4 ヘロピロス(ほぼ300BC)とエラシストラトス(ほぼ260BC)
アレキサンドロス大王は西洋に知られていた世界を征服した。ペルシャの国土は粉みじんになった。バビロニア人およびエジプト人の支配は過去のものになった。「イスカンデル」(=アレクサンドロス)の軍隊はインダス川を渡りパンジャブを席巻した。アレクサンドロスが行く所、ギリシア語、ギリシア芸術、ギリシア文化が、遠くまで広範囲に広がった。ギリシアは与えただけでなく受け取った。競争相手の文化は崩壊し互いに置き換えられた。ヘレニズムはアジアの知識、行為、考え方、によって色づけられ、肥沃にされ、かき乱された。
アレキサンダーは323年にまだ32歳にならないうちに死去した。領土は分割されたが精神的な征服は無傷であった。副王たちは独立したがヘレニズム化はそれぞれの領土で続けられた。マケドニア、ビチュニア、ペルガモン、シリア、とくにエジプトにおいて。
死ぬ10年前エジプトに侵入したときにアレキサンドロスは解放者として歓迎された。ナイル川デルタの西側の地中海沿岸に新しい都市がつくられ征服者の名をつけられた。数世紀にわたってこの都市アレクサンドリアは古典知識の城砦であった。ギリシア人のエジプト王たちであるプトレマイオス朝の首都であった。天文台が作られ図書館が創設された。ギリシアのすべての文書はこの壁の内に集められた。エジプトは数千年にわたって古代の最良の紙であったパピルスの産地として知られていた。したがってアレキサンドリアは書籍の製作および取引の中心地となった。学者や芸術家は世界の種々の場所からエジプト宮廷に呼び寄せられた。プトレマイオス朝の王たちは気前よく物質的な心配無しに彼らに仕事を行わせた。
アレクサンドリアに呼ばれた学者の中に2人の医師がいた。ヘロピロスとエラスシストラトスで彼らの著作は重要であった。主として彼らの影響によって医学は変貌しそれまでは手仕事であったものが本当の知識を取り込んで本当に真の科学になった。一言で言うと医学の理論が重要になった。ヒポクラテス集典は教育のある人なら理解できたが、この後になると医学文献を理解するには普通の教養では不充分な専門的なものになった。医学知識の量は世紀を経るとともに増加した。東との接触によって新しい病的現象と新しい治療法が西洋にも知られるようになった。
我々はヘロピロスについて殆ど何も知らない。判っているのはビチュニアのカルケドンに紀元前4世紀の最後の1/3に生まれ、科学と医業を有名なコス島の教師プラクサゴラスに習ったこととアレクサンドリアで医師および教師として有名になったことぐらいである。彼の名前は静脈洞が集まって後頭骨にできた窪みの「ヘロフィルスのぶどう酒搾り器」で現在に知られている。当時の有能な解剖学者で古代に高く評価された解剖の本を少なくとも3冊は書いている。古代の解剖学者は下等動物の解剖について書いて満足していたが彼は人間の臓器を詳細に記載し他の動物と比較している。彼が人体を系統的に解剖を行ったかどうかは確かでない。アレキサンドリア医師たちが犯罪人の生体解剖を行ったという数世紀後の嘘くさい話は無視することにしよう。しかしエジプトでは屍体の防腐処理が行われ前処置として臓器を取り除いていたので内臓の解剖学に習熟するかなりの機会があったに違いない。
解剖学的著作の断片で残っているものはヘロピロスが注意深い観察者であったことを示している。眼球、脳膜、性器についての記載は素晴らしい。十二指腸と命名したのは彼であった。しかしもっとも重要な発見は神経の本態についてであった。アリストテレスは神経と腱を区別することが出来ずギリシア語のニューロンは区別しないで両方に使われていたがヘロピロスは脳が神経系の中心的な臓器であり末梢神経は感覚を伝える臓器であることを知っていた。
医学の理論および医療に関するかぎりヘロピロスはこれまでの慣習以上には進まなかった。彼は支配的であった体液学説を受け入れヒポクラテス集典の幾つかについて解説を行った。生命は栄養、熱、感覚、思考の4つのエネルギーによって調節されるとした。
しかしこれまでの学説をさらに発展させるべきであると考えていた。予後は症状に基づかなければならない。従って症状を出来るだけ注意深く研究しはっきりと定義する必要があった。脈拍はもっとも重要な症状でありヘロピロスはこの観点から脈拍についての重要な学説を考え出した。脈拍の本質的な現象は何であろうか? 音楽と同じようにリズムである。従って脈拍を理解するには音楽理論を勉強しなければならなかった。これはヘロピロスがとった道筋であり、ペリパトス(逍遥)学派の哲学者で音楽家でありアリストテレスの弟子であったタラントのアリストクセノスの音楽理論によって導かれた。このようにして脈拍理論は複雑となり優れた音楽者でなければ理解できないようになった。従ってこの理論は死産であり後世の人たちはヘロピロスを屁理屈屋で重箱の隅をほじくると非難した。
健康は貴重な財産であると彼は宣言した。食養生の本で彼は書いた。「もしも健康でなければ英知と芸術、権力と富も何の役に立たない」と。従って医師は患者の健康を保ち快復させることに努力しなければならない。ここでは経験がもっとも価値があり医術の巧みさが限界となる。「最良の医師は可能なことと不可能なことを区別できる者である」と。
治療学において主な手段は何か? 食養生が第一であり次が薬品である。医師が薬を処方するのは神が病気の流れに介入するのと同じである。実際にヘロピロスは医薬を「神の手」と名付けすべての病気において処方した。
外科や助産術が独立の部門になるほど医学は充分に発達していなかった。これらの部門で得られる知識は一個人のものなのでヘロピロスは純粋で単純な医学だけでなく外科と助産術にも興味を持っていた。事実、彼は助産術についての本を書き広く流通し影響を与えた。出産を助ける実務は主として女性によってなされ医師は重篤な場合だけ呼ばれた。したがって頼ることができ信頼できる実用書は助産婦にとって非常に重要であった。助産術におけるヘロピロスの決定的な重要性を示す挿話がある。古代アテナイでは女性が医療に関与することは禁止されていたので助産婦はいなかったと言われている。しかしアグノディケと呼ばれる高貴な心を持つ女性が姉妹の出産に伴う激痛を救うために男性に変装してヘロピロスに教えを受けた。このように助産術を詳しく学んで陣痛女性たちの大きな助けとなった。これによって医師たちは彼女を妬んでアレオパゴス(アテナイの最高法廷)に訴えた。しかし彼女の患者たちの多くはアテナイ人であり彼女のための証人となった。彼女は許可を取得し馬鹿げた法律は廃止された。
言う必要の無いことであるがヘロピロスの時代以前にもアテナイで実際は助産婦が業務を行っていた。この話で重要なのは、主として有能な解剖学者として伝えられている男が優れた産科医でもあったことである。
キリスト教の時代になっても多くの医師たちはヘロピロスが医学の優れた教師であったことを思い返した。
エラシストラトスはヘロピロスより1世代後に活躍した第2の偉大なアレクサンドリア医師であった。2人の生涯は重なり同じ都市に開業しそれぞれ学派を創設したので、ふつう同時に語られる。しかし2人の医学理論は大きく異なっていた。
エラシストラトスは医師の家系に生まれた。母親は医師の姉妹であった。父親クレオムブロトスはシリア王セレウコス1世ニカトールの侍医であった。エラシストラトスは紀元前4世紀末にケオス島のイウリスに生まれアンティオキアで育った。医師になる決心をしその頃の習慣に従ってアテナイに行って学生となった。教師はアリストテレスの娘と結婚していたメトロドロスであった。アリストテレスの愛弟子テオフラストスにも学んだと言われている。このようにエラシストラトスはアリストテレスのペリパトス(逍遥)学派と密接に関連しデモクリトスの哲学も勉強して強い影響を受けた。アテナイからコス島に行ってプラクサゴラス学派で学んだ。しかし医学について最も重要な影響を与えたのはクニドス島出身者でアレキサンドリアに住むようになったクリュシッポスであった。
ヘロピロスはヒポクラテス学派に属してある程度の発展を試みた以上のことはしなかったがエラシストラトスは上記のように幾つもの学派の医学を勉強したので間もなく自己独自の線を進んだ。
しかしエラシストラトスはヘロピロスと同じように自然の研究者であった。「自然は大芸術家であって生き物のことを考えるにあたり身体のすべての部分を完成させ目的をもって作り上げる」と。したがって自然のやり方を探究すべきであった。エラシストラトスは動物や人間の臓器のあるものを解剖した。2冊の解剖学の著作を書いた。我々に伝わっている断片には心臓とその弁、喉頭蓋を含む上気道、肝臓、胆管、脳、の優れた記載が含まれている。彼は教えた。神経は感覚を伝えるだけではない。随意の信号を送って運動も起こしていると。従って、彼は感覚と運動の2種の神経があることを知っていた。
これ以上に何を教えていたのだろうか? 静脈、動脈、神経の3種類の導管が全身に張り巡らされていた。これらはロープのより糸のように編みあわせられて臓器を形成していた。しかし生体の終局的な部品は原子であった。原子は不変で外からの熱によって生命を吹き込まれていた。周囲に空間がありこれは引力を持っていた。この力は血液すなわち栄養素を静脈から、プネウマ(空気)を動脈から、精神的プネウマを神経から引き込んでいた。動脈には血液が無く空気だけを運び、空気は呼吸によって新しくされると。それにも拘わらず傷ついた動脈から血液が出るのはそれから出たプネウマ(空気)が静脈と繋がって血液を引き込むためであった。
エラシストラトスは死体解剖をしていて病気によって臓器に明らかな変化のあることを認めた。例えば、腹水で死んだ男の肝臓が石のようになっていること(*肝硬変)を見た。他方ヘビに噛まれて死んだ患者の身体では、肝臓、大腸、膀胱が柔らかくなっていた。病気によって臓器に局所変化が起きたことは明らかであった。これらの病気の臓器を学ぶことによって病気について知ることができた。病気は曖昧な「体液の腐敗」ではない。それではどのようにして起きたのだろうか? どんなメカニズムによるのだろうか?
エラシストラトスは病気の原因についての本を書いた。生体は3種の管が編みあわせられていると彼は繰り返した。これらの導管の状態が適当であって正常の機能を果たすのが健康に必須であった。もっとも重要な病的過程は多血すなわち血液および栄養物質による血管の拡張であった。これによって静脈は引き延ばされ破壊された。血液は動脈に入り込んで通りを塞いでプネウマの動きは邪魔された。プネウマがよどむと炎症が起きた。動脈の拍子は激しくなり発熱が起きた。
個々の病気は多血が起きる特定部位または臓器によって決まった。部位が変わると、肺炎、胸膜炎、てんかん、胃、肝臓、脾臓の病気、などなどとなった。
多血は病気の症状の直接な原因であったが医師としてはこの多血を起こした遠い原因を求めるのが差し迫ったことであった。治療の成功はこれら最初の原因を除くことに依存したからであった。他の点で治療は個々の例に適応させなければならなかった。特にエラシストラトスは激しい方法に反対した。彼は宣言した。区別なしにすべての病人を瀉血するのは意味が無い。多血を打ち消す最良の方法は少量の栄養物だけを摂ることであった。一言で言うと断食であった。断食している男女から瀉血すると衰弱が激しくなり治癒が遅くなった。食養生がもっとも重要であった。蒸気浴、運動、湿布、マッサージ、などの物理療法は助けとなった。薬も使った。しかしヘロピロスのように多くは使わなかった。多くの場合メスに頼ることも必要であった。
しかし予防は治療よりも重要であった。予防は治療よりも良かった。もしも可能なら賢い舵取りは船を嵐には曝さないで嵐を避けた。賢い医師は同じ方法をとった。従ってエラシストラトスは衛生についての2冊の本を書いた。
繰り返そう。エラシストラトスは革新者であった。彼は体液学説を見捨てた。唯物主義者だったので機械主義の観点で病気を見た。人体の解剖を行っただけでなく観察結果を病理学に応用した。クニドス島の教師たちが用意した線上を彼は局所についての解剖学的な病気の概念に基づいて病理学に進んだ。従って彼の著作のかなりな部分は自然に個々の病気または病気群についてのモノグラフであった。例えば、発熱、腹部疾患、麻痺、痛風、浮腫、についての本を書いた。しかし前に述べたようにギリシア医学は他のコース(*コス島医学=ヒポクラテス学説)を通るように運命づけられていた。ガレノスはエラシストラトスの教えを脇に押しやってこの偉大なアレクサンドリア医師をこれ以上無いほど強く非難しヒポクラテス学説勝利の原因を作った。
エラシストラトスについては多くの興味深い挿話がある。そのうちで有名なのは彼の医学的観察が鋭かったことに関連している。シリア王セレウコス1世ニカトールの息子アンティオコスが重病にかかり他の医師たちは匙を投げたのでエラシストラトスが呼ばれた。彼が患者を診察していたときに父王の妻たちの1人である若い女性ストラトニケが部屋に入った。患者の脈が速くなり頬に赤さが増したので病気は身体ではなく精神的なものであり近づくことができない継母への熱情が病気の基本にあることをこの医師は知った。原因が発見されたので治癒への路は開かれた。セレウコスは魅惑されている息子の命を救うためにストラトニケを離婚し若いアンティオコスに結婚させ王子は快復した。
この話が本当であるとしても年代の理由でこの治療を行った医師はエラシストラトスではなく大プリニウスが言っているように父親のクレオムブロトスであったに違いない。この挿話は比較的に知られていない父親から有名な息子に移された。しかし多分この話は伝説であろう。東洋の多くの場所で繰り返して語られ西洋においても同じようにしばしば画に描かれている。
他の古代の慣習によってエラスシストラトスはデルポイのアポロン神殿に鉛で作った抜歯鉗子を奉納した。医師は鉛製の鉗子で抜けるようなぐらぐらになった歯だけを抜くようにとのヒントであった。
歳を取って彼はサモスに引退し不治の病気に罹って自殺した。彼は言った。「私は国に奉仕して心静かに死ぬ」と。彼が創設した学派は500年にわたって続いた。