五
走り鰊がおわり、中鰊の時期にはいった。
一つのうわさがその頃漁夫たちの間に広まって行った。「今年は九一金がない。」ということだった。このうわさは大きな衝撃を彼らにあたえずにはおかなかった。九一というのは漁場主が漁夫にあたえる賞与の制度だった。昔は、九一というのは、漁場主と漁夫との間に行われた漁獲物の分配制度で、漁獲物の水揚の都度、漁場主に九割、漁夫に一割を配当するものだった。しかし漁夫は自分たちに分配された生鰊を、漁場主のために働く時間の余暇をもって加工製造しなければならず、そういうことは事実上不可能の場合がおおく、結局は腐らしてすててしまうことになるのである。それらの事情のために、九一制度はいつか変形し、終漁の際における漁場主の漁夫にたいする賞与の方法になってしまったのである。しかしそれは契約書にも明記されず、いわば不文律で、その額のごときも漁場主の一存に任せられているのだった。一人当り二十円のこともあり、三十円のこともあった。
漁夫たちはよるとさわるとそのうわさの真偽について語りはじめた。飯を食うときや、寝てからの床のなかや、ついには仕事中にさえ各自勝手な意見をもち出して憶測した。「一体、誰がどっから聞いてきたんだ?」とひとりが怒ったようなこえを出して言った。みんながいううちでいちばんもっともらしいのは、あるとき帳場がものかげで、船頭にその話をして相談をかけているのを一人が聞いたということだった。時化で損害を蒙ったから、というのがその理由だということだった。――さきの六助や木村音吉の場合は、直接には自分自身の問題ではない、他人のことなのですぐ忘れてしまえたが、こんどの問題は一人のこらず全部のものに直接ひびく事がらだった。漁夫たちのなかには帰りの旅費すら持って来ないものがあった。そういうものはみなこの九一による賞与金をアテにしているのだった。それがもらえないとすると家へも帰れなかった。
ついに一人が思い切って、じかに船頭にぶつかって事の真偽を問いただしてみた。船頭は言を左右に濁したが、(彼ら親方は旦那から特別賞与がもらえるのだ)その時の船頭の狼狽ぶりと、当惑しきった顔つきから、人々はうわさがほんとうであると断定したのである。
漁夫たちはわきたった。仕事も手につかない様子だった。――そうした漁夫たちの動きを、だまって、考えぶかそうな目をしてじっと見ているのが、山本だった。
ある日、朝飯の時だった。(船頭、下船頭は帳場と一緒に事務所で、お膳つきで飯を食うことになっていて、ここにはいなかった)食事がおわりかけたころ、飯台の端の方に坐っていた山本が、突然立上って口を切った。
「おいみんな、ちょっとはなしがあるんだが聞いてくれ。」
みんなは箸を休めて、鼻も口も図抜けて大きいこの男のまるい顔を仰ぎみた。何を彼が言いだすか、本能的に彼らは知っているように見えた。
「みんなも聞いて知ってるとおり、ことしは九一がねえってこったが、そんなベラボーな話はねえと俺アおもう。時化で損したからって、そりゃおれたちの知ったことじゃねえからな。」と山本はいいはじめた。「それでじつはみんなに相談があるんだ。湯のなかで屁をこくようにかげでぶつぶつ不平を言ってたっていつまでもラチのあくこっちゃねえ。そんで帳場の野郎なんぞに話してみたって仕方もあんめえから、じかに旦那にぶつかってかけあって見ようじゃねえか。」
源吉は固唾を呑んで山本の顔を仰ぎ見た。虱をつぶしたり、ざれ言をいって高笑いをしたりする時の彼ではなかった。閃めく光りのようなものがその眉宇のあたりを走るのを源吉は見た。肩幅の広い頑丈な彼の上半身が銅像のように大きく見え、ぐっと上からのしかかってくるようにおもわれた。――うれしがって箸で机をたたいたり、茶碗をカチャカチャ鳴らしたりするものがあった。山本はなおもつづけた。
「今年は大漁だもんで、ひとつ一人あたま五十両ぐれえの九一金を吹っかけて見ようじゃねえか。いいか。そこでだ、かんじんなのはそのはなしのきまりがつき、俺たちが現ナマを握るまでは仕事を休むってこった。旦那に承諾だけさせていつも見てえに腮別れの前に金をもらう約束じゃ、その土壇場になって知らねえっていわれたってどうにもなるこってねえからな。……どうだ、みんなやるか。」
わっという喚声があがった。
「やるぞ!」
何人かが立上った。足踏みをし、「えれえぞ、大将」などというものもあった。わずか三十人ほどなのでまとまるのも早かった。やはり山本の発案で、旦那に逢って談じこむ交渉委員が世話役の名で六人えらばれた。山本はもちろんそのなかにはいった。仲間たちの歓声におくられて六人は時をうつさず旦那の家へ出かけて行った。ほかに五六人が浜べへ向ってふっ飛んだ。鰊割きの出面を牽制するためにである。
残った漁夫たちは大はしゃぎだった。長々と手足をのばして寝そべりながら宿舎に籠城した。「前祝いだ、菜ッ葉ばしでなく晩にゃ少しはうめえものもくわせろよ。」と炊事夫に向って言ったりした。いち早くさわぎを聞きつけてかけつけて来た帳場は、うろうろして宿舎と旦那の家の間を行ったり来たりしていたが、やがてどこえか姿を消した。船頭はそのあいだじゅう、どっちへもつかれないといった顔つきでやはりうろうろしているばかりであった。