三 大河無門・平木中佐
昼近くになっても、次郎は広間を出なかった。陽を背にして窓によりかかったままぼんやり塾生名簿を見たり、眼をつぶったり、床の間の掛軸をながめたりして、落ちつかない気持ちを始末しかねていたのである。
「あら、次郎さん、朝からずっとこちらにいらしたの?」
和服の上に割烹着をひっかけた朝倉夫人が廊下の窓から顔をのぞかせ、不審そうにそう言ったが、
「ご飯はこちらでいただきましょうね。そのほうがあたたかくってよさそうだわ。じゃあ、すぐはこびますから、先生をお呼びして来てちょうだい。」
と、すぐ顔をひっこめた。
次郎は返事をするひまがなかった。というよりも、変にあわてていた。かれはいきなり立ちあがって、部屋の片隅につみ重ねてあった細長い食卓の一つを、陽あたりのいい窓ぎわにおくと、走るようにして空林庵に朝倉先生をむかえに行った。
二人が広間にはいって来た時には、朝倉夫人は、もう食卓のそばにすわっていた。
「今日はどんぶりのご飯でがまんしていただきますわ。でも、中身はいつもよりごちそうのつもりですの。」
「そうか。」
と、朝倉先生は、どんぶりのふたをとりながら、
「よう、鰻どんぶりじゃないか。えらく奮発したね。」
「三人だけでご飯をいただくの、当分はこれでおしまいでしょう。ですから――」
「なあんだ、そんな意味か。そうだとすると、せっかくのごちそうだが、少々気がつまるね。」
「どうしてですの。」
「女にとっては、やはり小さな家庭の空気だけが、ほんとうの魅力らしい。そうではないかな。」
「あら、あたし、つい女の地金を出してしまいましたかしら。自分では、もうそれほどではないと思っていますけれど。」
「ふ、ふ、ふ。私もそれほど深い意味でいったわけでもないんだ。」
朝倉先生はそう言って笑ったが、すぐ真顔になり、床の間の「平常心」の軸にちょっと眼をやった。そして、箸を動かしながら、しばらく何か考えるようなふうだったが、
「むずかしいもんだね。今度でもう十回目だが、私自身でも、いざ新しく塾生を迎えるとなると、やはりちょっと悲壮な気持ちになるよ。」
次郎は先生の横顔に眼をすえた。すると、先生はまた、じょうだんめかして、
「やはり、うなどんぐらいの壮行会には値するかね。はっはっはっ。」
それで夫人も笑いだした。しかし次郎は笑わなかった。先生はちらっと次郎の顔を見たあと、
「しかし、うなどんぐらいでごまかせる悲壮感でも、ないよりはまだましかもしれない。元来愛の実践は甘いものではないんだからね。愛が深ければ深いほど、そして愛の対象が大きければ大きいほど、その実践には、きびしい犠牲を覚悟しなけりゃならん。十字架がそれを証明しているんだ。だから、悲壮感は決して恥ではない。むしろ悲壮感のない生活が恥なんだ。」
「すると、平常心というのは、どういうことになるんです。」
次郎がなじるようにたずねた。
「悲壮感をのりこえた心の状態だろう。」
「のりこえたら、悲壮感はなくなるんじゃないですか。」
「そうかね。」
と、先生は微笑して、
「金持ちが金をのりこえる。必ずしも貧乏になることではないだろう。」
「ほんとうにのりこえたら、貧乏になるのがあたりまえじゃないですか。」
「じゃあ、知識の場合はどうだ。学者が知識をのりこえる。それは無知になることかね。」
次郎は小首をかしげた。朝倉先生は、箸をやすめ、夫人に注いでもらった茶を一口のんでから、
「水泳の達人は、自由に水の中を泳ぎまわる。水はその人にとって決して邪魔ではない。それどころか……」
「わかりました。」
次郎はきっぱり答えた。しかし、それがいつもそうした場合に二人に見せる晴れやかな表情はどこにも見られなかった。かれはむしろ苦しそうだった。おこっているのではないかとさえ思われた。
「今日は、次郎さんはどうかなすっているんじゃない?」
朝倉夫人が、不安な気持ちを笑顔につつんでたずねた。次郎がむっつりしていると、今度は朝倉先生が、
「やはり悲壮感かな。それにしても、いつもとはちがいすぎるようだね。そろそろ塾生も集まるころだが、何か気になることがあるんだったら、その前にきいておこうじゃないか。」
次郎はちょっと眼をふせた。が、すぐ思いきったように、
「荒田さんは、このごろどうしていられるんですか。」
かれの心には、むろんこの場合にも道江のことがひっかかっていた。むしろそのほうが荒田老以上に彼をなやましていたともいえるのだった。しかしそれは口に出していえることではなかったのである。
朝倉先生は、ちょっと眼を光らせて次郎の顔を見つめたが、すぐ笑顔になり、
「なあんだ。荒田さんのことがそんなに気になっていたのか。なるほど、あれっきり、こちらには見えないようだね。しかし、大したこともないだろう。何かあったところで、うなどんで壮行会をしてもらったんだから、だいじょうぶだよ。はっはっはっ。」
朝倉先生は、いつになくわざとらしい高笑いをして箸をおいた。そして、茶をのみおわると、ふいと立ちあがり、そのまま空林庵のほうに行ってしまった。
次郎は、むろん、にこりともしなかったし、朝倉夫人も今度は笑わなかった。二人はかなりながいこと眼を見あったあと、やっと食卓のあと始末にかかったが、どちらからも、ほとんど口をきかなかった。
食卓がかたづくと、次郎はすぐ玄関に行って、受付の用意をはじめた。用意といっても、小卓を二つほどならべ、その一つに、塾生に渡す印刷物を整理しておくだけであった。
朝倉夫人も、間もなく和服を洋服に着かえて玄関にやって来た。洋服は黒のワン・ピースだったが、それを着た夫人のすがたはすらりとして気品があり、年も四つ五つ若く見えた。夫人は、受付をする次郎のそばに立って、塾生に印刷物を渡す役割を引きうけることになっていたのである。
二時近くになると、ぼつぼつ、塾生が集まり出した。リュック・サックを負うたものもあり、入塾のためにわざわざ買い求めたとしか思えないような真新しい革のトランクをぶらさげているものもあった。たいていは、カーキ色の青年団服だったが、中に四五名背広姿がまじっており、それらは比較的年かさの青年たちだった。
どの顔もひどくつかれて、不安そうに見えた。これは、毎回のことで、決してめずらしいことではなかった。入塾生の大部分は、東京の土をふむのがはじめてであり、それに一人旅が多い。募集要項の末尾に印刷されている道順だけをたよりに、東京駅や、上野駅や、新宿駅の雑踏をぬけ、池袋から私鉄にのりかえて、ここまでたどりつくのは、かれらにとって、なみたいていの気苦労ではなかったのである。
次郎は、青年たちのそうした顔が見えだすと、もう荒田老や道江の顔など思い出しているひまがなかった。かれは、かれらがまだ玄関に足をふみ入れないうちに、何かと歓迎の気持ちをあらわすような言葉をかけた。そして、かれらの名前をきき、それを名簿とてらしあわせて、到着のしるしをつけおわると、すぐかれらに朝倉夫人を紹介した。
「この方は、塾長先生の奥さんです。期間中は、あなた方のお母さん代わりをしていただく方なんです。」
それをいう時のかれの顔はいかにも晴れやかで、得意そうだった。朝倉夫人は、
「よくいらっしゃいました。おつかれでしょう。」
と印刷物を渡しながら、ひとりひとりに笑顔を見せるのだったが、青年たちのつかれた顔は、夫人の聡明で愛情にみちた眼に出っくわすと、おどろきとも喜びともつかぬ表情で急に生き生きとなるのだった。次郎にとっては、青年たちのそうした表情の変化を見るのが、受付をする時の一つの大きな楽しみになっていたのである。
到着は午後四時までとなっていたが、その時刻までに、予定されていただけの顔が、全部異状なくそろった。みんなは、ひとまず広間に待たされ、受付が全部おわったところで各室に割りあてられた。総員四十八名、一室六名ずつの八室でちょうどであった。
朝倉夫人と次郎とは、みんなを各室におちつけてしまうと、事務室のストーヴにあたりながら、あらためて塾生名簿に眼をとおした。これは二人のいつもの習慣で、めいめいに、受付の際に自分の印象に残った青年たちの顔を、その中からさがすためであった。
「次郎さんは、もう幾人ぐらいお覚えになって?」
「さあ、十四五人ぐらいでしょうか。」
「もうそんなに? あたし、まだやっと五六名。」
「今度は、特徴のある顔が割合多いようですね。」
「そうかしら。あたし、そんなにも思いませんけれど。」
「こうして名簿を見ていますと、覚えやすいのは、比較的年上の人のようですね。やはり、年を食っただけ特徴がはっきりして来るんでしょうか。」
「それだけ垢がたまっているのかも知れませんわ。ほほほ。……だけど、ほんとうね。あたしが覚えているのも、たいていは年上の人だわ。大河さんっていう方もそうだし……」
すると、次郎は、急に名簿から眼をはなして、夫人の顔を見つめながら、
「その人、すぐ目につきましたか。」
「ええ、ええ、一目で覚えてしまいましたわ。名前からして、禅の坊さんみたいで、変わっていたからでもありましょうけれど。」
「その人ですよ。ほら、こないだ先生からお話があったのは。」
「はああ、あの、京都大学で哲学をおやりになって、今、中学校の先生をしていらっしゃるって方?」
「ええ、そうです。」
二人はあらためて名簿を見た。名簿には、それぞれの欄に、「大河無門、二十七歳、千葉県、小学校代用教員、中学卒」と記入してあり、備考欄には、「青年団生活には直接の経験なきも興味を有す」と何だかあいまいなことが書いてあった。
「これは本人から書いて来たとおりなんです。先生もそれでいいだろうとおっしゃったものですから。」
次郎はそう言って笑った。むろんこれには事情があったのである。
実は、大河無門は、一昨年の春京都大学の哲学科を出ると、すぐ母校である千葉県の中学校に奉職したが、もともと、いわゆる教壇的教育には大した興味も覚えず、もっと実生活にまみれた教育をやって見たいという希望を、たえず持ちつづけていた。そのうちに、たまたま友愛塾のことをききこみ、幸い任地から一日で往復できる距離でもあったので、ある日曜――それは一か月ばかりまえのことだったが――わざわざ朝倉先生をたずねて来て、塾長室で二人っきりで一時間あまりも話しこんだあと、すぐその場で入塾を決意し、その希望を申し出たのであった。
もし現職のままでは入塾ができないとすれば、すぐ辞表を出してもいいとさえかれは言ったのである。
朝倉先生は、話しているうちに、かれの決意がなみなみならぬものであるのを見てとった。同時にかれの人物に一種の重量感を覚えた。その重量感は、決してかれの言葉つきや態度から来るものではなかった。そうした表面にあらわれる言動の点では、かれはむしろ率直にすぎ、どこやらにおかしみさえ感じられるほどであった。しかし、それにもかかわらず、かれの人がら全体には、何とはなしに、どっしりしたものが感じられたのである。朝倉先生は、それを大河の人間愛の深さや思索の深さがそのまま実践力の強さになっているからであろう、というふうに判断したのだった。
しかし、先生は大河の人物に重量感を覚えれば覚えるほど、かれの入塾について、答えをしぶった。それは、自分の過去の経験から、かれのような人物をながく中等教育にとどめておきたいという気持ちからでもあったが、それよりも当面の問題として、かれを友愛塾の塾生としてむかえることに、ある不安が感じられたからであった。すべての点で一般の青年とはあまりにもへだたりのある人物が、指導者としてならとにかく、一塾生としてはいって来るということが、塾の性質上、はたしていいことかどうか。みんなが、貧しいながらも、それぞれの創意と工夫とをささげあって、集団の意志をねりあげ、共同の生活をもりあげていこうという、この塾の第一の眼目が、光りすぎた一人物の圧倒的な影響力によって、自然にくずれてしまうのではあるまいか。そうしたことが気づかわれたのである、
で、先生は最初、大河につぎのような意味のことを答えた。
「君のような人に、この塾の生活を十分理解してもらうということは、学校教育にも何かきっとプラスになることだと信ずるし、その意味で、むろん私としては、大いに歓迎したい。しかし普通の塾生として来てもらうには、君はもうあまりにレベルが高すぎる。こちらとしては取り扱いにも困るし、君としても物足りない気持ちがするだろう。で、学校の手すきの時に、おりおり見学といったようなことでやって来てはどうか。ここには君よりも三つ四つ年の若い助手が一名いるが、その助手に協力するといった立場で、見学してもらえば好都合だと思うのだが。」
大河は、しかし、そのすすめには全然応ずる気がなかった。かれは言った。
「僕はこれからの僕の教育生活の方向転換をする決心でお願いしているんです。そのためには、見学というような、なまぬるい立場では、どうしても満足できません。青年たちが共同生活をやって行く時の心の動きを、よかれあしかれ、その生活の内部からつかんでみたいんです。また、僕自身でも、青年たちと同じ条件で、その体験をみっちりなめてみたいんです。塾の根本方針は、お話で十分わかりましたし、むろん、出しゃばってリーダーシップをとったりするようなことは、絶対にいたしません。僕の学歴や職業が、ほかの塾生たちに何かの先入観を与えるというご心配がありましたら、ごまかしては悪いかもしれませんが、履歴書には何とか適当に書いておくつもりです。青年団生活にはまるで無経験ですし、ついでにそういうことも書きこんでおけば、青年たちに買いかぶられる心配もないだろうと思います。」
朝倉先生も、そうまで言われると、むげに拒むわけにはいかなかった。現職をなげうっても、というかれの決意には、冒険だという気がしないでもなかったが、一方では、かれほどの人物であれば、将来はまた何とでもなるだろう、という気もして、ついにその希望をいれてやることにしたのであった。
「やっぱり、ねえ。」
と、朝倉夫人は、いかにも何かに感動したように、名簿から眼をはなし、
「ほかの方たちとは、どこかにまるで感じのちがったところがありましたわ。」
「ぼく、名前がわかっていましたので、とくべつ注意していたんですが、あれですいぶんこまかいことに気のつく人のようですね。」
「そう? 何かありまして?」
「メモ用の紙が一枚、机の足のところにおちていたのを、来るとすぐひろいあげて、ぼくに渡してくれたんです。」
「そう? あたし、気がつかなかったわ。」
「その時の様子が、ちっともわざとらしくないんです。自分ではそんなことをしているのをまるで意識していないんじゃないかと思われるほど無表情だったんです。ぼく、それでよけい印象に残りました。」
朝倉夫人は、何度もうなずきながら、
「どうも、そんなたちの人らしいわね。白鳥会でいうと、大沢さんみたいな人ではないかしら。」
「どこかに共通したところがあるかもしれませんね。見た感じは、たしかに似ていますよ。」
「だけど、――」
と、朝倉夫人はしばらく考えてから、
「大沢さんのまじめさとは、ちょっとちがったところがあるようにも思えるわ。もっと自然なまじめさ、といったものが感じられるんではありません?」
「自然なまじめさ――」
次郎は口の中で夫人の言葉をくりかえした。
「こんなふうに言いますと、大沢さんのまじめさは不自然だということになりそうですけれど、それは悪い意味で言っているのじゃありませんの。ただ、大沢さんのまじめさには、いつも意志がはっきり出ていますわね。いい意味の政治性と言いますか、それが人がら全体にはっきり出ていて、無意識にものを言ったり、したりすることなんか、めったにないでしょう。」
「なるほど、そう言われると、大河という人には、政治性といったものがまるでなさそうに思えますね。」
二人は、その時めいめいに、背のひくい、肩はばの広い、頬ひげを剃ったあとの真青な、五分刈りの、そして度の強い近眼鏡をかけた丸顔の男が、のっそりと玄関にはいって来たときの光景を思いうかべていた。かれは黒の背広に黒の外套を重ねていたが、まず肩にかけていた雑嚢をはずし、それからゆっくりと外套をぬいで、ていねいに頭をさげ、次郎に向かって、いくぶんさびのある、ひくい、しかし底力のこもった声で、「千葉県の大河無門ですが」と言い、それから次郎にわたされた塾生名簿をすぐその場でひらいて、自分の名前のところを念入りに見たあと、紹介された朝倉夫人のほうにおもむろに眼を転じたのであった。
「白鳥会の仲間にも、これまでの塾生にも、あんな型の人はひとりもいなかったようですが、その点から言って、今度の塾生活には、とくべつの意味がありそうで、愉快ですね。」
「そう。やっぱり一人でも変わった目ぼしい人がいると、それだけ楽しみですわね。……もっとも、そんなことに大きな期待をかけるのは、平凡人の共同生活をねらいにしているこの塾では邪道だって、先生にはいつも叱られていますけれど。」
「しかし、先生だって、塾生の粒があまり思わしくないと、やはりさびしそうですよ。」
「それは、何といってもねえ。」
と、朝倉夫人は微笑した。そして、もう一度名簿をくって、自分の印象に残っているほかの顔をさがしているらしかったが、急に首をふって、
「だけど、こんなこと、いけないことね。受け付けたばかりの印象で、さっそく塾生の品定めをはじめるなんて。」
次郎は頭をかいて苦笑した。朝倉夫人はしんみりした調子になり、
「大河さんていう方、無意識に紙ぎれをひろってくだすったとしても、あたしたち、ただその無意識ということだけを問題にしてはいけないと思いますわ。そうなるまでには、どんなに意志をはたらかせ、どんなに苦労をなすったかしれませんものね。」
次郎は、なぜか顔を赤らめ、眼を膝におとしていた。
しばらくして玄関に足音がしたが、それは朝倉先生が空林庵からもどって来たのだった。
「みんな無事にそろったかね。」
先生は、事務室をのぞいてそう言うと、そのまま塾長室にはいって行った。二人もすぐそのあとからついて行って、何かと報告した。
先生は到着のしるしのついた名簿に眼をとおしながら、
「大河も来たんだね。何室にはいったんだい。」
「第五室です。いろんな関係から、それが一番よかりそうに思ったものですから。」
次郎は、そう言って、室割りを書いた紙を先生に渡した。それには、大河の名を何度も書いたり消したりしたあとがあった。
「大河の室割りには、ずいぶん苦心したらしいね。それほど神経に病むこともなかったんだが。……しかし、まあ、どちらかというと、室長におされたりする可能性の少ないところがいいだろう。」
「ええ、それを考えまして、第五室には、大河より一つ年上で、郡の連合団長をやっている人を割り当てておいたんです。」
「なるほど。」
朝倉先生は、何かおかしそうな顔をしながら、うなずいた。
三人は、それから、そろって各室を一巡した。朝倉先生は、室ごとに、入り口をはいると、立ったままで無造作に言った。
「私、朝倉です。……こちらは私の家内で、寮母といったような仕事をしてもらうんだが、君らに、これから小母さんとでも呼んでもらえば、よろこぶだろう。……あちらの若い人は、本田君。君らの仲間の一人だと思ってもらえばいい。」
それから、
「みんな汽車でつかれただろう。今晩は、宿屋にでも泊まったつもりで、のんきにくつろぐんだな。もっとも、郷里にはがきだけはすぐ出しておくがいい。」
そして、みんなが居ずまいを正し、恐縮しているような顔を、にこにこしながら見まわしたあと、すぐ室を出た。
その日はそれっきりで、べつに何の行事もなかった。塾生たちは、朝倉夫人や次郎をはじめ、給仕の河瀬や、炊事夫の並木夫婦に何かと世話をやいてもらって、入浴をしたり、広間に集まって食事をしたり、各室で大火鉢をかこみながら、各地のおみやげを出しあって茶をのんだりするだけのことだった。就寝の時刻についても、十時半になったらきちんと電燈を消すことになっているから、そのつもりで、という注意が与えられただけだった。何だか塾堂に来ているというより、修学旅行で宿屋に泊まっているという感じのほうが強かった。そして、そうした意味での親愛感なら、各室ごとには、もうたいていできあがってしまっていたのである。
それでも、いざ就寝という時になって、どの室にもちょっとした混雑が生じた。というのは、十畳の部屋に大火鉢一つと六人分の机とをすえ、そこに六人分の夜具を都合よくのべるのには、かなりの工夫と協力を必要としたからである。
混雑は申し合わせたように十時ごろからはじまった。それまで、塾生の一人一人に関係したことでは、かゆいところに手がとどくように世話をやいていた朝倉夫人も次郎も、なぜかこの混雑には何の助言も与えず、事務室から、遠目に成り行きを見まもっているといったふうであった。そして、十時半になると、次郎は、予告どおり、一分の遅延もなく廊下のスウィッチをひねり、塾生たちの室の電燈を全部消してしまった。電燈を消されて悲鳴をあげた室も二三あった。
次郎は、しかし、頓着しなかった。かれは電燈を消すまえに、廊下をあるいて、それとなく各室の様子をのぞいてまわったが、どの室よりも早く室員が寝床についていたのは、第五室であった。そして、大河無門は、その一番はいり口のところに、その大きないが栗頭を横たえ、近眼鏡をかけたまま、しずかに眼をつぶっていたのであった。
次郎が、それを、その晩の一つの意味深いできごととして、朝倉夫人に報告したことはいうまでもない。
*
あくる日は、いよいよ第十回の入塾式だった。二月はじめの武蔵野の寒さはきびしかったが、空は青々と晴れており、地は霜どけでけぶっていた。
十時の開式までは、塾生たちはやはり自由に過ごすことになっていた。朝食をすますと、彼等は日あたりのいい窓ぎわにかたまって雑談をしたり、事務室におしかけて来て新聞を読んだりしていた。
八時をすこしすぎたころに、けたたましく事務室の電話のベルが鳴った。次郎が出て見ると、田沼理事長からだった。
「朝倉先生は?」
「塾長室においでです。」
「じゃあ、そちらにつないでくれたまえ。」
次郎は、何か急用らしいが今ごろになって何事だろうと思いながら、線を塾長室にきりかえた。
すると、まもなく、塾長室から朝倉先生の声がきれぎれにきこえて来た。
「はあ、なるほど。……それは、むろん、こばむわけにはいきますまい。……ええ、ええ、……承知いたしました。いたし方ないでしょう。……すると、こちらで予定していた来賓祝辞は、……ああ、そうですか。では、時間の都合を見まして適当にやることにいたしましょう。……え? ええ。やはりずいぶん気にやんでいるようです。私からは何も話してはいませんけれど、あれっきり荒田さんの顔が見えないので、何かあると思っているんでしょう。はっはっはっ。……ええ。……ええ。……ちょっとむきになるところがありますが、ご心配になるほどのこともありますまい。……ええ、むろん私からも十分注意はしておきます。……はい、では、お待ちしています。」
電話がすむと、次郎は、すぐ自分から塾長室にはいって行って、たずねた。
「田沼先生は何かおさしつかえではありませんか。」
「いいや、まもなくお見えになるだろう。」
朝倉先生は、何でもないように答えたあと、次郎の顔を見て微笑しながら、
「今日は、変わった来賓が見えるらしいよ。」
「荒田さん……じゃありませんか。」
「荒田さんもだが、陸軍省からだれか見えるらしい。」
次郎は、はっとしたように眼を見張り、しばらくおしだまって突っ立っていたが、
「田沼先生から案内されたんですか。」
と、いかにも腑におちないというような顔をしてたずねた。
「いや、そうではないらしい。荒田さんから、今朝急に、そんな電話が田沼先生のほうにかかって来たらしいんだ。」
次郎はまただまりこんだ。朝倉先生は、わざと次郎から眼をそらしながら、
「それで、今日の来賓祝辞だが、時間の都合では、その陸軍省の方だけにお願いすることになるかもしれないから、そのつもりでいてくれたまえ。」
「軍人に祝辞をやらせるんですか。」
次郎はもうかなり興奮していた。
「礼儀として、私のほうからお願いすべきだろうね。」
「しかし塾の方針と矛盾するようなことを言うんじゃありませんか。」
「自然そういうことになるかもしれない。しかし、それはしかたがないだろう。」
「先生!」
と、次郎は一歩朝倉先生のほうに乗り出して、
「先生は、自然そういうことになるかもしれないなんて、のんきなことをおっしゃいますが、ぼくは、それぐらいのことではすまないと思うんです。」
「どうして?」
「これは計画的でしょう。」
「計画的?」
「ええ、荒田さんの卑劣な計画にちがいないんです。荒田さんは、軍の名で塾の指導精神をぶちこわそうとしているんです。」
次郎の顔は青ざめていた。朝倉先生は、きびしい眼をして次郎を見つめていたが、
「そんな軽率なことは言うものではない。」
と、いきなり、こぶしで卓をたたいて、叱りつけた。しかし、次郎はひるまなかった。
「軽率ではありません。これはまちがいのないことです。ぼくは断言します。」
「かりにまちがいのないことだとしても、そんなことを言って、何の役にたつんだ。」
「ぼくは、祝辞をやらせるのは絶対にいけないと思うんです。それをやめていただきたいんです。」
「それは不可能だ。」
「こちらからお願いさえしなけりゃあ、いいんでしょう。」
「そういうわけにはいかないよ。陸軍省からわざわざやって来るのに、知らん顔はできない。それではかえって悪い結果になるんだ。」
「すると、おめおめと降伏するんですか。」
朝倉先生の眼は、いよいよきびしく光り、しばらく沈黙がつづいた。しかし、そのあと、先生の唇をもれた言葉の調子は、気味わるいほど平静だった。
「本田は、友愛塾の精神が、だれかの祝辞ぐらいで、わけなくくずれてしまうような、そんな弱いものだと思っているのかね。」
先生の眼には次第に微笑さえ浮かんで来た。次郎はこれまでの勢いに似ず、すっかり返事にまごついた。
すると、先生は、今度は、次郎をふるえあがらせるほどの激しい調子で、
「血迷ったことを言うのも、たいていにしたらどうだ。聞き苦しい。」
次郎は、これまで、朝倉先生に、こんなふうな叱り方をされた記憶がまるでなかった。かれは、ながい間の先生との人間的つながりが、それで断絶でもしたかのような気になり、思わず、がくりと首をたれた。
朝倉先生は、しかし、すぐまた平静な調子にかえって、
「いつも言うとおり、今は日本中が病気なんだから、友愛塾だけがその脅威から安全でありうる道理がないんだ。病菌はこれからいくらでもはいって来るだろう。いや、これまでだって、すいぶんはいって来ていたんだ、塾生自身が、ほとんど一人残らず、病菌の保有者だと言ってもいいんだからね。今日は、病菌がすこし大がかりに持ちこまれるというにすぎないんだ。むろん、大がかりな病菌の持ち込みは、できれば拒絶するにこしたことはない。しかし、拒絶どころか、表面だけでもいちおうはありがたく頂戴しなければならないところに、実は、現在の日本の最大の病根があるんだよ。だから、おたがいとしては、病菌はこれからいくらでもはいって来るものだと覚悟して、その覚悟のもとに、病菌を無力にする工夫をこらすほかに道はない。むろんそれは、厄介なことではあるさ。しかし厄介なだけに、うまくその始末がつけば、それだけ塾の抵抗力をまし、かえって健康が増進されるとも言えるんだ。とにかく何事も事上錬磨だよ。その意味で、私は、今日はいい機会にめぐまれたとさえ思っている。こんなことを言うと、君はそれを私の負け惜しみだと思うかもしれんが、しかし、避けがたいものは避けがたいものとして、平気でそれを受け取って、その上でそれに対処するのが、ほんとうの自由だよ。それがほんとうに生きる道でもあるんだ。随所に主となる。そんな言葉があったね。じたばたしてもはじまらん。わかるかね、私のいっていることが?」
「わかります。」
次郎はかなり間をおいて答えた。かれは、しかし、まだ先生の気持ちを正しく理解していたわけではなかった。事上錬磨という言葉を通じて、権力に対する反抗の機会を暗示されたかのような気持ちでいたのである。
朝倉先生は、次郎の心の動きを見とおすように、その澄んだ眼をかれの顔にすえていたが、急に笑顔になって、
「そこで、変なことをきくようだが、君は今日、軍からの来賓に対して、どんな態度で接するつもりかね。」
これは、次郎にとって、なるほど変な質問にちがいなかった。かれは、これまで、来賓に対する態度のことまで先生に注意をうけたことがなかったのである。かれはいかにも心外だという顔をして、
「ぼく、べつに何も考えていないんです。あたりまえにしていれば、いいんでしょう。」
「あたりまえ? うむ。あたりまえであれば、むろんそれでいいさ。そのあたりまえが、友愛塾の精神にてらしてあたりまえであればね。」
次郎は虚をつかれた形だった。朝倉先生はたたみかけてたずねた。
「まさか、君は、あたらずさわらずの形式的な丁寧さを、あたりまえだと考えているんではないだろうね。」
次郎は眼をふせた。しばらく沈黙がつづいたあと、朝倉先生は、しんみりした調子で、
「今さら、君にこんなことを言う必要もないと思うが、友愛塾は、どんな相手に対しても冷淡であってはならないんだ。あたたかな空気、それが塾の生命だからね。お互いは、それで世に勝とうとしている。勝てるか勝てないかは、むろん予測できない。しかし、それで勝とうとする意志だけは失ってはならないんだ。やはり事上錬磨だよ。今日のような場合に、それを忘れるようでは、何のための友愛塾だか、わからなくなる。」
次郎の耳には、事上錬磨という言葉が異様にひびいた。前の場合には、権力に対する反抗の機会を暗示されたように受け取っていたが、今度の場合は、明らかにその反対のことを意味していたからであった。かれは、しかし、もう何も言うことができなかった。頭も気持ちも、めちゃくちゃに混乱していたのである。
「よくわかりました。気をつけます。」
かれは、表面素直にそう言って塾長室を出た。そして講堂に行き、今日の式次第をチョークで黒板に書いたが、いつもは何の気なしに書く「来賓祝辞」の四字が、呪文のように心にひっかかった。
式次第を書きおわると、かれは事務室にもどり、新聞を読んでいた塾生たちにまじってストーヴを囲んだ。しかし気持ちはやはりおちつかなかった。
(どんな人をでも、平和であたたかい空気の中に包みこむ、それが塾の理想でなければならないことは、むろんよくわかっている。だが、そのためには、実際にどうふるまええばいいのか。先生は、まさか、ぼくに追従笑いをさせようとしていられるのではあるまい。自然の感情をいつわるところに、何の平和があり、何のあたたかさがあろう。いっさいに先んじて大切なのは、自分をいつわらないことではないのか。)
そうした疑問が、胸にわだかまって、かれは塾生たちと言葉をかわす気にもなれないのだった。
そのうちに、ぼつぼつ来賓が見えだした。田沼理事長も、いつもよりは少し早目に自動車で乗りつけた。次郎は、出迎えながら、それとなくその顔色をうかがったが、友愛塾の精神を象徴するかのような、その平和であたたかな眼には、微塵のくもりもなく、そのゆったりとしたものごしには、寸分のみだれも見られなかった。次郎は、ほっとした気持ちになりながらも、一方では、何かにおしつけられるような、変な胸苦しさを覚えた。
最後に二台の自動車が、同時に乗りつけた。その一つは、荒田老のであり、もう一つは、星章を光らした大型の陸軍用であった。荒田老は、例によって鈴田に手をひかれながら、黒眼鏡の怪奇な顔をあらわした。陸軍用の車からは、中佐の肩章をつけた、背の高い、やせ型の、青白い顔の将校が出て来たが、しばらく突っ立って、すこしそり身になりながら、玄関前の景色を一わたり見まわした。
その間に、鈴田が次郎に近づいて来て、
「田沼さんはもうお出でになっているだろうね。」
「はあ、見えています。」
「じゃあ、陸軍省から平木中佐がお見えになったと、通じてくれたまえ。荒田さんから今朝ほど電話でお知らせしてあるんだから、おわかりのはずだ。」
次郎は、横柄な口のきき方をする鈴田に対して、いつになく憤りを感じ、返事をしないまま塾長室に行った。
塾長室の戸をあけると、田召理事長が、すぐ自分から言った。
「陸軍省のかただろう。こちらにお通ししなさい。」
次郎は玄関にもどって来たが、やはりだまったままスリッパをそろえた。
「通じたかね。」
鈴田が次郎をにらみつけるようにして言った。
「ええ、通じました。塾長室におとおりください。」
次郎の返事もつっけんどんだった。
鈴田が荒田老の手をひいて先にあがった。平木中佐は靴をぬぎかけていたが、鈴田に向って、
「今日の式には、勅語の捧読があるんじゃありませんか。」
「ええ、それはむろんありますとも。……」
「じゃあ、靴はぬぐわけにはいかないな。ほかの場合はとにかくとして、勅語捧読の場合に軍人が服装規程にそむくわけにはいかん。」
「そのままおあがりになったら、いかがです。かまうもんですか。」
「かまうも、かまわんも、それよりほかにしかたがない。」
平木中佐は、片足ぬいでいた長靴を、もう一度はいた。
鈴田は、その時、じろりと次郎の顔を見たが、その眼はうす笑いしていた。
その間、荒田老は、黒眼鏡をかけた顔を奥のほうに向け、黙々として突っ立っていた。事務室にいた塾生たちは、入り口の近くに重なりあうようにして、その光景に眼を見はっていた。
やがて中佐は、荒田老と鈴田のあとについて、ふきあげた板張りの廊下に長靴の拍車の音をひびかせながら、塾長室のほうに歩きだした。
次郎は、ちょっとの間、唇をかんでそのうしろ姿を見おくっていたが、急にあわてたように、三人の横を走りぬけ、塾長室のドアをあけてやった。