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家 02 (下)
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家 02 (下)
島崎藤村
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Chapter 9 of 10

九

「叔母さん――私も郷里へ行って参りますわ。宅から手紙が参りましてネ、どうも田舎の家が円くいかないようだから、暫時お前は母親さんの傍へ行ってお出なんて。まあ、どうしたというんでしょう。お嫁さんを貰うまでは、母親さんの眼の中へ入っても痛くない幸作さんでしたがねえ……私もイヤに成って了いますわ……彼方へ行き、是方へ行き、一つ処に落着いていられた例は無いんですものね。叔父さんも、何でしたら、一度郷里へいらしって下さいましな。母親さんによく話してやって下さい。真実に、叔父さんにでも行って頂くと難有いんですけれど……」

こう言って、豊世が三吉の家へ寄ったのは、八月の下旬であった。それに附添して、

「名古屋へ私が手紙を出しました序に、『駒形の家は月が好う御座んすが、そっちではどんな月を見てますか』ッて、そう申して遣りましたら、『俺は物干へ出て月を見てる』なんて、そんな返事を寄しましたよ――彼方も御暑いと見えますね」と夫のことを案じ顔に言った。彼女は留守宅を老婆に托して行くこと、名古屋廻りの道筋を取って帰国することなどを、叔父や叔母に話して置いて、心忙しそうに別れて行った。

三吉は父母の墓を造ろうと思い立っていた。山村に眠る両親の墳は未だそのままにしてあったので、幸作へ宛てて手紙を送って、墓石のことを頼んで遣った。返事が来た。石の寸法だの、直段書だのを細く書いて寄した。九月の下旬には、三吉は豊世からも絵葉書を受取った。

「其後、叔父様、叔母様には御変りもなく候や。国へ帰りて早や一月にも相成り候。こちらも思うように参らず、留守宅のことも案じられ、一日も早く東京へ参りたく候――」

と細い筆で書いてある。

秋も末に成って、幸作からは彫刻の出来上ったことを報知して来た。そこそこに三吉は旅の仕度を始めた。姉の様子も心に掛るので、諏訪の方から廻って、先ず橋本の家へ寄り、それから自分の生れ故郷へ向うことにした。森彦や正太は名古屋に集っている。序に、帰りの旅は二人を驚かそうとも思った。お雪も夫の手伝いでいそがしかった。お種のことや、幸作夫婦のことや、未だ郷里に留まっている豊世のことなぞが、取散した中で夫婦の噂に上った。

「橋本の姉さんも、親で苦労し、子で苦労し――まだその上に――最早沢山だろうにナア」

と夫の嘆息する言葉を聞いて、お雪も姉の一生を思いやった。

家を出て、三吉は飯田町の停車場へ向った。中央線は鉄道工事の最中で、姉の許まで行くには途中一晩泊って、峠を一つ越さなければ成らなかった。それから先には峠の麓から馬車があった。

この旅に、三吉は十二年目で橋本の家を見に行く人であった。故郷の山村へは十四年目で帰る。

三吉を乗せた馬車が、お種の住む町へ近づいたのは、日の暮れる頃であった。深い樹木の間には、ところどころに電燈の光が望まれた。あそこにも、ここにも、と三吉は馬車の上から、町の灯を数えて行った。

馬車は街道に添うて、町の入口で停った。馬丁の吹く喇叭は山の空気に響き渡った。それを聞きつけて、橋本の家のものは高い石垣を降りて来た。幸作も来て迎えた。三吉はこの人達と一緒に、覚えのある石段を幾曲りかして上って行った。古風な門、薬の看板なぞは元のままにある。家へ入ると、高い屋根の下で焚く炉辺の火が、先ず三吉の眼に映った。そこで彼は幸作の妻のお島や下婢に逢った。お仙も奥の方から出て来た。

「姉さんは?」と三吉が聞いた。

「一寸町まで行きました、姉様も一緒に。今小僧を迎えに遣りましたで、直ぐ帰って参りましょう」

こう幸作が相変らず世辞も飾りも無いような調子で答えた。幸作は豊世のことを「御新造」と言わないで、「姉様」と呼ぶように成っていた。

「母親さんもどんなにか御待兼でしたよ」

とお島は客を款待顔に言った。この若い細君は森彦の周旋で嫁いて来た人で、言葉遣いは都会の女と変らなかった。

「もう、それでも、皆な帰るぞなし」とお仙は叔父の方を見た。

遅く着いた客の前には、夕飯の膳が置かれた。三吉が旅の話をしながら馳走に成っていると、そこへお種と豊世が急いで帰って来た。お種は提灯の火を吹消して上った。三吉と相対に、炉辺の正面へドッカと坐ったぎり、姉は物が言えなかった。

「叔父さん、真実によく被入しって下さいましたねえ」と豊世は叔父に挨拶して、やがてお仙の方を見て、「お仙ちゃん、母親さんに御湯でも進げたら好いでしょう。今夜は叔父さんが御着きに成るまいと思っていらしったところへ、急に御見えに成ったものですから、母親さんは嬉しいのと――」

お種はいくらか蒼ざめて見えた。お仙のすすめる素湯を一口飲んで、両手を膝の上に置きながら、頭を垂れた。

ややしばらく経った後で、

「三吉、俺は何事も言いません――これが御挨拶です」

とお種は大黒柱を後にして言った。

古めかしい奥座敷に取付けられた白い電燈の蓋の下で、三吉は眼が覚めた。そこは達雄の居間に成っていたところで、大きな床、黒光りのする床柱なぞが変らずにある。庭に向いた明るい障子のところには、達雄の用いた机が、位置まで、旧の形を崩さないようにして置いてある。黄色い模様の附いた毛氈の机掛は、色の古くなったままで、未だ同じように掛っている。

年をとったお種は、旅に来て寝られない弟よりも、早く起きた。三吉が庭に出て見る頃は、お種は箒を手にして、苔蒸した石の間をセッセと掃いていた。

「こんな山の中にも電燈が点くように成りましたかネ」と三吉が言った。

「それどこじゃ無いぞや。まあ、俺と一緒に来て見よや」

こうお種は寂しそうに笑って、庭伝いに横手の勝手口の方へ弟を連れて行った。以前土蔵の方へ通った石段を上ると、三吉は窪く掘下げられた崖を眼下にして立った。

削り取った傾斜、生々した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畑、葡萄棚、お春がよく水汲に来た大きな石の井戸、そんな物は皆などうか成って了った。お種は手に持った箒で、破壊された庭の跡を弟に指して見せた。向うの傾斜の上の方に僅かに木小屋が一軒残った。朝のことで、ツルハシを担いだ工夫の群は崖の下を通る。

お種は可恐しいものを見るような眼付して、弟と一緒に奥座敷へ引返した。幸作は表座敷から来て、三吉の注文して置いた墓石が可成に出来上ったこと、既に三吉の故郷へ積み送ったことなぞを話した。お種は妙に改まった。

朝飯には、橋本の家例で、一同炉辺に集った。高い天井の下に、拭き込んだ戸棚を後にして、主人から奉公人まで順に膳を並べて坐ることも、下婢が炉辺に居て汁を替えることも、食事をしたものは各自膳の仕末をして、茶椀から箸まで自分々々の布巾で綺麗に拭くことも――すべて、この炉辺の光景は達雄の正座に着いた頃と変らなかった。しかし、席の末にかしこまって食う薬方の番頭も、手代も、最早昔のような主従の関係では無かった。皆な月給を取る為に通って来た。

「御馳走」

と以前の大番頭嘉助の忰が面白くないような顔をして膳を離れた。この人は幸作と同じに年季を勤めた番頭である。幸作は自分の席から、不平らしい番頭の後姿を見送って、「為るだけのことを為れば、それで可いじゃないか」という眼付をした。

賑かな笑声も起らなかった。お種は見るもの聞くもの気に入らない風で、嘆息するように家の内を見廻した。その朝、彼女は箸も執らなかった。三吉を款待すばかりに坐っていた。豊世やお仙は言葉少く食った。二人は飯の茶椀で茶を飲みながらも、皆なの顔を見比べた。

「母親さん、召上りませんか」

とお島は姑の方を見て、オズオズとした調子で言った。

「俺は牛乳を飲んだばかりだで……また後で食べる」

とお種は答えたが、ぷいと席を立って、奥座敷の方へ行って了った。

食後に、三吉は久し振の炉辺に居て、幸作を相手に沢田という潔癖な老人のあったことなぞを尋ねた。あの忠寛の旧い友達で、よくこの家へやって来た老人は疾に亡くなっていた。

ふと、三吉は耳を澄ました。玄関の方へ寄った薬の看板のかげでは、お島の忍び泣するけはいがした。

「そうかナア」という眼付をしながら、三吉は炉辺からお仙のボンヤリ立っている小部屋を通って、姉の居る方へ来た。

奥座敷の中央には、正太が若い時に手ずから張って漆を抹いたという大きな一閑張の机が置いてある。その前に、お種は留守を預ったという顔付で、先代から伝った古い掛物を後にして、達雄の坐るところに自分で坐っていた。豊世は茶道具を出して、それを机の上に運んだ。

三吉はこの座敷ばかりでなく、納戸の方だの、新座敷の方だのを見廻した。改革以来、沢山な道具も減った。たださえ広い家が余計に広く見えた。

「でも、思いの外種々な道具が残ってるじゃ有りませんか」と彼は言って見た。

「皆なの丹精で、これまでに為たわい。旦那が出て了った後で、私がお前さんの家から帰って来た時なぞは……眼も当てられすか」とお種は肩を動った。

「そう言えば、達雄さんも満洲の方へ行ったそうですネ」

「そうだゲナ――」

「姉さん、貴方は達雄さんに置去にされたような気はしませんか」

「神戸に居る間は、未だそうは思わなかったよ……どうも帰って来てくれそうな気がして……満洲へ行って了った……それを聞いた時は、最早私も駄目かと思った……」

「仕方が有りません。思い切るサ」

「三吉――お前はそんなことを言うが、どうしても私は思い切れんよ」

お種は心細そうに笑った。

ゴーという音が庭先の崖下の方で起った。工夫が石を積んで通る「トロック」の音だ。お種は頭脳へでも響けるように、その重い音の遠く成るまで聞いた。やがて、名古屋に居る正太の噂を始めた。彼女は幾度も首を振って、「どうかして彼がウマクやってくれると可いが」を熱心に繰返した。

茶が入ったので、隣の新座敷に薬の紙を折っていたお仙が母の傍へ来た。豊世は幸作夫婦を呼びに行った。

養子夫婦が入って来ると、急にお種は改まって了った。幸作は橋本の薬を偽造したものから、詫を入れに来た話なぞをして、その男が置いて行った菓子折を取出した。

「どれ、皆なで偽薬の菓子をやらまいか」

と幸作は笑って、それを客にもすすめ、自分でも食った。

お種は若い嫁の方を鋭く見て、

「お島は甘いものが好きだに、沢山食べろや――」

「頂いております」とお島は夫の傍に居て。

「オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは――」

姑は無理に笑おうとしていた。

長くも若夫婦は茶を飲んでいなかった。二人が店の方へ行った後で、三吉は姉に向って、

「姉さんの顔は、どうしてそんなにコワく成りましたかネ」

「そうか――俺の顔はコワいか」とお種は自分の眉を和げるように撫でながら、「年をとると、女でも顔がコワく成るで……どうかして俺は平静な心を持つように、持つように、と思って……こうして毎日自分の眉を撫でるわい」

「どうも貴方の調子は皮肉だ。あんまり種々な目に遭遇って、苦しんだものだから、自然と姉さんはそう成ったんでしょう。目下のものはヤリキれませんぜ」

「そんなに俺は皮肉に聞えるか」

「聞えるかッて――『オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは』――あんなことを言われちゃ、どんな嫁さんだって食べられやしません」

豊世やお仙は笑った。お種も苦笑して、

「三吉、そうまあ俺を責めずに、一つこの身体を見てくれよ。俺はこういうものに成ったよ――」

と言って、着物の襟をひろげて、苦み衰えた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎びた乳房は両方にブラリと垂下っていた。三吉は、そこに姉の一生を見た。

「エライもんじゃないか」

とお種は自分で自分の身体を憐むように見て、復た急に押隠した。満洲の実から彼女へ宛てて来た手紙が文机の上にあった。彼女はそれを弟に見せようとして、起って行った。

「ア、ア、ア、ア――」

思わずお種は旧い家の内へ響けるような大欠伸をした。

幸作は表座敷に帳簿を調べていた。優雅な、鷹揚な、どことなく貴公子らしい大旦那のかわりに、進取の気象に富んだ若い事務家が店に坐った。達雄の失敗に懲りて、幸作はすべて今までの行き方を改めようとしていた。暮しも詰めた。人も減らした。炉辺に賑やかな話声が聞えようが、聞えまいが、彼はそんなことに頓着していなかった。ドシドシ薬を売弘めることを考えた。「大旦那の時分には、あんなに多勢の人を使って、今の半分も薬が売れていない――あの時分の人達は何を為ていたものだろう――母親さん達は皆なの食う物をこしらえる為にいそがしかった」こう思っていた。お種に取って思出の部屋々々も彼には無用の長物であった。

こういう実際的な幸作のところへ、旧家の空気も知らないお島が嫁いて来た。達雄やお種から見ると、二人は全く別世界の人であった。若い夫婦はどうお種を慰めて可いか解らなかった。

三吉はこの人達の居る方へ来て見た。そこは以前彼が直樹と一緒に一夏を送った座敷で、庭の光景は変らずにある。谷底を流れる木曾川の音もよく聞える。壁の上には、正太から送って来た水彩画の額が掛っている。こういうものを見て楽む若旦那の心は幸作にもあった。

「姉様を呼んでお出」

と幸作は妻に吩咐けた。

豊世は困ったような顔付をして、奥座敷の方から来た。「こんな折にでも話さなければ話す折が無い」と言って、幸作はどんなに正太の成功を祈っているかということを話した。苦心して蓄積したものは正太の事業を助ける為に送っているということを話した。お仙を連れて空しく東京を引揚げてからのお種は、実に、譬えようの無い失望の人であった――こんなことを話した。

「兄様さえ好くやってくれたら、私は何事も言うことは無い――私は今、兄様の為に全力を挙げてる――一切の事はそれで解決がつく」

と幸作は力を入れて言った。

姑と若夫婦と両方から話を聞かされて、三吉は碌に休むことも出来なかった。その晩も、彼は奥座敷の方へ行って、復たお種の歎きを聞いた。姉は遅くなるまで三吉を寝かさなかった。

夜が更れば更るほどお種の眼は冴えて来た。

「姉さん、若いものに任せて置いたら可いでしょう」

と三吉が言うと、姉はそれを受けて、

「いえ、だから俺は何事も言わん積りサ――彼等が好いように為て貰ってるサ――」

こういう調子が、どうかすると非常に激して行った。幸作夫婦が始めようとする新しい生活、ドシドシやって来る鉄道、どれもこれもお種の懊悩しい神経を刺戟しないものは無かった。この破壊の中に――彼女はジッとして坐っていられないという風であった。

お種は肩を怒らせて、襲って来る敵を待受けるかのように、表座敷の方を見た。

「なんでも彼等は旦那や俺の遣方が悪いようなことを言って――無暗に金を遣うようなことを言って――俺ばかり責める。若い者なぞに負けてはいないぞ。さあ――責めるなら責めて来い――」

橋本の炉辺では盛んに火が燃えた。三吉が着いて三日目――翌日は彼も姉の家を発つと言うので――豊世やお島やお仙が台所に集って、木曾名物の御幣餅を焼いた。お種は台所を若いものに任せて置いて弟の方へ来た。

三吉は庭に出て、奥座敷の前をあちこちと見廻っていた。以前この庭の中で、家内中揃って写真を撮ったことがある。それを三吉が姉に言って、達雄が立って写した満天星の木の前へ行きながら、そこは正太が腰掛けたところ、ここは大番頭の嘉助が禿頭を気にしたところ、と指して見せた。彼は自分で倚凭って写した大きな石の間へ行って見た。その石の上へも昇った。

お種は、どうかすると三吉がずっと昔の鼻垂小僧のように思われる風で、

「三吉、お前がそんなことをしてるところは、正太に酷く似てるぞや」

こう言って、彼女も座敷から庭へ下りた。姉は自分が培養している種々な草木の前へ弟を連れて行って見せた。山にあった三吉の家から根分をして持って来た谷の百合には赤い珊瑚珠のような実が下っていた。こうして、花なぞを植えて、旧い家を夢みながら、未だお種は帰らない夫を待っているのであった。

新座敷は奥座敷とつづいてこの庭に向いている。その縁側のところへ来て、お仙が父の達雄に彷彿な、額の広い、眉の秀でた、面長な顔を出した。彼女は何を見るともなく庭の方を見て、復た台所の方へ引込んで了った。

木曾路の紅葉を思わせるような深い色の日は、石を載せた板葺の屋根の上にもあった。お種は自分が生れた山村の方まで思いやるように、

「三吉が行くなら、俺も一緒に御墓参をしたいが――まあ、俺は御留守居するだ」

独語のように言って、姉は炉辺の方へ弟を誘った。

午後に、お雪から出した手紙が三吉の許へ着いた。奥座敷の縁側に近いところで、三吉はその手紙を姉と一緒に読んだ。その時、お種は幸作に吩咐けて、家に残った陶器なぞを取出させて、弟に見せた。薬の客に出す為に特に焼かせたという昔の茶呑茶椀から、達雄が食った古雅な模様のある大きな茶椀まで、大切に保存してあった。

「叔父さん、こんなものが有りましたが、お目に掛けましょうか」

と豊世は煤けた桐の箱を捜出して来た。先祖が死際に子供へ遺した手紙、先代が写したらしい武器、馬具の図、出兵の用意を細く書いた書類、その他種々な古い残った物が出て来た。

三吉はその中に「黒船」の図を見つけた。めずらしそうに、何度も何度も取上げて見た。半紙程の大きさの紙に、昔の人の眼に映った幻影が極く粗い木版で刷ってある。

「宛然――この船は幽霊だ」

と三吉は何か思い付いたように、その和蘭陀船の絵を見ながら言った。

「僕等の阿爺が狂に成ったのも、この幽霊の御蔭ですネ……」と復た彼は姉の方を見て言った。

お種は妙な眼付をして弟の顔を眺めていた。

「や、こいつは僕が貰って行こう」

と三吉はその図だけ分けて貰って、お雪の手紙と一緒に手荷物の中へ入れた。

叔父の出発は豊世に取って好い口実を与えた。こういう機会でも無ければ、彼女は容易に母を置いて行くことも出来ないような人であった。

「叔父さん、お願いですから私も連れてって下さいませんか。私も仕度しますわ」

と豊世は無理やりに叔父に頼んで、自分でも旅の仕度を始めた。

三吉はすこし煩そうに、「実は、僕は独りで行きたい。それに他の細君なぞを連れて行くのも心配だ」

「心配だと思うなら止すが可いぞや」とお種が言った。

「何でも私は随いてく」と豊世は新座敷の方から。

「じゃ、汽車に乗るところまで送って進げよう」と三吉も引受けた。

いよいよ別れると成れば、余計にお種は眠られない風であった。その晩、姉は奥座敷に休んで弟と一緒に遅くまで話した。姉の様子も気がかりなので、一旦枕に就いた三吉は復た巻煙草を取出した。彼は先ずお仙の話をした。あれまでに養育したは姉が一生の大きな仕事であったと言った。薬の紙を折らせることも静かな手細工を与えたようなもので、自然と好い道を取って来たなどと言った。

「彼女が有るんで、俺も今まで持続えて来たようなものだわい」とお種も寝ながら煙草盆を引寄せた。

新座敷の方に休んだ豊世やお仙は寝沈まっていた。三吉は橋本の家の話に移って、幸作の骨折も思わねば成らぬ、正太には生命がくれてある、何物も幸作にはそんなものがくれて無い、そう神経質な眼で養子や嫁を見るべきものでもあるまい、欠点を言えば正太の方にも有るではないか、などと姉を沈着かせたいばかりに種々並べ始めた。一体、何の為に達雄が家出をしたと思う、そんなことを言出した。

「三吉、貴様は……何か俺の遣方が悪くて、それで、家がこう成ったと言うのか……何か……」

お種は尖った神経に触られたような様子して、むっくと身を起した。電燈の光を浴びながら激しく震えた。これ程女の節を立て通した自分に、何処に非難がある、と彼女の鋭い眼付が言った。どうかすると、弟まで彼女の敵に見えるかのように。

「姉さん、姉さん、そう貴方のように――他の言うことをよく聞きもしないうちから――何故そんなに思い詰めて了うんです。もっと静かな心で考えられませんか」

こんな風に、三吉の方でも半ば身を起して、言って見た。お種は直に話を別の方へ持って行った。興奮のあまり、彼女はよく語れなかった。

「でも、何でしょう。達雄さんだっても、まかり間違えば赤い着物を着なくちゃ成らなかったんでしょう」

「それサ……むむ、それサ……赤い着物を着せたくないばっかりに……」

「でしょう。その為に皆な苦心して、漸く今日まで漕付けた。正太さんのことなぞを考えて御覧なさい。ウッカリしていられるような時じゃありませんぜ」

「むむ、解った、解った。若いものを相手にするようなことじゃ、是方が小さいで……」

「小さいも、大きいも無いサ」

「いや、解った」

話が次第に紛糾った。終には、一体何を話しているのか、両方で解らないように成った。

「畢竟――姉さんはどうすれば可いと言うんですか」

「俺は正太の傍へでも行って、どんな苦労をしても可いから、親子一緒に暮したいよ」

こう話の結末をつけてみたが、何だか二人ともボンヤリした。

払暁まで、お種は碌に眠られなかった。

夜が白々する頃には、豊世も床を離れて、何かゴトゴト言わせていた。お種は雪洞を持って新座敷の方へ行った。

「豊世、お前も行って了うかい」

「母親さん達は昨夜遅くまで話していらっしゃいましたネ」

「碌に寝すか」

「何だかぼそぼそぼそぼそ声がしてましたが、そのうちに私は寝て了いました」

「豊世――俺はツマランよ」

お仙は未だ眼を覚さなかった。思わずお種は娘の枕許で泣いた。

三吉と一緒に朝茶を飲む頃のお種は、前の晩とは別の人のようであった。

「折角来てくれたのに」とお種はサッパリした調子で、「今度はイヤな話ばかり聞かせましたネ」

「三晩とも話し続けだ」

「いや、どうしてオオヤカマシ」

姉弟は顔を見合せて笑った。

豊世も仕度が出来た。やがて出発の時が来た。炉辺には、お種をはじめ、お仙、幸作夫婦、薬方の衆まで集って、一緒に別離の茶を飲んだ。

三吉達を見送ろうとして、お島とお仙の二人は町はずれまで随いて来た。

こういう道中をあまりしたことの無い豊世は、三吉と一緒に余儀なく歩かせられた。旧い木曾路は破壊される最中であった。時々、岩石の爆裂する音が起った。大きな石の塊が可恐しい響をさせて、高い崖の上から紅葉した谷底の方へゴロゴロ転がり落ちて行った。

「女が、独りでなんぞ、とても通られる時じゃ有りませんネ」

と豊世は叔父に随いて歩きながら言った。

都会風な豊世の風俗は、途中に仕事をしている労働者の眼を引き易かった。どうかすると、十人も二十人も「ツルハシ」を手にした工夫の群が集って、石や土を運ぶことを休めて、道を塞いでいた。

大きな森林は三吉の眼前に展けて来た。路傍には自然と足を留めさせるような休茶屋がある。樹木の間から、木曾川の流れて行くのが見える。そういうところへ寄って、三吉が豊世を休ませようとすると、かみさんが茶を運んで来て、「奥さんは、今日は何処から?」などと聞く。豊世はハニカンでもいなかった。自分のことは言わずに、三吉の方を指して、

「あれは、私の叔父さんですよ」

こう笑いながら答える。この笑いが反って休茶屋のかみさんを戯れるように思わせた。復た二人は笑って出掛けた。

停車場の新設された駅へ着いたは、日暮に近かった。豊世は汽車の時間を問合せた。叔父と一緒に一晩そこで泊らせて貰って、一番で名古屋へ発ちたいと言った。こう頼む人を翌朝停車場へ送り届けた時は、三吉も漸く気楽な一人に成ることが出来た。

深い秋雨に濡れながら、三吉は森彦が家のある村へ入った。そこまで行けば、木曾川を離れて、山林の多い傾斜を上るように成る。三吉が生れ故郷の隣村である。森彦の養家は小泉兄弟の母親の里で、姓は同じ小泉であった。養父は疾に亡くなっていた。留守居する養母、妻、子供は、三吉の周囲に集った。その日は、名古屋の方に居る森彦、東京に修業中のお延、お絹の噂で持切った。

旧の街道は木曾風の屋造の前にあった。従順な森彦の妻は夫を待侘顔に見えた。

大きな木曾谷は次第に尽きて来た。兄の村を離れて、更に三吉は山林の間の坂道を上った。二里ばかり歩いた。峠の一部落から一緒になった男と連立って進んで行くと、子供の時に見馴れた山々が谷の向にあらわれて来た。

「三吉様。その外套も私が持たず」

と連の男が往時と同じ調子で言って、辞退する三吉の外套を無理やりに引取った。この男は、「カルサン」を穿いて、三吉の荷物まで自分の肩に掛けていた。

「構って下さらない方が、私は難有いんです。今度は唯墓参りに来たんです」

こう話し話し行く三吉は、高い山の上の日のあたった道を歩いていた。旧い馴染の人達に見つからないうちに、彼は独りで、自分の生れた家の跡を見て廻ろうとした。途中で、寺の方へ向う連の男に別れた。

洋服に草鞋穿で、寂しい旅人のように、三吉は村へ入った。ずっと以前大火があって駅路の面影もあまり残っていなかった。そこは美濃路の方へ下りようとする山の頂にあった。傾斜に成った道の両側には、新規に建った家だの、焼残った家だのが、樹木の間に出たり引込んだりして並んでいた。畠に成っているところもあった。

石垣の上には十一二ばかりに成る女の児が遊んでいた。猿羽織というものを着て、何処の人が通るかと三吉の方を見ていた。三吉は勝手が違ったように、心覚えの場所を探した。

「ここらに小泉という家があった筈ですが――知りませんか」

とその女の児に一寸尋ねた。小娘は妙な顔をして、

「そこだに」

と直ぐ眼前にある桑畠を指して見せた。

連の男は迎えに来た。村を横に切れて、田畠の間の細い道を小山の方へ登ると、小泉の先祖が建立したという古い寺がある。復た三吉は独りで山腹の墓地へ廻って見た。寺の名と同じ戒名を刻んだ先祖の墓の前を通り過ぎて、墓地の出はずれまで行った。その眺望の好い、静かな一区域は、父母の眠っている場所だ。幸作に頼んで作った新しい墓石は墳の前に建ててあった。

幼い記憶が浮んで来た。以前から見ると明るく成った樹木の間から、三吉は村の家々を望んだ。「旦那衆」の住居は多くは焼けて小さく成った。昔は頭の挙らなかった百姓の部落の方に沢山新らしい家が建込んでいた。

旧い馴染の人達は、何時までも三吉を独りにしては置かなかった。その翌日は、彼は寺の広間で、墓参の為に集って来た遠い近い親戚とか、出入の百姓とか、その他小泉の昔を忘れずにいる男や女の多勢ゴチャゴチャ集った中に居た。

三日目に三吉は以前の隣家へ移った。大きな酒屋を営んでいた家で、小泉の屋敷跡も今ではその所有に成っている。二階の客間は、丁度以前の小泉の奥座敷と同じ向にあって、遠い美濃の平野を一段高く望まれるような位置にある。そこへ主人は三吉を誘った。桑畠は直ぐ石垣の下にあった。忠寛の書院、母やお倉のよく縫物をした仲の間、実の居た「くつろぎ」の間、上段、離れ、会所などと名のつけてあった広い部屋々々の跡は、眼下に見ることが出来る。温厚な長者らしい主人は、自分も往時を思出したという風で、三吉と一緒に縁側に立って、あそこに井戸があった、ここに倉があった、と指して見せた。忠寛の座敷牢のあったという木小屋の辺は未だ残っていた。三吉が祖母の隠居していた二階建の離れには、今は主人の老母が住むとのことであった。

「や、小泉さんに進げるものが有る」

と主人は、手を鳴らして酒を呼んだ後で、桑畠の中から掘出されたという忠寛の石印を三つばかり三吉の前に置いた。

古い鏡も掘出されたことを、主人は語った。忠寛の書院の前にあった牡丹は、焼跡から芽を吹いて、今でも大きな白い花が咲く。こんな話もした。

この明るい二階へも、村の人や三吉の学校友達が押掛けて来た。以前は、「オイ、三公」なぞと忸々しく呼んだ旦那衆が、改まってやって来て、「小泉君」とか「三吉君」とか言葉を掛けた。主人を始め、集って来る人達は大抵忠寛の以前の弟子であった。

「でも、忠寛先生の時分には――いくら無いと言っても――六七十俵の米は蔵に積んであった。皆な兄さんが亡くしたようなものだわい」

こう笑い話のようにして、高い酔った声で旧を語るものもあった。

人を避けて、復た三吉は縁側の障子の外へ出てみた。家は破れても、山々の眺望は変らずにある。傾斜の下の方には、石を載せた板屋根、樹木の梢などが見える。秋は深い。最早霜が来たらしい桑畠の中には、色づいた柿の葉が今にも落ちそうに残っている。

何となく時雨れて来た。

荒廃した街道について、三吉は故郷の村から美濃の方へ下りた。二里ばかり送って随いて来るものも有った。ある町へ出た。そこで名古屋行の汽車に間に合った。

正太が泊っているのはやはり株式に関係した人の自宅であった。三吉は名古屋へ入って、清潔な「閑所」の多い、格子窓の続いたある町の中に、その宿を見つけた。

「誰方?」

茶色な暖簾を分けて、五十近い年恰好の婦人が顔を出した。

「小泉です。橋本の叔父です」

叔父と聞いて、婦人は三吉を静かな奥深い客間へ案内した。正太も豊世も出て居なかった。その時、三吉は、この婦人の口から、正太が既に名古屋の相場で失敗したことを聞いた。この婦人の若い養子も、正太と手を組んで、大きな穴を開けたと聞いた。

午後の四時頃に正太夫婦は散歩から戻って来た。表二階が正太の借りている部屋であった。

「豊世、何かお前は叔父さんに見て来て進げたら可かろう」

と正太は買物を命じて置いて、表から裏口へ通り抜けられる土間の板を渡った。三吉もその後から、この家の母親が坐っている部屋を横に見て、高い壁に添うて、箱梯子を上った。

二階は薄暗かった。三吉は正太と窓に近く坐って、互に顔を見合せた。正太が相場の失敗を語り出す前に、その意味は叔父の方へ通じていた。

「や、種々な話が有る」

と三吉は正太の並べる言葉を遮った。何となく正太は悄然としていた。それを見て、叔父は自分の旅を語り始めた。

「どうも叔父さん、種々御世話様で御座いました」と豊世が上って来て言った。「なんですか、私も是方へ来てから、また母親さんが一人加えたような気がしますわ」

階下に住む婦人がナカナカのエラ者で、商売の道にも明るく、養子の失敗を憂えていることなぞが、かわるがわる正太夫婦の口から出た。そのうちに、正太は、「お前はそっちへ行ってお出」と豊世に眼で言わせて、黙然と叔父の前に頭を垂れた。

「叔父さん、私もいよいよ洗礼を受けました」

こんなことを言出した。三吉は不思議そうに甥の顔を見た。

「実は――」と正太は沈痛な語気で、「熱田へ遊びに参りましたら、その帰り道で洗礼を受けました――二度、喀血しました」

「叔父さん」と正太は男らしい響のある調子に返った。「私もこれから大に遣ります。医者に診て貰いましたところが、『お前の病気は自分で作った病気だ、精神の過労から出た病気だ、下手にクヨクヨするな、そのかわり三年や四年でマイって了うようなものじゃ無い、十年の生命は引受けた』と言ってくれましたんです。『仕事を為ても構わんか』と聞いたら、『差支は無い』ッて言いますからネ。『よし』と、『それじゃ俺はこれからウンと遣って見せる、この病気に罹ってから事を成した者は――いくらもある』こういう覚悟を抱いたんです」

「どうだネ、どんな心地がするネ」と三吉は病人扱いにしたくなく尋ねた。

「何となく、こう厳粛な心地が起って来ました……」

「そいつは面白いナ。何だねえ、正太さん、今日までのことは忘れて行るんだネ。是非とも親譲りの重荷をどうしなけりゃ成らんとか、なんとか、そんなことは先ず側に置くんだネ。自分は自分の為るだけのことを為る――それで可いじゃないか」

「私もその積りです。それにネ、叔父さん、銀行側の人ですら、『もう達雄さんも好い加減にして帰って来たら好かろう』――なんて言ってくれた人もあるんです」

「今度の旅は、君の家でも大分ヤカマシかった。僕は君、三晩とも碌に寝ずサ。姉さんに向って種々なことを言って、終には、赤い着物の話まで出た。そこまで僕は姉さんには言わなかったが、何故達雄さんが家を出る時に、自分の為たことは自分で責任を負います……赤い着物でも何でも着ます……そのかわり妻子に迷惑を掛けてくれるな、と言わなかったろう。家を出る位の思をしても……その苦痛が何の役にも立たない……」

「いえ、叔父さん、そう阿爺の方から出てくれれば、まさかに赤い着物を着せるとも、誰も言いはしなかったろうと思います。ところが阿爺はそうじゃなかった。『俺にそれを着せてくれるな』と言出した……その時、もうこれは駄目だ、と私も思いました」

こう二人は達雄のことを言って見たが、でも何となく頭が下った。目下のものが旧家の家長に対する尊敬の心は、是方に道理があると思う場合でも、不思議に二人に附いて廻った。

豊世が膳を運んで来た。正太は力の無い咳をして、叔父と一緒に笑いながら食った。三吉は姉の生涯をあわれに思うという話なぞをした後で、

「僕は、今度は、姉さんにも言った……莫迦に怒られちゃった……」

「なにしろ、母親さんは、神聖にして犯す可らず――吾家じゃそう成っていましたからネ。しかし、叔父さん、小泉忠寛翁の風貌を伝えたものは――貴方の姉弟中で、吾家の母親さんが一番ですよ」

正太はすべて可懐しいという眼付をした。母も、幸作夫婦も、家を捨てて行った父も――

「森彦叔父さんを訪ねて見ようじゃ有りませんか。私の病気のことは未だ誰にも言わずに有ります。あの叔父さんにも知らせて有りません。母親さんは無論のこと。唯、貴方に御話するだけです。豊世は……これはまあ看護をしてくれる人ですから……」

こんなことを言って、翌日正太は三吉を誘った。彼は胸に病のある人とも見えないほど爽快な声で話す時もあった。活気のある甥の様子に、三吉もやや安心して、一緒に森彦の宿を訪ねることにした。

「森彦叔父さんも奮闘していますぜ」

と正太は箱梯子を降りかけた時に言った。

午後に成って、正太は名古屋女の観察、音曲、家屋の構造なぞの話を叔父に聞かせながら帰って来た。暖簾を潜ると、茶室のように静かな家の内には読経する若主人の声が聞える。それを聞きながら、二人は表二階の方へ上って行った。

豊世は行末のことまでも思うという風で、二人の傍へ来た。

「豊世さん、貴方はどうする人ですか」と三吉が尋ねた。「未だここに居る人ですか」

「私も困って了いますわ。こうして置いても行かれませんし、そうかと言って、東京の家を畳むのも惜しいなんて言いますし――」

「ああ、意気地の無いものは駄目です」と正太は妻の方を見て、アテコスるような調子で歎息した。「どういうものか、豊世は、イヤに突掛って来るようなことばかり言う……こう俺に……しかし、無理も無いサ。この年に成って、碌に妻も養えないような人間だからナア」

これを聞くと、豊世はもう何事も言えなかった。

「まあ、森彦さんにも相談するサ」と云って、三吉は調子を変えて、「駒形の家に居る老婆さんネ、あの人も一生懸命で君の留守居をしてるよ。稀に僕が留守見舞に寄ると、これは旦那から預った植木だから、どうしてもこいつを枯らしちゃ成らんなんて……余程主人思いだネ」

正太も笑った。「叔父さん、ホラ、私がこの夏、岐阜の方へ行って、鵜飼の絵葉書を差上げましたろう。あの時、下すった御返事は、大事に取っといてあります」

「どんな返事を進げたっけネ」

「ホラ、私も長良川に随いて六七里下りましたと申上げました時に……あの暑い盛りに……こう夏草の香のする……」

「そうそう、木曾路を行くがごとしなんて、君から書いて寄したッけネ――是方の暑さが思いやられたッけ」

正太は深い、深い溜息を吐いた。

暮方に、三吉は東京へ向けて、夜汽車で発つことにした。叔父を見送ろうとして、正太は一緒にこの宿を出た。電車で名古屋の停車場まで乗った。時間はまだすこし早かった。正太は燈火の点き始めた停車場の前をあちこちと静かに歩いて、ふと思いついたように叔父に向って、

「貴方の許の叔母さんにしろ、吾家のやつにしろ、今が一番身体の盛んな時でしょう――」

見ても圧迫を感ずるという調子に、彼は言った。

間もなく三吉は新橋行の列車の中に入った。窓の外には、見送の切符を握った正太が立って、何もかも惨酷いほど身に浸るという様子をしていた。車掌は飛んで来て相図の笛を鳴らした。正太は前の方へ曲み気味に、叔父をよく見ようとするような眼付をした。三吉も窓のところに、濡れ雫に成った鶏のようにションボリ立っていた。

「叔母さんにも宜しく……」

と正太が言う頃は、汽車は動き出していた。

停車場の灯、薄暗い人の顔は窓の玻璃に映ったり消えたりした。宿の方へ戻って行く正太の姿を、三吉は想って見た。「郷里へでも帰って静養したらどうです」と森彦の旅舎から帰りがけに甥に言った時、正太が首を振って、健気にも未だ戦おうという意気を示したことなぞが、三吉の胸にあった。正太の失敗も知らず、まして病気も知らず、彼一人に希望を繋いでいるような橋本の家の人達のことも浮んで来た。

「可哀想な男だ」

こう口の中で言って見て、長いこと三吉は窓のところに立っていた。

Chapter 9 of 10
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