九
然し釣りの心境といふものは、帰するところは静寂な自然への復帰だ。溪谷、川、海、池、沼にしても、その朝霧、日の中、夕靄、星、月の下にあつて、一切の生活環境からくる騒音を洗ひ清め、苦い生活心理の酸味を吹き飛ばし、肺に心臓に悠久たる自然の新らしい呼吸を詰め変へる。それを逃避だといふ風に見る人もあるし、児戯に類すると見る人は、プラグマチズムの持主であつて、少くとも東洋哲学の真諦を予想出来る人には、そんな小乗的な功利的心境ではないといふ事が実験されるであらう。
不思議な事には、釣りの現場に臨んで、家の事や仕事の事を考へてゐたら、少しも魚が来ない事だ。よく人は釣りでもして、ゆっくり運命を考へたり、何か目的に就いて静思したらよからうといふが、釣りをしてゐると、だんだんそんな事は考へられなくなつてくる。毎日海へ出たり、溪谷を渉つてゐると、やがてこの世界の栄達といふやうな事を願はなくなり、金とり仕事などが厭になつてくる事だ。といつて、金と暇があつて、何不自由のない人といふものは、又ふしぎに釣りが好きでない。釣好きといふものは、繁忙の生活をしながら、一方自然への愛慕を忘れぬ人に多い。
然し最近は、さういふ古風な人達ばかりでなく、アルプス登攀の人々が岩魚を釣るとか、海水浴に行つた人が、沖へ鰺や鯛つりに行くやうになつて来て、東京湾や江東方面に限つた事もなく、釣場の版図といふものが、非常に広くなつて来たから、釣りをスポーツと見る事が、実際に証明されて来た。この傾向は大変によいと思ふ。もし国際的な魚釣り会などがやがて催されるとなると、先づ選手は日本から多数に出るといふ自信はある。由来西洋人は手巧には不得手であるから、よく場所と魚とを研究してかかつたら、先づ釣技といふ点では日本人が最高レコードをつくる事は明かだ。その意味で私は、もつと魚釣りといふものが、或る一部の人々の遊びでなく、広く一般の愉しい小スポーツとして存在さるべきものでありたいと思ふ。その環境から云つて、日本程釣りに恵まれてゐるところはないのであるから、集団的にも又個人的にも、この夏と秋をよく魚釣りに興じて、その人々の健康や自然への親しみを倍加して貰ひたいと思ふ。