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次郎物語 04 第四部
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次郎物語 04 第四部
下村湖人
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Chapter 7 of 15

七 父兄会

生徒たちが、学校で、多少劇的ではあるが、この上もなく無作法な会合をやっていたのとほとんど同じ時刻に、すぐ隣りの県庁の二階の一室では、大人たちがおたがいに相手の肚をさぐりあいながら、表面は至極礼儀正しい物の言い方で、生徒たちのことについて「懇談」を重ねていたのだった。

この席につらなったのは、学校関係の県庁の役人数名、花山校長、それに二十数名の父兄たちであったが、そのほかに、警察と憲兵隊のかただといって特別に紹介された私服の人が二人、県庁の役人たちのうしろに、始終さぐるような眼をして陣取っていた。

主催者は、実際はとにかくとして、名目上は花山校長だった。そのあいさつによると、本来なら五年全部の父兄に学校に集まってもらわねばならないところだが、それではかえって生徒を刺戟する恐れもあり、結果が面白くないと思ったので、県当局のご好意に甘えてこの一室を拝借し、一先ずごく少数の父兄だけに集まってもらって、内密に懇談することにしたというのである。

校長のあいさつが終ると、すぐ、一父兄から、今日集まった父兄はどういう標準によって選び出されたのか、という、ちょっときわどい質問が出たが、これに対しては、校長は案外まごつきもせず、むしろそうした質問を期待して答弁を用意してでもいたかのように、いくぶん調子づいて答えた。

「それは県ご当局とも十分お打合わせいたしました結果、学業の成績も相当で、校内で何かの役割をもっている生徒の父兄の中から、各方面の有力な方々を、というような標準でお願いいたしましたような次第です。むろん皆さんのほかにもそういうお方がまだいられると思いますが、あまり多人数になりましてもどうかと存じましたし、なお急いでお集まり願う必要もありましたので、だいたい数を二十名程度にして、なるべく近くにお住まいの方々だけにご案内を差上げましたようなわけで……」

俊亮もその席につらなった一人だったが、彼はどう考えても自分が社会的に有力な地位にある人間だとは思えなかった。馬田の父も来ていた。彼は県会議員だったので、その点では有力な代表者であったかも知れない。しかし、学業成績のよい生徒の父兄であるとは、恐らく彼自身でも考えていなかったろう。列席した父兄の名簿が謄写版ずりにして渡されていたが、その中には、平尾、田上、新賀、梅本、大山、そのほか、よかれあしかれ教師側の注目をひいている、おもだった生徒の父兄の名がならんでいた。そしてどの父兄の顔にも困惑の色がうかんでおり、中には、「ただ今の校長先生のお言葉の通りですと、ほかの方のことは存じませんが、私だけは、どの点から考えましても、この席につらなる資格がなさそうに思えますが、或はどなたかのまちがいではありますまいか。」と、真実不思議そうな顔をしてたずねたものもあった。みんなの中で、校長の言ったすべての条件を完全に具備している人があったとすれば、それは恐らく平尾の父だけだったろう。彼は弁護士で、次期の最も有力な市長候補だと噂されている人だったのである。

校長の説明のあとで、まだ三十歳には間のありそうな、色の白い、いかにも才子らしい顔をした学務課長が立ちあがって言った。

「実は、先生の留任運動というようなことは、本来なら学校だけで処理していただくべき性質のものですが、何しろ、生徒からの願書が校長さんだけにあてたのでなく、知事宛にもなっていますし、なお朝倉教諭退職の理由については、県として直接皆さんの御諒解を得ておく方がいい、という事情もありますので、私共もこの席に顔を出さしていただくことになったわけであります。何だか変な会合だとお感じの方もおありのことと存じますが、その点あらかじめお含みを願っておきます。」

そういう前置をして、課長は、最初のうちはいかにも周囲をははかるように声をひそめ、あとではむしろ煽動演説でもやっているように興奮した調子で、県が朝倉教諭に辞表提出を要求するにいたった事情を説明したが、その事情というのは、要するに教諭の「失言」であり、「教育者として慎重を欠いた時局批判」であり、「自由主義的反軍思想」であり、そして「生徒を反国家思想に導くおそれのある教育態度」であった。そして最後に次のようなことを言って腰をおろした。「かようなわけで、朝倉教諭には全然同情の余地がなく、退職はすでに決定的のことになって居りまして、どんな運動も絶対に無効であります。そうした事情を、みなさんが父兄としての立場から、各家庭でとくと生徒にお話し下さることが、この際何よりも大切ではないかと存じます。それでも生徒の方で運動をやめないといたしますと、それは朝倉教諭の思想にかぶれた思想運動と認めるほかありません。そうなりましては、事は極めて重大でありまして、時節がら、むろん学校だけでは処置が出来なくなりますし、或いは思わぬ犠牲者を生徒の中から多数出すような結果にならないとも限らないのであります。さきほどの校長のお言葉によりますと、皆さんは校内で何かの役割をもっている生徒の父兄であられるとのことでしたが、そういう生徒は、自然それだけ他の生徒に対する影響力も大きいわけでありますから、特に皆さんのお骨折をお願いしたいと存するのであります。もし皆さんのお骨折によりまして、一般の父兄の方々には少しも心配をおかけしないで事件が解決する、というふうにでもなりますと、まことに結構であります。県といたしましては、実は、内々そういうことを皆さんにご期待申上げて、お集まりを願ったようなわけでありますから、どうかそのおつもりで、ご懇談をお願いいたしたいと存じます。」

父兄の中からは、しばらく誰も発言するものがなかった。「他の生徒に対する影響力」という課長の言葉は、いい意味にも悪い意味にもとれ、自分の子供の成績がさほどでもないのを知っている父兄にとっては、それがいよいよ不安の種になるのだった。

「平尾さん、いかがでしょう。あなたのご令息は成績はいつも一番であられるそうですし、校友会の総務もやっていられると承っていますが、あなたのような方から最初に何かご意見を出していただけば、他の方のご参考にもなると存じますが……」

課長が、しばらくして、意味ありげに平尾の父をうながした。すると、平尾の父は、

「いやあ――」

と、両手で白髪まじりの頭をうしろになで、ちょっと馬田の父の顔を見た。それから、かけていた金ぶち眼鏡をはずし、指先でしきりに眼のくぼをこすりながら、いかにも言いしぶるように、とぎれとぎれに言った。

「私のせがれは、今度の問題では生徒代表の一人に加わって、校長先生にいろいろご無理なことをお願いにあがっているようで、まことに申しわけない次弟です。しかし、本人が私に話しましたところによりますと、これは決して本人自ら進んでやっていることではないようでありまして、……率直に申上げますと、実は本人は最初から今度の事には絶対反対だったのですが、校友会の総務におされている関係上、むりやりに表面に立たされているというようなわけで、……こう申しますと、何だかいいわけがましくなりますが、私は何もそれで責任をのがれようというのではありません。本人の意志であろうとなかろうと、一旦本人が代表たることを引受けました以上、それだけの責任は取らせなければなるまいかと、それは私も覚悟いたしているのです。」

彼はそこまで言って眼をこするのをやめ、眼鏡をとりあげてそれをかけると、一わたりみんなの顔を見まわした。そして今度は急に声に力を入れて、

「ただ、私がせがれのことを申上げますのは、今度の問題がよほど巧妙に仕組まれていて、恐らくたいていの生徒は自分でも気づかないうちに、とんでもないところに引きずって行かれるのではないかと、それを心配いたすからです。元来、私のせがれは、……親の口からこんなことを申してはお耳ざわりかと存じますが、どちらかというと万事につけ思慮深い方で、今度の問題でも、先ほど申しますとおり、最初から慎重に考えて反対をとなえたのですが、どうもその反対を押しとおすわけにはいかない事情がある。と申しますのは、留任運動の急先鋒、……それは朝倉先生と何か思想的に深い関係をもっている四五名の生徒だということですが……その急先鋒の生徒たちが表向きに主張していることが至極もっともらしい主張で、誰も正面から反対の出来ないようなことらしいのです。つまり、自分たちは自分たちの真情を披瀝するだけで、なにも不穏な行動に出ようとしているのではない。むしろストライキなどのような、不穏な行動に出るのを防ぐために、血書を書き血判を求めたのだ。もしそれにも反対する生徒があったら、その生徒こそ却って全生徒を不穏な行動にかり立てる者ではないか、というのだそうです。なるほど血書や血判などということは、おだやかではないにしても、生徒の分をこえた行動だとは必ずしもいえない、青年としては、そのぐらいのことをしないでは、本気で留任運動をやったような気がしないだろう、とも考えられますし、それもいけないとなると、自然、もっと悪い方法で感情のはけ口を求める、というようなことにもなるかと存じます。そんなようなわけで、私のせがれも、正面から反対も出来ず、つい代表の一人に加わったというようなわけですが、……ところで、それでは、ストライキのような不穏な行動がそれで実際にくいとめられそうかというと、どうもそうではないらしい。それどころか、血書や血判までして願っているのに、それを容れてくれない、おめおめと引っこんでおれるか、といったような気分が次第に濃厚になって来るらしいのです。私の考えるところでは、ここが非常にかんじんな点で、どうも最初からそうした青年心理をねらって、血書とか血判とかいうことが仕組まれているのではないか、という気がいたすのです。せがれが毎日学校で生徒の動きを見て来ての話によりますと、急先鋒の生徒たちは表立った会合の席ではあくまでストライキに反対をとなえながら、蔭ではひとりびとりの生徒をつかまえて悲憤慷慨したり、ひそひそとストライキの時期や方法などを話したりしているそうですが、そういうことをききますと、いよいよ私の想像があたっているように思えてならないのです。とにかく、今度の問題は私の見るところでは、決して単純な性質のものではありません。大多数の生徒は、純真な留任運動だと信じてやっているのかも知れませんが、中心になって動いている数名の生徒たちは、決してそうではないと存じます。何でも、その生徒たちは頭もいいし、読書力もあり、いろんな方面の思想にもふれているそうですが、そのうえに、背後から糸をひいている人物もあるらしく想像されますので、われわれ父兄といたしましても、うっかりして居れないかと存じます。」

平尾の父は言い終って眼鏡をはずし、謄写刷の父兄名簿を眼のまえすれすれに近づけて、左右に視線を動かした。すると、馬田の父が、

「ちょっとお伺いいたしますが――」

と、いんぎんな、しかしどこかにとげのある調子でたずねた。

「お話の通りですと、中心になって動いている生徒はごく少数のようですが、もしおさしつかえなかったら、その名前をはっきり言っていただきたいのですが。」

「名前までは、実は、私、たしかめて居りませんので……」

と、平尾の父はいかにも当惑したように頭をかいた。

「ご令息のお口から、それをおききにはなりませんでしたか。」

「私も、実は、その名前がはっきりすればいいと思いまして、一度たずねてみたこともありますが、せがれの方では、それだけは親にも言いたくないと申すものですから、しいてはたずねないことにしています。あの年輩では、こういうことには妙に義理固いものでして、これは、みなさんにもご経験のあることだと存じますが……ははは。」

馬田の父は笑わなかった。ほかの父兄たちも、にこりともしないで默りこんでいる。何だか平尾の父の笑声がにげ場を失って、戸まどいしているという感じだった。

「みなさん、いかがでしょう――」

と、課長がとりなすように、

「ただ今の平尾さんのお話でよほど真相がはっきりして来たようですが、みなさんからも、ご存じの事実なり、ご判断なりをご腹蔵なくお聞かせ願えれば、なお一層はっきりすると存じますが。」

みんなはおたがいに顔を見合わせただけで、やはり默っている。俊亮は、最初から、腕組をして眼をつぶり、少しのけぞり加減に椅子の背にもたれていたが、この時、ちょっと眼をひらいて課長を見た。しかし、すぐまた眼をつぶってしまった。

「馬田さん、何か……」

課長はこびるような笑顔をして、馬田の父を見た。

「いや、私はきょうは何もしらないで参ったようなわけで。……さきほどからいろいろと承って、内々おどろいている次第です。」

「朝倉教諭のことが問題になっていたことは、むろんご存じだったろうと思いますが。……」

「ええ、それは非公式にいろんな方面からきいてはいました。しかし生徒がそのために血書を書いたり、血判をしたりしたことなんか、全く初耳です。せがれは、そんなことについては、私には何も言わないものですから……」

そう言って、彼はちょっと首をかしげたが、

「しかし、とにかく、これは何とかして早くおさまりをつけなければなりますまい。私も及ばずながら出来るだけのことはいたします。きょう帰りましたら、早速せがれに十分言いきかせまして、少くとも私のせがれだけは、責任をもってこの運動から手をひかせましょう。」

「どうか、ぜひ、そんな工合におねがいいたします。みなさんがめいめいにそんな工合にしていただくと、あるいはひとりでに解決するのではないかとも存じますので……」

馬田の父はまた首をかしげた。そして、じろりと花山校長の顔を見たあと、みんなを見まわし、皮肉な調子で言った。

「どうでしょう、みなさん。さきほどからの課長のお言葉では、どうやら、きょう集まった私ども父兄の肩に全責任がかかっていそうに見えますが、そのつもりでご相談いたすことにいたしましては。」

「いや、そういうわけでは……」

課長はあわてて言葉をはさんだが、馬田の父は、それに頓着せず、

「しかし、それにしましても、学校の方で、この事件について、これまでどんなふうに生徒を指導していただいたか、それをくわしく伺っておきませんと、工合がわるいと存じますが……」

父兄の中には大きくうなずいたものも一二名あったが、大多数は何か気まずそうに視線をおとしていた。俊亮は相変らず默然と眼をとじたままである。

「ごもっともで、ごもっともで――」

と、花山校長は半ば腰をうかすようにして、

「実は、そのことにつきましては、生徒を集めまして、私からとくと訓戒する手筈にいたしておりますが、まだ、ちょうどよい機会がありませんので……」

「機会がないと仰しゃいますと?」

「実は、県ご当局との打合わせや何かで……」

「すると、生徒の方はまだ放ってあるというわけですね。」

「いや、四人の代表とは毎日会っておりますので、その四人を通じて、私の考えはほかの生徒たちにも伝わっておるはずでございます。」

「校長としてはそれで十分だと仰しゃるのですね。」

「いや、そういうわけではありません。しかし、今のところ、多数の生徒を集めたりしますと、それが却って悪い結果にならないとも限りませんので。……これは実は県ご当局からのご注意もありましたことで。」

「しかし、生徒の方では勝手に集まっているだろうと思いますが、どうでしょう。」

「はい、それは、……校友会の委員だけでは、いつも自由に集まれるようになっておりますので。」

「その集まりにも、校長さんはまだ一度もお顔をお見せになっておりませんのでしょうか。」

「それも実は、県当局のご意見で、一先ずほかの教師が出て、懇談的に生徒の考えをきいてみよう、ということになっておりますようなわけで……」

父兄たちは、にが笑いをおしかくすのに骨が折れるらしかった。俊亮も、さすがに眼を見ひらいて、あきれたように校長の顔を見た。平尾の父は眼鏡をはずして眼をこすっており、馬田の父は憤然として課長の顔を見た。すると課長が言った。

「そのことについては、事件の性質上、この場合、配属将校にご苦労をお願いするのが一番適切ではないかと考えまして、実は西山教頭とお二人で、十分説得していただくようにお頼みしてあるのです。多分、きょうあたり、お二人でその席に顔を出されたのではないかと存じますが。」

この時、よれよれの浴衣に古ぼけた袴といういでたちではあるが、何となく気品のある眼鼻立ちをした白髯の老人が、だしぬけに立ち上って言った。

「私は田上と申す者で、五年級にお世話になっている田上一郎の祖父でございます。先程からだんだんお話を承りまして、きょうのお集まりのご趣旨は、もう十分わかりましたことですし、この上は学校と父兄とよく協力いたしまして、それぞれの立場で、出来るだけのことをいたすよりほかないと存じます。それにつきまして、私は平尾さんにちょっとお伺いしておきたいのですが、さきほどあなたのお言葉で、急先鋒になっている数名の生徒があって、それが何か思想的な背景をもって動いているというように承ったのでございますが、その数名の生徒の中に、私の孫が加わっているというようなことはありますまいか。もしご存じでしたら、ご遠慮なくそう言っていただきたいのですが。」

「それは、さっき馬田さんにも申しました通り……」

「なるほど、ご令息が名前を秘密になさるということも、一応うなずけないことはありません。しかし、私の孫もご令息と同様、校友会の総務とかに選ばれていますし、自然、何かのことがお耳にはいっているのではないかと存じますが……」

「いや、いっこう。」

「はっきり言うのが気の毒だとか、或は、万一ちがっていたらあとが面倒だ、とかいうようなことで、仰しゃっていただかないのではありますまいね。」

「いいえ、決してそんなわけでは……」

「こういう場合には、多少疑わしいことでありましても、おたがいに見たまま聞いたままを、ざっくばらんに話しあってみる方が、却ってよろしいかと存じますが。」

「ごもっともです、実は、それで、私も私の知っている限りのことを申し上げたようなわけで……」

田上老人はまだ納得しかねるといった顔付をして、立ったままでいる。

すると俊亮が、今までとじていた眼を見ひらいて、微笑しながら言った。

「田上さん、そのことなら、あなたのお孫さんは恐らくご心配ありますまい。何でしたら、私、よくたしかめた上で、お知らせ申上げてもいいのですが。」

「あなたが? 失礼ですが、あなたはどなたで……」

と、田上老人は自分のまえの名簿をひきよせた。

「本田ですが……」

「ああ、本田さん。……すると、何ですか、あなたはこの件について何かくわしいことをご存じのお方で?」

「くわしいというほどのことは存じていませんが、平尾さんのおっしゃった急先鋒のうち、一人だけよく存じていますので。」

「ほう。」

と、田上老人は、眼をかがやかした。しかし、今度はその名前を発表せよとは言わない。みんなはさっきから一心に俊亮の顔を見つめている。

俊亮はにこにこしながら、

「その一人というのは私のせがれで、実は血書を書いた本人です。」

「ほう。」

田上老人はまたほうと言った。そして自分がまだ立ったままでいたのに気がついたらしく、いそいで腰をおろしたが、視線は俊亮に注いだままであった。みんなの視線も動かなかった。石のような沈默の中で、俊亮だけがあたりまえの息をしている。

「血書を書くなんて、どうもなま臭くて、私もそれを知りました時は、あまりいい気持はいたしませんでしたが、しかし、せがれにとりましては、それが精一ぱいの良心的な仕事だったらしく思われましたので、むりにやぶいて捨てろとも言いかねたのです。その血書がもとで、各方面に大変なご心配をおかけするようなことになりまして、私といたしましては、ちょっと意外にも感じ恐縮もいたしているわけです。」

俊亮は、しかし、心から恐縮しているような様子には見えなかった。

父兄たちの視線がつぎつぎに俊亮をはなれて課長と校長に注がれた。二人は、その時、頬をすれすれによせて、何かささやきあっていたが、しばらくして、課長が言った。

「本田さん、よく思いきっておっしゃっていただきました。父兄の方から進んでそういうことを打ちあけていただくということは、決して生徒の不利にはならないと存じます。その点につきましては、県といたしましても、学校といたしましても、十分考慮いたしまして、すべてを処置して行く考えでございますから、どうか御安心を願います。」

俊亮は苦笑しながら、

「私はべつに思いきってお話しいたしたわけでもなく、また、お話しいたしましたことが、せがれの不利になるとか有利になるとか、そんなことを考えていたわけでもありませんが……」

「いや、お気持はよくわかっています。」

と、課長はひとりでしきりにうなずいた。そして両手を鼻の先でもみながら、しばらく眼をおとしていたが、ふと考えついたように、

「で、いかがでしょう。本田さん。私は、この事件をおだやかに解決するには、ともかくもあの血書を撤回してもらわなければならないと思いますが、ご令息によくお話し下すって、そういう方向に導いていただくわけにはまいりますまいか。」

「それは私にはうけあいかねます。」

俊亮の言葉は、みんなをはっとさせたほど、はっきりしていた。

「むろん、課長さんのお言葉は間違いなくせがれに伝えるつもりではいますが。」

「お伝え下さるだけでなく、あなたから説得していただくというわけには参りませんか。」

「ご希望であれば説得もいたしましょう。しかし、それには限度があります。せがれの良心を眠らせるような説得は私には出来かねますので。」

「すると、あなた自身、血書を撤回することが、ご令息の良心に背くとでもお考えでしょうか。」

「いや、必ずしもそうだとは考えていません。しかし、こう申しては何ですが、今度の問題につきましては、せがれは、最初からあくまでも良心的に動いているように思えますし、その点では、親の私でさえ頭がさがるような気がいたしますので、私は、最後まで、せがれ自身の良心に訴えて行動させたいと思っているのです。むろん、まだ中学生のことで、いろいろ小さな点で思慮の足りないところもありましょう。事実、本人もあとで後悔したりしたこともあるようです。しかし根本の筋道さえ誤っていなければ、小さな過ちは却って反省の機会になっていいことだと思いますので、あまり立ち入ったことは言わない方針です。」

課長は校長と顔を見合わせた。うしろにいた警察と憲兵隊の二人は、何かささやきあいながら、名簿と俊亮の顔とを何度も見くらべている。父兄たちの表情はまちまちで、ある者は心配そうに俊亮の顔をのぞき、ある君は急に腕組みをして居すまいを正し、またある者は自分の顔をかくすようにして警察と憲兵隊の二人を見た。

しばらく重い沈默がつづいたあと、課長は少し興奮した調子で言った。

「ご家庭での教育のご方針については、私共から立ち入ってとやかく申上げる筋ではありませんが、今度の問題について、ご令息が根本の筋道を誤っていられないとお考えになるのは、どういうものでしょうか。先ほど私から委しく申上げましたような事情がおわかり下されば、そうは考えられないと存じますが……」

「私は、せがれが朝倉先生をお慕い申上げるのは当然だと思いますし、またその気持に少しも濁ったところはないと信じておりますので……」

「しかし、それは朝倉教諭がりっぱな教育者であるということを前提にされてのことでしょう。」

「むろんそうです。私は、朝倉先生ほどの教育者は、今の日本には全く珍らしいとさえ考えているのです。」

「すると、私が教諭の人物について申上げたことは、嘘だとお考えでしょうか。」

俊亮はまた苦笑しながら、

「あなたが故意に嘘をおっしゃったとは考えていません。判断のちがいだと思っているのです。」

「教諭が失言したというのは、たしかな事実ですが、それについてはどうお考えですか。」

「失言というお言葉が、実は、私には腑におちないのですが……」

「すると教諭の言ったことは正しいとお考えですね。」

「極めて正しい警世の言葉だと思っています。」

「警世のお言葉ですって?」

「そうです。国民が自分の判断力をねむらせて、権力に追随する危険を戒めた、警世の言葉だと思っているのです。」

「その奥に反軍思想があるとはお考えになりませんか。」

「そうは考えません。反暴力思想があるとは考えていますが。」

憲兵隊員が県の属官に耳うちした。すると属官がまた課長に耳うちした。課長は上気した顔をしてそれをきいていたが、二三度かるくうなずいたあと、何か決心がつかないらしく、じっと眼をおとして考えこんだ。すると平尾の父が、

「本田さん、いかがでしょう――」

と、気づまりな空気をほぐすように、いかにもわざとらしい、くだけた調子で言葉をはさんだ。

「問題の根本の見方については、いろいろ意見もありましょうが、さきほどあなたご自身でもお認めのとおり、血書とか血判とかいうことは、とにかくおだやかでありませんし、それに第一、知事さんを相手にしているという点が、中学生らしくない、非常にませたやり方で、背後に何か思想的な関係がありはしないか、というような疑問も、自然、そういうところから生じて来るのではないかと思います。で、いかがでしょう。あの陳情書だけは、ともかくも一応徹回させるように、おたがいに尽力してみましては。」

「承知いたしました。」

と、俊亮は案外あっさりと答えたが、

「ただ、さきほど課長さんにも申上げましたように、それにはある限度がありますので、その点はあらかじめご承知おき願います。」

「その限度とおっしゃる意味は?」

「実は、せがれ自身、今では、血書を書いたのを多少恥じているようにも見うけますので、本人だけなら、むしろ喜んで撤回する気になるかも知れません。しかし、あの血書は、もうせがれ一人のものではなくなっていますし、自分が書いたから自分の勝手になる、というものではありません。ことに、沢山の生徒が血判までやっているとしますと、今さら撤回するなどとせがれが言い出しましたら、どういう結果になりますか、そこいらのことは、せがれ自身に慎重に考えさせたいと思います。」

「なるほど、ご令息としては、そりゃ、すいぶん言い出しにくいことでしょう。しかし、そこを押しきってもらうことが、今の場合必要なことですし、またそれがご令息の責任ではないか、と思いますが……」

俊亮は、けげんそうに相手の顔を見た。が、すぐ、

「せがれは多分、結果をますます悪い方に導くような事はしたがらないだろうと思います。そこはせがれの良心を信じて下すってもいいと思いますが。」

今度は平尾の父がけげんそうな眼をした。そして何か言おうとしたが、ちょうどその時、道一つへだてた中学校の正門のあたりから、にわかに、さわがしいどなり声や、やけに声をはりあげた校歌の合唱がきこえて来た。

みんなの注意はその方にひかれた。中には席を立って窓から下を見おろすものもあった。花山校長もその一人だったが、その顔付は変に硬ばって血の気がなかった。

生徒たちは、しかし、計画的に集団行動に出ているようなふうには思えなかった。彼らは校門を出ると次第にばらばらになりながら、いかにも興奮した調子でお互いに何か言いあっていた。

少しおくれて、次郎が左右から二人の生徒に扶けられるようにして出て来るのが、俊亮の眼にとまった。俊亮は席についたまま顔だけを窓の方にねじむけていたが、校門がちょうどその窓から見とおしになっていたので、それが偶然よく見えたのである。彼も、さすがにはっとしたように、椅子から立ち上って窓ぎわに行った。そして、腕組をして三人の様子を見まもりながら、何度も首をかしげた。

Chapter 7 of 15
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