Chapter 1 of 10

政談月の鏡と申す外題を置きまして申し上るお話は、宝暦年間の町奉行で依田豐前守様の御勤役中に長く掛りました裁判でありますが、其の頃は町人と武家と公事に成りますと町奉行は余程六ヶしい事で有りましたが、只今と違いまして旗下は八万騎、二百六十有余頭の大名が有って、往来は侍で目をつく様です。其の時の江戸の名物は、武士、鰹、大名小路、広小路、茶見世、紫、火消、錦絵と申して、今の消防方は四十八組有って、火事の時は道路が狭いから大騒ぎです、焼出されが荷を担いで逃げ様とする、向からお町奉行が出馬に成る、此方の曲角からお使番が馬で来る、彼方から弥次馬が来る、馬だらけに成りますが、只今は道路の幅が広くなりずーッと見通せますが、以前は見通しの附かんように通路が迂曲て居りましたもので、スワと云うと木戸を打ち路次を締める、少しやかましい事が有ると六ツ限で締切ります、此の木戸の脇に番太郎がございまして、町内には自身番が有り、それへ皆町内から町内の家主(差配人さん)がお勤めに成って、自身番の後の処が屹度番太郎に成って居たもので、番太郎は拍子木を打って夜廻りを致す丈の事でスワ狼藉者だと云っても間に合う事はない、慄えて逃げて仕舞い、拍子木を溝の中へ放り出して番屋へ這込むなどと云う弱い事で、冬になると焼芋や夏は心太を売りますが、其の他草履草鞋を能く売ったもので、番太郎は皆金持で、番太郎は越前から出る者が多かったようで、それに湯屋の三助は能登国から出て来ます、米搗は越後と信濃からと極って居ました、江戸ッ子の番太郎は無い中に、長谷川町の木戸の側に居た番太郎は江戸ッ子でございます、名を喜助と云って誠に酒喰いですが、妙な男で夜番をする時には堅い男だから鐘が鳴ると直に拍子木を持って出ます、向うの突当までちゃんと行って帰って来ます。大概の横着者は、チョン/\チョン/\と四つ打って町内を八分程行くと、音さえ聞えれば宜いんで帰って来ますが此の男は突当りまで見廻って来ないと気が済まないと云う堅い人で、ボンチョン番太と綽名が有る位で何う云う訳かと聞いて見ると、ボーンと云う鐘とチョンと打出す拍子木と同じだからボンチョン番太と云う、余程堅い男だが酒が嗜きで暇さえあれば酒を飲みます、女房をお梅と云って年齢は二十三で、亭主とは年齢が違って若うございますが、亭主思いで能く生酔の看護を致しますので、近所の評判にあの内儀さんは好い女だ喜助の女房には不釣合だと云われる位ですが、誠に貞節な者で一体情の深い女でございますから、本当に能く亭主の看護を致して、嗜な物を買って置き、

梅「寒いから一杯お飲べかえ、沢山飲むといけないよ、二合にしてお置よ、三合に成ると少し舌が廻らなくなる、身体に障るだろうと思って案じられるから」

喜「うむ寒いな、霜月に這入ってからグッと寒く成った何うしても寒くなると飲まずにゃ居られねえな」

梅「寒いたって、寒い訳だよ、朝から飲んでるからもう酔い醒のする時分だからさ、町代の總助さんが来て余り酒を飲ましちゃアいけない、あれでは身体が堪るまいと被仰って案じておいでだよ、皆様が御贔屓だから然う云って下さるんだよ」

喜「もう是れ限り飲まねえから、よう宜いからもう一本燗けなよ」

梅「燗けなってお酒が無いんだよ」

喜「無けりゃア買って来ねえな、おい」

梅「もう今日はこれだけにしてお置きな」

喜「熱い時分ならそれで宜いが、寒い時分には二合じゃア足りねえ、ようお前能く己の面倒を見て可愛がって呉んな、其の代り己がお前を可愛がって遣る事もあらア」

梅「お戯けでないよあのお店から酒の下物にしろって台所の金藏さんが持って来た物があるよ」

喜「彼奴め下物だって鮭の頭位だろう、あゝ有難い持つべきものは女房か、有難いな、何うしたっても好い酒は四方へ行かなければ無えな」

とクビーリ/\飲んで居る、其の時店先へ立止りました武士は、ドッシリした羅紗の脊割羽織を着し、仙台平の袴、黒手の黄八丈の小袖を着、四分一拵えの大小、寒いから黒縮緬の頭巾を冠り、紺足袋日勤草履と云う行装の立派なお武士、番太郎の店へ立ち、

武「これ此処に有る紙を一帖呉れんか」

喜「へいお入来なさいまし是は何うも御免なさいまし、誠に有難う、其処に札が附いてます、一帖幾らとして有りますへい半紙は二十四文で、駿河半紙は十六文、メンチは十個で八文でげす、藁草履は私の処が一番安いのでございます、有難う誠に何うも、其処へ行くんですが、ちょいと銭を箱の中へ放り込んで一帖持って行って下さいまし、札が附いてますから間違えは有りません」

武「なに貴様は余程酒が嗜きだな、私が此処を通る度に飲んで居らん事はないが、貴様は余程酒家だのう」

喜「ヘイ嗜きです、お寒くなると朝から酒を飲まねえと気が済みませんな」

武「酒家は妙なものだな、酒屋の前を通ってぷーんと酒の香が致すと飲み度くなる、私も同じく極嗜だが、貴様が飲んで居る処を見ると何となく羨しくなる」

喜「え、殿様もお嗜きで、極好い酒が有ります、私ゃア番太郎ですが江戸ッ子の番太郎は余り無えんです、極好い酒が有りますから、誠に失礼ですが一つ召上れ」

武「それは辱いなア」

梅「あらまア御免遊ばせ酔って居りますから、お前さん何と云う事だよ、お武家様を番太郎の家などへお上げ申す事が出来ますものかね」

喜「いや嗜きじゃア堪らねえ、ねエ殿様、此方へお上んなさい、長い刀を一本半分差して斯ういう家に上ると身体を横にしなければ這入れませんよ」

武「是は御家内か、私も酒が嗜きでな、此処を通る度に御亭主が飲んで居る、今一寸買物をして見ると矢張飲んで居て羨しく遂やる気になりました」

梅「でも汚ない此んな狭い処へ」

喜「宜いから黙ってろ、殿様此女の里は白銀町の白旗稲荷の神主の娘ですが、何うしたんだか、亭主思いで、私が酒を飲んでは世話を焼かせますが、能く面倒を見ます」

梅「お止しよ」

武「では一盃戴こうか」

喜「お酌をして上げな、大きい盃で」

武「これは御内儀痛み入りますな、お酌で」

梅「誠に何うも召上る物が有りませんで」

武「いや心配してはいかん、却って是が宜しい成程是は何うも余程好い酒を飲むな」

喜「えゝ四方で、彼家では好い酒を売ります、和泉町では彼家ばかりで、番頭が私を知ってるので、私が買いに行くと長谷川町の番太が来たって別に調合を仕ないで、一本生の鬼殺しを呉れますが、酒は自慢で」

武「うむ是は堪らん、では近附の為に一盃」

と喜助に差しました。喜助は頭を下げ。

喜「へー有難う、おいお梅此処へ来い酌をして呉れ手前は己に能く酒を飲むな/\てえが立派なお武家様がこんな汚い家へ這入って来て番太郎と酒を飲合い、殿様のお盃を私が飲んで其の猪口を洗ぐのは水臭いって殿様が直に召上ると云うのは酒の徳だ」

武「酒には上下の差別をしてはいけない」

喜「洒落た好い殿様だ、何卒毎日来て下さいまし、殿様私の為めには大切のお店の番頭が私を贔屓で去年の暮に塩辛を呉れましたが、好い鯛の塩辛で、それと一緒に雲丹を貰ったんですが、女房は雲丹をしらねえもんだから、鬼を喰うと間違えました、是は」

武「是は何うも皆酒家の喰う物ばかりで」

梅「何かお肴を」

喜「鰻でも然う云って来ねえよ」

梅「上るかえ」

喜「上っても上らなくっても宜い、鰌の抜きを、大急ぎで然う云って来や、冷飯草履を穿いて往け殿様彼は年は二十三ですが、器量が好うございましょう、幾ら器量が好くたって了簡が悪くっちゃア仕様が無えが、良い了簡で私を可愛がりますよ」

武「是は恐入った、馳走に成るからお前のうけも聞かなければならんが、貴様は酒が嗜きだと云う処から初めて私が来て馳走に成り放しでは済まんから、少し譲り難い物を遣ろうか、是は容易に得難い酩酒で有る、何れで出来るか其処は聞かんが、是は何か京都の大内から将軍家へ参って、将軍家から御三家御三卿方へ下されに成って、たしない事で有るから其の又家来共に少しずつ之を頂戴致させるんだが、何うも利き目が違って、其の酒の中へぽっちり、たらりと落して、一合の中へ猪口に四半分もポタリと落してやると何とも云えん味いのものだ、飲む気が有るなら遣ろうか」

喜「是は何うも、何ですかえ…夫は有難うございます…此盃へ何卒…是は何うも頂く物は、えへゝゝ大きな物へ」

武「余り大きな物へ入れちゃア困る、徳利が小さいから、これへ入れてやろう」

風呂敷を解いて小さい徳利を取出して、栓の堅いのを抜きまして、首を横にしてタラ/\/\と彼是れ茶椀に半分程入れて、

武「実は私も親類共へ些と遣り度いと思って提げて来たのだが、馳走に成って何も礼に遣る物がないから」

喜「有難う存じます、おゝお梅、行って来たか」

梅「あゝ行って来たよ」

喜「今な、禁裏さまや公方様が喰って、丁寧な事ア云えねえが、御三家御三卿が喰う酒で番太郎風情が戴ける物じゃねえんだが、殿様が遣ると仰しゃって戴いた」

梅「夫はまア有難い事で、何もございませんが、召上るか召上らないか存じませんが、只今鰌の抜を云い付けて参りましたから」

武「何も構って呉れちゃア困る」

喜「宜いから彼方へ行ってろ、夫から香物の好いのを出しな」

武「夫を直接に飲んではいけない、何んな酒家でも直接にはやれない」

喜「なに旦那私は泡盛でも焼酎でもやります」

とグイと一口飲みました。

武「此奴ア気強い」

喜「ムヽ、是は何うも酷いな、此奴ア、ムヽ、脳天迄滲みるような塩梅で」

武「なか/\えらいな、それを二タ口と飲む者はないよ」

喜「なに二タ口、訳アございません、薩摩の泡盛だって何んでもない、ムム」

梅「何う仕たんだよ」

喜「なに宜いよ、ム、ム大変だ、頭が割れるような酷いもので、此奴を公方様が喰うかね」

武「酒を割ってやらんければいかん、残りは大切に取って置きな」

喜「ヘエお梅是を何処かへ入れて置きな」

武「ポッチリ酒に割って飲むのだ、私は少し取急ぐで、是を親類共に持って行ってやらんければならん、又此の頃に来る」

喜「只今抜きが直きに参りますが…左様ですか…御迷惑で、誠に失礼を致して恐入ります」

武「大きに厄介で有った、御家内誠に世話に成りました」

と丁寧にお武家が家内にも挨拶をして落着き払って、チャラリ/\雪駄を穿いて行く後影を木戸の処を曲るまで見送って、

喜「有難うございました、どうぞ殿様此の後も寄ってお呉んなさい、へえへえ有難う、おい嬶ア、大切に取って置きな、御三家御三卿が喰うてえんだが、旨くも何共ねえものを飲むんだな、香の物の好いのを出して呉れ、酒家は沢山の肴は要らない、香の物の好いのが有ればそれで沢山だ、併し酷い酒を飲せやアがったなあゝ痛え、変な酒だな、おいお梅一寸来て呉んな、ウ、ウ、腹が痛えから一寸来て呉れ」

梅「極りを云ってるよ、お前飲み過だよ、疝癪に障るんだよ」

喜「彼ン畜生変な物を飲ましやアがって、横ッ腹を抉るように、鳩尾骨を穿るような、ウヽ、あゝ痛え」

梅「何うしたんだよ」

喜「アヽ痛え、ア痛たゝゝ、お、お梅、脊中を押して呉れ、脊中じゃアねえ、肩の処を横ッ腹を」

梅「何処だよ」

喜「其処じゃアねえ、此方の足の爪先だ、膝だ、あゝ肩だ」

ともがいて居ます、恐ろしいもので、節々の痛みが夥しく毛穴が弥立って、五臓六腑悩乱致し、ウーンと立上るから女房は驚いて居ると、喜助は苦しみながら台所へ這い出してガーと血の塊を吐いて身を震わして居る。お梅は恟りして、

梅「家の良人が何うか為ましたから誰方か来て下さいよう、總助さん/\」

總「何うした/\、きまりだ、吐血だ、だから酒を飲んじゃア宜かねえと云うのだ、何う云うものだこれ喜助確りしろ、喜助/\」

喜「ウーン」

それなりに相成りました。

總「何う云う訳だ」

と云うとお梅は涙ながら、これ/\斯う云う訳で御酒を割って飲まなければ宜けないと云うのを家の良人が直接に飲みましたから身体に障ったのでございましょう。

總「夫は怪しからん事だ、何しても御検視を願わなければならん」

と云うので、御検視到来に相成りお医者も立会って調べると、是は全く酒の毒だが、尋常の死にようではない、余程効能の強い毒酒ではないかと、依田豊前守様の白洲へ持出したが御奉行が其の酒を段々お調べに成り、医者を立会して見ると、一ト通りならん処の毒薬で、何でも是は大名旗下の中に謀叛之れ有る者、お家を覆さんとする者が、毒酒を試しに来たに相違ないと云うので、女房に其の武家の顔を知って居るかと尋ねると、これ/\斯う云う姿の武家体と申し上げたので、人相書を作り八方十方へお手配りに成り箱根の前まで手が廻る事に成ったが、知れません。お梅は貞節な婦人ゆえ泣いてばかり居ります。里方で引取ろうと云うと、

梅「私はお願いだから、あの武士が毒を試しに来て、始めから何うも様子が訝しいと思ったが、顔を知って居るのは私ばかり、此の長谷川町を再び通る気遣いは有るまいから、人の盛る処へ行ってあの侍を見付けて、亭主の敵を強いお上に取って貰わなければならないから、何うぞ私を吉原へ女郎に売って下さい、格子先へ立つ人の中にあの武家に似た人が有ったら騙して捕まえて亭主の敵を討つ」

と云い張り、幾ら留めても肯かず遂に江戸町一丁目辨天屋の抱えと成って名を紅梅と改め、彼の武士の行方を探すと云う亭主の敵討の端緒でございます。

Chapter 1 of 10