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二人の男
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二人の男
島田清次郎
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Original Public Domain
Chapter 2 of 4

2

「北です、北輝男です。」と彼はどもつた。

「おゝ、北君!」

と丘は昔ながらの短気さうな、太い眉毛の下に窪み込んだ凶悪な瞳を三角形にひきつらせ、さすがに情熱で厚い赤い唇をふるはせて彼を見守つた。

「――僕、丘です、あの柔道をやつた丘直太郎です。……何年位会はないだらう。六年にもなるかしら、僕はおぼえてゐる。級仕合に君に負けた口惜しさから君をあの桜の並木で袋たゝきにしたことをおぼえてゐる。うん、あれから、もう君は学校へ出なかつたが、あれから――どうしてゐたか?」

(君こそ)と北は云ひたかつたが無言のまゝ、丘を熟視しながら彼は悲しい愁ひの湧いてくるのに委してゐた。久しく会はなかつたX氏を見た感動へ更に深刻に強く六年振りで、忘られずに無意識の蔵に秘められてゐた彼に不意に会つた感動が彼を震撼させた。が、純粋な感情を自由に外へ流れ出すことを制抑することに慣れた彼は彫像のやうに沈黙してしまつた。

「何処に、今、君はゐるのです。」

と丘は更に哀願するやうに云つた。北は矢張り答へなかつた。

「まあ上りたまへ、丘君も上りたまへ。」とX氏が云ふのにつれて彼と丘は上つた。彼はX氏の客室の青白い光を浴びながら静かに自分の住居と、自分の苦心になつた思想上の処女作がX氏によつて世に出で、今は更に新しい著作の稿を起してゐることを簡単に、彼の神経を痛めないやうに告げた。丘は北が高等学校を中途で止した翌年大学の法科へはいり、そこを出て今はある大会社の貿易係にゐることを告げ、そして狂暴な痛烈な自嘲をひそめて「かくれたる革命党員だよ」と云つたりした。

そんな話をしてゐるところへ女中さんが、珈琲を運んで来た。その時の茶碗が自分とX氏自身のとは同じ底の深い品のいゝ美しい草花の模様のある和蘭ものらしいのであつたが丘へは普通の平つたい硬質陶器の茶碗であつた。北は丘の眼がす敏くその相違を発見したことを見てとつて、はつとせずにゐられなかつた。彼が心配し予期したやうに丘は叱るやうに、泣くやうに、孤独なるものが呟やくやうに、彼の住所を幾度も聴き返して手帳に書きとめて、ぷいとかへつていつてしまつた。そして彼はそのかへつたあとのたえがたい痛みをもつ淋しさをも早くも今朝は忘れてしまつてゐたのである。むろん昨夜の今朝、こうして訪ねてくるものとは夢想だにしなかつた。

丘は十分間ばかりも井戸端の傍に佇んだまゝ黙つてゐた。大方、いよいよとなると急に呼ぶ気もしないのだらう。あたりは静かで、庭園のもの寂びしさに日は照り輝やいてゐた。空は燃て白銀の波をたゝせ、此上もない静かな世界に、彼はふたゝびペン先が紙面を走る触音をかすかにリヅミカルに響かせはじめた。が、北は丘がゐると云ふ意識から身動きもならない、息づまるやうなある束縛を感じないわけにゆかなかつた、(この朝の大いなる静寂のうちに、不思議な運命のめぐりあはせをひかへつゝ我が祝福されたる創造はなされつゝあるのだ!)丘とても何時までも黙つて佇んでゐるわけにもゆかなかつたか、丘は横手の上り口に廻つた。

「北君、居られますか」

返事は与へられず丘はたゞペンの奔る音のみを聴いたであらう。

「北君、居られますか。」

「どなた」

「僕です。丘です。昨夜、X氏のところで出遇つた丘です――今、仕事をしてゐらつしやるんですか。」

「ううん、もう直きだ。はいりたまへ。」

障子を無雑作にあけて、はいつて来た丘は髪を長くした、岩丈な身体つきの、久留米絣の単衣に黒い帯を下腹で堅くしめつけた、若き北輝男に対面した。

「さあ上りたまへ。」

北は立上つて、人に会ふときのくせとしてしばらく丘を直視した。

「今、大学で知り合つた藤井に途中であつて、あいつが君を知つてゐて、教へてもらつたところだつた。なあに人類学上の識見は僕は少くとも藤井以上です。今、結婚と生児の制限率に関する研究をやつてゐるんだが確かに博士論文位の価値はあるものだよ、純正社会主義の実現を基礎づけあらゆる反対を根本的に破砕するものなんだ。」

「ほう。」

と彼は面くらひながら丘をもう一度はつきり落付いて見つめた。額は狭く、低く、偏狭だが頭蓋の中央は高く、石塊のやうにもり上り、短い太い眉毛の下の窪んだ瞳はどうかすると三角形になるほど引きしまつて病的に輝やき、下顎は角ばり、歯の出た、熱情が固く岩のやうに凝結してしまつた顔容である。熱情家の自己感の強い男が、世間に苦しめられ、裏切られて、偏屈者にこりかたまつたといふ感じだ。どうかするとたしかに人を殺せる男になつたな、この丘君は、と彼は考へた。そして内心仕事をしてゐる最中にかうして訪ねられたことをひどく後悔した。藤井のやうに利巧で手触りの軽快な、柔軟な人間との接触はある場合には恰度美しい女とのたわいもない愛慾半分の会話のやうに、ある慰安と休息になるものだが、丘のやうな人間との対話は全か、でなければ零である場合が多い。此方の云ふことは向ふに通じない。向ふの云ふことは一向きな、熱情としては肯定出来ても、理性からは三文の価値もない偏屈な論理を固執する、しかも、それをもつて征服しようとのしかかつてくる。――彼は殊によつたらこれで今日一日は打ちこはしかも知れないと考へながら、一方かうした男は一つ帰依してくると一生を棒にふつてもかまはない場合もあると考へ直して、とにかく彼は彼自身をなだめた。――が、ぶちこはしどころではなかつたことは後に知られることなのである。

「昨夜は失敬しました。」

「いゝえ、僕こそ。」

と丘は部屋中をぐるりと一瞥したのち、北の卓机の上の原稿紙に瞳を落して、さも感動を制し切れないやうに、

「やつてゐるんだね? すてきだ! やらなくちや、君、さうさ、やらなくちや、君、大した勢だな、ぞくぞくするよ、全く、――全く」独り言のやうに語尾を低くしたが、又調子を高めて、

「それで、君はあれつきり高等学校を中途で止したのだねえ。」

「えゝ、あれつきり。」

「仕合に勝つてなぐられるやうな野蛮人といつしよにゐる必要はないと思つてだらう。が、それがよかつたのだ! 僕のやうに学校を卒業したものは、卒業したときにはもう完全な資本家の走狗の標本になり切つてしまつてゐるのだから。もうだめだ! ろくな思想が湧いて来ないや! 少し何か書いて、読み直すと、どうだ、まるで口まねになつてしまつてゐるのだ! うん、君はよく止めたねえ! 僕の生涯の失敗は大学を卒業したことにあるのだよ。己れには君の純一と果断がなかつた。大学を出たばつかりに、己はこうして新しい洋服は着てゐるが、内陣は空つぽだ。――あの大学の蓄音器先生と辞典先生めらが、己をこんな石頭にしてしまひやがつた。」

丘は何か言はうと努力しながら、言ひたいことが言へず、別なことばかりが口から出るらしかつたが、忽ち熱のこもつた、語調の重い、口調で語りはじめた。眼は藪の下に燃える火のやうに眉毛の下に輝やいてゐた。

「僕は君の書いたものを昨夜、実は一つ読んだのだ。(次の世界戦)といふあの論文の予言的な一節だ。現世界大戦乱の後に来るであらう次の大戦争は地上を通じてこの資本家階級と労働者階級との全一的対峙戦であるかも知れない、このことは必然な人類の生活のリヅムであると云へる。しかし自分等はこの戦ひをして武器と武器の戦でなしに勝敗を決し勝つべき者をして勝たしめることが果して出来ないのであらうか。革命をして流血の革命たらしめず、内面的理解の革命たらしめ得ないだらうかといふやうな君の思想にしてからが(地上を通じての資本家と労働者)といふ考へ方には非常な君の思想の欠点があると思ふんだ。僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家との戦であると思ふがどうだらう。そしてその場合には社会主義的精神の完全に実現されたる国ほど勝味があるのだ。此度の世界大戦によつて諸国民の世界的交通が自由になつて、全世界的な階級戦が次の大戦となると考へるよりも僕はむしろ現世界大戦によつて諸国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨脹と生存を主張して次の大戦を呼び起すに違ひないと僕は信ずる。君の部屋には世界地図もはつてあるから、まるきりの空想家でもあるまいが、地図を見ることを知つてゐる人の思想としては少し空虚でないかと僕は考へた次第だよ。」

北は黙つて注意深く聴いてゐた。

「どうも君は国家や民族の差異をあまり重大視してゐないらしいのが僕には理解出来ない気がする。僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない。僕達は実際皮膚が黄色いのだから、実際体格が小さくて髪の毛が黒いのだから。僕達はいかに理論を組立てゝも細長い小群島に生れたのだから。僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから。発足点をこゝにをかずにはゐられんではないか。――この発足点は、同じように僕は僕達は実に貧乏人であることを明白に認識することにもあるのだ。僕達は皮膚が黄色いことが動かすことの出来ない現前の事実である如く、僕達は被征服階級であり、社会の下積となつてゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不充分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送つてゐなくてはならない人間であることも事実である。僕はどうしたつてこの事実より外に真理はないのだと思ひます。これ以上の真理はあつても、それ以外の真理はあるまい。したがつて僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアツトであると共に日本主義者である。僕のこの峻烈な立場からいつて、どうしても君の態度が生温くて、稀薄であるやうで実は反感をさへ感じてゐる。むろんこれが生温いのが当然であるはずの大学教授輩の思想なら僕は唯唾でもはきかけてをればそれで済むことなんだけれど、少くとも君がだよ、未来日本の予言者であり   であらうとする君の思想のうちに発見される傾向としては、第一何故どうして、そんな風になるのか不思議な位だよ。僕はこうも思つた。――若し君が真に生温い思想をもつてゐるのなら現代の進化のために君に強力をもつてしても沈黙してもらはなくてはならないかもしれない、とね。」

何か答へなくてはならないのだらうが、北は何も言へなかつた。丘が今、めづらしい白熱した雄弁で語つてゐることは自分自身も幾度かくりかへして頭脳の熔鉱炉で融かし、ふみ越えた思想であつたからだ。丘も黙つて自分を見上げた。この上黙つてゐては、勝手に此方が負けたやうに早合点されるのも嫌であるし、それに自分は丘のしやべつてゐるうちに外面の剛直らしい裏に、正直な、人間らしい、真情のかよつてゐるのをも発見してゐたから。

「しかし、」と北は静かに云つた。「君が云ふ真理以上の真理もある。」

「奇蹟かね それとも不滅の真理と云ふんかね。――不滅、永遠と云ふことがすでに幽霊じみて、宗教的で、変ぢやないかね。永遠の真理と云ふことは(永遠に実現されない真理)といふことぢやないかね。何故なら、実現されゝば恐らくその真理にはもう用はないのだから。僕の国家社会主義はむろん永遠の真理ではないかもしれない――今日ある二三のつまらぬ官僚の古手等の公唱してゐる国家社会主義はあれあニセモノだよ。あれといつしよにしては困るよ、あれは私利の仮面、己のは真理だ、現実的真理だよ、しかし、実に目前に吾等がやらうと思へば実現出来るだけ、それだけ僕達には偉大なる真理であると感じられる。実際、今日、日本を救ふものはこれより外にいかなる経綸があり得ようか。内面的平等化の充実によつて、自分等の生を地上に充溢させるより外には!」

彼は息をついで更につゞけた。

「僕達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じように僕達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する。僕のこの主張は一見極めて野蛮で、非文明的で、主我的のやうに見えるが、現代には之が正義でそして真理なんである。それは僕達が第四階級であると云ふこと自身が自己主張を真理ならしめてゐるのだ。僕達がアングロサキソンであつたりチユウトンであつたり印度人であつたり、ホツテントツト人であつたり千万長者であつたり大工場主であつたならそれは真理ではない。何故なら、それは必ず理知より来る虚偽であるからだ。そして、今日の国際聯盟は世界的大強盗の相談だよ。そんなに早く永久平和が来てたまるかい。君の云ふやうな(地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和)といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか、二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ。そしてそれは必ず実行されるに違ひないのだ。僕はさうしたら、先づ今日   階級の          し、今日民衆の膏血によつて紅白粉で嬌態をつくつてゐる令嬢と称し夫人と称する         つけて、人類創草以来の祖先達の遺恨を晴らしてやらなくては承知しないのだ。ほんとに僕は、苦しい時、虐げられるとき、どうにもこうにもならない時、僕はさうした勝利の日を想像して僅かに自分の     制抑してをる。一切の屈辱一切の苦痛は僕をして、さうした日の復讐をいつそう合理的だと云ふ信念を堅めるに過ぎない。今日絹をきて、ぜい沢な食事をとつてゐる紳士といふ               にして令嬢と夫人をことごとく赤い腰巻     銀座街頭に行列を作らせなくては僕は承知出来ないものだ。そして同じように僕は地球全部にはびこる白人種を    にはゐられないのだ。」

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