Chapter 1 of 1

Chapter 1

春分の日が近い。そとには私の好きな菜の花が咲いているだろうか。この罪を犯してから六年になろうとしている。一日、一日がかけあしで過ぎた感がする。罪人の心が有形のもの、無形のものに育くまれ、その情に洗われた裸の思念が数百首の短歌となり、この「遺愛集」となった。感謝であり、幸せである。ひと頃の私を知る人は変ったと思うだろうし、又、自身でもそうと感じて生きている。

身は悲しむべきであるが、心はうれしいのである。

私が短歌を始めた事のなりゆきは、昭和三十五年の秋に拘置所の図書を一冊読んでであった。それは、開高健著の「裸の王様」を読んでのことであった。その中に、絵を描くことによって暗い孤独感の強い少年の心が少しずつひらかれてゆくと云うすじであって、当時の私の心をうった読後感とともに、私は絵を描きたい、そして童心を覚ましたい、昔に帰りたい思いを強くさせられた。しかし、当時は絵を描くことを許されていなかった身には、描きたい思いがふきあがって来るだけで絵は描けなかった。せめて、児童図画を見ることによってと思い、図画の先生でもあった、又、ほめられた事の極めて少ない私が図画の時間に絵はへたくそだけど構図がよいと云ってほめられた事のある先生であり、中学一年の時担任の先生でもあった、吉田好道先生に当時の身分と理由とを書き、子供の描いた図画が欲しいとお願いした。

その返書は、親身なもので、自分に対するおどろきと反省をよびおこす優しさで満ちていた。同封されて奥様の手紙があり、その中に少年期を過した家の前の香積寺とそのお住職様を詠んだ短歌が三首添えてあった。これが私の短歌に接した初めであって、過ぎし日のなつかしさもあり歌は何とよいものであろうかと思った。これがきっかけとなり、又、刺激ともなって、自身にふさわしいものとし得て、時折りに詠みはじめ詠んで今日に至っている。

低能児と云われた程に能力におとる私であったが、幸いにと云うか不幸と云うか四国の松山刑務所で覚えた俳句の素養が助けとなって数は少ないながら、「裸になれ」と念じながら詠み重ねて続いた。又、毎日新聞、朝日新聞、朱、まひる野、その他雑誌にも投稿もし、あまり物事にながつづきしない私は短歌だけはどうゆうわけか、たどたどしいながらも四年以上続いている。毎日歌壇では、昭和三十八年の上半期の窪田空穂先生の選で、毎日歌壇賞をいただき、生涯に唯一度の賞というものを授かったよろこびも味い得たのである。

いままで、いろいろの方々から厚意をよせられたり、手紙をいただいたが現在は、ほとんど文通も絶えている。中に、二、三の方々は私の歌集を出してあげよう、出さして欲しいと云って下さった。これらはみなおことわりしたが一人だけ私の思いのままの歌集を出してあげると云われた方が居り、一時は、あえて生前出版をしようとしたのであったが、途中で意見に違いが出来て結局は中止する事になった。その時に窪田空穂先生に無理云って、書いていただいたのがこの歌集にある序文である。序文の中に叱りがふくまれてあるのは、私の考えの浅かった事を指していて、今もなお、読む都度にありがたいのである。

窪田空穂先生に相談して生前の出版はとりやめ、死後に出版して下さろうと云う方に希望を遺していますが、何かさびしい心残りともいうべき思い、愛しみを遺すものがこの一巻であり、生前出版しようとした稿に加えて今日迄の歌を書き添えた。

最近私は養母を得た。死後に角膜を差し上げること、死体を役立てるために必要な事によって養母になってもらった千葉てる子と云う人は、長い間私の義姉としてキリストを信じさせてくれいろいろなわがままを聞いてくれた人であり、私にとって生みの母におとらない母である。私は心のままに「おかあさん」と書いて手紙を出している。誠に幸せに余る日日を過している。

母を得て感じる事は自身の罪の重大さである。母を亡した被害者のお子様に対するお詫びであり、死をもってする詫びでありながら足りない申しわけないこと、詫びて済まない日日の悔悟であり、人の、すべての生あるものの生命のいかに尊いものかを悟らされたことである。

この思念が遺愛集であり、私の至り得た生命のすべてである。

昭和四十年三月島秋人

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