一
橋本の正太は、叔父を訪ねようとして、両側に樹木の多い郊外の道路へ出た。
叔父の家は広い植木屋の地内で、金目垣一つ隔てて、直にその道路へ接したような位置にある。垣根の側には、細い乾いた溝がある。人通りの少い、真空のように静かな初夏の昼過で、荷車の音もしなかった。垣根に近い窓のところからは、叔母のお雪が顔を出して、格子に取縋りながら屋外の方を眺めていた。
正太は窓の下に立った。丁度その家の前に、五歳ばかりに成る児が余念もなく遊んでいた。
「叔母さん、菊ちゃんのお友達?」
心易い調子で、正太はそこに立ったままお雪に尋ねてみた。子供は、知らない大人に見られることを羞じるという風であったが、馳出そうともしなかった。
短い着物に細帯を巻付けたこの娘の様子は、同じ年頃のお菊のことを思出させた。
お雪が夫と一緒に、三人の娘を引連れ、遠く山の上から都会の方へ移った時は、新しい家の楽みを想像して来たものであった。引越の混雑の後で、三番目のお繁――まだ誕生を済ましたばかりのが亡くなった。丁度それから一年過ぎた。復た二番目のお菊が亡くなった。あのお菊が小さな下駄を穿いて、好きな唱歌を歌って歩くような姿は、最早家の周囲に見られなかった。
姉のお房とは違い、お菊の方は遊友達も少なかった。「菊ちゃん、お遊びなさいな」と言って、よく誘いに来たのはこの近所の娘である。
道路には日があたっていた。新緑の反射は人の頭脳の内部までも入って来た。明るい光と、悲哀とで、お雪はすこし逆上るような眼付をした。
「まあ、正太さん、お上んなすって下さい」
こう叔母に言われて、正太は垣根越しに家の内を覗いて見た。
「叔父さんは?」
「一寸歩いて来るなんて、大屋さんの裏の方へ出て行きました」
「じゃ、私も、お裏の方から廻って参りましょう」
正太はその足で、植木屋の庭の方へ叔父を見つけに行くことにした。
この地内には、叔父が借りて住むと同じ型の平屋がまだ外にも二軒あって、その板屋根が庭の樹木を隔てて、高い草葺の母屋と相対していた。植木屋の人達は新茶を造るに忙しい時であった。縁日向の花を仕立てる畠の尽きたところまで行くと、そこに木戸がある。その木戸の外に、茶畠、野菜畠などが続いている。畠の間の小径のところで正太は叔父の三吉と一緒に成った。
新開地らしい光景は二人の眼前に展けていた。ところどころの樹木の間には、新しい家屋が光って見える。青々とした煙も立ち登りつつある。
三吉は眺め入って、
「どうです、正太さん、一年ばかりの間に、随分この辺は変りましたろう」
と弟か友達にでも話すような調子で言って、茶畠の横手に養鶏所の出来たことなどまで正太に話し聞せた。
何となく正太は元気が無かった。彼の上京は、叔父が長い仕事を持って山を下りたよりも早かった。一頃は本所辺に小さな家を借りて、細君の豊世と一緒に仮の世帯を持ったが、間もなくそこも畳んで了い、細君は郷里へ帰し、それから単独に成って事業の手蔓を探した。彼の気質は普通の平坦な道を歩かせなかった。乏しい旅費を懐にしながら、彼は遠く北海道から樺太まで渡り、空しくコルサコフを引揚げて来て、青森の旅舎で酷く煩ったこともあった。もとより資本あっての商法では無い。磐城炭の売込を計劃したことも有ったし、南清地方へ出掛けようとして、会話の稽古までしてみたことも有った。未だ彼はこれという事業に取付かなかった。唯、焦心った。
そればかりでは無い。叔父という叔父は、いずれも東京へ集って来ている。長いこと家に居なかった実叔父は壮健で帰って来ている。森彦叔父は山林事件の始末をつけて、更に別方面へ動こうとしている。三吉叔父も、漸く山から持って来た仕事を纏めた。早く東京で家を持つように成ろう、この考えは正太の胸の中を往来していた。
動き光る若葉のかげで、三吉、正太の二人はしばらく時を移した。やがて庭の方へ引返して行った。荵を仕立てる場所について、植木室の側を折れ曲ると、そこには盆栽棚が造り並べてある。香の無い、とは言え誘惑するように美しい弁の花が盛んに咲乱れている。植木屋の娘達は、いずれも素足に尻端折で、威勢よく井戸の水を汲んでいるのもあれば、如露で花に灑いでいるのもあった。三吉は自分の子供に逢った。
「房ちゃん」
と正太も見つけて呼んだ。
お房は、耳のあたりへ垂下る厚い髪の毛を煩さそうにして、うっとりとした眼付で二人の方を見た。何処か気分のすぐれないこの子供の様子は、余計にその容貌を娘らしく見せた。
「叔父さん、まだ房ちゃんは全然快くなりませんかネ」
「どうも、君、熱が出たり退いたりして困る。二人ばかり医者にも診て貰いましたがネ。大して悪くもなさそうですが、快くも成らない―なんでも医者の言うには腸から来ている熱なんだそうです。」
こんな話をしながら、二人はお房を連れて、庭づたいに井戸のある方へ廻った。
「でも、房ちゃんは余程姉さんらしく成りましたネ」
と正太は木犀の樹の側を通る時に言った。
この木犀は可成の古い幹で、細長い枝が四方へ延びていた。それを境に、疎な竹の垣を繞らして、三吉の家の庭が形ばかりに区別してある。
「お雪、房ちゃんに薬を服ましたかい」
と三吉は庭から尋ねてみた。正太も縁側のところへ腰掛けた。
「どういうものか、房ちゃんはあんな風なんですよ」とお雪はそこへ来て、娘の方を眺めながら言った。「すこし屋外へ遊びに出たかと思うと、直に帰って来て、ゴロゴロしてます。今も、父さん達のところへ行って見ていらっしゃいッて、私が無理に勧めて遣ったんですよ」
長い労作の後で、三吉も疲れていた。不思議にも彼は休息することが出来なかった。唯疲労に抵抗するような眼付をしながら、甥と一緒に庭へ向いた部屋へ上った。
「正太さん、大屋さんから新茶を貰いました――一つ召上ってみて下さい」
こう言ってお雪が持運んで来た。三吉は、その若葉の香を嗅ぐようなやつを、甥にも勧め、自分でも啜って、仕事の上の話を始めた。彼の話はある露西亜人のことに移って行った。その人のことを書いた本の中に、細君が酸乳というものを製えて、著作で労れた夫に飲ませたというところが有った。それを言出した。
「ああいう強壮な体格を具えた異人ですらもそうかナア、と思いましたよ。なにしろ、僕なぞは随分無理な道を通って来ましたからネ。仕事が済んで、いよいよそこへ筆を投出した時は――その心地は、君、何とも言えませんでした。部屋中ゴロゴロ転がって歩きたいような気がしました」
正太は笑わずにいられなかった。
三吉は言葉を継いで、「自分の行けるところまで行ってみよう――それより外に僕は何事も考えていなかったんですネ。一方へ向いては艱難とも戦わねばならずサ。それに子供は多いと来てましょう。ホラ、あのお繁の亡くなった時には、山から書籍を詰めて持って来た茶箱を削り直して貰って、それを子供の棺にして、大屋さんと二人で寺まで持って行きました。そういう勢でしたサ。お繁が死んでくれて、反って難有かったなんて、串談半分にも僕はそんなことをお雪に話しましたよ……ところが君、今度は家のやつが鳥目などに成るサ……」
「そうそう」と正太も思出したように、「あの時はエラかった。私も新宿まで鶏肉を買いに行ったことが有りました」
「そんな思をして骨を折って、漸くまあ何か一つ為た、と思ったらどうでしょう。復たお菊が亡くなった。僕は君、悲しいなんていうところを通越して、呆気に取られて了いました――まるで暴風にでも、自分の子供を浚って持って行かれたような――」
思わず三吉はこんなことを言出した。この郊外へ引移ってから、彼の家では初めての男の児が生れていた。種夫と言った。その乳呑児を年若な下婢に渡して置いて、やがてお雪も二人の話を聞きに来た。
「どんなにか叔母さんも御力落しでしょう」と正太はお雪の方へ向いて、慰め顔に、「郷里の母からも、その事を手紙に書いて寄しました」
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実にツマリません」とお雪が答える。
「此頃は君、大変な婦人が僕の家へ舞込んで来ました」と三吉が言ってみた。「――切下げ髪にして、黒い袴を穿いてネ。突然入って来たかと思うと、説教を始めました。恐しい権幕でお雪を責めて行きましたッけ」
「大屋さんの御親類」とお雪も引取って、「その人が言うには、なんでも私の信心が足りないんですッて――ですから私の家には、こんなに不幸ばかり続くんですッて――この辺は、貴方、それは信心深い処なんですよ」こう正太に話し聞かせた。
不安な眼付をしながら、三吉は家の中を眺め廻した。中の部屋の柱のところには、お房がリボンの箱などを取出して、遊びに紛れていた。三吉は思付いたように、お房の方へ立って行った。一寸、子供の額へ手を宛ててみて、復た正太の前に戻った。
その時、表の格子戸の外へ来て、何かゴトゴト言わせているものが有った。
「菊ちゃんのお友達が来た」
と言って、お雪は玄関の方へ行ってみた。しばらく彼女は上り端の障子のところから離れなかった。
「オイ、菓子でもくれて遣りナ」
と夫に言われて、お雪は中の部屋にある仏壇の扉を開けた。そして、新しい位牌に供えてあった物を取出した。近所の子供が礼を言って、馳出して行った後でも、まだお雪は耳を澄まして、小さな下駄の音に聞入った。
女学生風の袴を着けた娘がそこへ帰って来た。お延と言って、郷里から修行に出て来た森彦の総領――三吉が二番目の兄の娘である。この娘は叔父の家から電車で学校へ通っていた。
「兄さん、被入しゃい」
とお延は正太に挨拶した。従兄妹同志の間ではあるが日頃正太のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいた。
毎日のようにお雪は子供の墓の方へ出掛けるので――尤も、寺も近かったから――その日もお延を連れて行くことにした。後に残った三吉と正太とは、互に足を投出したり、寝転んだりして話した。
その時まで、正太は父の達雄のことに就いて、何事も話さなかった。遽かに、彼は坐り直した。
「まだ叔父さんにも御話しませんでしたが、漸く吾家の阿父の行衛も分りました」
こんなことを言出した。久しく居所さえも不明であった達雄のことを聞いて、三吉も身を起した。
「先日、Uさんが神戸の方から出て来まして、私に逢いたいということですから――」と言って、正太は声を低くして、「その時Uさんの話にも、阿父も彼方で教員してるそうです。まあ食うだけのことには困らん……それにしても、あんなに家を滅茶滅茶にして出て行った位ですから、もうすこし阿父も何か為るかと思いましたよ」
「あの若い芸者はどうしましたろう――達雄さんが身受をして連れて行ったという少婦が有るじゃありませんか」
「あんなものは、最早疾にどうか成って了いましたあね」
「そうかナア」
「で、叔父さん、Uさんが言うには、考えて見れば橋本さんも御気の毒ですし、ああして唯孤独で置いてもどうかと思うからして、せめて家族の人と手紙の遣取位はさせて進げたいものですッて」
「では、何かネ、君は父親さんと通信を始める積りかネ」と三吉が尋ねた。
「否」正太の眼は輝いた。「勿論――私が書くべき場合でもなし、阿父にしたところが書けもしなかろうと思います。そりゃあもう、阿父が店のものに対しては、面向の出来ないようなことをして行きましたからネ。唯、母が可哀そうです……それを思うと、母だけには内証でも通信させて遣りたい。Uさんが間に立ってくれるとも言いますから」
こういう甥の話は、三吉の心を木曾川の音のする方へ連れて行った。旧い橋本の家は、曾遊の時のままで、未だ彼の眼にあった。
「変れば変るものさネ。君の家の姉さんのことも、豊世さんのことも、君のことも――何事も達雄さんは知るまいが。ホラ、僕が君の家へ遊びに行った時分は、達雄さんも非常に勤勉な人で、君のことなぞを酷く心配していたものですがナア。あの広い表座敷で、君と僕と、よく種々な話をしましたッけ。あの時分、君が言ったことを、僕はまだ覚えていますよ」
「あの時分は、全然私は夢中でした」と正太は打消すように笑って、「しかし、叔父さん、私の家を御覧なさい――不思議なことには、代々若い時に家を飛出していますよ。第一、祖父さんがそうですし――阿父がそうです――」
「へえ、君の父親さんの若い時も、やはり許諾を得ないで修業に飛出した方かねえ」
「私だってもそうでしょう――放縦な血が流れているんですネ」
と正太は言ってみたが、祖父の変死、父の行衛などに想い到った時は、妙に笑えなかった。
やがて庭にある木犀の若葉が輝き初めた。お雪は姪と連立って、急いで帰って来た。彼女の袂の中には、娘の好きそうなものが入れてあった。買物のついでに、ある雑貨店から求めて来た毛糸だ。それをお房にくれた。
「今し方まで菊ちゃんのお墓に居たものですから、こんなに遅くなりました――延ちゃんと二人でさんざん泣いて来ました」
こうお雪は夫に言って、いそいそと台所の方へ行って働いた。
正太がこの郊外へ訪ねて来る度に、いつも叔父は仕事々々でいそがしがっていて、その日のようにユックリ相手に成ったことはめずらしかった。夕飯の仕度が出来るまで、二人は表の方の小さな部屋へ行ってみた。畠から鍬を舁いで来た農夫、町から戻って来た植木屋の職人――そういう人達は、いずれも一日の労働を終って窓の外を通過ぎる。
三吉は窓のところに立って、ションボリと往来の方を眺めながら、
「どうかすると、こういう夕方には寂しくて堪えられないようなことが有るネ――それが、君、何の理由も無しに」
「私の今日の境涯では猶更そうです――しかし、叔父さん、そういう感じのする時が、一番心は軟かですネ」
こう正太が答えた。次第に暮れかかって来た。その部屋の隅には、薄暗い壁の上に、別に小窓が切ってあって、そこから空気を導くようになっている。青白い、疲れた光線は、人知れずその小障子のところへ映っていた。正太はそれを夢のように眺めた。
夕飯はお雪の手づくりのもので、客と主人とだけ先に済ました。未だ正太は言いたいことがあって、それを言い得ないでいるという風であったが、到頭三吉に向ってこう切出した。
「実は――今日は叔父さんに御願いが有って参りました」
他事でも無かった。すこし金を用立ててくれろというので有った。これまでもよく叔父のところへ、五円貸せ、十円貸せ、と言って来て、樺太行の旅費まで心配させたものであった。
「そんなに君は困るんですか」と三吉は正太の顔を見た。「郷里の方からでも、すこし兵糧を取寄せたら可いじゃ有りませんか」
「そこです」と正太は切ないという容子をして、「なるべく郷里へは言って遣りたくない……ああして、店は店で、若い者が堅めていてくれるんですからネ」
萎れた正太を見ると、何とかして三吉の方ではこの甥の銷沈した意気を引立たせたく思った。彼はいくらかを正太の前に置いた。それがどういう遣い道の金であるとも、深く鑿って聞かなかった。
やがて正太は自分の下宿を指して帰って行った。後で、お雪は台所の方を済まして出て来て、夫と一緒に釣洋燈の前に立った。
「正太さんは、未だ、何事も為すっていらッしゃらないんでしょうか」
「どうも思わしい仕事が無さそうだ。石炭をやってみたいとか、何とか、来る度に話が変ってる。何卒して早く手足を延ばすようにして遣りたいものだネ――あの人も、橋本の若旦那として置けば、立派なものだが――」
こういう言葉を交換して置いて、夫婦は同じようにお房の様子を見に行った。
お房の発熱は幾日となく続いた。庭に向いた部屋へ子供の寝床を敷いて、その枕頭へお雪は薬の罎を運んだ。鞠だの、キシャゴだの、毛糸の巾着だの、それから娘の好きな人形なぞも、運んで行った。お房は静止していなかった。臥たり起きたりした。
ある日、三吉は町から買物して、子供の方へ戻って来た。父の帰りと聞いて、お房は寝衣のまま、床の上に起直った。そして、家の周囲に元気よく遊んでいる近所の娘達を羨むような様子して、子供らしい眼付で父の方を見た。
「房ちゃん、御土産が有るぜ」
と三吉は美しい色のリボンをそこへ取出した。彼は、食のすすまない子供の為にと思って、ミルク・フッドなども買求めて来た。
「へえ、こんな好いのをお父さんに買って頂いたの」
とお雪もそこへ来て言って、そのリボンを子供に結んでみせた。
「房ちゃんは何か食べたかネ」と三吉は妻に尋ねた。
「お昼飯に、お粥をホンのぽっちり――牛乳は厭だって飲みませんし――真実に、何物も食べたがらないのが一番心配です」
「ねえ、房ちゃん、御医者様の言うことを聞いて、早く快く成ろうねえ。そうすると、父さんが房ちゃんに好く似合うような袴を買ってくれるよ」
こう父に言われて、お房は唯黙頭いた。やがて復た横に成った。
「ああ、父さんも疲れた」と三吉は子供の側へ身体を投出すようにした。「菊ちゃんが居なくなって、急に家の内が寂しく成ったネ。ホラ、父さんが仕事をしてる時、机の前に二人並べて置いて、『父さんが好きか、母さんが好きか』と聞くと、房ちゃんは直に『父さん』と言うし――菊ちゃんの方は暫時考えていて、『父さんと母さんと両方』だトサ――あれで、菊ちゃんも、ナカナカ外交家だったネ」
「何方が外交家だか知れやしない」とお雪は軽く笑った。
病児を慰めようとして、三吉は種々なことを持出した。山に居る頃はお房もよく歌った兎の歌のことや、それからあの山の上の家で、居睡してはよく叱られた下婢が蛙の話をしたことなぞを言出した。七年の長い田舎生活の間、あの石垣の多い傾斜の方で、毎年のように旅の思をさせた蛙の声は、まだ三吉の耳にあった。それを子供に真似て聞かせた。
「ヒョイヒョイヒョイヒョイヒョイ……グッグッ……グッグッ……」
「いやあな父さん」
とお房は寝ながら父の方を見て言った。自然と出て来た微笑は僅かにその口唇に上った。
「房ちゃん、母さんが好い物を造えて来ましたよ――すこし飲んでみておくれな」
とお雪は夫が買って来たミルク・フッドを茶碗に溶かして、匙を添えて持って来た。子供は香ばしそうな飲料を一寸味ったばかりで、余は口を着けようともしなかった。その晩から、お房は一層激しい発熱の状態に陥った。何となくこの児の身体には異状が起って来た。
「真実に、串談じゃ無いぜ」
と三吉は物に襲われるような眼付をして、いかにしてもお房ばかりは救いたいということを妻に話した。不思議な恐怖は三吉の身体を通過ぎた。お雪も碌に眠られなかった。
翌々日、お房は病院の方へ送られることに成った。病み震えている娘を抱起すようにして、母は汚れた寝衣を脱がせた。そして、山を下りる時に着せて連れて来たヨソイキの着物の筒袖へ、お房の手を通させた。
「まあ、こんなに熱いんですよ」
とお雪が言うので、三吉はコワゴワ子供に触ってみた。お房の身体は火のように熱かった。
「病院へ行って御医者様に診て頂くんだよ――シッカリしておいでよ」と三吉は娘を励ました。
「母さん……前髪をとって頂戴な」
熱があっても、お房はこんなことを願って、リボンで髪を束ねて貰った。
頼んで置いた車が来た。先ずお雪が乗った。娘は、父に抱かれながら門の外へ出て、母の手に渡された。下婢は乳呑児の種夫を連れて、これも車でその後に随った。
「延、叔父さんもこれから行って見て来るからネ、お前に留守居を頼むよ」
こう三吉は姪に言い置いて、電車で病院の方へ廻ることにした。慌しそうに彼は家を出て行った。
留守には、親類の人達、近く郊外に住む友人などが、かわるがわる見舞に来た。「延ちゃん、お淋しいでしょうねえ」と庭伝いに来て言って、娘を慰める小学校の女教師もあった。子供の病が重いと聞いて、お雪は言うに及ばず、三吉まで病院を離れないように成ってからは、二番目の兄の森彦が泊りに来た。森彦は夕方に来て、朝自分の旅舎へ帰った。
相変らず家の内はシンカンとしていた。道路を隔てて、向側の農家の方で鳴く鶏の声は、午後の空気に響き渡った。強い、充実した、肥った体躯に羽織袴を着け、紳士風の帽子を冠った人が、門の前に立った。この人が森彦だ――お延の父だ。その日は、お房が入院してから一週間余に成るので、森彦も病院へ見舞に寄って、例刻よりは早く自分の娘の方へ来た。
「阿父さん」
とお延は出て迎えた。
郷里を出て長いこと旅舎生活をする森彦の身には、こうして娘と一緒に成るのがめずらしくも有った。傍へ呼んで、病院の方の噂などをする娘の話振を聞いてみた。田舎から来てまだ間も無いお延が、都会の娘のように話せないのも無理はない、などと思った。
「どうだね、お前の頭脳の具合は――此頃もここの叔父さんが、どうも延は具合が悪いようだから、暫時学校を休ませてみるなんて言った――そんな勇気の無いこっちゃ、ダチカン」
思わず森彦は郷里の方の言葉を出した。そして、旧家の家長らしい威厳を帯びた調子で、博愛、忍耐、節倹などの人としての美徳であることを語り聞かせた。久しく森彦の傍に居なかったお延は、何となく父を憚るという風で、唯黙って聞いていた。
「や、菓子をくれるのを忘れた」
と森彦は思付いたように笑って、袂の内から紙の包を取出した。やがて、家の内を眺め廻しながら、
「どうもここの家は空気の流通が好くない。此頃から俺はそう思っていた。それに、ここの叔父さんのようにああ煙草をポカポカ燻したんじゃ……俺なぞは、毎晩休む時に、旅舎の二階を一度明けて、すっかり悪い空気を追出してから寝る。すこしでも煙草の煙が籠っていようものなら、もう俺は寝られんよ」
こうお延に話した。彼は娘から小刀を借りて、部屋々々の障子の上の部分をすこしずつ切り透した。
「延――それじゃ俺はこれで帰るがねえ」
「あれ、阿父さんは最早御帰りに成るかなし」
「今日は叔父さんも一寸帰って来るそうだし――そうすれば俺は居なくても済む。丁度好い都合だった。これからもう一軒寄って行くところが有る。復た泊りに来ます」
家の方を案じて、三吉は夕方に病院から戻った。留守中、訪ねて来てくれた人達のことを姪から聞取った。
「只今」
と三吉は縁側のところへ出て呼んだ。
「オヤ、小泉さん、お帰りで御座いましたか」
庭を隔てて対い合っている裏の家からは、女教師の答える声が聞えた。
女教師は自分の家の格子戸をガタガタ言わせて出た。井戸の側から、竹の垣を廻って、庭伝いに三吉の居る方へやって来た。中学へ通う位の子息のある年配で、ハッキリハッキリと丁寧に物なぞも言う人である。
「房子さんは奈何でいらっしゃいますか。先日一寸御見舞に伺いました時も、大層御悪いような御様子でしたが――真実に、私は御気の毒で、房子さんの苦しむところを見ていられませんでしたよ」
こう女教師は庭に立って、何処か国訛のある調子で言った。その時三吉は、簡単にお房の病気の経過を話して、到底助かる見込は無いらしいと歎息した。お延も縁側に出て、二人の話に耳を傾けた。
「もし万一のことでも有りそうでしたら、病院から電報を打つ……医者がそう言ってくれるものですから、私もよく頼んで置いて、一寸用達にやって参りました」と三吉は附添した。
「まあ、貴方のところでは、どうしてこんなに御子さん達が……必と御越に成る方角でも悪かったんでしょうッて、大屋さんの祖母さんがそう申しますんですよ。そんなことも御座いますまいけれど……でも、僅か一年ばかりの間に、皆さんが皆さん――どう考えましても私なぞには解りません」と言って、女教師は思いやるように、「あのまあ房子さんが、病院中へ響けるような声を御出しなすって、『母さん――母さん――』と呼んでいらッしゃいましたが、母さんの身に成ったらどんなで御座いましょう……そう申して、御噂をしておりますんですよ」
「一週間、ああして呼び続けに呼んでいました―最早あの声も弱って来ました」と三吉は答えた。
女教師が帰って行く頃は、植木屋の草屋根と暗い松の葉との間を通して、遠く黄に輝く空が映った。三吉は庭に出た。子供のことを案じながら、あちこちと歩いてみた。
夕飯の後、三吉は姪に向って、
「延、叔父さんはこの一週間ばかり碌に眠らないんだからネ……今夜は叔父さんを休ませておくれ。お前も、頭脳の具合が悪いようなら、早く御休み」
こう言って置いて、その晩は早く寝床に就いた。
何時電報が掛って来るか知れないという心配は、容易に三吉を眠らせなかった。身体に附いて離れないような病院特別な匂いが、プーンと彼の鼻の先へ香って来た。その匂いは、何時の間にか、彼の心をお房の方へ連れて行った。電燈がある。寝台がある。子供の枕頭へは黒い布を掛けて、光の刺激を避けるようにしてある。その側には、妻が居る。附添の女が居る。種夫や下婢も居る。白い制服を着た看護婦は病室を出たり入ったりしている。未だお房は、子供ながらに出せるだけの精力を出して、小さな頭脳の内部が破壊れ尽すまでは休めないかのように叫んでいる――思い疲れているうちに、三吉は深いところへ陥入るように眠った。
翌日は、午前に三吉が留守居をして、午後からお延が留守居をした。
「叔母さん達のように、ああして子供の側に附いていられると可いけれど――叔父さんは、お前、お金の心配もしなけりゃ成らん」
こんなことを言って出て行った三吉は、やがて用達から戻って来て、復た部屋に倒れた。何時の間にか、彼は死んだ人のように成った。
「母さん――」
こういう呼声に気が付いて、三吉が我に返った頃は、遅かった。彼は夕飯後、しばらく姪と病院の方の噂をして、その晩も早く寝床に入ったが、自分で何時間ほど眠ったかということは知らなかった。次の部屋には、姪がよく寝入っている。身体を動かさずにいると、可恐しい子供の呼声が耳の底の方で聞える。「母さん、母さん、母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」宛然、気が狂ったような声だ……それは三吉の耳について了って、何処に居ても頭脳へ響けるように聞えた。
夢のように、門を叩く音がした。
「小泉さん、電報!」
むっくと三吉は跳起きた。表の戸を開けて、受取って見ると、病院から打って寄したもので、「ミヤクハゲシ、スグコイ」とある。お延を起す為に、三吉は姪の寝ている方へ行った。この娘は一度「ハイ」と返事をして、復た寝て了った。
「オイ、オイ、病院から電報が来たよ」
「あれ、真実かなし」とお延は田舎訛で言って、床の上に起直った。「私は夢でも見たかと思った」
「叔父さんは直に仕度をして出掛る。気の毒だが、お前、車屋まで行って来ておくれ」
と叔父に言われて、お延は眼を擦り擦り出て行った。
三吉が家の外に出て、車を待つ頃は、まだ電車は有るらしかった。稲荷祭の晩で、新宿の方の空は明るい。遠く犬の吠える声も聞える。そのうちに車が来た。三吉は新宿まで乗って、それから電車で行くことにした。
「延、お前は独りで大丈夫かネ」
と三吉は留守を頼んで置いて出掛けた。お延は戸を閉めて入った。冷い寝床へ潜り込んでからも、種々なことを小さな胸に想像してみた時は、この娘もぶるぶる震えた。叔父が新宿あたりへ行き着いたかと思われる頃には、ポツポツ板屋根の上へ雨の来る音がした。
復た家の内は寂寞に返った。
車が門の前で停った。正太はそれから飛降りて、閉めてあった扉を押した。「延ちゃん、皆な帰って来ましたよ」正太が入口の格子戸を開けて呼んだ。それを聞きつけて、お延は周章てて出た。丁度森彦も来合せていて、そこへ顔を顕わした。
「到頭房もいけなかったかい」
「ええ、今朝……払暁に息を引取ったそうです……皆な、今、そこへ来ます」
森彦と正太とは、こう言合って、互に顔を見合せた。
間もなく三台の車が停った。お雪は乳呑児を抱いて二週間目で自分の家へ帰って来た。下婢も荷物と一緒に車を降りた。つづいて、三吉が一番年長の兄の娘、お俊も、降りた。
三吉の車は一番後に成った。日の映った往来には、お房の遊友達が立留って、ささやき合ったり、眺めたりしていた。黒い幌を掛けて静かに引いて来た車は、その娘達の見ている前で停った。
「叔父さん、手伝いましょうか」
と正太が車の側へ寄った。
お房は茶色の肩掛に包まれたまま、父の手に抱かれて来た。グタリとした子供の死体を、三吉は車から抱下して、門の内へ運んだ。
仏壇のある中の部屋の隅には、人々が集って、お房の為に床を用意した。そこへ冷くなった子供を寝かした。顔は白い布で掩うた。
「ホウ、こうして見ると、思いの外大きなものだ……どうだネ、膝は曲げて遣らなくても好かろうか」と森彦が注意した。
「子供のことですから、このままで棺に納まりましょう」と正太を眺めた。
「でも、すこし曲げて置いた方が好いかも知れません」
こう三吉は言ってみて、娘の膝を立てるようにさせた。氷のようなお房の足は最早自由に成らなかった。それを無理に折曲げた。お俊やお延は、水だの花だのを枕頭へ運んだ。丁度、お雪が二番目の妹のお愛も、学校の寄宿舎から訪ねて来た。この娘は姉の傍へ寄って、一緒に成って泣いた。
午後には、裏の女教師が勝手口から上って、子供の死顔を見に来た。
「真実に、何とも申上げようが御座いません……小泉さんは、まだそれでも男だから宜う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」と女教師は言った。
お房が病んだ熱は、腸から来たもので無くて、実際は脳膜炎の為であった。それをお雪は女教師に話し聞かせた。白痴児として生き残るよりは、あるいはこの方が勝かも知れない、と人々は言合った。
黄色く日中に燃る蝋燭の火を眺めながら、三吉は窓に近い壁のところに倚凭っていた。
「叔父さん、お疲れでしょう」と正太は三吉の前に立った。
「なにしろ、君、初の一週間は助けたい助けたいで夜も碌に眠らないでしょう。後の一週間は、子供の側に居るのもこれぎりか、なんと思って復た起きてる……終には、半分眠りながら看護をしていましたよ。すこし身体を横にしようものなら、直にもう死んだように成って了って……」
「私なぞも、どうかすると豊世に子供でも有ったら、とそう思うことも有りますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ていますと、無い方が好いかとも思いますネ」
「正太さん、煙草を持ちませんか。有るなら一本くれ給えな」
正太は袂を探った。三吉は甥がくれた巻煙草に火を点けて、それをウマそうに燻してみた。葬式の準備やら、弔辞を言いに来る人が有るやらで、家の内は混雑した。三吉は器械のように起ったり坐ったりした。
葬式の日は、親類一同、小さな棺の周囲に集った。三吉が往時書生をしていた家の直樹も来た。この子息は疾に中学を卒業して、最早少壮な会社員であった。
お俊も来た。
「叔父さん、今日は吾家の阿父さんも伺う筈なんですが……伺いませんからッて、私が名代に参りました」とお俊は三吉に向って、父の実が謹慎中の身の上であることを、それとなく言った。
その日は、お愛も長い紫の袴を着けて来た。こうして東京に居る近い親類を見渡したところ、実を除いての年長者は、さしあたり森彦だ。森彦は、若い人達の発達に驚くという風で、今では学校の高等科に居るお俊や、優美な服装をしたお愛などに、自分の娘を見比べた。
正太は花を買い集めて来た。眠るようなお房の顔の周囲はその花で飾られた。「お雪、房ちゃんの玩具は一緒に入れて遣ろうじゃないか」と三吉が言えば、「そうです、有ると反って思出して不可」と正太も言って、毬だの巾着だのを棺の隅々へ入れた。
「余程毛糸が気に入ったものと見えて、眼が見えなく成っても、未だ毛糸のことを言っていました」とお雪は、病院に居る間、子供に買ってくれた物を取出した。
「それも入れて遣れ」
一切が葬られた。やがてお房は二人の妹の墓の方へ送られた。お雪は門の外へ出て、小さな棺の分らなくなるまでも見送った。「最早お房は居ない」こう思って、若葉の延びた金目垣の側に立った時は、母らしい涙が流れて来た。お雪は家の内へ入って、泣いた。
山から持って来た三吉の仕事は意外な反響を世間に伝えた。彼の家では、急に客が殖えた。訪ねて来る友達も多かった。しかし、主人は居るか居ないか分らないほどヒッソリとして、どうかすると表の門まで閉めたままにして置くことも有った。
三吉は最早、子供なぞはどうでも可いと言うことの出来ない人であった。多くの困難を排しても進もうとした努力が、どうしてこんな悲哀の種に成るだろう、と彼の眼が言うように見えた。「彼処に子供が三人居るんだ」――この思想に導かれて、幾度か彼の足は小さな墓の方へ向いた。家から墓地へ通う平坦な道路の両側には、すでに新緑も深かった。到る処の郊外の日あたりに、彼は自分の心によく似た憂鬱な色を見つけた。しかし彼は、寺の周囲を彷徨って来るだけで、三つ並んだ小さな墓を見るに堪えなかった。それを無理にも行こうとすれば、頭脳がカッと逆上せて、急に倒れかかりそうな激しい眩暈を感じた。いつでも寺の前まで行きかけては、途中から引返した。
「父さんは薄情だ。子供の墓へ御参りもしないで……」
とお雪はよくそれを言った。
寄ると触ると、家では子供の話が出た。何時の間にか三吉の心も、家のものの話の方へ行った。
お雪は姪をつかまえて、夫の傍で種夫に乳を呑ませながら、
「繁ちゃんの亡くなった時は、まだ房ちゃんは何事も知りませんでしたよ。でも、菊ちゃんの時には最早よく解っていましたッけ――あの時は皆な一緒に泣きましたもの」
「なアし」とお延も思出したように、「あれを思うと、房ちゃんが眼に見えるようだ」
「真実に、繁ちゃんの時は皆な夢中でしたよ――私が、『御覧なさいな、繁ちゃんはノノサンに成ったんじゃ有りませんか』と言えば、房ちゃんと菊ちゃんとも平気な顔して、『死んじゃったのよ、死んじゃったのよ』と言いながら、棺の周囲を踊って歩きましたよ。そして、死んだ子供の側へ行って、噴飯すんですもの」
「まあ」
「しかし、二人とも達者でいる時分には、よく繁ちゃんの御墓へ連れて行って、桑の実を摘って遣りましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと――繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あの御墓の後方にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘って下さいッて言っちゃあ……」
「オイ、何か他の話にしようじゃないか」
と三吉が遮った。子供の話が出ると、必と終には三吉がこう言出した。
「種ちゃん」お延はアヤすように呼んだ。
「この子は又、どうしてこんなに弱いんでしょう」とお雪は種夫の顔を熟視りながら言った。
蹂躙られるような目付をして、三吉も種夫の方を見た。その時、夫婦は顔を見合せた。「ひょッとかすると、この児も?」この無言の恐怖が互の胸に伝わった。三人の娘達を見た目で弱い種夫を眺めると、十分な発育さえも気遣われた。
急に日が強く映って来た。すこし湿った庭土は、熱い、黄ばんだ色を帯びた。木犀の葉影もハッキリと地にあった。三吉は帽子を手にして、そこいらを散歩して来ると言って、出て行った。
「そう言えば、繁ちゃんの肉体は最早腐って了ったんでしょうねえ」
とお雪は姪に言って、歎息した。彼女は乳呑児を抱きながら縁側のところへ出て眺めた。日光は輝いたり、薄れたりするような日であった。お延は庭へ下りた。菫の唱歌を歌い出した。それはお房やお菊が未だピンピンしている時分に、二人して家の周囲をよく歌って歩いたものである。お雪は、死んだ娘の声を探すような眼付して、一緒に低い声で歌って見た。勝手口の方でも調子を合せる声が起った。
夕方に三吉はボンヤリ帰って来た。
「何だか俺は気でも狂いそうに成って来た。一寸磯辺まで行って来る」
こう家のものに話した。その晩、急に彼は旅行を思い立った。そして、そこそこに仕度を始めた。山にある友人の牧野からは休みに来い来いと言って寄すが、その時は唯一人で、世間を忘れるようなところへ行きたかった。翌朝早く、彼は磯辺の温泉宿を指して発って行った。
「あれ、叔父さんは最早帰って御出たそうな」
とお延は入口の庭に立って言った。
お雪が生家の方で老祖母の死去したという報知は、旅にある三吉を驚かした。二三日しか彼は磯辺に逗留しなかった。電報を受取ると直ぐ急いで家の方へ引返して来た。
「種ちゃん、父さんの御帰りだよ」とお雪も乳呑児を抱きながら、夫を迎えた。
「よく、こんなに早く帰られましたネ、皆な貴方のことを心配しましたよ」
「道理で、森彦さんからも見舞の電報を寄した。どうも変だと思った――俺は又、お前の方を案じていた」
ホッと溜息を吐いて三吉は老祖母の話に移った。
この老祖母の死は、今更のように名倉の大きな家族のことを思わせた。別に竈を持った孫娘だけでも二人ある。まだ修業中の孫から、多勢の曾孫を加えたら、余程の人数に成る。お雪ばかりは、その中でも、遠く嫁いて来た方であるが、この葬式は是非とも見送りたかった。三吉は又、種夫に下婢を附けて一緒に遣るつもりで帰って来た。
「さあ、今度はお前が出掛ける番だ」と三吉が言った。「でも、俺の仕事が済んだ後で好かった……買う物があったら買ったら可かろう。何か土産も用意して行かんけりゃ成るまい」
「土産なんか要りません。一々持って行った日にゃ大変です」
お雪は妹だの、姪だのを数えてみた。
久し振で生家へ帰る妻の為にと思って、三吉は名倉の娘達の許へ何か荷物に成らない物を見立てようとした。旅費を用意したり、買物したりして、夫が町から戻って来る頃は、妻は旅仕度に忙しかった。
あわただしい中にも、種々なことがお雪の胸の中を往来した。長い年月の間、夫と艱難を共にした後で、彼女は自分の生家を見に行く人である。今まで殆んど出なかった家を出、遠く夫を離れて、両親や姉妹やそれから友達などと一緒に成りに行く人である。光る帆、動揺する波、鴎の鳴声……可懐しいものは故郷の海ばかりでは無かった。曾て、彼女が心を許した勉――その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
「叔母さん、御郷里へ御帰り?……御取込のところですネ」
こう言って、翌朝正太が訪ねて来た頃は、手荷物だの、子供の着物だのが、部屋中ごちゃごちゃ散乱してあった。
「正太さん、御免なさいまし」とお雪は帯を締めながら挨拶した。
「どれ、子供をここへ連れて来て見ナ」
と三吉に言われて、下婢はそこに寝かしてあった種夫を抱いて来た。
「余程気をつけて連れて行かないと、不可ぜ」
「よくああして温順しく寝ていたものだ」と正太も言った。
「まだ、君、毎日浣腸してますよ。そうしなけりゃ通じが無い……玩具でも宛行って置こうものなら、半日でも黙って寝ています。房ちゃん達から見ると、ずっとこの児は弱い」
「これで御郷里の方へでも連れていらしッたら、また壮健に成るかも知れません」
「まあ、一夏も向に居て来るんです」
「真実に叔母さんも御苦労様――女の旅は容易じゃ有りませんネ」
お雪は二人の話を聞きながら、白足袋を穿いた。「私が留守に成ったら、父さんも困るでしょうから、お俊ちゃんにでも来ていて頂くつもりです」と彼女は言った。そのうちに仕度が出来た。お雪は夫や正太と一緒に旅立の茶を飲んだ。
「種ちゃんにも、一ぱい飲まして」
とお雪は懐をひろげて、暗い色の乳首を子供の口へ宛行った。お延は車宿を指して走って行った。
甥に留守を頼んで置いて、一寸三吉は新宿の停車場まで妻子を送りに行った。帰って見ると、正太は用事ありげに叔父を待受けていた。
「正太さん、君はまだ朝飯前じゃなかったんですか。僕は言うのを忘れた」
「いえ、早く済まして来ました」
「めずらしいネ」
「私のような寝坊ですけれど、めずらしく早く起きました。下宿の膳に対って、つくづく今朝は考えました……なにしろ一年の余にも成るのに、未だこうしてブラブラしているんですからネ……」
正太は激昂するように笑った。暗い前途にいくらかの明りを見つけたと言出した。その時彼は叔父の思惑を憚るという風であったが、やや躊躇した後で、自分の行くべき道は兜町の方角より外に無い――尤も、これは再三再四熟考した上のことで、いよいよ相場師として立とうと決心した、と言出した。
何か冒険談でも聞くように、しばらく三吉は正太の話に耳を傾けていたが、やがて甥の顔を眺めて、
「しかし君、――実さんにせよ、森彦さんにせよ、皆な儲けようという人達でしょう。そういう人達が揃っていても、容易に儲からない世の中じゃ有りませんか。兜町へ入ったからッて、必ず儲かるとは限りませんぜ」
「実叔父さん達と、私とは、時代が違います」と正太は力を入れた。
「まあ僕のような門外漢から見ると、商売なり何なりに重きを置いてサ、それから儲けて出るというのが、実際の順序かと思うネ。名倉の阿爺を見給え。あの人は事業をした。そして、儲けた。どうも君等のは儲けることばかり先に考えて掛ってるようだ……だから相場なんて方に思想が向いて行くんじゃ有りませんか」
「そこです。私は相場を事業として行ります。一寸手を出してみて、直ぐまた止めて了うなんて、そんな行き方をする位なら、初から私は関係しません……先ず店員にでも成って、それから出発するんです……私は兜町に骨を埋める覚悟です……」
「それほどの決心があるなら、君の思うように行って見るサ。僕は君、何でも行りたか行れという流儀だ」
「そう叔父さんに言って頂くと、私も難有い――森彦叔父さんなぞは何と言うか知らないが……」
森彦の方へ行けば森彦のように考え、三吉の許へ来れば三吉のように考えるのが、正太の癖であった。丁度、この植木屋の地内に住む女教師の夫というは、兜町方面に明るい人である。で、正太は話を進めて叔父からその人に口を利いて貰うように、こう頼んだ。
何となく不安な空気を残して置いて、甥は帰って行った。「正太さんも本気で行る積りかナア」と三吉は言ってみて、とにかく甥のために、頼めるだけのことは頼もうと思った。その日の午後、三吉は庭伝いに女教師の家の横を廻って、沢山盆栽鉢の置並べてあるところへ出た。植木屋の庭の一部は、やがて女教師の家の庭であった。子息の中学生は三脚椅子に腰掛けて、何かしきりと写生していた。
女教師の旦那というは、官吏生活もしたことの有るらしい人で、今では兜町に隠れて、手堅くある店を勤めていた。三吉は一ぱい物の散乱してある縁側のところへ行って、この阿爺さんとも言いたい年配の人の前に立った。
「アアそうですか。宜しい。承知しました」と女教師の旦那は、心易い調子で、三吉から種々聞取った後で言った。「橋本さんなら、私も御見掛申して知っています。御年齢は何歳位かナ」
「私より三つ年少です」
「むむ、未だ御若い。これから働き盛りというところだ。御気質はどんな方ですか――そこも伺って置きたい」
「そうですナア。ああして今では浪人していますが、一体華美なことの好きな方です」
「それでなくッちゃ不可――相場師にでも成ろうという者は、人間が派手でなくちゃ駄目です。では、私の許まで簡単な履歴書をよこして下さい。宜しい。一つ心当りを問合せてみましょう」
女教師の旦那は引受けてくれた。
甥のことを頼んで置いて、自分の家へ引返してから、三吉は不取敢正太へ宛てて書いた。その時は姪のお延と二人ぎりであった。
「叔母さん達も、最早余程行ったわなアし」とお延は、叔父の傍へ来て、旅の人達の噂をした。
「こんな機会でもなければ、叔母さんだって置いて行かれるもんじゃない――今度出掛けたのは、叔母さんの為にも好い」
こう三吉は姪に言い聞かせた。彼は、自分でも、何卒して子を失った悲哀を忘れたいと思った。