合をした。その報告で僕は又屋上へ引っ張られた。

「佐藤氏のところで会ったんだよ。写真よりも遙かに好いんだ。丈が高くてブロンド型だ。それだから洋装がよく似合う。君、君は suit to a T ってフレーズを知っているだろう?」

宮下君は英語が得意で、兎角英語を振り廻す癖がある。

「知らないよ」

「suit は合う又は似合うで、TはT型定木だ。T型定木を当てたようにキチンと合うって意味だ」

「成程」

「趣味もすべて一致している」

「話したのかい?」

「うむ。一時間ばかり水入らずに話した。ピアノが弾けるらしい。しかしそんなものを買ってくれなんて言われると大変だから、音楽は敬遠して文学を語った。小説は嫌いで哲学がかった論文が好きだと言うんだ。凄いよ。英語は相当出来るらしい。鑵詰のレッテルぐらい読めますよと言って笑っていたが、お父さんが矢っ張り英語の先生だから、うっかりすると、此方より上かも知れない。話の中に英語を入れるんだ。それが一々適切だから感心してしまった」

「結局気に入ったんだね」

と僕はもう好い加減にして貰いたくなった。雨がポツ/\降っていたのである。

「即決さ。先方も支度の都合があるだろうから、婚約期間を三月として、秋に式を挙げることに定めた」

「猛烈に捗ったんだね。見合ってのは一遍にそんなことまで定めてしまうものかね?」

「いや、そのまゝ別れて、決定は後日仲人から通告するのが本式だけれど、そんなことをしていると取り逃がす心配がある。現に僕の従兄はその手を食っている。先方の令嬢は見合をした翌日又別口の見合をして、その方が気に入ったものだから、スパリと断って来たそうだ」

「ふうむ」

「今の世の中は若い女性まで思想が険悪になっている。パーマネントをかけて美容術を施した序に、二つも三つも見合をして、その中から選抜するのがあるらしい」

「ハッハヽヽ。此奴は好い」

「寸善尺魔だから善は急げということになる」

「しかしそんなのに選抜して貰っちゃ大変だよ。断りを食う方が仕合せだろう」

「それはそうだね。して見ると、少し慌てゝ見識を欠いたかも知れない」

「見識よりも誠意の問題だ。直ぐ気に入って直ぐ定めたんだから、先方も満足したろう」

「うむ。大いに感激していた」

「芽出度し/\だよ」

「前途が明るくなった。おい、何うしたんだ? 君は肩が濡れている」

「君だって濡れているよ。雨が降っているんだ」

「失敬した。下りよう」

と宮下君も気がついた。

早い結着だと僕は思った。土曜日に別れて月曜日に会ったら、もう一生の伴侶が定っている。電光石火だ。昨日まで丈夫で、今日死ぬ人もある。しかしこれは無常迅速の不可抗力だ。結婚は問題が違う。自由選択が利く。男性にしても女性にしても、初対面で堪能してしまっては、ロマンスも何もない。

「宮下君、君は結局するに仲人に餌をつけて貰って釣堀の魚を釣ったんだね」

と僕はつい偽らざる感想を洩らした。

「うむ。その通りだ」

「正直なところを言うと、僕は少し期待が外れたよ」

「何故?」

「君は青春の特権のロマンスを頭から辞退したことになる」

「それが少し残念だけれど、僕も考えたんだよ。結婚も人生の実務だ。矢っ張りガッチリと実務的に行く方が安心だと思ったんだ」

「怪我はないね、石橋を叩いて渡れば」

「おい。異議があるのか?」

と宮下君は語調を尖らせた。

「いや、異議はないけれど」

「けれど何だい?」

「僕は矢っ張り大海の魚を心掛ける」

「仲人は一切受けつけないか?」

「うむ。その代り急がない」

「僕も急いだんじゃないけれど、両親がやかましく言っている矢先に相当な相手が現れたからこの機を逸したくないと思ったんだ。あれなら確かに十人並以上だよ。頭は無論好い。家庭と家庭が出ず入らずの貧乏ってことも釣合が取れる。縁談は英語でマッチだろう。要するにマッチだ。マッチ即ち釣合だ」

「おい。もう結構だよ」

と僕は遮った。雨が強くなって来たのだった。

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