Chapter 1 of 6

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倭人の名は『山海經』・『漢書』・『論衡』等の古書に散見すれども、其記事何れも簡單にして、之に因りては未だ上代に於ける倭國の状態を窺ふに足らず。然るに獨り『魏志』の倭人傳に至りては、倭國の事を敍すること頗る詳密にして、而も傳中の主人公たる卑彌呼女王の人物は、赫灼として紙上に輝き、讀者をして恰も暗黒の裡に光明を認むるが如き感あらしむ。『魏志』は晉の陳壽の編纂に成れりと雖も、其東夷傳は主として魏の魚豢の著作『魏略』に據り、殊に倭人傳に載せたる事實は、當代の人が實際に目に睹、耳に聞ける所を記述せしもの多ければ、史料として最も尊重すべきものなり。本朝には『古事記』・『日本書紀』の二書備はりて上代の事蹟を傳へたりと雖も、漢魏時代に當る頃は固より口碑傳説によりて、幽にその状況を彷彿するに過ぎざるを思へば、當時支那人が我國に渡りて、親しく目撃したる事實を傳へたる『魏志』の倭人傳の如きは、實に我國の太古史上に一大光明を與ふる者と謂ふべし。『魏志』の國史に與ふる價値已に此の如くなるを以て、古來本邦の學者にして倭人傳の解釋に勢力を傾注したる者亦尠からざりき。然るに文中記す所の里程及日程に分明を缺く處あるに因り、傳中の主眼たる卑彌呼及其居城邪馬臺等の考定に就きて異議百出し、今日に至るまで史上の難問題と稱せらる。されば後進の學者は卑彌呼の事蹟に就きて殆ど適從する所を知らず、爲めに國史を著はすもの、此の貴重なる史料を徒に高閣に束ねて、參考に供せざる傾向あり。是れ豈に史界の一大恨事にあらずや。余輩は常に之を遺憾とし、聊か亦此問題につきて考究する所ありしが、今年の初に至り、漸くにして新解釋を得たるを以て、二月二十一日日本學會に於て論旨の大要を講述して、會員の批評を仰ぎたり。而して本論は即ち當時の講演を増補改訂せしものなり。若しも此論文が卑彌呼に對する史界の注意を喚起し、此難問題に關して學者の新研究が、陸續發表せらるるに至らば、望外の幸なり。

卑彌呼問題の難點は、全く魏の帶方郡より女王の都邪馬臺に至る道程の解釋に存ずるが故に、余輩は茲に『魏志』に載する行程の全文を拔載し、而して後逐次にその解釋を試みんとす。

從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始渡一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島方可四百餘里、土地山險多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴、又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴、又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之、東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐、東南至奴國百里、官曰馬觚、副曰卑奴母離、〔有二萬餘戸、東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離〕、有千餘家、南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸、南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸、自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳、次有斯馬國、次有已百支國、〔次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國〕、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、自郡至女王國萬二千餘里。

文中に郡とあるは魏の帶方郡を謂へるなり。

此郡の所在地は那珂氏の説に從へば、今の京畿道臨津江の江口にありしなり(『外交繹史』第二八章魏志倭人傳)。此處より船を發して九州に至るには、先づ京畿、忠清、全羅三道の西海岸を南方に沿ひて航行すべきが故に、文中に「乍南」とあるは此海路を指ししなり。而して船は全羅道西南の海角より方向を轉じて東方に向ひ、全羅、慶尚二道の南岸に沿ひて狗邪韓國に至る。此國に就きては菅政友氏は之を今の巨濟縣となし(「漢籍倭人考」上)、那珂氏は之を今の金海となし、韓史の加國、國史の加羅國ならんと考定せり。加羅國は當時韓地より皇國に至る要津なりければ、狗邪韓國を金海即ち加羅國と見たる那珂氏の説は、蓋し正鵠を失はざるべし。『魏志』の文中に「乍東」とあるは、全羅道西南の海角より金海に至る航路の方向を云へるなり。而して帶方郡より狗邪韓國に至る海上の里程を七千餘里となす。又文中に「到其北岸狗邪韓國」とある北岸の文字甚だ穩かならざれども、之を倭韓兩國の間に横はる海洋の北岸と見れば文意通ずべし。狗邪韓國より九州の北岸に達するには三海を通過す。先づ初に此國より船を發し一海を渡る、其間一千餘里にして對馬國に至る、此處には方向を明記せざれども、その南行せしは言を俟たず。對馬國より更に南行して瀚海を渡る、其間一千餘里にして一大國に至る。こゝに一大國とあるは一支國の誤りなること、先輩既に之を論ぜり。さて一支國よりまた南行すること一千餘里にして末盧國に至る。末盧國は今の肥前ノ國松浦郡にして、『古事記』仲哀天皇の條に「筑紫ノ末羅ノ縣」、神功紀に「火ノ前國松浦縣」とある即ち是なり。而して當時韓國へ往來する船舶が松浦郡の那邊に碇泊せしかに就きては、那珂氏の『外交繹史』に

萬葉集十六ニ「神龜年中、太宰府差二筑前國宗像郡之百姓宗形部津麻呂一、充二對馬送糧舶柁師一也云々、自二肥前國松浦縣美彌良久埼一發レ舶、直射二對馬一渡レ海」トモアレバ、菅氏ノ説ニ「漢土ニ渡ルニモ、對馬ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ。西北ニ向フニ便リヨキ地ト思ハルレバ、海路モオシハカリ知ラルベシ」ト云ヘリ。

と説かれたり。魏國の使者が倭國に渡れる時も、亦此美彌良久の埼に由りしなるべし。而して此埼は松浦郡値嘉島にあり。さて末盧國より東南に向ひ陸行すること五百里にして伊都國に至る。伊都國は今の筑前ノ國の怡土郡のことなれば、松浦郡の値嘉島より上れば、實は東北に當れど、魏の使者は少しく其方向を誤りて東南とせり。又伊都國より東南に向ひ陸行すること百里にして奴國に至る。奴國は仲哀紀の儺縣、宣化紀の那津にて、今の筑前ノ國那珂郡博多の近傍なりしこと、先輩已に之を説けり。されば其方向實は東北に當れるを、魏の使者之を東南と誤れり。又奴國より東行百里にして不彌國に至る。此國の所在は未だ詳ならざれども、其の奴國即ち博多よりの距離を以て之を考へ、また此處より後の行程が常に南方にありし事情に由りて之を推測し、太宰府の附近と考定せば大過なからん。太宰府は博多の東南に位するを、魏の使者が之を東方と報告せしはまた例の誤りなり。此の如く末盧國より不彌國に至る『魏志』の方向には誤謬あれども、東北を東南とし、東南を東方と誤解するが如きは、古代の旅客にありては往々見る所なり。若し之を以て『魏志』記す所の方向は毫も憑據するに足らずと思惟する者あらば、其は大なる謬見なり。此書帶方郡より狗邪韓國に至る方向を「乍南乍東」と記し、又狗邪韓國より末盧國に至る航路の方向を常に南と書するが如きは、其方向の正確なるを證するものにあらずして何ぞや。末盧國より不彌國に至る方向に於て些少の誤解あるにもせよ、その大體の方向が東方にありしことを誤らざるなり。『魏志』記す所の方位は卑彌呼問題の解決に最大關係を有するものなるが故に、特に一言を添ふるのみ。

以上記載せる道程の里數を計算するに、帶方郡より狗邪韓國に至る間は七千餘里、狗邪韓國より對馬一支を經て末盧國に至る間は三千餘里、末盧國より伊都國に至る間は五百里、伊都國より奴國に至る間は百里、奴國より不彌國に至る間は百里なれば、帶方郡より不彌國までの總里數は一萬七百餘里となる。而して帶方郡より女王の都邪馬臺國までは一萬二千餘里と記されたれば、不彌國より邪馬臺國に至る里數は僅に一千三百餘里に過ぎず。『魏志』の文面を案ずるに、帶方より不彌國に至るまでの行程は頗る分明なれば、諸家の考定殆ど一致すれども、此國より邪馬臺に至る行程に關しては、見解區々に分かれたり。而して此の行程の解釋は本論の主眼なるが故に、爰に卑見を開陳するに方りて、先づ從來の諸説を列擧すべし。

『日本書紀』を案ずるに、神功攝政三十九年の條に

魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡求詣天子朝獻、太守夏遣吏將送詣京都也。

と註し、同じく四十年の條に

魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。

と註し、又四十三年の條に

魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人、上獻。

と註したれば、『書紀』の編者は暗に神功皇后を以て卑彌呼女王に擬せしなり。此書既に神功皇后と卑彌呼とを同一人物と見たりとせば、大和の京を以て『魏志』の邪馬臺國と考定せしに相違なかるべく、從つて魏の使者は不彌國より東行して、彼處に入りしものと思惟せしなり。『書紀』成りてより以來殆ど千餘年の間、本邦の學者にして亦卑彌呼の事を論ぜしものなかりしが、元祿元年松下見林は『異稱日本傳』を著はし、『後漢書』倭國傳の解釋に

今按。邪馬臺ノ國ハ大和ノ國也。古謂二大養徳國一、所謂倭奴國也。邪馬臺ハ大和ノ和訓也。

と云はれたり。蓋し、氏の如きは『書紀』編者の意見を公然と表白せしものと謂ふべし。松下氏の説一たび出でてより、幕府の學者は殆どこれに雷同し、また一人として其間に疑議を挾むものなかりき。然るに本居宣長氏は『馭戎慨言』を著はし、卑彌呼を以て神功皇后に當つるの非なるを痛論し、その九州に據れる熊襲の輩なるべきを辯證せり。同氏が『魏志』の行程に關する考察は、余輩の意見に合する所多ければ、左に其一節を引用すべし。

此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは皆まことの皇朝の御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある、熊襲などのたぐひなりしものゝ、女王の御名のもろ/\のからくににまで高くかゞやきませるをもて、その御使といつはりて、私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文に、かの國の帶方郡より、女王の都にいたるまでの國々をしるせるは、かのかしこの使の、大和の京へまゐるとて、へてきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど、よく見れば、まことは大和の京にはあらず。いかにといふに、まづ對馬一支、末廬伊都までは、しるせる如くにて、たがはざるを、其次に奴國不彌國投馬國などいへるは、漢呉音はさらにもいはず、今の唐音をもてあてゝも、大和への道には、さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都まで、南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。また自リ二女王國一以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。みづから來たらんに、かく北南と西東とをわきまふまじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで、水行十日陸行一月といへる、水行十日はさも有リぬべし。陸行一月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。さて一日としては、いづこの海邊よりも、大和の京へはいたりがたく、又一月ならんには、山陽道のなからのほどより、陸路をのぼりしとせんか。さること有べくもあらず。古ヘ西の國よりやまとへのぼるには、すべて難波の津までは、船より物するぞ、定まれることなりける。かくあまたたがへる事共のあるは、大和の京にあらざりししるしにて、誠にはかの筑紫なりしものゝ、おのれ姫尊也といつはりて、魏王が使をも受つるに、あざむかれつるものなれば、其使のへてきたりけん國々も、女王の都と思ひしも、皆筑紫のうちなりけり。されば不彌國といふより、投馬國などいへるもみな、つくしのしまの東べたを、南をさして物せし、海つ路にて、その過し方を以北といへるも此故なり。また周旋可二五千餘里一といへるも、筑紫の洲にて、ほとりの嶋々かけたる程によくかなへり。さて女王國ノ東、渡ルコトレ海ヲ千餘里、復タ有リレ國皆倭種なりといへるも、大和にしてはかなはず。これもつくしより海をへだてゝ東なる、四國をいへるなり。

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