七
その夜半、おきみは二階の三角の部屋で、周三のからだに絡みついて、息が止まるほど泣いた。聲を出せば階下の主人夫婦にきこえるので、聲を殺さうとすると、その苦しさで、からだ中が窒息者の斷末魔のやうに波打つた。
周三はハラ/\しながら、おきみのからだを引き寄せては抱きしめ、引き寄せては抱きしめた。そして、
「どうしたのだ? ね、どうしたのだよ!」
と繰りかへし訊いた。
が、おきみはこの理由を一言も言はなかつた。そのうちに、咽喉に詰る涙に咽びながら周三の膝の上へ訴へた。
「あたし、今まで、みんなあなたのために生きてゐるのだけど、今日からは、あなたがあたしのために生きて下さいね。……あたし、……あたし……このまゝ死んだら、死んでも死にきれない。……あなたさへゐれば、あたしは殺されても生きかへつてやります。そして、きつと、きつと、この仇を取つてやります……」
曾ては、すかんぽの莖のやうに水々しく美しかつたおきみのうなじも、今はどす黒く痩せて、カサカサに乾いてゐた。周三はそのうなじを抱きしめながら、一生懸命、何か言はうとしたが、これも涙がこみ上げて來て、なんにも言へなくなつてしまつた。
蟋蟀がよく鳴いた。その聲が二人の胸にしみ通つて來た。――二人はその夜、一睡もしなかつた。
その翌々日である。おきみは、このT私娼窟から、K私娼窟の方の新龜といふ家へ、前借四百圓で住み替へさせられてゐたのである。一切、長さんの仕事であつた。
が、長さんの仕事を操つたものに、倉田の主人夫婦と、もう一人、あの奇怪な魔力を持つた妖婆がゐたことを忘れてはならない。
さうして、おきみの生き餌としておきみと共にK私娼窟へ移された周三は、天神樣の裏手の煙草屋の二階の四疊半へ押し込められた。こゝに移されてからの周三は、生き餌であると同時に、完全な人質となつたのである。あの妖婆によつて、この二人の前科――逃亡癖を持つたくせ者であることを知つた新龜の主人は、二人の逃亡の豫防策として、煙草屋の主人と共謀し、周三の毎日の行動を一つ/\監視し、束縛したのであつた。(一方、おきみに對する監視と束縛の嚴しさは言ふまでもなかつた。)これは、おきみの身に投じた四百圓の資本を守るための卑怯にも巧妙な鐵條網であつた。
おきみは、風呂へ行くにも、髮ゆひに行くにも、いち/\おかみに附かれてゐた。またそのおかみは栗鼠のやうにチヨコマカしてゐた。
周三は、おきみに會ふにも勝手には出來なかつた。朝、おきみが店へ坐る前の僅かの時間を、それも主人と主婦が坐つてゐる茶の間で、監視つきの面會だけが許された。
「それで物足りなかつたら、まアお客になつて泊りに來るがいゝさ。」
主人は、干からびた茄子のやうな顏に狡猾な薄笑ひを浮べて、周三へさう言つた。お客になつて泊るといふことは、泊り込み料×圓を現金で支拂へ、といふことなのだ。搾取するに相手を選ばない點では、こゝの主人は、T私娼窟の倉田の主人よりはるかに徹底してゐた。
周三は、自分の妻と一緒に寢るために金を支拂はねばならないのである。その金こそ、妻の身を賣つて得た金ではないか。妻を賣つた金で妻を買ふ。その買つた金はまた妻の借金となる。こんな馬鹿馬鹿しいべら棒な話がこの世にあらうか。全世界のあらゆる社會層の中で、かういふ不可思議な取り引きを強ひるものは、女の肉を切り賣り切り買ひし得るこの社會のみであらう。
しかし周三とおきみが、二人だけの夜を得るためには、二人だけで話し合ふためには、この馬鹿馬鹿しいべら棒な話を敢へて實行しなければならなかつたのである。二人はいやでも、何故、かういふべら棒な事實があり得るのかを考へさせられた。それは、金といふものに絶對權があるからだ、と解釋して見た。だが、金はなぜこの絶對權を持つてゐるのか、この絶對權を與へたものは誰であるか、何であるか、そこまで考へて行くと、二人には何の解釋もつけられなかつた。只、金を通して、金の周圍に、すばらしい、同時にえたいの知れない不可思議な力を持つたからくり人形が、どし/\と跫音高く濶歩してゐるのを感ずるだけであつた。そして二人はその跫音に耳を塞ぎ、身を縮めるより外はなかつた。
「どうする?」
「逃げるしかないわ。」
二人は、二人だけの夜にありつくと、この一言づゝの會話を幾度となく繰り返した。金を取り卷く跫音に怯えながら。
だが、彼等二人の周圍に張り渡された鐵條網から、彼等はいかにして脱出すべきか。彼等は、信州の方の遊廓から逃亡した時のことを思ひ出した。それは全く命がけの仕事であつた。しかし今、この中から脱出することは、命がけどころではなく、脱出即ち死であるやうに思はれた。事實またさうであつた。
T私娼窟の有機的細胞組織は、このK私娼窟に於ては更らに巧妙に完備してゐたからであつた。殊に、おきみの買はれている新龜の家のある場所は、その一年前、新しく開けた一廓で、一間の路地々々はコンクリートでかため、その路地々々の出口の兩側には必ず、お目附役を兼ねる商店が並んでそれぞれの關所をつくつてゐたばかりでなく、春夏秋冬を通して、徹宵、ひつきりなしにつてゐる幾組かの火の番は、私娼達の逃亡をも見つてゐるのであつた。むしろそれが本職であつた。そして一度、私娼の逃亡を見つけたなら、野良猫を捕へたやうに、打つて蹴つて縛り上げて、元の家へ引きずつて行くのが極りであつた。
かくて、この一廓からの逃亡は絶對に不可能といつてよかつた。
然らば前借をきれいに返濟しきつて、大手を振つてこゝを出て行けるまで、この中に働くとするか。だが、その時はいつ來るか。それは恐らく永遠に來ないであらう。來るものは死だけであらう。
この中にゐても死、脱出しても死である。
「同じ死ぬなら、脱け出して殺された方がいゝわ」おきみはさう言つた。
「さう無茶なことをいふな。こゝしばらく落ちついて、みんなに安心さしといて機會をねらつた方がいゝよ」周三はさう答へた。
が、それから一月過ぎてもその機會は來なかつた。そればかりか、五日に一度は、例の長さんがやつて來て、ふところに呑んで來た短刀を疊の上につき差して見せたりしては、おきみの逃亡を脅迫豫防した。
さなきだにやつれ衰へて來たおきみの身體は、この監視、この束縛、この脅迫のために困憊するばかりであつた。そして梯子段を上り下りするだけで、息が切れるやうになつた。