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千曲川のスケッチ
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千曲川のスケッチ
島崎藤村
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Original Public Domain
Chapter 6 of 17

6

五六本松の岡に倚って立っているのを望んだ。囁道祖神のあるのは其処だ。

寺窪というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙な山村だ。君に黒斑山のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。

塩俵を負って腰を曲めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、

「もう漬物ですか」と聞いた。

「今やりやすと二割方得ですよ」

荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。

前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木の林」と称える方に進み入った。

私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手拭を冠り、襦袢肌抜ぎ尻端折という風で、前垂を下げて、藁草履を穿いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。

その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。

母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。

この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。刈草を負った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄れて、湿った草の上に映っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。

がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。

熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌で掻除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈位のものだった。終には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠を提げたまま南瓜の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。

山番

番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山の直ぐ裾にあたる。

三峯神社とした盗難除の御札を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾してある母屋の前に立って、日の映った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。

鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪むように吠えた。この犬は番人に飼われて、種々な役に立つと見えた。

番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどに成った。主人は鬚も剃らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛で、この山の中に出来た南瓜なぞを切りながら働いていた。

四人の子供も庭へ出て来た。一番年長のは最早十四五になる。狭い帯を〆《しめ》て藁草履なぞを穿いた、しかし髪の毛の黒い娘だ。年少の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏が一羽と、灰色な雌鶏が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了った。

小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺の板敷には薄縁を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。

私達は草鞋掛のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮の塩漬にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火を絶したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。

一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。

やがて昼飯時だ。

庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰った蕈を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子の露、南瓜の煮付を馳走振に勧めてくれた。いずれも大鍋にウンとあった。私達は各自手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。

この山の中で林檎を試植したら、地梨の虫が上って花の蜜を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。

食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。

私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。

落葉松の畠も見えた。その苗は草のように嫩かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。

主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚の木炭を焼いているという話もした。

この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘の村は菱野だから。

土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。

彼処はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。

別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。

白樺の幹は何処の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早美しく黄ばんだのも混っていた。

その六

秋の修学旅行

十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸へ戻って来た。この旅には殆んど一週間を費した。私達は蓼科、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。

その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。

甲州街道

小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。

一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。

私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。

馬流というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。

馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。

白楊、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。

日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。

時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。

この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。

山村の一夜

この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。

「清仏戦争の後、仏蘭西兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専にこのアルゼリイ種を指したものです。その後亜米利加産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂さが某の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御寵愛のファラリイスと云亜刺比亜産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦は何程でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」

以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。

静かな山村の夜――河水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた旅舎の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊の地をもう一度見ることが出来た。

ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。

Chapter 6 of 17
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